早春賦ライブラリ


















 刺された、か。


 まずそう感じた。
 自身も牽制は得意な方だと思っていたが、そんな自負心がすっかり萎えるほど。しかしまさか、ああも堂々と投げられるとは思ってもみなかったのだ。油断だろうか?
 そこで高野聖は独り苦笑する。
 いや、そういうつもりではなかったのだが… 後輩投手とその青年の後ろ姿を見送って、聖もひとつ大きく伸びをした。節々がほぐれる感触がある。柄にも無く緊張していたようだ。
 その後輩に、ずいぶんと目を掛けている自覚は聖にもあった。エコヒイキとは云えないまでも、他の投手陣と扱いが違ったことは否めない。素材の良さもあるが、おそらく放っておけなかったのだろうと、本人としては思っている。




「あんな記録なかったら良かったのに、とは思うんです」
 或る日、後輩の小林穂高が呟いた。
 その頃の彼は、思うような結果が出ていないせいか、発言もネガティブなものになっていた。
「なに贅沢言ってんだ、199チームの球児に謝れ」
 と突っ込みつつ、聖はその日気付いたポイントを挙げ、反省を促した。
 穂高が指しているのは、高校二年時の県大会決勝で記録した21奪三振のことだろう。27個のアウトを取る野球というゲームで、27分の21だ。相手が決勝進出も初めてのチームであったことを差し引いても、それは衝撃的だった。聖が穂高を知ったのもその試合だ。当時のチームメイトに穂高の高校のOBがいて、付き合いで球場まで赴いていたのだが、本能的にそのスライダーを受けてみたいと思ったものだ。
 そしてその記録と共に穂高は一躍ドラフト候補となる。
 ただ、あまりに鮮やかな記録に、むしろ苦労したのも確かだろう。その夏の甲子園は初戦敗退だったか。怪我もあって、それ以降の穂高は思うような投球が出来ていなかった。結局、一度もエースナンバを取れず、二枚看板と称された左腕柳澤と共に夏を制したが、相棒の後塵を拝したのも事実だ(その表現も贅沢だろうが。だいたい左腕相手では分が悪い)。国体で優勝投手になっていなければ、ドラフト指名もあったかどうか、とは思う。
 しかし、そもそも穂高の素質やこれまでの来歴からすれば、押しも押されぬスポーツエリートだ。瑕疵がない。なのにどうしたことか、本人の性質はまるで「らしく」なかった。素直で真面目な、有り体に云えば鈍感でマイペースな野球少年の顔と、刃物のように苛烈で、傲慢でさえある投手の顔が同居していた。どうにも本人は無自覚のようで、一瞬、本気で精神疾患を疑ったぐらいだ。
 何を考えているか解らないというより、自分たちとはまったく違う法則で動く生きもののような。


