対岸の夏









 雨の匂いがする。




 一時、熱されたアスファルトが雨の気配を孕んで匂う、あの独特の薫りだ。
 修一郎は、水の中に落ちた一滴の墨汁のようなそれを感知した瞬間、「懐かしい」と思った。そうして、そう感じたこと自体に驚いて僅かに怯む。
 何だこれは、と、シュウイチは自分自身を訝って結局、


 その、か細い薫りを思いきり吸い込んだ。






 シュウイチは、それほど練習が好きではなかった。
 でもそれ以前に雨は嫌いだった。(練習はそうでもないが、野球は好きだからだ。)それで雨の中の練習はイヤの二乗になり、雨の気配だけで気分はローになる。
 なのに、「雨の匂い」に懐古を感じ取り、その香を味わう自分にシュウイチは内心、首を傾げる。第一、都会生まれのシュウイチが「雨の匂い」を嗅ぎ分けられるようになったのは、恐らくかなり最近のことなのだ。
 実は、都会は意外なほど無臭だ。無臭と言うより没個性的なのだ。こんなにヒトも建物も乗り物も多いのに、どの街も同じ「都会のにおい」しかしない。
 逆に言えば、シュウイチ自身が地方の野球強豪校に進学して寮暮らしをするまで、ずっとその都会の匂いしか知らなかったのだが。


 なのに、このかぐわしいとは言えない薫りが、懐かしくて堪らなかった。


 まだ、
 風が、雨が、陽の光が「薫る」のだと、初めて知ったときの衝撃が遠くないからか。
 あの圧倒的な力といったら。
 そして、更にむせ返るような濃い雨の匂いが艶やかに甦って、軽く眩暈を感じる。シュウイチは思わずぎゅっと目を閉じて眉間を摘む。
 最初に瞼の裏に翻ったのは、鮮烈な緑だ。


 しらなかった。 
 世界がこれほど豊かな色彩と陰影に満ち、実に尊いものだと、シュウイチはずっとずっと知らないでいた。誰が何をしなくもて、毎日はとても美しいのだとようやく知ったのは高一の春だっと思う。入学直後から未体験のことばかりで時も景色も瞬く間に過ぎ、彼がようよう息を吐いたのは黄金週間を過ぎて暫くした頃だった。
 その日、シュウイチはグラウンド整備中、ふと手を止めて、何気なく校庭の外を見た。気付けば、花の季節は名残さえなく、朝陽を全身に受けた若葉がきらきらと光を弾いていた。
 はっ、とした。
 「緑」という色を、初めて見た気がするほど。
 都会では絶対に触れることのない、猛々しい美しさがあった。




 そして最期に見た、彼の場所から見た風景も思い出す。
 高く広い青いあおい、一点の曇もない空に、白く銀傘が光った。高くそびえるスタンドも、敢然と建つスコアボードも、熱風に翻る深紅の旗も。手が届くようでいて、とうとうその手では掴めなかった。それでもシュウイチの全ては満たされていて、全てがたまらなく愛おしかった。
 
 せかいはまちがいなくかがやいていた


 あの時は。






「おいシュウイチ、聞いてるか?」
 かけられた声に、シュウイチははっと我に返る。
 瞬時に幻は掻き消え、目の前の画像は都心の大交差点に戻る。隣ではチームメイトの大樹が訝るようにこちらを見ていた。何を言われたのかは全く解らない。自分が何をしていたのかも。
「…あ、わりぃ、寝ぼけてた」
「はあ? 立ったまま寝んのかよ、器用だな」
「だよなぁ、俺も初めてやった」
「初めてなのかよ!」
 あっけらかんと笑ってみせれば、相手もからからと笑った。ただ、シュウイチの脳裏から、さっき甦った鮮やかな記憶の余韻が消えないでいる。
 野球部連中の会話を続けるのもしんどくて、シュウイチはとりあえず別の話題を振った。
「雨になるな」
 すると、すぐに方々で声が弾ける。
「だな。今日は室内かあ」
「ダッシュ増えんだよな、ううっ、やりたくねえ」
「あと中のブルペン、投げにくい気ィすんだけど」
「ま、外とは感覚、違うかんなァ」
「光もライトだしなー」
 そんな声に相槌を打ちつつ、シュウイチはゆったりと対岸を見渡す、と。一人の青年と目が合った、気がした。瞬間、相手はすっと目を逸らしてしまう。
 見られていた?
 同じ年頃だろうか、大学生には違いない。別に珍しいことではなく、見知らぬ人間の視線には慣れていた。去年の夏に比べれば、大したことでもない。
 ただ、


  どこかで、みたか?


