むかしの男


















 その日、山科楓はたまたま東京にいた。


 今年の学会会場が母校のT大だったおかげで、楓にとって正月以外は久々の故郷だった。すっかり足が遠のいたとはいえ、東京タワーの立ち姿には少し懐かしさを感じる。
 一時期、国外にいたこともあるが、楓は大学4年まで生まれも育ちも東京だ。実家から一番近いという理由でT大に進んだぐらいなのだが、もともと京都の方が楓の気質に合ったのか、身近な連中以外には学部の頃からK大生だったと思われている。ただ、喋る言葉だけが東京弁のままで、「うつらないもんなの?」と姉にも訊かれるが、曖昧に濁している。
 地味に努力をして保っている東京弁、というか東のコトバは彼が好むせいなのだが、勿論、本人にも周囲にも秘密だ。
 秋とは思えない陽気の都心は相変わらずの無関心さで、ちっとも色づきそうにないイチョウを尻目に、楓は赤門をあとにした。




 東京は案外狭い街である。
 無論、超巨大都市なのだが、とにかく過密なだけでランドマーク同士は意外なほど近く、山手線圏内でいえば東京と新宿は8kmほどの距離しかないし、田端と品川も14kmほど。その中に「TOKYO」のありとあらゆるものがぎっしり詰まっているのだ。網状に張られた交通網や洪水のような情報量に隠れがちだが、ポイント間の距離は意外なほど近い。
 つまり、T大と東京ドームはびっくりするほどご近所なので、歩いて10分も経たずにドームに隣接する遊園地のジェットコースターが見えてきた。
「まあ、来る機会もなかったしな…」
 と、楓は東京ドームを見上げた。開業当時は真っ白だっただろうビッグエッグの屋根は、今やうっすらライトグレイになっている。確か未だ日本では最多客席数を誇る球場だが、都会に埋もれてしまってその規模は測りづらい。第一、ホームランが出やすい疑惑があるように、球場として観る分には「狭い」のだ。よく耳にする「東京ドーム●個分」の例えだが、それを正確に把握できる人間など某球団のファンぐらいしか居ないのではないか、と考えながら視線を下げると、目の前の信号が青に変わったところだった。
 今でも東京ドームに用事はほぼない。リーグが違うし、第一、球場としての魅力に欠ける、というのが楓本人も含め周囲(選手、チーム関係者、ファン仲間など)の評である。それ以外のイベントでも縁がなかったのだがその日、わざわざ足を向けたのは、今日の先発が柳澤圭一郎だったからだ。
 正直、あまり… 特に… ぜんぜん気は進まないのだが、めったにない機会だ、敵の真の姿を見ておこうというか、将を射んとせばまず馬を射よ、でもないな、なんだっけ…と、益体もないことを考えながら歩いていると、視界の端がざわざわと蠢いた。
 ちいさな人だかりが少しずつ動いていて、その中心に大柄な男性がいるのが垣間見えた。楓はその手の集団には見覚えがあった。球場が変わっても同類のクラスタなのだ。まさか、と思っているとその一団は近付いて、中央にいる人物がよりはっきり見えた。
 「彼」だった。
 初めて生で見たが、やはり威風堂々とした体躯だ。それ以上に…『大きく』なったな、と楓は親戚のオジさんのような感想を抱いた。それもそうだ、よく聞かされる彼等の高校時代の話は、もう10年近くも前の「彼」のことなのだ。


