続ひだりきき・鋏  


















「何故、我々はこれほど虐げられなければならないのか!?」


 出し抜けに響いた声に、高野聖(こうのたかし)捕手は僅かに顔を上げる。
 声から誰の言葉かは解るが、その意図は当然ながらまったく解らない。だいたい、声の主が「虐げられている」という状況は想像がつかなかった。タカシは無言でロッカーの片付けを続けた。他のポジションに比べて、キャッチャーはどうしてもモノが多くなる。
 一方、ロッカールームの逆側では左腕のルーキー・赤谷祐輔が同期、といっても年下の右腕コンビに熱弁を振るっていた。元から仲が良いせいもあるが、チームの投手陣で一番の下っ端な彼らは練習後の雑用ついでによくじゃれている。
「だいたいな、書道に始まって、エレベータのボタンに自動改札、ドライブスルーもETCも何もかもが! 右利き用なんや!!」
 この世界に神も仏もいないのか、と言い募る赤谷に、「言われてみればそうっすね」と鈴木健人が頷いている。
「でもまあ… しょうがないっていうか… 右利きの方が多いですから」
「そこだ! 右利きが多いゆうてもな、左利きかて一割はおるんやで」
「え、そうなんすか? 思ったより多いなー」
 驚くケントに、せやなあ、と相方の小林穂高が同意したが、ふっと思い出したように付け加えた。
「そういや、左利きはストレスが多いから寿命短いて聞いたことが…」
「マジか!? ひどくね?!」
「いやあ、祐輔さんは大丈夫じゃないですか… ストレスとか…」
「なんでや?」
 ケントの正直すぎる感想に、柳眉を逆立てた祐輔をいなすように穂高が問いを重ねた。
「でもリアルで困ってたんと違います? 書道とか」
「ちょう困った。でな、筆では右で書けるようになった」
「ええっ?! すげえ」「かっけー」
「そういうの多いんやで、左利きは。こっちが対応せなあかん。ある程度、両方使えるようになんの」
 良い反応を見せる後輩達に、祐輔はほとんど誇らしげに続ける。こうも自信満々に話すことでもないだろうが、まあこれくらいは愛嬌だろう、とタカシは放っておいた。
「そういや、ハサミもほんとは右利き用らしいっすね」
「そう!! そうなんや! あれなんかマジ、すっげー使うのに、ぜんぜん左利きに優しくない!」
 穂高の言葉に食いつくように同意した祐輔だが、ちょうど入ってきたバッテリーコーチに呼ばれ、ケント共々出て行ってしまう。残された穂高は、のほほんとひらひらと手を振っていた。


 さて、とタカシは頃合いを見計らって穂高に声を掛けた。
「左利き用のハサミってのがあんのか?」
「は、はい、あるんです。なんか、刃の噛み合わせが違うてて」
 へえ、とタカシが顎を引くと、「普通のハサミがこういう方向なら、左利きのは…」と穂高は真面目に解説する。この生真面目さは美徳だが、情報の出所を予測するとただ感心するのも癪に障った。
「ずいぶん詳しいな」
 あっさりと、ただ興味があることを示す口調でタカシが合いの手を入れると、彼は少しはにかんだ。
「前に… 高校の頃、左利き用のハサミみかけて、買うたんです」
 だろうと思った。
 とは、さすがに言わない。タカシは何の気なしに荷物をまとめるふりをしつつ、そうか、とだけ応える。
「圭一郎がすっごく喜んで、教えてくれました。普通のハサミ使うのも大変なんだって」
 この、彼の日常会話に『柳澤圭一郎』が登場する確率たるや、おそらく7割近いのではないだろうか。自然にだいたいの話題が柳澤に収束する。入団してからまだ一年とはいえ、多い。多過ぎる。無意識なのだろうが、否、自覚していたらその方が問題だが、とにかくこの法則は学会で発表すべきではないか? と、タカシは僅かに眉根を寄せた。もちろん、後輩は気付かない。
 どのようにして思い出話を切り上げるか、というタカシの思惑を他所に、穂高はすこし俯いた。
「羨ましかったんです。左利き」
 ぽつんと。
 静寂の手触りが解るほど、細やかに零れた呟きだった。
「あと、背番号1とか」


  ああ


 その… 切実な、あまりに切実な。
 この素材と実力の投手が、高校の部活でエースナンバを獲れないということが起こり得るとすれば、それは、残酷な。
「高三の春に、紅白戦やったんです。圭一郎のと俺のと、二チームに分かれて。結果は、お互い被安打1で。でも、1-0で圭一郎のチームが勝ちました」
 春の背番号も11で、相方が1だと決まってはいたけれど。それ以上に。
「はっきり、抜かれた、って思うたんです」
 入学当初から、常に一歩先んじてきた自信があった。なのに、あの時。「きっと、圭一郎も『抜いた』と思ったんやないかと」と、さらさらと語る声は、タカシの胸にちりちりと刺さった。酷く細くて小さい、針のような雪に似て。
「卒業まで… 逃げて、逃げ切るつもりだったのに」
 そう言って、穂高は微笑んだ。
 確か二年の冬から春にかけて、穂高は故障で調整が遅れたはずだ。タカシは大脳からその情報を引き出したが、そんな事情もあまり意味がなかっただろう。
 背番号1を背負った者と背負えなかった者。その違いも、その理由も、全部わかっていたし、ぜんぶ解っていなかった。それでも、どうしようもなく支え合って、世界の中心に立っていたのだ。
 揺れもせで。


 それがエースの矜持。
 それこそ、エースの本懐。


 タカシは穂高に気付かれないよう、そっと息を吐いた。
 その孤独、を、共有できなかったことを残念に思う必要はない。タカシは自分自身に確認する。それは投手にのみ許された孤独だ。
 それにおそらく、この少年はおそろしいワガママを言っている。ありえないほど贅沢な我が儘を。
「この罰当たりが… 全国80,000人の高校球児に謝れ」
「は?」
 国体胴上げ投手になっといて残念がってんじゃねぇ、という続きは飲み込んだ。彼らはもう、そんな過去に囚われている場合ではないのだ。おそらく二人共に。
 タカシは殊更、呆れたような声をつくった。
「つうか、お前、左利き以前に、普通のハサミだって満足に使えないだろ」
「え、ええっ?! いや、つ、使えますよ!」
 思いがけない指摘に戸惑う穂高に、やれやれ、といった風情で答える。
「なら、なんの目印もない画用紙、真っ直ぐ切れるか? ハサミって意外と難しい道具なんだぞ」
 き、切れる思います、と、彼がまだ真剣な顔で抗弁するので、「ほーう。じゃあやってみろ」と、タカシは穂高を促してロッカールームを出て行く。




 新しい、ハサミの思い出をつくれば良いのだ。
 この春に。






























2017.5.5収録



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