残照ヒロイズム


















「まあ、出番が急に訪れるから代打なんだよな」


 平然と言い放った先輩に、時任は絶句した。
「お前くらいにしか頼めないんだよ。写真も上手いし、身体も丈夫だし、運動神経いいし」
「いやちょっと待って下さいよ! 後半は関係なくないですか?!」
 大丈夫だ、と軽く肩を叩いて、「じゃあよろしく」と先輩はさっさと新幹線に乗り込んでしまった。
 梅田駅中央改札で、時任は「東京戻ったらゼッタイおごれよ…!」とスマホを握り締めたのだった。


 大阪では東京より一足遅く、桜の開花宣言が出た日の話であった。




 元はといえば、悪いのは全てインフルエンザウイルスである。
 時任の職場は某大手新聞社系列の出版社だ。もともとそちらで就職を目指していたのが、縁があって出版業界に身を置いている。新聞記者より性に合っていたのだろう。
 というところで、親会社は巨大グループだけあって系列のスポーツ新聞もあるが、その大阪支局で今月に入ってインフルエンザが大流行、プロ野球のシーズン開幕で取材も多いところがてんやわんやとなった。更には関西ではセンバツと甲子園が本拠地の球団に人が割かれがちで、とうとう京セラに人が出せなくなった。その折りに偶然、大阪で仕事のあった先輩が同期を通して泣きつかれ、写真には定評のある時任が代打に出された、という話だ。
 ので、本当に、真の、間違いなく、ただの代打である。


 だからって、都合よく使いやがって…!


 腹の中で毒づく。しかしちゃんと手と足が動いているあたり、元来、真面目な男である。
 もちろん、プロであれば代打の準備を怠らないのだろうが、それは野球の話だ。実生活での代打といえばたいがいは想定外の事態で、緊急出動である。時任の得物も私物のデジイチで、カメラマンとしては物足りない様な気がする。
 ちなみに、写真に詳しくなったのは出版が小所帯なのもあるし、そこで知り合った大学の先輩でライターの戸嶋結佳と親しくなりたい下心… いや、男心であった。しかしキッチリ勉強しているうち、本当に楽しくなって、結佳にも褒められる程度になったのだからたいしたものだ。好きこそものの上手なれ。
 本当に、真面目な男なのだ。
 とりあえずとスポーツ新聞の担当者とスマホでやり取りしつつ、ドームに向かったのだが、その入り口で懐かしい再会があった。


「時任? 時任か?!」
 名を呼ばれて振り返れば、見知った顔がある。
「布川さん!」
「いや久しぶりだな、N先生の退官のとき以来か?」
 爽やかに片手を上げて挨拶してきたのはT大の先輩・布川で、時任とは同じ学科、体育会でも顔を合わせる間柄だった。マスコミ就職を目指していた縁で、学生時代はお世話になったものだ。
「布川さんはなんで、って、お仕事ですよね」
「そらそうだ」
 あははは、と快活に笑った布川は、T大硬式野球部出身のキャリアを活かし、在京キー局に就職していた。当時、球を受けていたエースがT大から十数年ぶりのプロ入りを果たした所為もあったかもしれないが、キャッチャーらしい記憶力と分析力で、スポーツニュースでも活躍している。
 しかし、いつの間に大阪に来ていたのか…
「いつからこっちなんですか?」
「去年の秋からだよ。関西、けっこう楽しいぞ?」
 なんせ食い物が美味い! と布川は真顔で言う。
 はあ、そうですか、と答えながら、醤油味が足りない感じのする時任としては話半分である。そういえば、希望したわけではなく京都に来たが、そのまますっかり居ついた友人の顔も思い出した。水が合う人間もいるのだろうとも思い直す。
「てか、時任こそなんでここに? おまえ出版だったよな?」
 そこで改めて時任は経緯を布川に説明する。途中からにやにやしだした布川は、とうとう最後は大笑いした。
「ほんとにお人好しだよ、おまえは」
「編集者の鏡って云って下さいよ」
 まあ恩は売っておいて損はないけどな、と意外に殊勝なことを言う布川は、それでも自分のところのスタッフに声を掛け、時任を紹介してくれた。面通しが早く済んだおかげでだいぶやりやすい。
 ありがたく球場ルールの教えを請うていると、布川が「あっ」と声を上げた。
「そうだ、時任、たしかバド部だったよな?」
「はあ、そうですね」
 駒場にいるときは毎日ラケットを振っていたが、最近ではすっかりご無沙汰である。
「バド部にいたろ、おまえと仲良かった物理の、すっげえイケメンの」
「…山科ですか?」
 物理でイケメン、とくれば、同期の山科しか居ない。
「そうそう、山科と最近、会ったんだよ」
「え? あ、ああ、あいつ、いまK大ですから、大阪にも来てるんですよね」
 そういえばしばらく前、結佳も中之島で会ったと言っていた。博士課程を修了し、今年から大阪の大学で講義を担当するという話も聞いたし、大阪で出くわしても不思議ではない。
 が。
「じゃなくて、ここで」
「…えっ?」
 ここって、球場で…? と時任が聞き返す前に、布川は廊下を歩く数人の選手を見つけると声を張った。