 ただ、あの夏、聖地の中心で飛び跳ねた少年は、今もまだ世界の真ん中にいるようで。




 そうして、ぼんやりと左腕とその集団を眺めていた楓だが、一団がほろりとばらけた瞬間に彼の前が開いた。すっと顔を上げた彼が楓の方を見た、気がした。が、そんな訳はあるまい、とすぐさま否定する。楓と同様に遠巻きにしている通行人は多かったし、彼が楓を知る機会などない、はずだ。
 が、柳澤投手はその場でしばし足を止め、集団の歩調が乱れるのが解った。不思議に思って改めて注視していると、彼が周囲に断り、スマフォを取り出すのが見えた。こちらに横顔を向けたまま端末を操作する。同時に、楓のポケットの中でスマフォが震えた。液晶画面に出たのは見知らぬ番号で、普段なら一旦素通りするところだが、マウンドとセンターの距離くらい離れた彼がまだ電話を掛けている。楓は半信半疑で画面をタップした。
「楓さん?」
 名を呼ばれて、寸の間、詰まった。存在を認知されていることに気まずさが先に立つ。カノジョ(ではないが)の元カレ(でもないが)というより、どちらかというと恋人の家族と偶然出くわす感じかと、楓は反射的に再度彼を見返すが、相手は電話を片手にあらぬ方を向いている。
 その心遣いに、また少し気圧される。人生の経験値が自分より遥に高いのだろうと思うと、その遠さに楓は奥歯を噛みしめた。とはいえ、負けず嫌いなら人後に落ちない(?)楓としては最初から躓くわけにはいかない。
「はい、そうです」
「やった、合ってた! や、すんません、いきなり。でも今、東京だって聞いてたからもしかして、と思って」
 努めて低めに発した声は、彼の弾んだ返答に掻き消される。しかしそうも情報がダダ漏れだと、若干、腹立たしい。もちろん情報源は一人しか居ない。
「あの、」
「ああっ、ごめんなさい、ちょっといま時間なくて。試合見てきますよね? そのあと、時間あいてますか?」
 たたみかけられ、再度、首肯するほかなかった。
「だいじょうぶ、です」
「よかった〜。これメッセージ送れますよね。じゃ、あとで連絡します」
 慌ただしく切れた通話に向こうの彼が一瞬、振り返り、笑った気がした。
 相手のペースに乗せられることが殆どない楓にとって、少々屈辱的と言えなくもなかったが、どうやっても逃してはいけない機会ではあった。また、ぞろぞろとお供を引き連れて歩いて行く左腕の背中を見送って、楓は大きく息を吸った。


 その日の柳澤投手は6回一失点、白星とはならなかったが、まずまずの好投だろう。あのチームは少々、打撃力に課題があるので、勝ちが付かないのがむしろ気の毒だった。(そこは彼も同じだ。)
 そして生で見ると、左腕であることを差し引いても泰然自若とした投球はやはり目を惹いた。エースの風格、というのだろうか。スポーツニュースに映る柳澤を眩しそうに見る彼を思い出して、楓はまたすこし腹を立てたが、それこそただの嫉妬で八つ当たりだった。






 試合終了後、入ったメッセージには近くのホテルのラウンジが指定されていた。
 楓が入り口で名乗ると、フロアの端、一番目立たないゆったりとしたソファ席に案内された。さすがにシティホテルのラウンジは落ち着いた雰囲気で、有名人が居たところで騒がれることもなく、大袈裟すぎず、なるほど彼等の場合は面会には丁度良いのだろう合点がいった。
 いいお値段だがさすがに美味いコーヒーをすすっていると、周囲の空気が微かに波打ったのが解る。はっと振り返ると、満面の笑顔が見えた。
「ほんとすんません、お待たせしちゃって」
 大きな身体を揺すって現れた柳澤に、こちらも軽く会釈する。
「いえ、こちらこそ… お疲れでは?」
「や、明日はオレ、休みなんで。ぜんぜん平気です!」
 先発投手なら翌日は休養日で、まあその通りなのだが。しかし疲れを見せるどころか、柳澤の声は妙に弾んでいる。そんなに自分との面会が楽しみだったとは思えないので、楓が内心、小首を傾げていると、
「たしかお酒好きだって聞いたんで、バーの方がいいかなって思ったんですけど、ここ、パンケーキが旨いんですよ」
「…はあ」
 なんとなく頷いた楓だが、そこではたと気付く。思わずいつもの調子で応えていた。
「食え。遠慮しないでいいから」
「はい!!」
 学生のような返事に、出会った頃の彼を思い出して、楓はやはり苦笑するしかなかったのだった。