 だからおそらく…
 聖は心配だったのだ。




「高野さん、知ってます?」
 話を持ちだしたのは、三河だったと思う。ファームでの試合後、片付け中の無駄話だった。昨シーズン終盤から腰痛を抱えていた聖は、シーズンインを前にまだ二軍での調整が続いていた。
「なにが」
「最近、ここに来るギャラリに、すっっっっっごいイケメンがいるんですよ」
 すごいって、と聖が半分呆れながらも続きを督促すると、ミカワは嬉々として語る。この後輩はキャッチャーとしては優秀だが、野次馬でゴシップ好きだ。
「や、ほんますごいんですよ! 現れるとスタッフさんとか売り子さん達が騒ぐぐらいで」
「…幽霊かモンスターっぽいぞそれ」
「あ、あれ、ほたの友だちッス」
 と補足したのが穂高とは同学年の内野手松延で、聖とミカワは同時に彼の方を振り向いた。三人とも関東出身なので、入団はばらばらだが気安い間柄だった。
「は? 穂高の?」
「ウッス」
「えー、友だちって… 高校の?」
「や、地元のっていうか、あいつ、京都なんで」
「ああ、中学とか」
「じゃなくて、K大の物理学者です」
「…は??」
 聞き間違いかと思った。ノーベル賞受賞者と同じバックグラウンドの人物とチームメイトは何一つかすらない。
 松延が語るところによると、穂高が数年前に試合中の事故で負傷し、しばらく療養中だった頃に知り合ったK大の大学院生で、力学が専門で変化球の研究をしているとか。ざっくりした概説に、ミカワとふたりぼんやりと頷くしかない。
「変化球、ですか…」
「まあ、出来る、ような気はするが、モデル化自体は」
 聖としてもイメージでしか解らないが、ミカワなど目を白黒させている。松延自身も聞いたままを語っているとのことだが、赤谷やケントが参加したという実験は見物に行ったという。
「実験… どこでやったんだ?」
「K大のグラウンドです、色々ナイショで」
「ナイショってアリなんすか、ってか見物人集まっちゃうでしょ?」
「だから人いなさそうな冬休みの早朝、年末に」
「ああ、なるほど… また物好きだな」
「でも面白かったッスよ、けっこう」
 実験ってどうやるんすかー、などと続くミカワと松延の声を聞きつつ、聖は『K大の物理学者』と胸のうちで反芻する。センサーに引っ掛かったような。
 そう、聖にはその存在に心当たりがあった。




「高野さんのご両親、ひょっとして泉鏡花お好きですか?」
 穂高に問われて、聖は心底驚いた。
 その質問自体は初めてではない。中学や高校で、国語教師から訊かれることがあったからだ。しかしまさか職場で、しかもチームメイトから訊かれるとは思ってもみなかったのだ。いや、仏教系の強豪校OBには冗談かと笑われた記憶ならあるが。
 野球少年と泉鏡花に距離がある上、穂高と文学青年の距離も多大にある。思わずしげしげと後輩の顔を見つめてしまい、穂高の方が怪訝そうに長い首を傾げた。
「いや、それじゃない、というか、狙ってたわけじゃないらしい」
「え、そうなんですか?」
「承知の上でこの名前だったら、ほぼ嫌がらせだろ…」
「…そうか、そうですかねぇ? かっこよくないですか」
 聖の名前の字面がまんま”こうやひじり”なので、由来を宗教または小説に求められることが多いが、家庭の事情で偶々こうなったのであってほとんど事故だ、と本人は思っている。しかし、まずは正直な感想がこぼれる。
「お前が泉鏡花を知ってるとは思わなかったな」
「高野さんひどい… まあ、そう言うたんは俺やないですけど」
「は? じゃあ誰なんだ?」
「や、友だちに、お前のチームには”高野聖”が居んのか?って訊かれて。何のことや云うたら、偉いお坊さんで〜って説明してくれました」
 そうかと頷きながら、違和感が更に募る。『友だち』というからには聖が知らない繋がりだろう。しかし、そもそも野球関連の友人なら、高野の存在に初めて気付いたかのような物言いはないはずだ。さすがに。
 …野球に関係ない友だち、とは?
 ひょっとして彼女か、と聞き返しそうになって、いやそれはセクハラだなと思い止まる。(意外にも)かなりなおしゃべりである穂高が自分から言わないのなら、まだ機が熟していないということか。センシティブな話題だし、そのうち分かるだろうと勝手に判断し、聖は話を逸らすことにした。
「高校の頃、袈裟も似合うんじゃね、とか言われたな」
「あー、そうですね! やのうて、えっと、高野さんが坊主頭でもイケメンやからないですか!」
「うるせー」
 結局その後、穂高から恋人の話を聞くことはなかったし、聖も日々に忙殺され、その件はすっかり忘れていた。
 ただしそれ以降、何故か穂高から「ひじりさん」と呼ばれるようになり、それが他のチームメイトにも波及して、本当の名前のように定着していったのだった。