「高野さーん!」
 振り返ったのは、スポーツ選手にしては細身だが理知的な面持ちの選手で、身に付けたレガースとミットからキャッチャーと解る。布川が「MのOB、高野さん」と小声で教えてくれる。ということは、神宮では布川と同じく扇の要を担っていたということか。
 布川は時任の腕を引くと、高野に紹介した。
「こいつ、○○出版の編集者で、山科の友だちです」
「…ガリレオ先生の?」
 高野捕手は少し眉を顰めて、そう聞き返した。
 ざわっ、隣りにいた選手だけではなく、近くのスタッフまでもがこらを向いた。なんだ?
「ええ。俺のT大の後輩なんすけど、バドミントン部で、山科と仲良くて」
「バドミントン?」
「あ、はい、同期で… いっしょにダブルスも組んでたんで」
 バドミントン! リアルガリレオやんな! と周りのひそひそ声にかなり引き気味になる時任だったが、高野捕手はほほうと感心したような声を上げた。この、ガリレオ先生とは山科のことだろうか? 時任が尋ねようと口を開く寸前、
「てか、ガリレオ、K大出身やないんですか?」
 ひょいと会話に加わってきたのは綺麗な顔立ちの選手で、ユニフォームには『AKAYA』とあった。
「あ、いや、学部はT大で、指導教官にくっついて京都にきたんで… 大学院からK大なんです」
 へえええ、とまた周囲から声が上がる。この盛り上がりはなんだ?
「マジか! 先生、T大生やったんか」
「まあ、ふつーにいまも東京弁だしな。地元、東東京だったろ」
「でもT大生って、官僚になったりとか、エリートっていうか、真面目な学生さん多いんでしょ?」
「まるで今が不真面目みたいな」
「やあ、せやかてガリレオ、ちゃんとはしとるけど、ほら、なんつーか」
 赤谷の言いたいことはよく解る。学生時代の親友は、まったくなんというか、典型的な理系男子でかつ自由闊達というか、すこし… だいぶ… かなり変わっていた。美麗な見た目とのギャップも激しいので、かえって損をしていたような気がする。
「まあ、K大、馴染んでるからなあ」
「こないだ、とうとう鴨川デルタにコタツ出して鍋やったらしいですよ」
「むしろまだやってなかったのか、って感じだな」
 高野と赤谷を中心に、選手スタッフ達は楽しそうに友人をネタしている。なんだ、この妙に詳細な近況は… とますます疑問は膨らみ、とうとう時任は口を挟むことに成功した。
「なんで皆さん、そんなに山科のこと知ってるんですか…?」
 そこでようやく「あー」と全員が嘆息し、高野が改まった口調で説明してくれる。
「うちの小林って投手が、山科先生に家貸してるんですよ。京都にある実家が空き家になってしまったので」
「つまり、ガリレオ先生んちの大家がうちの小林なんです」
「はっ、大家さん?」
 予想だにしない関係にオウム返しになった時任だが、さらに追加情報が追い打ちをかけた。
「もともと、京都で知り合うた言うてましたけど。ガリレオ先生、変化球の実験したいっていうんで仲良うなったって」
「へ? 変化球??」
「力学、なんですかね、変化球を球種別にモデル式化するっていうので、データ取るのに付き合いましたよ」
「俺もやったんすよ、実験。んで、ファームの頃からの付き合いなんで、みんな顔見知りですね〜」
 赤谷の言葉に通りすがりのスタッフまで大きく頷くので、本当に知られているらしい。
 そんな… ことは… まったく知らなかった。確かに社会人になってから、忙しさにかまけて疎遠になっていたとはいえ、かつての相棒である。時任が絶句していると、赤谷が「おっ」と奥からやってきた人影に声を掛け、手招きする。
「ほた! ちょいこっち来い!」
 呼ばれてやってきた選手が、なんです? とのんびりした返事をした。
「これが、ガリレオ先生の大家の小林です」
 え、これって、と困惑しているのは、浅黒いがすらりとした足の長い青年だ。長い首を傾げて、なんの話ですか? と高野に問うた。 
「こちら、ガリレオ先生の友だちだそうだ」
「T大の、バドミントン部の同期って」
 赤谷の補足に、ん? ああ、と小林は大きく頷く。
「えっと、バド部の同期ゆうたら… 村井さん?」
「いえ、時任です」
 村井は同じくバド部の同期だが、会計担当の法学部生だ。今は立派に(?)弁護士をやっている。
「ああ、じゃあ文学部の」
「は、はい」
 ぽん、と小林投手は両手を打った。出版社の編集さんやってはる? とふんわりと笑う。名前と背景がすんなり出てくるということは、やはりかなり親しい間柄なのだ。時任は改めて衝撃を受ける。
 ガリレオとダブルス組んでたらしいで、という赤谷の説明には、へえ、と切れ長の目を丸くしていた。
「楓、バドミントン、上手でしょう?」
「えっ… はい、強いですね、あいつは反射神経いいし」
「ダブルスとシングルスだと、どっちがやりやすいとかあるんですか?」
「そうですね、ダブルスの方がスピードが上がりますし、守備範囲が違うので…」
 と、思い出しながらのたどたどしい時任の説明も、小林はふんふんと楽しそうに聞く。その様子を横目で見ながら、少し不思議そうに赤谷が訊いてきた。
「そういうの、ガリレオ、お前に話さへんの?」
「うーん、なんでやろ、部活の話とか昔の話はあんまり…」
 物理や研究のほうは、よう話してくれはるんですけど、と小林はやはり苦笑しながら云う。せやな、と赤谷は強く頷く。
「ニュートリノの解説とか、□□屋の店員さんまで巻き込んで講義しとったな。小テストする勢いやってん」
「そういえば毎回、おすすめメニューの黒板、勝手に消して使うから、とうとう店長、専用の黒板用意したって」
「えええ、マジか!」
「よく出禁になんねえな… ま、オレ等がよく行くからか」
「そうですねえ。あと店長の奥さんとかバイトの子らが云うには、イケメンのお客は福利厚生の一環やて」
「な、なんつーパワーワード、イケメンは福利厚生…!!」
「あー、それ、ビールの売り子さんたちも、似たようなことゆうてましたよ」
「あれだろ、ガリレオ先生にはひとり1杯ずつしか売らないって淑女協定があるって」
「なにそれ?!」
 イケメン怖ええ、という謎なテンションで盛り上がる青年たちの声を聞きながら、時任は心に誓った。
 これは早々に学生時代の相棒に連絡を取らねばならない、と。




