夕焼けカバレッタ


















 ミズキは三塁ベースに右足を掛け、すっ、とダイヤモンドを見渡した。
 一点を追いかけて迎えた九回裏、一死二、三塁。
 ここで我々が打つ手はひとつだ。サードコーチャーと共にベンチを見ると、監督の両手がひらひらと動く。
 了解、と。
 ミズキはきゅっとヘルメットの端を握って応えた。




 さて、とミズキは改めてマウンドとホームに注視する。
 投げる投手は、背番号二桁であってもほぼエースで、リリーフした五回からこれまでうちの打線をよく抑えていた。制球も良く、四死球も少ない。バッテリーを組む捕手とも中学時代からの付き合いだとかで、サインに首を振ることなくテンポ良く投げ込んでいた。
 ということは、まあ、読まれている。
 次に二塁へ視線を送る。セカンドランナーは一番を打つ同級生のトオルで、前の回、横っ飛びでショートゴロを捕球したせいでユニフォームが真っ黒だ。今も滑り込んでついた尻の土を叩いていた。
 しかし、ちっとも彼と目が合わないので、ミズキは僅かに眉を顰める。
 そして改めてホームを見る。二番の下野さんが打席に入るところだった。いつものルーティンをこなし、淡々と打席に立つ姿は頼もしかった。
 下野さんはバントが上手い。
 …いや、正確に云おう。


 バントの『名手』だ。


 そのデータは相手方にもある程度知られているだろうが、それを踏まえても、スクイズ以外の手はなかった。お互いに。
 九回裏にこの打順で満塁策はリスクが高い。三番の藤堂キャプテンは既に今日三安打、四番のリョウタも単打に犠飛。同点やむなしでアウトカウントを稼いだほうがいい。あちらの方が余力があるせいもある。延長にもつれ込んでもいいと踏んでいるだろう。


 こちらも先ずは同点、話はそこからだ。


 ミズキはもう一度、トオルへ視線を投げたが、やはり彼はこちらを向かなかった。






 *****






 下野は空を見上げて、ひとつ深呼吸した。
 空は既に夕焼け色がにじみ、淡いピンク色から紅色に変わっていくところだった。陽が落ちる前に決着を付けたい。でないと負ける。
 それから視線を下げて、まず三塁を見遣る。確かな選球眼で四球を選び取ったミズキが、サードコーチャーと何か言葉を交わしていた。そして二塁。先程、見事なツーベースを放って滑り込んだトオルは、屈伸運動を繰り返している。うちの二年は優秀だ。
 下野はすこし笑った。
 さて、ここで自分に要求されているのはただひとつ。


 完璧な犠打、一択だ。


 賢いミズキなら機を逃すことはない。あとはバットにボールを当てるだけ。だけ、なのだが。
 心臓は早鐘の如く、一瞬、震えそうになる足を踏ん張った。
 何度やっても、慣れることがない。
 下野の笑みはほろ苦くなった。無論、向こうも承知の上だろう。バッターボックスに近寄ると、捕手がこちらを伺う視線が刺さる。手は読まれているので厳しいコースをついてくるだろうが、満塁で今日当たっている藤堂と勝負するより、スクイズ阻止を企図するはずだ。カウント次第だがチャンスはある。
 バントは死ぬほど練習した。そうでなければ、自分はこのチームでレギュラは獲れない。どうやっても三塁前に転がせ。自分自身に言い聞かせ、下野は一礼して打席に入る。
 真正面から投手を見れば、淡々と、しかし真剣な眼差しがあった。しかし、彼は自分ではなく、ミットを見ていた。なるほど、と胸の内で頷く。


 やってやろうじゃないか。


 最後にもう一度ベンチに顔を振り向けると、ネクストで捧げ持つようにバットを立てるキャプテンが、何故か遠くを見ていた。






 *****






 え、と藤堂は思わず聞き返した。
「あっ、や、気のせいかもしんないですけど」
 今日はベンチスタートの瀬戸孝宏は慌てて付け足す。ネクストでバットを手渡す際、瀬戸がひと言呟いて、それを藤堂が聞き咎めたのだ。彼は二年の中心選手で次期キャプテン候補だ。いいから、と目で促すと、少し溜めてからもう一度繰り返した。
「トオルが変なんで… なんかやるかも、です」
「なんかって?」
 少し厳しく響くかもしれないが、ぶっきらぼうに問い返す。瀬戸はこれで止めたりしないことも、藤堂は知っている。瀬戸はつっかえつつ、ただはっきりと言った。
「…スクイズ、が失敗したら、エンドランとか、と、スティール、とか…」
 三塁エンドランか、ディレイドで重盗か?