 そして今、聖の脳内で、野球とかすらない背景の『友人』に、その『K大の物理学者』が当てはまった。
 思い返してみれば、泉鏡花の件以外にも、穂高の話題にはいくらか不思議というか意外なコメントが出てくるようになっていたのだ。
 たとえば、この業界でふわっと使っている「重い球」という単語だが、穂高がそこに回転数と摩擦力や、てこの原理を持ち出したので、思わずバッテリーコーチと顔を見合わせたこともある。移動時には、空港でジェット機が飛ぶ仕組みについてミカワに概説していた気もする(推進力とか浮力とか単語が飛び交っていた)。その他に「おやっ?」と思うことがいくらかあり、そこに物理学者のピースを持ってくればピタリと嵌まる。
 なるほどね…
 と、聖は頷きながら、しかし、ともう一度首を捻る。穂高の怪我と云えば折れたバットが刺さった事故だろうが、その頃に知り合ったということは、友人が球場に見に来るようになったのもそれ以降だろう。もちろん一軍と違ってファームの場合はギャラリも少ないし、常連も把握しやすい。いわゆる『野球好きのおっちゃん』でない人物は相応に目立つ。だが、
 シーズンを通してそれなりの頻度で目撃されなければ、いくら人目を引く容姿でもそうそう話題にはならない。
 事故が3年、いや4年前か? 野球好きで学生で時間の融通が利くとしても、頻々に顔を出してくれたことになる。しかも、穂高の言動に変化が表れるくらい、付き合いが長くかつ深く続いているということか? と、聖が訝っていると、意外なところから回答が来た。
「ああ、あのセンセ、穂高の実家に下宿してはるんです」
「は? 実家に?」
 京都の… おまえんとこのグラウンドに激近っていう、と指摘すると赤谷がうんうんと頷く。
「そうそう、歩いて14分、走って3分くらいで、あ、最後、登り坂ですけどね!」
「区間賞ペースで走る必要はなくないか。京都市街からはちょっとあるんだったか」
「はい。んで、下宿つうか、借家っていうんかな。あいつのじっちゃんが亡くなって、実家が空き家になってしもうて」
 赤谷はオフシーズンを跨ぐと大阪弁と京都弁が混じる。
「ああ… そうか、ご家族はみんな北海道だったか」
「東北だったかもです。そんで、他にも住める人はいまんとこいなくて…」
 空き家にしておくのは保安上も良くないというところに、貸家という案が上がったのだそうだ。そこで白羽の矢が立てられたのが穂高の友人で、管理人として雇う代わりに格安で貸し出しているらしい。
「なるほどな… そういや最近、ニュースでも話題に出るな。家余りってやつだな」
「うちも他人事やないです。じっちゃんばっちゃんが死んだら、あの京都の家とかどないするんやろ」
 実は赤谷の実家は老舗の呉服屋で、たしか市街地の中心にけっこうなお屋敷があるはずだ。からかい半分に御曹司と呼ばれたりもするが、それはそれで苦労も多そうだった。
「大変そうだな、相続税とか」
「ですです。もううちも会社も大阪なんすけどねー。家屋敷もだいぶ古いし、でも更地にすると税金高いしで」
 などと、その後はうっかり財テク(この職業では自分の財布の管理は重要な課題だ。管理を外注するにしても)の話に流れていった。
 ちなみに、『K大の物理学者』が赤谷や松延に”先生”呼ばわりされているが、それが『ガリレオ先生』の略だというのは後で知った。まだ博士課程だという。なるほど、学生の気軽さか、と聖もようやく腑に落ちたのだった。






 だが、聖の『引っかかり』は杞憂ではなかった。
 杞憂というか懸念というか… それも本来は失礼な話なのだが、それでもそれ以外に言い様が見当たらず、聖は寸の間、空を見上げた。