 時任は、仕事の合間に急いで山科にメールを打った。
 そもそもまだポスドクだから院生に毛が生えたくらい(失礼)なのだが、新学期が始まる前とはいえ研究はそこそこ忙しいらしい。京都まで行くというと、お疲れさんと軽い返事が返ってきた。
 代打のついでに、こちらで出来る仕事をまとめてやっつけることにしたので、一週間ほどの関西滞在となる。タスク整理と日程調整する時任にはひとつ、引っ掛かっていることがあった。


 あの小林投手は、山科をファーストネームで呼んだ。


 時任の知る限り、相棒は自分の名前を忌み嫌っていた。
 雅で佳いじゃないか、なんせ「山科」の「楓」だ、と思うが、自身の容姿でさえ疎んじていた男である。親しい友人たちや当時のカノジョであっても、彼を名前で呼ぶ人間に心当たりはない。憚ることなく呼んでいたのはお姉さんくらいだろうか。
 そこを気軽に口にする大家さん、とは… 自分の知らない間に心変わりでもあったのだろうか? と時任は内心、首を傾げた。
 そもそも、山科はさっぱりした気質で、あんがい面倒見も良く面白い男なのだが、どこか人と距離を取っていた節がある。徹底した個人主義で、あとは理が勝ちすぎるのがらしいと言えばらしいが、冷淡な印象を与えていた。その山科が、家を借りる程度にプロ野球選手と仲が良くなるというのは想定外の話なのだ。
 気にはなったが、とりあえず今度、結佳と会ったときのネタにしよう、とデートの準備も怠らない時任は、本当に真面目な男だった。









 しかし、事態は意外な展開を迎えた。


 山科から「前倒しで、大阪で会おう」と申し出があった上、「ちょっと調べて欲しいことがある」と付け加えられ、時任は心底驚いた。そういうことを頼まれるとは思わなかったこともあるし、こちらの職を見込んでのことだと思うと頼られることもあるんだなと感慨深かった。
 花見で賑わう大阪城公園を横目に、時任は待ち合わせ場所に向かった。


 春の夕暮れの街は、何処か浮き足立っている。 
 時任が立ったままスマホでちまちま検索していると、駅の方から人が流れてくるのが解った。顔を上げると元相棒の顔が見えて、軽く手を上げる。姿勢良くこちらに歩いて来る山科の端麗な姿は、やはり人目を引いた。
 その昔、(文学部にしては)爽やかスポーツマンの部類だった時任も、山科とセットでイケメンコンビ扱いされていたが、なんちゃってな自分と違って相棒は質が違う気がする。イケメンは福利厚生、なるほど… と、時任がひとり頷いていると、久しぶりだなと向こうから声が掛かった。その声まで好いので、ため息を吐きたくなった時任の挨拶も反射的になる。
「ガリレオ先生、お元気そうで何より」
「その呼び方、いいかげんどうかと思うんだがな」
 山科が形のいい眉を顰めるが、導入なしでその返しが来ると言うことは、先日の球場での件は聞き知っているのだろう。本当に友だち付き合いをしているのか、と気後れするのが半分、知らなかった悔しさが半分。ついつい時任の物言いもちょっと棘が混じる。
「なんかおまえ、大人気だったぞ。飲み屋で集中講義してるって」
「は? 部外者と何話してんだ、あいつらは」
 まあいいか、じゃああそこ行くか、今日は居ないだろうし、とすたすたと先を行く山科に、こういう機微が伝わらないのは相変わらずだと、そこにかえって安堵する時任だった。