 なるほど。


 やんちゃな少年そのものである後輩の行動パターンを鑑みるに、瀬戸の懸念は分からないでもない。それに、瀬戸とトオルは同じボーイズチーム出身だ。こういう勘は信じて良い。
 藤堂はひとつ頷いて、顎先で瀬戸を促した。
「おまえ、サードコーチャー代われ」
「は、」
 瀬戸がくっきり二重の目を見開く。
「いいから。監督には俺が言ったって」
「あ、はい!」
 藤堂は監督に信用されているし、瀬戸ならきちんと説明も出来るだろう。後輩をベンチに走らせてから、藤堂はネクストバッターズサークルでバットを捧げ持ち、二塁上にいる後輩を見遣った。


 俺が打つまで待っとけ。


 と、言いたいところだが。
 そしてその先、スコアボードは鮮やかな夕陽に照らされていた。赤いな、と藤堂は無意識に呟いた。






 *****






 監督は一瞬、眉を寄せたが頷いた。
 三塁コーチャーボックスの先輩にタカヒロが「代わります」と言うと、相手は少し不思議そうな顔をしたが、よろしく、とタッチをかわして戻っていった。サードランナーのミズキの方がもっと驚いている。
「どうして」
 とは発声されなかった。
 トオルがおかしい、とタカヒロが言うと、セカンドの方は向かずにミズキは視線を外した。彼も察するところがあったのかもしれない。次にバッターの下野を見れば、いつも通りの自然体で一礼し、打席に入るところだった。さすがだ。
 タカヒロはもう一度、幼馴染みの様子を伺ったが、トオルは真剣な顔でホームを凝視していた。絶対、何か企んでいる。さすがにタイムを取るのは憚ったが、もしスクイズを外したら監督に直訴しようとタカヒロが心に決めた、直後、
 ぴりり、と空気が引き締まった。




 投手が投球モーションに入る。


 小柄で細身の左腕が、するりと足を上げる。


 内野手の足が動き、腰が落ちる。


 気配を消した走者がそろりとベースを離れた。


 左の腕が弧を描くようにしなる。


 打者が腰を入れ、右足を僅かに引いた。


 バットを寝かせる。




 全ての動きがストップモーションのように見えた。
 低すぎる、タカヒロは口の中で呟く。
 大きく下にはずれた、ほとんどホームベース上でワンバウンドするような軌道で、白球が伸びていく。しかし下野はバットを引かなかった。更に腰を屈め、そこで一瞬、


 嗤った。


 「GO!」
 タカヒロは反射的に叫んだ。






 *****






 三塁手の中川は、素早く定位置に戻りながら状況を確認する。
 先程、飛び込んだ先を抜けていった打球は左中間を破り、顔の先に俊敏な影が滑り込んできた。やられた、とは思ったが不思議と焦りはない。一死二、三塁にはなったがもう九回裏、負ける気はしなかった。
 じっとりと喉元に滲んだ汗を腕で拭う。
 ライバル校と当たった準決勝、天王山。前のゲームが延長に突入したこともあり、既にだいぶ日が傾いていた。しかし真夏の炎天下に晒されたグラウンドは未だひりつくような熱さだった。ショートとベンチのサインを確認し、改めて足を踏みしめる。


 ここはスクイズ一択だろう。


 向こうとしてもまず追いつくことが先決なはずで、その判断に疑いはないし、中川としても望むところだ。相手のデータはもれなく頭に入っている。二番はバントが上手いし、チームの走力からいってもカウント次第ではゴロゴーか。
 ふと、視界の隅でサードコーチャーが代わった。
 まさか代打…? 中川は眉を顰める。いや、次打者はキャプテンで今日、三安打だ。出すならその次だろう。そんなことを考えていると、投手がセットポジションにつく。いつもと変わらぬポーカーフェイスで。
 すっ、と中川が重心を落とすと同時に、背後でサードランナーが体勢を整えるのが分かった。グラウンドにいる全員が集中するのが分かる。その一球が放たれ、いつもよりずっと低い軌道を通る。ほとんど打者の足下だ。
 うまく外した、
 と思ったのに、バッターは果敢に挑んだ。チャージを掛ける前だ。まじか、と口の中で呟いて、中川はスタートを切る。少し強めの打球が飛んでくる。その横を駆け抜ける鋭敏な気配に、ホームは間に合わないと悟る。
 確実性を優先してしっかりと捕球し、中川は二歩ステップして一塁へ素早く送球した。が。


 えっ?