「いただきます!」
 ぱん、と両手を合わせて挨拶するあたりは彼と同じで、あの高校の寮生活が垣間見えた気がした。
 運ばれてきたチョコバナナのパンケーキはやたら甘そうで、楓は見ているだけで満腹になったが、それに嬉しそうにナイフを入れる左腕を窺えば、何も言えることはなかった。これはあれだな、大型犬だな、と思ったりする。
「投げた日はとにかく腹が減るんですけど、脂肪が多いからいつもはダメだッて。月一くらいなんですよ、食べられるの」
 生クリームをひとくちほおばると、ぱたぱたと尻尾を振るような笑顔になった左腕はそう言う。近頃のスポーツ選手は普段の食生活も厳密に管理する。カロリーは必要だが、彼や同僚たちも高タンパク低脂質を徹底していることを思い起こし、楓はなるほどと頷くと同時に、この場所のセレクトはむしろこれが理由かと思い直したりする。
 などと考える間に、パンケーキは一枚減っていた。
「でもあいつ、アホみたいに食べるけど、甘いものはそんなあれですよね」
 あいつ、ね。と楓は脳内で反芻するが、「そうですね」とだけ応えてコーヒーをひと口。もちろん共通の話題といえば彼のことなので、その気安さに改めて溜息を呑み込んだ。
「オレね、高校の頃の好物、から揚げとシュークリームだったんですけど」
 それは楓も知っている。うっかり「今は違うんですか?」と言いかけて、さすがに止めた。
「三年の夏大の初戦が決まってから国体終わるまで、シュークリーム、食べるの止めてたんですよ。願掛けってわけじゃないけど、まあ、いちおう」
 ふふっと微笑む左腕は、高校生のままにあどけなく、楓は黙ったまま彼の声に耳を傾けた。
「そしたら国体終わった後、あいつがいっこ奢ってくれるって言ったんです。よく我慢したなって、褒めてくれて」
 …これは、ひょっとしてのろけ話か? と思ったが勿論、そんな訳はなく、たぶんわざわざ昔の話をしているのだ、楓が知らないエピソードがないように。またも気を遣われていると気付いて、楓はそっと息を吸い込む。
「ま、近所のケーキ屋のですけどね。俺たち当時は有名人だったから、顔出したらなんか捕まっちゃって」
 いやいまも十分、有名人なのでは? とまたも突っ込みたくなったが、水を差すのは気を引けた。この話を持ち出すには、左腕にもなにか意図があるのだろうし。
「一緒にトオルもいたせいで、皆の分もお祝いだから持ってって、とかおばちゃん言うし。チーム全員って60人くらい居ますからね? あいつは自分は食べないからって遠慮するし、トオルは単純に喜ぶし。皆いっぱい食べないととか、いやそんなわけには、一個だけでって押し問答して」
 その様子も容易に想像がついた。
「でも断れなくて、結局、シュークリームとエクレア、チーム全員の分、もらっちゃって。さすがにタダはマズイっしょって、コーチが出してくれたんですよね。ご祝儀価格で半額ぐらいでしたけど。あいつにはおごりそびれたとか言われました。や、でもね、借りとかじゃないですよ? あいつ、うちの実家に来たとき、おじゃましまーすの次くらいに冷蔵庫、開けてましたからね?! ちょっと待てって」
 はあ、と気の抜けた相槌を打った楓だが、なんだかおかしくなって笑ってしまった。それから出会った頃の彼の所行を思い出す。遠慮とか常識とか、いろいろ欠けていたのだ、彼は。思わず楓もひと言、
「ああ、うちも冷蔵庫は開けられましたね、フツーに」
「ええっ、止めろって言ったのに!」
 なんかすんません、となぜか謝る柳澤に、なるほどやはり『身内』という扱いが正しいのだと、コーヒーに口を付けながら楓は内心、肯った。自分が思っている以上に、今でも彼と彼の距離は近いのかも知れず、楓は僅かに警戒レベルを上げる。彼はどこまで知っている?
 楓としては、そもそもなぜこの左腕が自分の顔と電話番号を知っているのか、聞き出すチャンスを窺っていた。いや、もちろん情報流出源は一カ所しかないのだが、
「にしても、イケメンって聞いてたけど、実物は半端ないっすね」
 突然チェンジアップかというくらいな変化球に、迂闊にも吹くところだった。「いや、それは」ともごもごと言い訳めいたことを言おうとして、否定するのもバカバカしくて結局、「どうも」と投げ遣りに頷いた。一方の左腕は特に屈託もなく、あははーなどと笑っている。
「でもあいつ、楓さんの写真とか一枚も持ってないんですねぇ。いちおう、ケントにも訊いたんだけど、イケメンの物理学者以外の情報がなくて」
「…そうでしょうね」
 彼の今の相棒とは実験の一環で顔を合わせ、それ以来、彼のチームメイトとは、空き家になった実家を借りている大学院生として付き合いを続けていた。ただ、そんな彼等とも一緒に写真に収まるようなミスはしていないはずだ。
 それもあって、とにかく柳澤が自分に気付いた経緯が分からず、いよいよそこを質そうと口を開こうとした瞬間、
「名前しか、言わないんですよ、あいつ」
 一瞬、胸を衝かれた。
 そして楓は確信する。この左腕は知っているのだ。楓が何者か。
「でね、いちおうオレ、調べたんです。京都で物理って大学のホームページ見てみたりとか。それで、たぶんこの人だなーって思ってたんですけど、や、まさか東京で逢えるとは思ってなかったなあ」
 この頃は研究室それぞれにWebサイトを持っているのが普通で、当然、楓の研究室のページもあり、しかも主要メンバーは写真付きで掲載されている。少々、客寄せパンダにされている自覚がある楓としてはイマイチ納得は出来ないが、そこでは顔と氏名が公開されていた。
 しかし、そうであってもかなりの根気が必要な作業だ。楓のようにネットと当該分野に慣れている人間ならともかく、不案内な人間がテキトーに検索しても、正しい情報に突き当たるのは意外に難しい。つまりそれだけの手間を掛けて、彼は名前だけを頼りに楓を探したのだ。
 楓はまじまじと左腕を見直す。その様子に、柳澤ははっと気付いた風に顔を上げる。
「あ、いや! たぶんね、知らないと思います。ケントとか赤谷さんはビミョウかもですが、たぶん、他の連中は知らないです」
 慌てて言い募る左腕に、いえ、とだけ応えて。何を、と聞き返すまでもなかった。彼は最初から知っていたし、そのために彼は今日、自分を呼んだのだろうし。
「俺の番号は、どうして」
 訊ねる声は思った以上に柔らかくなって、楓としてもほっとした。柳澤はやはり微笑んでから、すこし俯いた。
「穂高が、教えてくれました」
 うん、と、予想通りの返答に楓は頷いたが、続いた柳澤の言葉はしかし予想外だった。