 居酒屋では本当に歓待された。
 おや先生、今日は珍しい、新しい先生ですか? こちらもシュッとしてはるわあ。え、学生時代のお友だち? あらあら、と、何も言わなくても大体の準備が整って、ものの数分で二人の前に生ビールが置かれていた。
 ナチュラルに灰皿を片付ける山科を横目に、今のうちにイニシアティブをと時任は切り出した。
「そういや、タバコ辞めたんだって?」
「だいぶ前の話だな、そりゃ」
「え、だって結佳さんが…」
 時任が言いかけるとすかさず、山科はジョッキを掲げた。
「お、ようやく戸嶋さんへのアプローチが成功したか、おめでとう」
「…あ、ありがとう」
「おまえにカメラの選び方を訊かれたあたりで、どうかなとは思ってたがやっとか。何年かかってんだまったく」
「いや、その、なんだ、その節はお世話に…」
 そこじゃない、と思いつつ乾杯されてしまった。勘付かれるのはいいとして、「ようやく」とか「成功」とか10秒程度で判定されてしまうあたり、どうにも情けない。豪快にジョッキを煽る山科の傍ら、時任はちびちびとビールを啜った。
「ちゃんと愛想尽かされないようにしとけよ、おまえには勿体ない人だし」
「はい、がんばります…」
 それも分かるので思わず決意表明してしまう。昔から、相棒と話すときにペースが握れた試しはないのだ。時任は軽くため息を吐いてから、ナスの味噌田楽に手をつけて仕切り直した。
「にしても、なんでタバコ辞めたんだ?」
「ダメなのは当たり前だろ、アスリートなんだから」
 ああ、大家さんの要望… と頷くも、一瞬、脳裏をかすめるものがあったが捕まらなかった。あれ? と思いつつも、飲んでる間くらい我慢できるよな、と勝手に話を進める山科に、とりあえずメニューの希望を伝えるうち、その件は時任の思考から押し出されてしまった。
「そもそも、なんでプロ野球選手と友だちになったわけ?」
「いや、最初は知らなかったんだ、まさかプロとは」
 ほとんど詐欺だよな、あれは、と愚痴っているのに楽しそうな顔で、ガリレオ先生は卯の花など摘まんでいる。そういえば、『大家さん』こと小林投手もそうだった、と時任は思い出す。ふたり、お互いの話をする際、どこか嬉しそうなのだ。
 妙に柔らかな表情の山科を眺めながら、時任は揚げ出し豆腐をつつく。
「それでも普通に生活してたら会わないだろ。歩いてたらぶつかったのかよ」
「ああ、近い近い、バイト先で偶然… で、ピッチャーだっていうから、ちょっとな」
「なんだよそれ。おまえ、野球とか興味なかったじゃんか」
「あの頃はまあ、競技としてはな。でも、ちょうど投手を探してたんだよ。あいつ、二軍暮らしだったし、高校野球ファンくらいにしか知られてなかったし…7年前くらいか?」
 そんなに前からなのか、という驚きを隠しつつ、ざっくり調べた小林穂高投手の来歴を思い出す。XX年甲子園優勝校のWエースといえば、時任にもうっすら記憶にあった。二枚看板の片割れ、柳澤圭一郎の方は都心のメトロに乗れば中吊り広告でも見かける。
「ピッチャーって、たしか変化球の研究がなんとかって聞いたけど」
「そうそう、変化球の原理は解るか? 投げられたボールが描く放物線を式で表すわけだが、そこで球種別に…」
「ちょっと待った! それ時間掛かるヤツ?」
「ひとコマ分くらいじゃねえか?」
「じゃあ今度でいいから!」
 それ話してたら今日終わるだろ、と苦言を呈する時任に、まあそうだなと物理学者は残念そうに言う。こうして本来の目的を見失いがちなのも昔と変わらず、それはそれで嬉しいのだが、今回は本題がある。




 よいしょ、と時任はカバンからプリントアウトとメモを取り出した。
「頼まれてた件、ざっと調べてみた」
「おう、サンクス。忙しいとこ悪いな」
 の前に、とビールのお代わりを頼んでから、肴をわらわらとどけてスペースを作る。
「本社の担当者に聞いたけど、事件の概要は新聞とネットニュースのまんまだって。こういうのは支局に当たった方がもう少し詳しいことが分かるんだだけど、間に合わなかった」
「いや、わざわざすまん」
「スポーツの方でも聞いて貰ったのがこっちで」
 ばらばらと打ち出しとメモを広げながら、二人で覗き込む。
 山科からの頼み事は、つい一昨日、犯人逮捕が報道された強盗傷害事件の詳細についてだった。
 首都圏のベッドタウン、その地区では有名な素封家に、不在時を狙って侵入した犯行グループだったが、運悪く老夫妻は在宅していた。出会い頭に夫を殴打して昏倒させたが、気付いた妻に騒がれたため何も盗らずに逃走。夫は顔面打撲と脳震盪、妻は捻挫と軽い擦過傷と、事件自体は単純な、残念ながらよくある事件だったのだが、特筆すべき件がひとつ。
 その強盗犯の一人が、三年前の夏の甲子園優勝校のエースだったということだ。
 事件自体は昨年の夏、優勝から丸二年後のことになる。地元警察の地道な捜査で、防犯カメラの映像から容疑者が特定され、当該事件の実行犯4人が逮捕されたと大々的に報道されたのだ。
 当然、そのニュースは界隈に衝撃を与えた。出身の優勝校の所在地は事件があったのとは別の自治体だが、そんな場所のそんな事件に、あってはならない名前が出た。時任が代打で付き合ったスポーツ紙の支局も大騒ぎだったのだ。実はその高校は先週、無事終了したセンバツに出場していたが、この件の報道が今になったのは大会への忖度ではないのかと、揣摩憶測でネットは炎上中である。
 甲子園での優勝インタビューの写真が大写しになった記事を見ながら、山科が訊く。
「ドラフト志望届は出さず、進学だったんだろ?」
「そう。1年春からリーグ戦にも出場していたらしい。ただ1年の秋には野球部を退部、間もなく大学も中退…」
 スポーツ推薦だっただろうし、部活を辞めるとなると学校にも居づらいのは想像に難くない。
 退部の原因はいじめの噂もあれば、先輩ともめて暴力沙汰になったというネットの書き込みもあった。一方では、大学野球に適応できなかった説、もしくは故障で再起不能説。どれも眉唾ではあるが、まことしやかに語られている。
「ネットの情報は玉石混交だからな」
「話半分、どころか7割減くらいだろう」
 ほんとは、本人に取材経験のある記者さんに聞けたらいいんだけど、関西じゃちょっとな、と時任はメモ書きを探し当てる。
 夏大やセンバツを仕切る新聞社や地元のニュースが主力の地方紙だと、記者本人の希望とは無関係に多かれ少なかれ、必ず高校野球の取材を経験することになる。時任の伝手の中にも関係者はいて、そのうち、その高校を取材したことのある人の証言は聞けた。
「まさか、だってさ。一番そういう事件から遠い、って」
 とにかく、当時のチームで随一の練習量を誇った大黒柱である。副主将の任も担い、誰もが「まさか」と耳を疑ったそうだ。ただ、その真逆は起こるのだ。山科はため息を吐く。
「スポーツで人格形成なんて嘘っぱちだな、とか書かれてたか」
「こういう事件があれば、絶対出てくるヤジだろ。外からなら何とでも言える」
 むかしから勝利至上主義や野球留学が問題視され、常に高校野球界隈はいろいろと騒がしい。大きな利権も絡むから、取材等で関わると見なくて良いところも散々目にするというのは時任にもよく解るし、実際に見聞きする話だった。ただ注目される競技だからこそ新しい動きもある。当該の高校は近年、力を付けてきた学校で、体育会系の悪習である学年の垣根のないフラットなやり方のチームだった。それが逆に伝統校である大学では裏目に出たかもしれない、という談話もあった。
「大学は中退したけど野球は続けたいって、別の場所を探していたらしい」
 四国の独立リーグを始め、社会人野球もあるし、大学に入り直してもいいわけだ。去年の秋からは母校の練習を手伝うこともあったというから、関係者の衝撃も大きかろう。何よりチームメイト、指導者、保護者の胸中を思うと、時任も口の中が苦くなる。
 ただ、部長先生に聞くと「すこし難しいところはあったんですが」と言葉を濁した、という。
「強豪校で下級生からレギュラだろ、クセがない連中なんかいねえよ」
「まあそうだ」
 時任も頷く。母校は今年初めにはセンバツ出場を決めていたし、実際に取材した記者も居るはずだ。時任も人脈を最大限に活かして探しているところだ。
 そう云うと、珍しく山科は恐縮する。
「そこまで手を煩わせるのは… ああ、でも気にはなるな」
「結佳さんにも、ちょっと心当たり聞いてもらってはいるんだけど」
「なんだよ、戸嶋さんとの話のダシかよ」
 と、そこでようやくガリレオ先生は笑った。




