佳人の肖像
















 上手に写真を撮るために必要なもの、ご存じですか?


 1.いい機材
 2.いいモデル
 3.被写体への愛


 ええ、そうでしょう。そうでしょうとも。
 …でも。
 実はもっとも重要なものがあと、ひとつ。






◆◆◆◆◆◆






 どう考えても、予算オーバーだった。


 長峰篤宏はスマフォの画面に打ち込んだ文字列を睨み付けて、大きなため息を一つ。何度、電卓アプリで計算しても、現れる数値に変わりなかった。
 写真部のアツヒロは、秋の写真コンクールのための策を練っていた。撮影プランの多角的な検討はもちろん、夏休みには出来る限りバイトに精を出し、軍資金を稼いだ。しかしいざ必要な予算を計上してみると、明らかに、いや盛大に財布の中身では足りなかったのだ。
「うーん」
 低く一度唸ってから、アツヒロはリストの優先順位を確かめた。やはり一番重要なのが被写体であることを考えると、撮影時の交通費や必要経費は削れない。替えのレンズは冬休みのバイト後まで我慢しなければならないだろう。
 もう一度、アツヒロはため息を吐いた。
 無論、いい写真を撮るために重要なのは、センスと努力と根気と好機であって、機材の善し悪しはまた別だ。ただ自分のセンスに明確な自信があるわけではないアツヒロにとって、やはり機材のスペックは重要だった。しかし、ない袖は振れぬ。機材のバージョンアップ以外でも出来る工夫はないか? と頼みの綱の父親に縋ったところ、まったく予想外のアドバイスが返ってきた。
「フィルムとかどうだ? 味が出るかも知れないぞ」
 は? とアツヒロは瞬きをいくつか。
「フィルムって、あれ、銀塩… のやつ? まだふつーに売ってんの?」
「…そうか、お前だと”写ルンです”とかも知らないんだよな」
 そう呟く父親は、心なしか少し老けたような気がしたが、それでも彼は少しはにかんだように笑って、こう言った。
「いいもんだぞ、フィルム。なんせやり直しが利かない」




 と、言われても。
 自宅の納戸に脚立を持ち込み、アツヒロは父親、どころか祖父の代からの遺産を掘り返していた。(みんなそろって写真キチだったらしい。これぞ血は争えないというやつだ。)アルバムの類は本棚にささっているが、大小の缶や箱に入っているのはフィルムやネガだとか。動かすとガラガラと音がするものもあり、開けるとびっくり、小さな円筒状のものがゴロゴロ入っていた。後で確認したら、APSというフィルムだそうだ。
 そこでアツヒロは今回、初めてネガの実物を見た。濃いブラウンの薄いフィルムに、反転したミニマムな世界が映り込んでいる。何とも奇妙なものだった。アツヒロはネガを光に翳しながら、首を傾げ、それでも飽かず眺めた。
 そしてその過ぎし日のお宝の中に、妙な箱を見つけた。
 多くの箱や缶は、乱雑ではあるが祖父や父親の筆跡らしき文字で中身のメモが書かれているが、その古ぼけた紙箱だけは何も書かれていない。開けてみるとネガと何かの記録らしい日付や数字が並んだメモと、幾らかの現像された写真が入っていた。粗悪な紙は日やけし放題だし、書かれた文字もかすれているが、英語も混じっているようだ。
 アツヒロは箱を手に納戸を出ると、居間でやはりカメラの手入れを始めていた父親に訊ねた。
「父さん、これ何?」
 ん? と父親は箱を覗き込み、首を捻る。どうやら覚えがないようだ。しばし考えていたが、そのうち、あっと声を上げた。
「これ、兄貴のだ」
「え、伯父さんの?」
 伯父は父と一回り以上離れており、かなり学業優秀だったそうだ。カメラ会社に就職して今は海外勤務だ。おかげでほとんど逢う機会はないが、アツヒロは密かに憧れている。なんせ就職先が羨ましい。
「うわー、懐かしいなあ、わら半紙だ。よく残ってたな。大学時代のやつじゃないかな」
 大学、というとけっこう有名なところだった気がする。アツヒロが記憶の発掘作業をしつつ、「工学部とかだっけ」と聞けば、「いや」と父は首を振った。
「たしか惑星とか地学とかじゃなかったかな。よく測定とか観測とかで出掛けてたし」
「マジで。なんかカメラから遠くない?」 
「いやそうでもないぞ。ああいうところはとにかく写真、撮るだろ。撮影の練習が出来るし、機材も使えるし、暗室作業も上達するし、一石三鳥だ」
 言われてみれば、と思うけれど、
「それって公金横領、じゃないけど、公共なんとかの私的流用じゃないの?」
 とアツヒロが突っ込めば、「昔はもっとおおらかだったんだ。最近は世知辛いよな」と父は肩をすくめた。そして、いずれにせよ、と仕切り直すと真顔で呟く。
「天体観測がてらに撮影だぞ、妬ましいにも程がある」
 それには異論はない。アツヒロも頷いて、結局、再び件の箱を抱えて納戸に戻った。
 もう一度、ゆっくりと箱の中身を検分すると、ネガと一緒に入っていたメモの意味も分かる。恐らく観測や測定の記録の一部や、その走り書きなのであろう。アツヒロは紙を手に取って眺めたり、ひっくり返したりした。ところで、
「あれ?」
 書き付けに紛れるようにして、写真が入っていた。ネガではなく現像されている写真は少なかったのもあるが、アツヒロは少々面食らった。それがポートレートだったからだ。
 いや、ポートレート自体は写真の王道ではあるが、ここではむしろ異質だった。他の、現場写真としか言えないような風景や土や石などの試料を撮影した写真とは、まったく雰囲気を異にしている。