 彼の横顔に、不意にシュウイチはそう思った。
 もう一度青年を見直す。そして断定する、野球部だ。この手の勘は外れない。ならばシュウイチを知らない可能性の方が低いだろう。しかし、今はシュウイチの方に覚えがあるのだ。
 他大学のチームにいただろうか? まずそう思って、シュウイチはダイキを振り向く。
「なあ、あっちに」
「なあ、シュウもそう思うだろ?」
 同時に発声して、二人は「え」という顔になる。一瞬の攻防があり、シュウイチはダイキに先を促した。
「だからさ、後藤さんと岩佐さんだったら、」
 その声にふんふんと頷きながら、シュウイチは”たぶん違うだろう”と内心、頭を振る。対岸に居る彼の記憶は、最近のものではない。ということは…




 ゆらりと立ち上る陽炎だろうか。
 蝉さえ鳴かないような苛烈さだったな、と。いきなり、シュウイチはそんなことを思い出した。
 あれはいつの記憶だろう?
 気が狂いそうなほどの熱風、ぎらぎらというより、正に炎のような神々しさと酷薄さをもって向けられた陽の光。顔を上げ、息を吸うことさえ憚られるような、猛烈な夏だった。
 ただ「夏」が具現化したとしか言いようがない。
 あまりに強くて激しくて、美しすぎた。
 しかし、シュウイチがそれに気付いたのは、あの場所を下りた後だったのだ。


  あれは、いつだった?


 マウンドに立っていたときには気付かなかった。
 だのにあの瞬間、見上げた空の眩しさに耐えられず、シュウイチは思わず顔を背けた。帽子を取れば汗がどっと流れ、手の甲で拭えば、肌の熱に痛みさえ覚えた。
 体が途方もなく重く感じ、うっすらと周囲が暗くなった。
 真夏の炎天下だというのに!
 相方がかけてくれた言葉は意味を成さずに崩れて、キャプテンの顔はぐにゃりと歪んだ。


  あれは、なんだったった…?




 ダメだ、思い出せない。
 再び、シュウイチの目の前を白すぎる雲と碧い空の残像が翻って、消えた。






「あ、やべっ」
「来たなー」
 物思いに沈んでいたシュウイチは、誰かの声につられて空を見上げた。
 雨だ。
 とうとう堪えきれず、空の両手から雫がこぼれ始める。見上げれば、まばらに、しかしひゅっと直線を残して、雨粒が跳んでくるのが見えた。
 降り出した雨に、周囲がざわつく。いそいそと傘を取り出す人、物陰に身を寄せる人、進路を変える人のそれぞれの動きが、ビー玉のようだ。
 一方、雨雲相手に口々に文句を言うが、シュウイチを始め、チームメイトはその場に止まって傘を差そうとしない。だいたいが用意よく傘を携帯するメンツでもない。(体育会系男子は得てしてそういう生きものだ。) その端で、シュウイチはダイキ達の会話に適当に合わせつつ、転がるビー玉をあてどなく眺めていた。
 モノクロームの都会に咲いた色とりどりの傘の花は、変に現実感がなかった。
 だがそんな曖昧模糊とした世界でただ一点、くっきりと明瞭な色彩が見えた。シュウイチは目を凝らす。


  なんだ?


 そうして、シュウイチは彼を再び見出した。




 「彼」はとても静かな顔で、こちらを真っ直ぐに見ていた。
 信号は今まさに替わろうとしており、彼が正面を向くのはごく自然なことではあった。が、そうではない。彼はシュウイチを観ていたのだ。
 淡々と、ただまっすぐに。
 その視線に圧されて、シュウイチは眉根を寄せる。


 信号が青になる。
 車の往来が終わり、一拍の空白の後に、人々が歩き出す。
 正体の分からないざわめきの中、シュウイチは周囲の動きによって横断歩道に押し出された。濡れ始めたアスファルトを踏んでいるはずの足は、何故か抵抗が少ない。彼も人波にあわせて動き出すのが見える。少しずつ、近付く。
 隣を歩いていたはずのチームメイト達は先に進み、離れていく。
 雨が、すこし強くなった。
 対岸の先頭と、此岸の先頭の人影が交差していく。
 シュウイチも改めて彼を見詰める。
 視線が合う。


 ゆっくりと、距離が縮まる。
 いくつもの人影が二人の間をすり抜けていくが、はっきりと二人、見つめ合ったままに、




 ただ、すれ違う。




 二人が静かに交差する寸前、彼はシュウイチから視線を外して少し、俯いた。
 そしてほんのりと、


 わらった






  嗚呼、やっぱり


 俺はその柔らかな微笑みを知っている、と。
 横断歩道の真ん中で、シュウイチは立ち止まる。その刹那、記憶が溢れ出した。
 倒れたコップの水のように、広がる、ひろがる。




 あふれる






 それまでのコトはうろ覚えだ。
 全て無意識のうちに動いていたからだろうとは、後になってから思ったことだ。気付けば駆け寄ってきた相方のケンジは青い顔で、主将のマコトの笑顔はひしゃげていた。ファーストのリョウスケなんて、殆ど泣きそうだ。
 どうして、と。
 そう思った。どうしてだと。何でみんなそんな、負けそうな貌をしてるのか。


 まだ俺は、投げられるのに。


 だからシュウイチにはタイムの意味も、よく分からなかった。
 たかだか一点じゃないかと思った。裏をかかれて成功したプッシュバント、躊躇いのない走塁、クロスプレイに僅かに逸れた返球、酷くありがちなパターンだ。
 だが、たかが一点なのだ。
 シュウイチは僅かに首を傾げる。回は終盤、こちらの優勢に変わりはない。
 なのに何故だ? チームメイトがこれほど動揺している理由が、シュウイチには全く理解できていなかった。だから、
「大丈夫だろ」
 そう言って鼻で笑った。
 それでも、皆がどこか困ったような表情をしていることが、むしろ腹立たしかった。