 しかし、何故この件をこれほど山科が気にするのか。となれば、まあ、大家さん関連しか有り得ない。
「その高校、OBのプロ選手もいるんだろ」
「あいつんところには今、いない。でも柳澤のとこにはいるな。連絡が来たらしいし」
「やなぎさわって…」
 某球団の左の看板投手が、近所の兄ちゃんのような扱いである。学生時代の相棒がプロ野球選手と友だち付き合いをしていることを改めて実感し、また距離を感じる時任だったが、山科の真剣な横顔に気付いて思わず座り直した。
 その暗い眼差しは、友人の職場の関係者による不祥事を憂う、というのとは少し違う色を帯びている。
 山科がゆっくりと口を開いた。
「会ったことがあるんだそうだ、その… 元エースに」
「え?」
「彼奴等の学校と、その子の地元が近所らしい。その縁で、優勝校のエース同士ってことで、地元紙で対談企画があったそうだ」
 あっ、と時任は息を呑む。
 あいつら、とは勿論、小林・柳澤両投手のことだろう。そして会ったことがあるというのは、小林投手とこの件の容疑者で。その、本来であれば誉れでしかない企画と、あまりに短絡的で粗雑な事件の落差に、時任は眩暈がした。
「お二人を見て、こんなエースになりたいと思った、と言われたんだと」
 堪らずビールを胃に流し込むが、ぬるい液体はまるで味がしなかった。
「その頃ならまだ小学生か… 見たんだろうな」
 野球をやっていれば、地元のチームの試合なら必ずテレビで見ただろう。それどころか、あの焼けるような熱をはらんだ空気を吸い込んで、満員のスタンドに居たのかもしれない。高校野球の熱心な地域だ、地元での凱旋パレードを見に行った可能性だってある。
 夏の頂点に立ったチームのエースたちは、野球少年の目にどんなに眩しく映ったか。
 山科も?んだジョッキを一気にあおった。
「だろうな。間違いなく、一番身近なヒーローだったんだろうさ。だから、そのとき」


