◇◇◇◇ もちろんぜんぶ夢物語で、ファンタジーですから!! ◇◇◇◇













  虚実インクライン


















「名乗りそびれたぁ?」


 相手の頓狂な声に、小林穂高はひゃっと首を竦めた。
「はあ… その、隠すつもりは… そのうち言おうと…」
 自らの不明は解っているので、どうしても歯切れ悪く、というか言い訳がましくなる穂高に、会話の相手、同僚かつ先輩かつ幼馴染みの赤谷祐輔は呆れたように返す。
「そりゃ、故意にとは思われへんけど。名乗りづらいのもまあ、解るけどな」
 この仕事をしていれば、易々と身分を明かすことが憚られるのも現実だ。なかなか一見さんには言えないことも多い。穂高の場合、姓だけならともかくフルネームだと相応に目立つので、いつもは地味なのをいいことに、必要が無ければスルーすることがほとんどだ。
 とはいえ。
「でも、それって信用問題になるだろ?」
 沈着かつ的確に痛いところを突いてくるのは相方の鈴木健人だ。だよなぁ、と頷きながら、穂高はよいしょっとパーカを着る。
 ペナントレースも終了し、残念ながらポストシーズンと無縁な三人は、トレーニング後、今日も今日とて寮の共有スペースでたむろっている。もうすぐ秋季キャンプだが、穂高はそれも今年に限っては無縁である。
「てか、なんで知り合ったの?」
「えっと、こないだのSさんの結婚式で…」
「ああ、京都の」
「そう」
 シニア時代のコーチが結婚することになり、シーズンから離脱していた穂高は披露宴に顔を出したのだが。というか、断り切れなかったというのが正直なところだ。
「ちょっと話す機会があって… でもそんな、続くとは思わなくて…」


  まさか、こんなことになるとは思わなかったのだ。


 のろのろと言い募る穂高を横目で見ながら、ふうん、とケントは鼻を鳴らし、祐輔は片方の眉を上げた。
「で、どんな子や。年は? 学生? 社会人?」
「カワイイ系とキレイ系ならどっち? てか、顔より胸派だっけ」
「は、はい?!」
 今度は穂高が外れた声を上げる番だった。何のハナシ? と瞬きをしていると、
「古今東西、結婚式がきっかけで付き合うってのはメジャやろ。新郎新婦の友だち同士が〜とか。てか、むしろそれ狙いの奴が多いやないか」
「やっぱそうかー。最近、妙に楽しそうに帰るなァ、と思ってたけど」
「いやいや、違います! そーいうんやのうて」
 まあ、それなら名乗り辛いのもわかるなあ、でもなあ、と勝手に話を進める二人を穂高は全力で止めた。
「ち、ちがうて! 男やし!」
「嘘つきはドロボウの始まりや」
「隠さなくていいって。てか、祐輔さん昭和っすね」
 端から信じない祐輔とケントに、穂高はぶんぶんと手を降った。
「式場の、バイトの学生さんで… そしたら、変化球のことが知りたいって」
「はあ?」
「変化球って、あの変化球?」
 予想通り、二人は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。そんな鳩は穂高も見たことがないが。それでもとにかく、穂高は正確を期して丁寧に答える。
「そう、球の… 変化球の軌道を正確に知りたい、いうて」
「きどう」
「いろんな変化球の軌道を記録できたら、球種別に式で表現出来るんやないかって、いう話で…」
 穂高の言葉に明らかに祐輔とケントが反応しない。言い直そうかとも思ったが、穂高としても他に言い様がなかった。結局、一周回って「えーと」とケントが切り出した。
「わりい、ちょっと今、意味がわからなかった」
「うん… だよな…」
 しかし大学で物理を専攻しているというその青年は、確かに最初、そう言ったのだ。
「変化球の軌道は波だっていうて… 流体力学?」
「波」
「りゅうたいりきがく」
 腕組みをするケントはともかく、明らかに祐輔は今の単語を日本語としてインプットしていなかった。どうしようか穂高が迷っていると、左の次期エースは思い切りよく言い切った。
「うん、わかった。解らないっつーことがわかった」
「正しいっすね」
「いっそカッコいいです」
 穂高にしてもきちんと理解しているわけではない。いずれにせよ、伝わるべきコトが伝わったようなので、この話題を切り上げることにした。
「だから、ちゃんとした学生さんで、真面目な話で…」
 自分の言葉に、ちりちりと火傷のような痛みが舌に残った。もちろん気のせいだ。そう、真っ当な… 至極まともな青年なのだと、誰よりも穂高自身がそのことを知っていた。
 黙り込んだ穂高に、ケントはちょっとため息を吐いてから、改まって忠告をくれる。
「まあ、詐欺とかとは違うだろうけど、早めに知らせた方がいいぞ」
「せやな。それ、別ルートでバレると相手、傷つくとちゃうか」
「ですよね…」
 祐輔の指摘も尤もだった。穂高は深く頷く。
 解っては、いるのだけれど。
 ケントが振る舞ってくれたシイタケ茶が入ったマグカップを両手で持ち、穂高はしばらく淡い琥珀色の液体に視線を落としていた。そんな彼の様子を少し、不思議そうに眺めながらも、祐輔は思い出したように訊ねた。
「そういや、足の方はどうなん?」
「ああ、そっちは順調です」
「良かったなあ」
「うん」
 そこで穂高は柔らかく笑うと、ようようシイタケ茶に口を付けた。
 芳ばしい香りがする。
「春までには戻せると、いいにゃけど」
 祈るように呟きながら、しかし穂高は違うことを考えて、いた。


