ソラノナマエ









「こんな色だったよな」




「は?」
 唐突な言葉に、タカヒサは思わず返球動作を止めた。
 彼の視線の先で、謎めいた台詞を呟いたエースは、空を仰いでいる。何事か、と、つられて見上げた空は、淡く透き通った、美しい水色をしていた。あと少し先の夕暮れに備えて、東は藍色に、西は桃色がごく僅かに滲んでいる。
 綺麗な空だ、と。
 思ったタカヒサはだが、それでが何だって? と、再度、ナオトへ視線を戻した。
「あの日も、こんな色の空だったな、とか」
 情報量が増えてねえよ、と、突っ込もうかと思って、止めた。タカヒサはよくよく、相方の顔を見てみる。締まった、いい顔だった。
 タカヒサはそっと、ほうと息を吐いた。




 もう、秋も深い。
 先ほど見上げた空を横切った赤とんぼに、タカヒサはそんな感想も持った。秋をこうして過ごし、冬を迎えようとしていることが、なにやら信じられない気がする。
 だが、心は不思議なほど静かだ。
 夏の決勝で敗退してから、彼らはしばらく野球から遠ざかっていた。だが、ある日を境に練習を再開し、弛緩していた体も気持も、ある程度戻って今に至る。
 とはいえ無論、部活も引退して、単なる受験生になったわけだが。そこで、プロのスカウトにも注目されいていたエースは、進学を表明してプロ志願届は出さなかった。まあ、余程のことがなければ推薦で難なく、有名私大に進めるはずで、誰もその先の心配などしていない。むしろ学校側が過剰なほどに不祥事の芽に敏感で、窮屈で居心地の悪そうなナオトが、タカヒサはちょっとだけ気の毒だった。
 一方のタカヒサの進学先は… 秘密である。
 ただ、野球は続ける予定だ。
 そうして、タカヒサは夏休み明けからギアをトップに入れ、他の受験生を猛追していたが、推薦だというのに、ナオトもけっこう真面目に受験勉強をしている。
 そんな二人はこうして、たまにキャッチボールをする。
 勉強の息抜きであったし、ナオトには必須のトレーニングでもある。


 でも、きっとそれ以上に、たぶん必要なコトだったけれど、それについてはお互いに黙っていた。
 それで良いと、きっとふたりとも気付いている。




 で、件の発言だ。
「あの日って、いつだよ」
 分からないことは早めに聞く。それが気むずかしいエースと付き合う、重要な法則だということを、タカヒサはかなり最初に学んでいた。相変わらず淡泊な表情だが、機嫌が悪くないのは判るので、単刀直入に。
「二年前、秋の大会」
 それだけの、必要最小限にさえ少し足りないような答えに、しかし、「あっ」とタカヒサの記憶は鮮やかに甦った。




 二人が一年の秋季大会、最後の試合。
 確か相手は前年の夏代表校で、それは大方の予想通りの展開で、完全な負け試合だった。新人戦の性格も併せ持つ秋季だが、それにしても散々だった。力負け。特に南高投手陣は相手打線の前に総崩れで、とうとうナオトにもお鉢が回ってきた。
 練習試合では起用されることも増えたナオトだが、公式戦のマウンド、しかもこんな試合での登板はさすがに、ひどく厳しいものになった。
 とにかく、徹底的に打ち込まれた。


 アウト一つが、遠かった。


 強豪校の打線は、恐怖さえ感じさせる鋭さで、どうやったらアウトが取れるのか、忘れるくらいに。どこに投げても、どんな球速であっても打たれるような、感覚。
 しかし、彼は投げなければならなかった。
 登録されていた選手のうちで、残る投手はナオトだけだったから。もう、彼しかいないのだ。打たれる度、ナオトは空を仰いで、息を吐き、そしてまた、腕を振った。






 あの時ほど、


 あの日ほど、あの球を捕っていたかったと思ったことはない。
 妙にはっきりと思い出して、タカヒサは、ナオトに気取られないように息を詰める。
 当時、ベンチ入りを逃したタカヒサは、スタンドから彼を見るしかなかった。マウンドで汗を拭うナオトの姿が、痛みを伴って目に映る。
 あの苦痛、あの焦燥。
 ただ歯を食いしばるしかない、あまりのもどかしさに叫びたくなるくらいの。どうしようもなく、ただ、ナオト、と。彼の名を心の中で呼び続けた。
 そうして、ぼろぼろになった投手に、帰り道。たった一言、「ガリガリ君、奢ってやるよ」と、それだけを告げた。ナオトは頷いたと思う。
 たぶん、一緒に食べたアイスは冷たかったと思うが、タカヒサの記憶にはない。




 ただ、ぜったいに、一日でも早く正捕手になるのだと、
 そう誓った日だった。




 練習量は倍加したが、それはタカヒサの苦にならなかった。やらねばならないことだったから。
 そしてナオトも、少し変わった。
 それまでは才能に任せていた部分が大きかったが、あの日以降、練習に対する姿勢がずっと真摯になった。そして一年半後、今年の春、件の強豪校には雪辱を果たす。
 あの日の喜びは、ちょっと言葉では言い表せない。「見たか!」と、拳を突き上げたい気分を押さえ込んで、最後の一球を強く掴んだ感触を、まだ覚えている。
 が、そういえばナオトと喜びあっていない気がして、タカヒサは改めてぞっとした。
 なるほど、最後の最後で負けるわけだ…




「今日は、俺がガリガリ君、奢ってやる」
「へ?」
 物思いに沈んでいたタカヒサは、そんなナオトの声に唐突に引き戻される。いま、彼はいったい何を言った? ガリガリ君? それは確か、あの時の。
 …どういう風の吹き回しだ?
 冗談抜きで、彼に奢ってもらったことは三年間、一度もない。あまりの意外さに、タカヒサはちょっと答えを失う。だいたい「奢ってやる」って、何だよ… と。プライドが高いのはエース向きの資質だが、この高慢でさえある相棒の提案に、タカヒサは戸惑った。
 何故か。


 空の色、か?


 この透き通った色に触発された、なんらかの感情の発露なのだろうか?
 …そうやって、小難しく考えすぎる癖は、真ん中の姉譲りで、悪い癖だった。タカヒサは反省し、頭を一つ振って切り替える。
 ただ、ナオトも思い出したのだ、あの日の帰り道を。
 それだけであっても勿論、それで十分なのだから。


「おお、サンキュ… と、言いたいとこだけど」
「だけど?」
「俺、今はピザまんのがいい」
「はあ? おまえ、それ、奢られるヤツの台詞か?」
「だって、アイスは寒くねえ?」
「…さ、寒くねえよ!」
「寒いって、もう来週11月だろ」


 言い合いながら、ふたりはキャッチボールを止め、家路についた。
 本格的に夕暮れる街で、一歩先を歩くエースの背中を見ながら、タカヒサの胸を影がふっと過ぎる。




 あと何球、彼の球を受けられるのだろうか?




 いや。
 そんな風に考えるのは止めよう、と、タカヒサは自分に首を振る。
 望めば、まだ何球も受けられるのだ、自分は。


 あのマウンドではなくとも。






 だからまた ふたりで キャッチボールを























 みらっち、お疲れさま。
2010.1.21収録



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