 綺麗な人だった。


 大学内だろうか?
 雑然とした書架や机が並ぶ中、生成のシャツの上に白衣を着た、ほっそりとした人の上半身が写っていたいた。手には資料やファイルを抱えている。その背後で翻る濃いベージュのカーテン。
 フィルム撮影のせいか、デジカメ写真とはニュアンスがまるで違って、モノの輪郭がふんわりしている。
 けれど、その人の印象は鮮烈だった。
 肩の辺りまで伸びた黒髪を無造作にまとめて、クリップで留めている。細面も、白衣からのぞく華奢な腕も白磁のようだ。こちらを見ている瞳は凛として、眉間に力が入っている。「なに?」と、今にも口走りそうな表情が、ひどく印象的だった。
 誰だろう、と訝りながら裏返してみるが、残念ながら情報はない。他にも何かあるかも、とアツヒロは改めて箱の中身を、






◆◆◆◆◆◆






「あれ…?」
 そのネガフィルムの最後の一枚に、思わず声が出た。
 長峰は目を細めて確かめたが、おそらく間違いない。ある人物のポートレイトだった。他に巡検の撮影フィルムは相当数あったが、基本は記録用なので人物が写っているカットは少ない。せいぜい、共同研究者や協力者、施設のメンバー等と記念撮影を兼ねて撮ったものが数枚。勿論、他にポートレイトは一枚もない。
 少し迷ったが、長峰はそのフィルムを先にプリントすることにした。
 印画紙に浮き上がった姿は、やはり予想通りの人だった。艶やかな黒髪と白く滑らかな頬に、切れ長の目が印象的だ。雛人形のような美貌はしかし、少し険しい。
 否、鋭利で、何処か切実だった。
 長峰は画の定着を待って、ポートレートを手に暗室を出る。
「なあ、あのフィルムって日向先生のだっけ?」
 と実験室で作業中の同級生に声を掛けると、「そうだよ」と返事がある。
「もう終わったの? さすがに早いね」
 高校時代から写真部に所属し、暗室作業もこなせる長峰は、研究室での記録写真の現像を多く引き受けていた。撮影もかなりの部分は担当している。作業台から半身を返した同級生に、長峰は首を振った。
「いや、ちょっと違うやつが混じってるかもと思って」
「先週の以外に? なら、先月末の学生実習のやつもあったかも」
「あー、つうか、日向先生のでいいのかなって」
「それは間違いないよ、受け取ったの俺だし」
「そう。ならだいじょうぶ」
 と同級生に手を振って、長峰は出入り口に進む、途中で、愛用のカメラを掴んだ。それから院生室の方へ向かう。
 恐らくそちらに被写体が居る。