 ファーストの仲間の顔が、ぐにゃりと歪んでいる。
 送球した姿勢のままの中川の後ろを、もう一度風圧が、獣のような、


 まさか、


 嘘だろ、と。中川の上体が大きく傾ぐ。
 あっ、と、誰もが息を呑み、声にならない悲鳴が上がった。






 *****






 足首に近いくらいの球を、しかしバッターは叩きつけるように捉える。
 カン! と響いた音を号砲にミズキはスタートを切った。自分の足が大地を蹴るのと、タカヒロの号令はほぼ同時だったと思う。
 明らかに低く外れた投球を下野は確実に仕留めた。上手く勢いを殺した打球がこちらに転がってくる。お見事、と声に出さずに称賛し、ミズキはそのボールとトップスピードですれ違った。彼の後ろで、大柄な三塁手が俊敏な動きで捕球に出る。
 大丈夫、間に合う。
 と、ホームに滑り込む歩数を計った瞬間、


 ぞわり、と


 背中に感じた予感に、ミズキは思わず笑った。これか。
 ミズキはがら空きのホームにスライディングし、球審の手が上がるのを確認する。それから素早く立ち上がると、打者が放り出したバットを拾い上げたところで、


「ストップ! 止まれ!」


 タカヒロの怒声が聞こえる。
 ツーラン! と、別の誰かが叫んだ。
 やはり来た。振り返ったミズキの視界に、全速力でホームに駆け込んでくるトオルの姿が。


 そこからの景色はコマ送りのように。






 *****






 サードランナーがホームに滑り込む。まず同点。
 三塁手が正確に送球する後ろで、セカンドランナーがサードコーチャーの制止を振り切ってベースを蹴った。
 怒号と悲鳴が重なる。
 バックホーム!! の指示が飛び、一塁手は慌てて前に出て送球をカットする。
 ノーステップで捕手に投げられた球は、しかしホームから高く逸れ、捕手は伸び上がった。
 その下を、地面すれすれに飛び込む、少年が。
 キャッチャーミットのタッチをかいくぐり、ランナーの手がホームベースに届いた。


 一瞬の沈黙の、あと。




「セーフ!!」




 どわっ、と、真夏が破裂するように。
 飛び上がり、うおおおおお、と咆哮したセカンドランナーを最後の打者が抱き止める。そこに他のチームメイトも加わる。
 投手はマウンドで膝に両手をつき、呆然と、ホームを見つめる。動けない。三塁手が近付いてその肩に触れると、くしゃり、と崩れ落ちた。遊撃手が慌てて支えてやる。
 20人は飛び跳ねるように、20人は身体を引き摺るように、動いた。
 やりやがったな、と、藤堂は呟くとバットを置き、ネクストバッターズサークルを出てホームベースに近付く。倒れ伏し、顔を上げられない捕手の背中をそっと叩いた。相手チームの主将と共に、無言でその身体を抱え起こす。
 二人のキャプテンはきびきびとチームを統率し、40人が2つの列を為した。
 全員が真っ赤な西日に染まっている。
 号令と共に礼をして、試合が終わった。


 そうして、くっきりと勝負は決した。
 最後の一球が放たれてから、ほんの60秒にも満たない時間だった。






 *****






「この、ばかやろう!!」


 怒号が響いて、先発した二年生左腕の柳澤はベンチからひょいと首を出した。
 撤収準備が続くファールグラウンドの端で、タカヒロがトオルをどやしつけていた。見事、ツーランスクイズを成功させたトオルだが、サイン無視、コーチャー無視なのは確かだ。そこをもう一人の二年生投手、小林が取りなしている。
「ま、そらそうか…」
 タカヒロとトオルとはボーイズからの付き合いなので、柳澤はこの事態にもそれほど驚かなかった。きっとタカヒロも予想のひとつではあったろうと思うが、調教は彼の仕事なので心の中でエールを送るに留める。
 柳澤は左肩をアイシングしながら荷物をチームメイトに託して、藤堂の隣に並んだ。既に準備を終えているキャプテンに、柳澤はそっと尋ねた。
「今日のMVPは誰っすかね?」
「下野」
 ベンチの中に指示を飛ばしながらも、藤堂キャプテンは間髪入れずに応える。ただ、一拍おいてこう続けた。
「まぁ、トオルにもいちご牛乳くらいは奢ってやれ」
 このあたりが藤堂がキャプテンたる所以である。柳澤は思わず吹き出した。
「あ、はい… って、俺がですか?」
「お前が三点も取られるのが悪い」
 真顔で断定した藤堂は、しかし意外なことを付け足す。