 『僕も、ぜったい夏の優勝投手になろうって』


「そう決めて… そのために、とにかく練習したんだと」
 自分たちと同じ様に、同じ夢を追いかけて、夢を叶えた少年を、かつての少年達はどんな思いで。


 どんな昨日で
 どんな明日を


 それが、なぜ


 店のドアが開く音がして、「こんばんは」「いらっしゃーい」と明るい声がする。
 しばらくぶりね、久々だなぁ、とか。元気だった? あいからずね、とか。また来ちゃった、この前はたしか、とか。店内で交わされる幾多の他愛ない会話のざわめきに、時任と山科の灰色の沈黙が細かい塵になって積もる。
 その当たり前で平和なルーティンのありがたさは、それを失って初めて気付くのだ。ほっとひと息吐いて、時任はぐっとジョッキを空けた。
 すいませーん、生、もう2つ! とガリレオ先生が声を上げ、店員さんが「ハイ、ただいま!」と朗らかに受ける。そのリズムに、失われたものの大きさを感じて胸が痛い。
「ああいう”場”にいると、簡単に野球が10割になっちまう」
 ぽつりと、山科が切り出した。ああ、と時任は受ける。
 スポーツエリートにありがちだが、特定の競技の英才教育を受け、子どもの頃から家庭も学校も課外活動も、毎日の生活の全てがその競技に費やされてしまうことがある。いわゆる『遊び』がないのだ。特にプロスポーツ選手やオリンピアンでは、指導者はもちろん、家族も友人も教師、親類縁者も関係者ということは珍しくない。そうなれば簡単に人生の全部、外堀まで埋まってしまう。
 柳澤が云うには、と山科は前置きすると、
「あの頃は野球しかなかった… 世界は、野球とそれ以外で出来ていた、ってな」
「…そうなんだろうな」
 まだ15歳やそこらで親元を離れて、学校とグラウンドと寮の往復だ。1年365日のほとんどを部活に費やして、それこそ遊ぶ暇などなく練習と試合に明け暮れるだろう。その日々は、その世界は、あの青い空と白い雲と緑の芝生のためにだけに。
 その努力が結実し、高校野球の頂点に立ったとして。
「そんな状況だと、故障や外的要因でその競技が続けられなくなったとき、“こちら側“に踏み止まるのは想像以上に難しいんだろう」
「だろうな。ひとは… 残念ながら、そんなに強くない」
 人間は他人の、それ以上に自分の予想よりずっと簡単に、それこそ”まさか”で、”あちら側”に滑り落ちてしまう。心が弱いとか、精神力が足りないとか、そういうレベルではないだろう。
”それ”が世界の全てなのだから。
「あいつが7年前、試合中に事故に遭ってな」
「えっ、あいつって… 小林くん?」 
 そう呼んでみると本当に友人のようで気が引けるが、その呼称は妙に彼に相応しい気もした。山科は「そう」と簡単に頷いてから、さばさばとした口調で続ける。
「折れたバットが足に刺さって、左下腿三頭筋打撲と挫創。復帰に半年以上かかった。会ったのはその頃だ」
 へえ、なるほど、と時任は頷きながら、はっと気付いた。二人が知り合うだけならともかく、相応の関わりが生じたのはその時期だからこそなのだろう。
「そっか、それでか。野球選手やってたら、フツーは昔からの付き合いじゃなければ一般人と友達にならないもんな」
「…いや、なんだろう、フツーっていうか、俺の場合は後ろ暗いな」
「は? なんで?」
 まあそれはちょっと、と珍しく言葉を濁す山科は、とにかく実験に付き合わせてたりしたんだが、と砂肝とニンニクの芽の炒め物に箸を付けた。
「切っ掛けはなんにせよ、あいつはあの時期、“あちら側”に引っぱられる隙がなかった。俺との付き合いが、外の世界の一端だったんだろう。社会の窓っていうか」
「あ、うん、それはそうなんだろうけど、その表現は違う意味があるから、他所で使わない方が無難かな」
 そうなのか? ときょとんとするイケメンに、スマホでググった結果を示す。山科は帰国子女なだけに日本のスラングには詳しくないのだ。ふんふん、とウィキ先生の解説を読んだ物理学者は感嘆を込めて云う。
「含蓄深いな、日本語」
「がんちくぶかい、が分かるのに、社会の窓が分からないのがすごいよ、ガリレオ先生」
 ついつい言わずもがなな突っ込みをしつつ、彼が言いたいことはなんとなく解る、気がした。要するに、異界との遭遇。違う価値観、別のルールで動く世界が存在する、ということをちゃんと認識するのは大事なことなのだ。
 ヒトは自分の物差しでしか世界を測ることができない。
 だがその物差しこそ、個々人のものでしかなく、外界では何の意味もない。その事実、自分がいわゆる井の中の蛙だと知ることは、本当に重要なことなのだ。なのに、けっこうな年齢であっても相応の地位にあっても、ちっともそれが出来ていないオトナなど幾らでも居る。マスメディア業界の端っこに生息していると、心底ガッカリすることがかなりの頻度であるのも事実だった。
 ため息を吐きたい気分でそんなことを考えていると、隣のガリレオ先生は意外なことを言った。