「失礼します」
 ノックと同時に声を掛けると、「おう」とぱらぱらと幾つか返事があった。
「小張さん、います?」
 と声を掛ければ、奥の書架の向こうから「こっち!」と白い手がひらひら動いた。長峰は、乱雑を通り越して芸術の域にまで達した資料や文献のグランドキャニオンを慎重に避けつつ、部屋の奥へ進む。
 そして辿り着いた一角には、白衣を着た長身の女性が一人。窓を背に、資料棚の中身と睨めっこしている。長峰は光源を確認すると、手元のカメラを素早く設定する。そして構えながら、改めて「小張さん」と呼んだ。
 どうした? と彼女が振り向いた瞬間。
 
 パシャ


「なに、いきなり」
 シャッター音に彼女は軽く驚いた。小張永子、博士課程の一年生で、件のポートレイトの被写体だった。
 長峰はカメラを掲げると、軽く舌を出して応える。
「いえ、フィルムが中途半端に余っていたので、せっかくならって」
「ああ、そう… それ、最近の流行?」
 まさに柳眉を逆立てる、とまではいかないが、かなり機嫌を損ねた美女に長峰は屈託なく笑って見せた。
「やっぱりそういうことでしたか、これ」
 先ほど焼き付けたプリントを差し出すと、永子は「ああ」と手に取った。
「巡検のフィルムに混じってたんです。珍しいな、と思って」
「…不意打ちだったんだ」
 自分のポートレイトに視線を落とし、彼女はやはり苦々しく呟いた。
 永子はこの研究科で、いや学部全体でも有名な才媛だった。けっこうなお嬢様だという話だが(大学院にまで進むとなれば、良家の子女か苦学生かほぼ二択だ)それ以上に、秀でた頭脳と容姿と、性格で主に。
 人形のような貌に反して、勝ち気、というより苛烈な気性で、根強い男社会のこの業界でも異彩を放っている。竹を割ったような性格はむしろ女性に好かれるらしく、部活(たしか弓道部だ)にはファンクラブがあるとかないとか。学会の懇親パーティーで尻を触った某有名教授に、上段回し蹴りをかましたという噂もある。きっと事実だろう。
 長峰は極力、軽く「よく撮れてますよ」と言ってみた。
「でも写真、嫌いだって言ってませんでした?」
「嫌いだ」
 きっぱりと言い捨てて、彼女は写真を白衣のポケットに突っ込んだ。
 研究室のカメラマンとしても働く長峰でも、彼女を被写体にしたことがほとんどない。学会や講演会等、イベントの記念撮影であっても、彼女はほとんど写真に写ろうとしない。以前、理由を聞いたら「この姿は気に入らない」と返答があって、周囲共々凍り付いた記憶もある。
「撮ったのは日向先生ですか?」
「そう。一枚余ってるからって、突然」
 そこでどうして一緒に写ろうにならないかな、と。彼女はため息と共に吐き出して、資料棚から乱暴にファイルを引き出した。
 助手の日向は数年前、この大学にしては珍しく外部から着任した。若くして本業の研究で実績があるのは勿論、端正なインテリ然とした風貌なのに、フィールドワークも軽々とこなす意外性。それでも物腰は柔らかで、会話も機知に富んでいる。まあなんというか、非の打ち所がない人だ。あまりに完璧すぎて、いっそ胡散臭いくらいに。
 そして、永子とは恋仲であるらしい。
 …らしい、というのは皆がそう思っているが、一向にその告知がないからだ。いや大々的に宣言する必要はないだろうが、狭いコミュニティだ。どうやってもその手のことはバレる。教官と学生ではあるがそれぞれ成人で、別に不都合はなさそうなものだが、何故かオフィシャルになる気配がなかった。
 とはいえ、さすがに永子の修士課程修了を機に入籍するのではないか、と周囲は思っていたらしいが、結局そうはなっていない。
 何故ならないのか、長峰にも、誰にもよく解らない。
 ひょっとしたら、永子自身にも解らないのではないだろうか。