「じゃなきゃ、ミズキとワリカンしろ。あいつ、共犯だ」


 え、きょうはん… 共犯? と目を白黒させる柳澤を放置して、藤堂は「整列!」と声を張り上げた。






 *****






 共犯とは言いすぎかも知れないが… と、バスに引き上げながら藤堂は胸の内で続ける。
 先にホームに滑り込んだミズキは、すぐに立ち上がってホームを空けた。同点のランナーにしては冷静すぎた。あれは後ろからトオルが来るのが分かっていたのだろう。まったく油断ならない。
 うちに来てくれたのは幸いだったな、と改めて思う。ミズキは四兄弟の末っ子で、正真正銘の野球エリートだ。長兄と次兄はこの野球部のOBだが、すぐ上の兄は兄弟と比較されるのを嫌がって別の強豪校に進学したという。
 次のキャプテンは瀬戸で良いが、補佐にミズキを推すか、と藤堂がなんとなく考えていると、「おつかれ」と背中を叩かれた。振り返ると、本日のMVPの顔がある。
「しもの」
「勝ったね」
「だな」
 褒めて! とは言わないが、ひどく満足そうな同期とハイタッチをかわす。もちろん目標は全国制覇だが、春季大会からこの日をターゲットに励んできた。ライバル校に勝ちきったのは大きい。藤堂は頷いた。
「お前にはフルーツ牛乳だな」
「はっ? え、ええっ? てか、なんでフルーツ牛乳?」
「なんとなく。とりあえず風呂だ、風呂」
 自分はコーヒー牛乳にしよう、と藤堂は大きく伸びをし、バスに乗り込んだ。




 開放感からか、バスの中は賑やかだった。
「明日もがんばろうねえ」
「あしたか… 雨降んねえかな」
 梅雨明け直後、真夏の連戦は過酷だ。うっかりこぼした藤堂に、ちょいちょいとスマフォをいじりながら下野は応える。
「無理じゃない? 降水確率0%だって」
 夢のない相棒の突っ込みに溜息を吐きつつ、藤堂は後ろを振り返ってメンバーを確認した。「居ない奴は返事しろー」と訊けば、「できるか!」とエース白石の笑い声が返ってきた。
 今日は柳澤が先発、リリーフは白石だったので、明日はおそらく二年生右腕の小林が先発だろう。見れば、今は小林がミズキと何やら話し込み、柳澤が瀬戸とトオルの間でゆらゆら揺れている。
「明日はもうちっと楽だといいがな」
 という藤堂の本音に、だねえ、と下野も同意する。
「まあ、コバちゃん調子いいし。ボール飛んでこないといいなあ」
「セカンドに守備機会がない試合とか、あるわけねーだろ」
 じゃあ寝るから! と宣言し、藤堂はそのまますとんと眠りに落ちた。


 しかし翌日の決勝、セカンド下野のところに打球は飛んでこなかった。
 先発した小林が、21奪三振の地方大会決勝の最多奪三振記録を打ち立て、藤堂たちのチームは甲子園出場を決める。


 あまりに鮮やかな奪三振劇。最後の一球が打者のスウィングをかいくぐり、キャッチャーのミットに吸い込まれる。怒号のような歓声に、球場全体が揺れていた。
 目に痛いくらい蒼いあおい空の下、金色に輝く球場で少年は右手を突き上げた。




 そのあとのことは、また別の話。

















































 久々に(?)ラヴ要素がない野球話、妄想野球部のWエースが二年の夏ですね。
 モデルになったのは100回記念大会のあの試合です…サヨナラスクイズって大好きだけど、なんてったって、あれ、逆転サヨナラツーランスクイズですよ?!そんなん、何度見たって震えるよね!
 そして本当に1分ぐらいの出来事なんですよね。その60秒に詰まった劇的な物語が書きたかったんですが、なんとか描けていれば良いな、と思います。
 あとは昔、名前だけ出した藤堂さんをちゃんとキャプテンっぽく出せて良かったです(笑)
2020.4.19収録



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