「緊急連絡先って、言われたんです」




 ああ、と。
 ため息のような呟きは、ラウンジの毛足の長い絨毯に吸い込まれた。
「ほら、俺たちの仕事だと、どこで何があるかわかんないじゃないですか。でも血縁はトーゼンとして、業界の関係者にはあんま気にしなくても伝わるんだけど、守備範囲外は届かないんで」
 そうなのだ。彼と自分は誰も知らない点と点だ。それこそ昔、彼が出くわした事故のようなことがあっても、楓が知るのはニュース番組ではないだろうか。一方、柳澤は彼等の年目の中心で、情報のHubでもある。
「あいつ、家族との縁もちょい薄いでしょう。あ、逢ったことあります?」
 都大路を見学しに来た双子の弟たちとは、前年、顔を合わせている。というか、楓の住居が彼の実家なので当たり前だが泊まっていった。陸上強豪校で寮暮らしの弟たちと逢うのも、二年ぶりだと彼は言っていた。とにかく弟たちにはべたべたに懐かれていたが、彼等が一緒に暮らしたのはほんの数年で、つまり家族揃って過ごした時間は恐ろしく短いのだと。両親も日本にいないことが多く、祖父母も既に他界しており、確かに小林一家はすこし縁が薄いようだった。
「だから、万が一の時は連絡してほしいって、言ってました」
 その言葉の意味と、重さは。
 パンケーキの最後の欠片を食べきって、柳澤は空っぽになった大きな皿を見ながら、ぽつりと。


「あいつ、というか、オレたちって、野球しかなかったんですよ」


 世界は野球とそれ以外で出来ていた。
 だから、お互いが一番で、唯一だった。


「でもあの時、緊急連絡先だって教えてくれたとき、穂高、言ったんです。必ず、そこに連絡してほしいって」
 かならず、と楓は口の中で繰り返した。
 だから、よっぽど大事な人なんだと。たぶん、家族と同じくらい大事なんだと、思って。そう、彼の親友は歌うように言って、不意に顔を上げると、夏の向日葵のように笑った。
 笑って、こう言った。