「だから、俺が居れば10割にならないだろう、とは思ったな」


 ほほう、と頷きながら、時任はどこかくすぐったいような気がした。
 いまはスポーツ選手を話題にしているが、研究者も似たようなものだろうというのが時任の所感だ。今どきは象牙の塔というほどではないだろうし、世間ズレしていないといえば聞こえがいいが、明らかに浮き世離れした世界だ。デキは良いが故にそこに籠もりがちな、ちょっと他者を寄せ付けない風の元相棒が、専門分野とは別にきちんと関われる相手がいるということは祝福すべきことだ。
 無論、そんなことは気恥ずかしくて口に出せないので、時任は代わりに一気にジョッキを飲み干して、ビールのお代わりを頼んだ。そしてそっとセロリの浅漬けを山科の方に寄せる。
「そうだな、やっぱ”外“には飢えてるのかもな。あのチームのみなさんも、おまえのことは気に入ってそうだし」
「面白がってんだろ。ま、つい野球以外の話をするのはそのせいなんだろうな」
「だからって、飲み屋の話題がニュートリノじゃなくていいと思うがナァ」
「いやすごいだろ! まず素粒子の、」
 すごいかもだけど普通しねえよ、と突っ込みなら、やっぱりコイツにも”社会の窓”が必要なのだ、と時任は胸の内で強く頷いた。
「もうちょっと物理から離れて… たとえばほら、オレ等のサークルの話とかさ」
「は? バドの話って、特に野球と近くもないし、役に立たないし」
「だからためになるとかと違って。けっこう楽しそうだったぞ、小林くん」
「…たのしそう?」
 小林投手にバドミントンのシングルスとダブルスの違い等を説明した話をすると、イケメンはせっかくの美貌をしかめている。
「ほら、大会とか合宿だって競技や学校が違えば全然違うだろ。あとチームの話もさ、野球と違って男女混合もあるし、そういう話にも興味ありそうだったぞ」
「…おまえ、何を話した?」
「いやべつに? フツーの昔ばなしだよ」
 山科はなにやら難しい顔になっている。こうやって彼が困ることは珍しい。
 ようやく主導権を握れたようで、時任はちょっとだけ気を取り直してメニューを開く。そう言えば、まだだし巻き卵を頼んでいなかった。学生時代から部で呑みに行けば必ず頼んでいたものだ。
「とりあえず、だし巻き卵、明太チーズと梅じそならどっちがいい?」
「好きにしろ。あ、両方頼むなよ」
「さすがにそれはしねえよ」
 そう応えると、まあフツーはそうだよなあ、普通は、と山科はくつくつと喉で笑う。
 ふつうは? 彼に二者択一を示した普通じゃない”誰か”は、両方頼んだりしたのだろうか? 時任はちょいと首を捻ったが、結局、その疑問を口にすることはなかった。
「そういや時任、いつまでこっちなんだっけ、XX日はまだ居るか?」
「えっ、日曜? まあいてもいいけど、東京に帰るだけだし」
 ふむ、と山科は考え込むと、じゃ、12時に○○駅に集合だ、と言い出した。
「試合見に来いよ」
「はっ?」
「穂高が登板する」
 そう言って、ガリレオ先生はすっと目を細めた。


 その後はお決まりの互いの近況報告に、共通の友人たちの消息。もちろん一番、結佳とのことを根掘り葉掘り聞かれ、時任はほうほうの体で帰路についた。
 途中から事情聴取っぽくなるのは何故なのか、と時任は冷や汗を拭う。現状の分析と今後の計画(?)を聞き取られ、危うくデートの傾向と対策的な話になりかけるのも、研究者はこれだからと思ったりする。そう考えると、野球選手にしてみれば山科のようなタイプはまず出会わない人種なのだろう。
 そういえば、小林投手は予想に反しておしゃべりだったな、と反芻する。甲子園優勝の野球エリートであの容貌だと、寡黙で内省的かと思えば、意外にも話し好きで聞き上手でもあった。おかげで思い出話に花が咲いたのだが…
 あれはバドミントンの話が聞きたかったのではなく、山科の学生時代の話が聞きたかったのではないか、と、時任はふとそう思った。








 日曜日、時任は付き合いよくドームへ向かった。


 いちおう、得物のデジイチも持参だ。現れた山科も自前のカメラを携えていたが、相変わらず撮影するよりはされる方が似合う佇まいである。だが彼の話の内容は6割カメラのレンズ、2割球場の設計と構造、2割が球種別の軌道分析だったので、そちらも相変わらずだった。
 また一緒に歩けば明白だ、山科は本当にチームの職員にも球場のスタッフにもあまねく知られていた。
「大人気じゃねえか、ガリレオ先生…」
「だから付き合いが長いだけだって」
 とはいえ、まあ山科本人が目立つのが最大の理由だろう。しかも相当、マメに通っていなければこうも知られないわけで、改めて感心する。そういえばこの状況で、今の恋人は文句を言わないのだろうか? と時任が首をひねったところで布川にも再会し、なんだよお前らわざわざ一緒に見に来たのか、とまたひとしきり思い出話をしたりする。
 そして、小林投手の同期だという鈴木投手と松延内野手に挨拶されたあと観客席に出ると、ぼちぼちと準備が始まっていた。キャッチボール等のために選手達が出てくる。ゆったりと動いているように見えて、その身のこなしの速さ、正確さはやはりプロ野球選手のものだろう。
 こうしてプレイできる選手は本当に一握りなのだ、と改めて実感した時任の胸は少し震えた。
 しばらくその様子を眺めていた山科もぽつりと呟く。
「野球選手にとって一番重要なことは野球が好きかどうかだ、ってのが高野さんの持論なんだと」
「至言だな」
 席あっちだから、と山科は勝手知ったる様子で進む。その後に付いていきながら、時任は気になっていたことをようやく口にした。
「小林くんは… 大丈夫なのか? あの事件の」
 それなりに、というか、かなりのショックだったはずだ。この前の情報から元相棒がどういうフォローをしたのかは解らないが、話題にはしただろうと思うと気になった。
 ああ、と山科は頷いて少し声を落とす。
「ちょっとは凹んでたがな… そう引き摺ってる場合でもないだろ、腐ってもプロだ」
「そうか…」
 厳しい世界だ、それはそうなのだろう。何ともやるせない。しかし山科はどこか忌々しそうな口調で続けた。
「ま、今日は向こうにユキノがいるしな」
「え? なんて?」
「こういうときだけは役に立つ」
 は、なにが? という時任の質問を無視した山科は、数歩歩くと顔見知りに捕まってしまう。そして何故か時任が紹介されたりするうち、あっという間に試合開始時間になったのだった。