 そして次のアウトをどうやって取ったのかも、覚えていない。
 ノーヒット・ノーランの話だって、試合後の反省会で初めて気付いた。
 あれが『ゾーンに入った』状態だったのだと思い至ったのも、後になってからだ。なるほど、言われてみれば確かに、あの瞬間までは周囲のことは知覚できていなかった。ただただ、投げることだけが全てだったし、それ以外のことは何一つ考えていなかった。
 でも、それを脱したのはあのバントヒットのせいではない。
 そうではないのだ。




「ごめんな、ごめんな」
 ベンチに引き返す間、何度も謝るリョウスケの頭をぽかりと叩き、さっさとバッターボックスに入れと言った。彼のせいではけっしてなかった。シュウイチとケンジの粘り負けとも言えるが、この場合は相手を褒めるべきだ。
 抜群の機転だった。
 だから、単純な興味と、寧ろ僅かに驚きをもってシュウイチは振り返った。


 代打で見事、打点を上げた背番号13は、戻ったベンチでそれはもう試合に勝ったような歓待を受けていた。
 それほど背は高くないし、細身だ。代打に出る前は何処にいたっけ? と考えながら、シュウイチはナインに埋もれるようなその背中を何の感慨もなく眺めていた、はずだった。
 試合中だ早く守備につけ! とせき立てられ、三々五々、ばらけていく中で、背番号13は緩慢と言える動作でバッティンググローヴを外している。守備にはつかないのか? と訝るシュウイチの視線の先で、飛び出していくサードにぱんと背中を叩かれ、少し手を挙げていた。
 そしてメットとグローヴを控えに渡し、代わりに帽子を被るとそこで一度、スコアボードを振り仰ぐ。
 そこには「1」が。
 行儀良くゼロが並んだ中に、たった一つ、きりりと立つ数字を、


 彼は、実に目映そうに眺めて。




 微笑んだ




 その、かすかな…
 あるかなしかのささやかな笑みは、だが、彼の充足と誇りのためにくっきりと輝いて。
 あの、まるで初めて緑を知覚した朝と同じに。


 シュウイチの視界は暗転した。






 その瞬間、ふっつりと、シュウイチの中で音がしたのだ。
 集中が切れた。ゾーンを脱し、自分の意識が「戻って来た」感覚。あの途方もない脱力感と、燃えるような…悔恨。


  やられた…!!


 はらわたが煮えくり返るというのは、たぶんあの気持のことを言うのだ。
 悔しくて、くやしくてしかたなかった。
 そして同時に気付く、頬が熱くなるほどの羞恥。
 たかが、と、侮っていた。たかが地方大会と思っていたのだ。己の傲慢さに、胃がきゅっと縮こまった。何を考えていたのだ、自分は。己を過信し、「今」を疎かにするとはなんたる不遜、そして油断。
 何を考えていたのだ。
 自分自身を殴りつけたい気分に、シュウイチは頭を抱えた。


 結局、その試合、シュウイチは再びマウンドに上がれなかった。
 集中力の断絶を監督には見抜かれていたし、極度の疲労感で現実的に続投は無理だった。
 またもやリョウスケとケンジの謝罪攻撃にあったが、そんなんじゃないと真剣にはねつけた。そうでは、ないのだ。
 それに、多分に一番強く感じたのは、悔しさでも恥ずかしさでもなく、


 楽しそうだったな、と。


 何より、シュウイチは羨ましかったのだ。
 あの背番号13の彼が。
 本当に、ほんとうに満足そうに笑って、あの空と大地に胸を張って立っているのが。
 野球を愛しているのが。




  うらやましくてたまらなかったのだ




 ああいう風に野球がしたかった
 ただ純粋なきもちで
 真っ直ぐ前を向いて


 だから、どうしても負けたくなかった。






 そうして、シュウイチは目を覚ました。
 その後の活躍は周知の通りだ。あっという間に駆け上った頂上決戦、僅かに届かなかった優勝旗。結局、ノーヒット・ノーランも幻に終わった。それでも満たされていた。


 彼は取り戻したのだから。
 あの日、出会わなければきっと、忘れたままだった。








  パァーン!!


 高々とクラクションを鳴らされて、シュウイチは我に返る。
 彼は横断歩道のど真ん中で立ち尽くしたままで、信号は赤に変わっていた。シュウイチは弾かれるように駆け出した。踵を返して。
「おい、シュウイチ?!」
 ダイキの声が聞こえたような気がするが、無視して駆ける。全速力で。
 強くなった雨も気にならない。
 飛ぶように走る。
 早く追いつかないと、見失ってしまう。
 いま喪えば、二度と届かない。
 細身の背中が見える。
 近付いていく。






 あと、50センチ。























 名前がいつにも増して適当です…
 気の毒なのはチームメイトの皆さんですね−。

2011.1.8



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