 その日、「来てますよ、ガリレオ先生」と松延が言うので、ミカワとどれどこと騒いでいたら、穂高本人が「あそこに居てます」と教えてくれた。
「おおう…」
「これはまた」
 音に聞くイケメンは本当に圧のあるイケメンだった。ちなみに赤谷もホンモノの御曹司らしい華やかな容姿で毎年ファン投票では女性票をかっさらっていくが、それとはベクトルが違う怜悧な美貌だ。ごついカメラを提げて、常連のおっさんに捕まって立ち話する姿でさえグラビアのようだ。日本人離れした、というより「ほとんどCGっすね!」というのはミカワの談で、これは話題にもなるだろうと納得したのだが。
「ま、中身は意外に理系男子の典型つうか、へん… うん、面白いヒトっすよ」
 とはかなり遠慮したふうのケントの感想だ。
 そして試合後、そこそこ納得のいく投球が出来た風情の穂高が、顔見せてきますと、いそいそと出て行く。聖は、それならついでに挨拶でもと、何の気なしに穂高の後を追った。
 球場の外、出待ちのコアなファンとはだいぶ離れて、壁にもたれてカメラをチェックするガリレオ先生が見えた。その様子でさえあまりに絵になるので、ひょっとして選手以外に彼目当ての客も居るのではないか、と聖が迂闊にも感心していると、穂高の長身が視界に入ってきた。
「ほ、」
 たか、と、聖が呼びかける、より僅かに早く。


「かえで!」


 と穂高の声が響いて、彼がゆったりと顔を上げる。僅かに目を細めて微笑む。跳ぶように駆け寄った後輩の白い歯が見えた。それに彼がなにかを応えると、穂高も微かに笑んで、
 彼の手が穂高の頭に伸びて、短い黒髪の、無造作に、だのに柔らかく撫でる。
 くすぐったそうな、その、貌と、彼を見つめる彼の、瞳の色と。
 始まったばかりの春の光は、透明に輝く小さなシャボン玉のように溢れて、


 まるで、それは


 その瞬間、聖と彼の目が合った。
 パチン、と大きなシャボン玉が弾けるような。剣呑とさえ云える視線の強さと鋭さに、ああ、と、聖は確信する。
 これは…




 これは、猫の恋だ。




 聖を認めた彼は、すこし視線を緩め、ひっそりと嗤った。
 思わず聖は目を見開く。いい度胸だ。
 ここは年長者の矜持を持って、なんとかひとつ頷くと、彼はふっと真顔になって丁寧に一礼した。その堂に入った態度がまた酷く端正で、聖は溜息を呑み込んだ。鷹揚に見えるだろうかとひやひやしながら、軽く手を振る。彼もまた表情を緩めて肯うと、穂高を促した。
 そうして連れ立って歩き出した後輩達を、聖はただ、見ていた。
「やられたなあ…」
 そう言うほかない。牽制死などいつぶりだろうか。軽く頭を振って、聖はバックヤードへ引き返す。秘密を知ってしまった緊張感と、幽かな寂しさとくすぐったさで苦笑を禁じ得ない。


 春と聞かねば、知らでありしを。
 聞けば急かるる…
 まだ、時にあらずと声も立てず、か。


 聖は、猫たちの秘密が暴かれないことを、そっと祈った。

















































 もとは「いたみ」の第5弾として書いた、というか、それくらい昔からあったネタというか…「聖さん」の名前ネタなんですよ。
 最初はいつものように「先輩」としかしてなくて、あとで無理矢理ひねり出したんですが、そのときに「こうやひじり」ネタが出て来て。(なお一部実話で、ほんとにその名前になっちゃった人がいて、日本史の先生に突っ込まれたというのが元ネタ…)
 間が開いた分、みんなの背景情報とか書けて良かったです…?(どうだろう)
 ラストが個人的には超気に入ってます、名曲ですよね、早春賦!
2020.4.18収録



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