  それでも、もう、


 じゃあ、失礼しました、と簡単に告げて。
 長峰はほとんど逃げるように院生室をあとにした。


 
 ぼやり、
 と印画紙に浮かび上がったシルエットに、一瞬、長峰は期待した。しかしそれは裏切られ、どんどんと明瞭になるその画はため息が出るほど凡庸だった。
 院生室、資料棚の前で振り返る佳人。
 カーテンを透かした陽光と室内の書架とのコントラスト、露光、ピント、問題なし。モデルの動きに合わせて自然に流れる髪も。気負いのない柔らかな貌の線も。十二分に足りている。
 なのに、先の一枚にあったものが決定的に欠けていた。
 心の準備は十分に出来ていたつもりが、やはり気落ちする自分が情けなかった。長峰はそれでもため息の代わりに苦笑を一つ。
 先ほど院生室で出し抜けに撮った写真と、日向助手から預かったフィルムを焼いた写真と。比べるまでもなく、その差は明らかだった。モデルが同じでも、モデルをうつくしく撮ろうという意識が(カタチは違えど)同じでも、
 モデルが撮影者に抱く想いが違えば、それはもう違う被写体になるのだ。
 たとえば、ペットの写真。高名な写真家と飼い主が同じように撮影したとして、いわゆる『いい写真』が撮れるのはプロのカメラマンではなく飼い主の方なのだ。技術の問題ではない。ペットが家族に向ける信頼や愛情があふれて、こぼれてゆくからだ。レンズやフィルムや印画紙を通り越して。
 あの、日向が撮ったという永子の写真。
 写真を見た誰しもが思うに違いない。彼女が向けている強い視線の先に居る誰かを、そのレンズを向けた『誰か』を、どれだけ。
 そして、そんな瞬間を切り取れる誰かが、彼女にそんな顔を向けさせる『誰か』が、どれだけ。
 
  どうしようもなく。
  もう、どうしようもなく…


「…届かない」
 最後にそれだけを呟いて。
 長峰は暗室を出た。






◆◆◆◆◆◆






 ポートレイトは二枚あった。
 アツヒロは二枚の写真を見比べて首を傾げた。あとから出て来た一枚も同じ美女がモデルだったが、雰囲気がまるで違う。鋭さと艶やかさの代わりに、磊落で快活な印象だけが残る。
 アツヒロにはフィルム撮影のことはまったく解らないが、後者の方が明らかに撮影技術が上のように見える。撮影場所は同じような室内だが、ホワイトバランスとか… 少なくともピントはカンペキに合っている。なのに、
 明らかに、最初の一枚の彼女の方が魅力的だった。
 不思議な… ものである。微笑んでいるわけでも、愉しそうな顔をしているわけでもないのに。存在感がまるで違う。彼女に何があったのか… いや。


 彼女が見ているものはなんだ?
 そして、カメラマンが見ているものはなんだ?


 数十年の時を経た謎かけは永遠に解かれることはない。しかし印画紙に濃密に凝った気配に、アツヒロはそっと細く息を吐く。写真を触る指先がぴりりと痺れるような気がしたし、彼女の面影が瞼の裏に翻り、ひるがえり…
 そこで、アツヒロは不意に思いついた。
 何か、同じものを… ほぼ同じ条件で、継続して撮影してみようか、と。たとえば学校から見える富士山。あれを毎日、同じ時間に撮ってみるとか。


 たった24時間
 されど24時間


 その間に、自分と被写体がどの様に変わるのか。あるいは変わらないのか。見てみるのもいいかもしれない。
 そうして彼は、件の紙箱をそっと閉じた。




 ただ、ひとつだけ、アツヒロは祈った。
 ポートレイトの彼女が、問うた相手にちゃんと、応えてもらえていれば良いのだけれど、と。

















































バテリオンリの頃にTwitterで実施した企画「#RTした人であみだして当選した人一名に一冊だけ作るコピー本プレゼント」の成果物です。
当選者さまに「写真を使い思いを伝える」というテーマを頂きました。指定されたテーマで書くということはあまりないので、とても勉強になりました。ありがとうございました〜vvv
しかしその割に、『定点観測』と瑞海大学生編の『さんたまりあ』『くちづけ』とリンクしてます。ご興味のある方はドゾ。


2016.12.18収録



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