「あいつに、野球以外の一番が、見つかって良かった」




 その笑顔がただ眩しくて、楓は目を細めた。






「で、相談なんですが」
「は」
 やたら改まった口調で切り出されたので、将来はどうするつもりで等の質問に備えて、楓は思わず身構える。
「楓さん、だとなんか馴れ馴れしいっていうか、あれなんで、呼び方変えて良いですか。あ、ケントとかまっちゃんとかにはなんて呼ばれてます?」
 長閑すぎる相談である。そして件の呼び名を踏襲されるのもビミョウなのだが、拍子抜けついでに楓は正直に答えた。
「…ガリレオ先生、ですね。それもどうかと思いますが」
 柳澤は、ん? と首を捻ってから、ああ、ドラマの、と頷く。そして楓の注釈は無視された。
「なるほど、それいいっすね、うん、オレもそうしよう」
 某俳優と楓が似てる訳ではないのだが、拒否するのも面倒で定着したあだ名ではあった。抵抗してもどのみち無駄な努力になるのも解っていたので、この際、楓も好き勝手に質問することにした。
「驚きませんでした?」
「え?」
「いや、俺、男なので」 
 あまりに今更なのだが、そもそも最初にネックになる事実である。しかしそのあたり、この左腕もまったくスルーしたのだ。更には、ああ、といま気付いた態で柳澤は首を傾げた。
「驚かなかったですねえ… あいつ、ゲイってわけでもなさそうだけど、元から、なんていうか、境界があいまいっていうか、無頓着でしょう? 男と女、どころか、ニンゲンとそれ以外も、平気で同じフィールドに並べるところあるし」
 思わず楓は絶句する。さすがによく把握している、というか、こうも冷静に分析されているとは。少々、柳澤への認識を改めると同時に、しかし高校生当時からそうだったかと若干、眩暈を感じた。が、それはつまり、と別の事が気になった。
「距離が一緒なんですよね。だからマニア向けっていうか… あ、別に、なんだろう、ヘンタイさんとかじゃなくて」
「いや、大丈夫です、解ります」
「ひとの顔とか見た目とかも、たぶん、ぜんぜんカンケーないってか、見分けるのに使ってるくらいというか」
 先生、イケメンの無駄遣いですね、などと柳澤はあっさりと言い放つ。それには楓も薄々気が付いていた。というより、だからこそ親しくなったと言えなくもない、と心密かに付け加える。彼が平然と自然にそこを無視するので、居心地が良かったのは事実だった。
「だから、男女問わず一部に人気が… 惚れられてたかなとは、思いますけど」
 やはりか、と脳内に書き留めておく。
「本人はそんなんだし、まあ、野球しかやってなかったしで、気付いてなかったと思いますねー。穂高、鈍い通り越して足りないですもん」
 と、ほとんど暴言になったが、楓としては頷くしかない。明らかに彼はどこか重要なネジが最初から足りていなかった。きっと永遠に気付かれなかっただろう誰かの淡い何かを想って、楓は黙祷を捧げた。
「あ、でも、ユキノのことは好きだったんじゃないかな」
「えっ、誰!?」
 ゆきの? 女子マネージャかクラスメイトか? と思っていたら、
「行野和孝です、いま□□にいる、ショートの。オレ等の同期で、面白い経歴なんですよ、甲子園でも話題になったし」
 あ、好きって言っても、バッティングフォームとか当時のピッチングとかだと思いますけどね? と柳澤は大らかに笑っていたが、固有名詞が出るだけの”何か”があったということだろう。意外な伏兵だ。この面談の最大の収穫のような気がしてきた。反射的に柳澤に握手を求めながら、楓はその名前を大脳HDDに記録した。
 一方、柳澤は柳澤で気になったようで、曰く、
「むしろ、先生の方がびっくりですよ。よりによって、もったいないっつーか、なんつーか。あいつで大丈夫ですか?」
 気の毒そうな、という以外に言い様のない表情で問われて、楓はつい首を傾けてしまう。楓としても、こんなことになるとは全くの想定外だったのだが、他に有り様がなかったので正直に答える。
「…あまり、大丈夫では、ないですね」
「ええっ」
「でも、出会ってしまったので。こればっかりは、どうしようもない」
 と軽く嘆息する楓に、左腕は「そうですか」と眉尻を下げて、すこし嬉しそうに笑った。