 時任がグラウンドに現れた小林投手を見た瞬間、最初に感じたのは違和感だった。
 色黒の、きりりと引き締まった顔。
 誰だ? とさえ思った。
 同じパーツなのに、先日話したときの、どこかおっとりとした風情が何処にもない。しかし、いわゆる先発投手の鋭さと厳しさが現れた横顔に、むしろこちらの方が世間一般の小林穂高イメージなのかもしれないと思ったりもした。
 すらりとした長身がマウンドにすっくと立った。
 時任は、思わずカメラを構えて、一枚。
「うん、オトコマエ」
 頷いた時任に、しかし「どれ」と脇から液晶画面を覗き込んだガリレオ先生は断言する。
「イマイチ」
「えええええ」
 なんだよ、どこがだよ、と抗議する時任を無視して、山科は「ちょっと貸してみ」と時任のカメラをひょいと取り上げると構えた。このカメラならうんたら、とウンチクが続くかと身構えた時任だったが、予想に反して彼は無言だった。あれ、と横を向く。


 その瞬間、


 学生時代の相棒は、あの頃、試合で見せていたような、


 酷く、真剣な眼差しが


 時任は反射的に息を止めた。
 数秒の空白のあと、カシャっとシャッター音がして、ようやく時任は息を吐き出す。一方で山科は眉間に皺を寄せたまま、素早く画面を確認する。
「よし」
 と、ひとり納得したように首肯してから、カメラを時任に戻す。何だよいったい、と液晶画面を見れば、もちろん写っているのは大家さんこと小林投手だった、が。


 だれだこれは


 もう一度思った。これは誰だ?
 時任はしばし言葉を失い、試合開始の興奮にざわめく周囲から一人取り残された。どうしようもなくて結局、ひと言だけ。
「なんか… 別人みたいだな」
 それには意外な返事があった。
「別人だからな」
「は? なんだって?」
 時任が聞き返すと「中身が別人だ」とよく解らない答えが返ってきた。改めて横を向くと、醒めたような、それでもどこか哀切な山科の顔があった。曰く、
「あれは俺が知らない小林穂高だ」
 と。




 その後、周囲の熱気と売り子の熱意に巻き込まれ、試合の方はあまり記憶にない。
 確か小林投手に勝ちは付かなかったのだが、ユキノは抑えたから、いやそこだけ張り切りすぎだとか、山科を含め熱心なファンの喧々囂々なやり取りがあったような気もする。とにかく、わんこそばのように注がれたビールのせいでやっぱり記憶は曖昧なまま。
 時任は夢見心地のうちに新幹線に乗り、東京に戻ったのだった。


 大阪出張での仕事の整理をしている間、時任はふと思い立って写真をプリントアウトしてみた。
 自分が撮った小林投手と、山科が撮ったものと。
 ほとんど同じアングルの、同じ人物の写真。なのに、そこには歴然とした違いがあった。技量の差もあるだろうが、僅かな角度や明度の違い、なによりぱっと見た印象がまるで違うのだ。
「あれ、これ誰だ?」
 机の脇を通りかかったのは先日、時任に仕事を押しつけた先輩である。山科の撮った写真の方をひょいと取り上げると、しみじみと眺めている。
「○○の小林穂高、投手、です…」
「え? 小林… って、柳澤の相棒の?」
「そうです」
 先輩は彼等の高校のある県の出身で、本来、代打仕事が振られるくらいの野球好きだ。当然知っているのだろう。やー、オトナになったなー、とか近所のオジさんのような感想を述べている。それから少し首をひねって、
「へえ… こんなイケメンだったっけか」
 と言った。やはり他所から見てもそう見えるのだろう。時任は苦笑を一つ。
「格好良かったですよ… 足も長くて」
「あ、そうそう、あいつスタイル良くて、フォームがいいんだよ、ワインドアップ!」
 そういえば、それは試合のときも誰かが言っていたような気がする。セットアップはいまひとつなんだからランナーを出すな、とかヤジられていた記憶もある。
「やー、男前に育ったなあ。とにかく地味なんだよな、これならもうちっと人気が出てもいいんだけどな」
 そんな先輩の言葉を聞きながら、時任は思う。


 ひとりの投手を、びっくりするほど上手く撮る親友は、いったい何枚、彼を撮ったのだろうか。
 七年前に出会ってから、相手の同僚やスタッフにも馴染み、チームのファンにまで顔見知りが出来るくらいに。
 幾つの試合と、どんな季節を。

 お互いが、自分の世界と”外”との窓だという、彼は。
 彼と、かれは、いつから、どうして、


 どんなふうに?


 とりあえず、この写真を結佳に見せてみよう、と、時任は二枚の写真をそっと仕舞った。















































 やっと時任君主役だよ! でも結局、名前が思いつかなかったよ!www
 まさかのウイルスネタですが、そんなつもりはまったくなかったです… いや、ほんとこんな世界線、予想もしなかったので。元々、時任君に楓さんとの学生時代を語ってもらうつもりでしたが、ぼちぼち話をまとめていたら、例の事件が起きてこうなったんですけどね…(これじゃなくても本筋は変わらないんですが、ま あ) 本当にねえ、なんとも、なんとも…
 野球、好きじゃなくなったのかなあ…。゜(゜´Д`゜)゜。
2020.9.21収録



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