 結局その後、彼と柳澤の高校時代の話から始まって、柳澤のチームの話や、楓のK大学生寮の肝試し大会の顛末を話し終わった頃には、すっかり柳澤も楓に慣れていた。 
「や、物理学者っていうから、もっと生真面目っていうか、お堅い感じかと思ってたんですけど、あれですね、先生、面白いヒトっすね」
「…よく言われる」
 楓の友人たちによる評価は『ただの理系オタク』である。研究室関係者だと『江戸っ子のイギリス人』だそうだ。見た目で逆に損をしている、とは大学のバド部の同期、時任の談だ。
 すっかり長居をしたと、ようよう腰を上げた楓に、柳澤は挨拶ついでに「あ、そうそう」と切り出した。
「オレ、今度のオフ、結婚するんです」
「…そいつはおめでとう」
 するりと祝いを口にして、楓はなるほどと独り合点する。今日の本題、もう一つはこれか。
 彼等の業界は結婚が早い。高卒で働いているので当たり前ではあるが、それを考えるとそう驚くことでもないし、ケントも次のオフに挙式するはずだと楓が思い返していると、
「実はまだ家族以外に秘密で」
「はっ? えっ、じゃ、まだ、」
「あ、ハイ、まだ穂高にも言ってないッス」
 そんな重大事を先に知っていいものか、と絶句していると、いやいやと柳澤は手を振る。
「すぐ知らせますから。式とかは来年だし」
「はあ…」
「でね、だからあいつ、さんざん挨拶させられると思うんですよ。今年はケントもだし、いろんなとこで」
 それはそうだろう。友人代表のスピーチや、同窓会なら乾杯の音頭など、彼以外がやるとは思えない。
「そんできっと、無駄に質問されまくると思うんですよ。ご自身はいつごろのご予定で、とか。無神経なインタビュとか多いし、あいつ突っ込みどころ満載だから」
「…でしょうね」
「ま、オレたちもフォローするんで、いろいろ。だから先生、あいつの挨拶の原稿とかちゃんと添削してくださいね? ついでに物理学っぽいネタでも入れておいて下さい」
「や、待て、なんでだ」
「ご祝儀ですよ、オレへの」
 ふふっ、と左のエースは淡く笑うから、それ以上、文句をつけることも出来なかった。
「…努力する」
 とだけ応えた楓に、頼みます! と柳澤は明るく手を振った。




 楓は、とっぷりと暮れたトウキョウの街を横断する。
 気まぐれに過ぎる風は思いの外冷たく、今の季節を思い出させた。あとひと月後には、T大構内や神宮外苑のイチョウも色づき始め、その頃には彼も京都に帰ってくるだろう。楓が一時期、結婚式場でバイトをしていたこともあるので、柳澤の言がなくても通常、もろもろ彼の世話は焼いていた。赤谷の時など、普通に三次会から付き合わされたものだ。
 ああ、それにしても、と楓はビッグエッグの屋根を振り返る。


 ほとんど、魂を分け合った兄弟のような。


 これまでイヤと言うほど柳澤の話は聞かされていたし、うんざりするほどその存在は明らかだったのだが、間近に見た彼の親友は、想像以上に純に互いの存在が根付いていた。そこに嫉妬したところで仕方がなく、燦然と輝く彼等の過去に、楓は目を細めるほかなかった。きっとあれを『青春』というのだろう。


 どうか、幸せに、しあわせに。
 彼の半身が、末永く幸福であるように。




 そして彼に、改めて愛を告げよう。

















































 や、右腕と左腕はそういうんじゃないんですが、昔の男です、ええ。ていうか、タイトルが思いつかなかった…
 これ書いて、自分がそうとう圭一郎大好きだったことを思い出しました(笑) 超イイ奴ですよねえ!この年目のアイドルなんですよ、さすが甲子園胴上げ投手。楓さんはこのあとちゃんと結婚式のスピーチ用意しますよ。

2019.6.29収録



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