  彼に、嘘を吐いた。
  たったひとつ、決定的な嘘を。






 夏の終わり、試合中に事故に遭った。


 ファームであってもシーズン後半戦の山場、チームも選手も各々の成績が掛かって、それなりに緊迫感のある試合だった。
 先発の穂高は6回二失点。まだリードしてはいるが、得点圏に走者を背負っていた。ココを抑えなければ投手の意味がない。内角にかなり厳しめに投げ込んだのは確かだが、もちろんそれは偶然で、野球の神様の悪戯だった。
 打者がなんとか打ち返した瞬間、バットが砕けて、木片が宙に舞った。しかし、穂高自身は打ち返されたボールにのみ注視していた。セカンド方向に高くバウンドし、滞空時間の長いゴロになって、これは内野安打かと眉間に力が入った瞬間、左足に衝撃を受けた。
 えっ? と呟いた気がする。次に熱と痛みが来た。
 反射的に軸足を見下ろすと、赤い斑点が見えた。なんだコレは。誰かが何かを叫んでる。よく聞こえない。キャッチの聖さんか、サードのまっちゃんか、一塁コーチャーの黒川さんか。ぐらり、と身体が傾いだ。転ぶ、と思って慌てて手をつこうとしたが、グラヴをはめたままだったことを忘れていた。左手首にも痛みが走った。
 そこでようやく、穂高は折れたバットの破片が左足に刺さったのだということに、気付いた。


  …熱い。




 傷は思いの外、重症だった。
 左手首の捻挫はごく軽症だったが、左足は折れたバットの鋭い破片が脛に突き刺さり、左下腿三頭筋打撲と挫創と診断された。
 何より軸足だ。完治する前に練習を再開し、フォームを崩すようなことがあれば目も当てられない。早々に今シーズンの戦線離脱を宣告され、焦るな、しっかり治せと監督にもコーチにも厳命され、聖もトレーナも今は休めと口を酸っぱくして繰り返した。
 素直な穂高はそれを律儀に守ってはいたが、怪我の場所が場所だけに走り込みも満足に出来ず、ストレスは募る一方だった。
 また、悪いことは重なるもので、京都に住む母方の祖父が脳梗塞で倒れた。幸い一命は取り留めたが、祖母は病院につきっきりになった。遠方に住む母は一人娘だが、仕事の都合上、父は留守が多く、まだ小学生の弟たちがいる。結果、同じ関西圏で一足早くオフになった穂高が頻繁に帰省することになった。そもそも祖父母がほとんど穂高の親代わりであったし、京都には子どもの頃から世話になっていた整形外科もあるので、球団も快く認めてくれた。
 正直、チームに居るのが辛いこともあったので、穂高は心底ほっとした。
 その素質を買われ、丁寧に育ててもらっているのは解っていた。高卒3年目、そろそろ結果を出さなければと思い、ようやく成績が気持に追いついてきた矢先の事故だ。焦らないでいる方が無理筋だった。順調にキャリアを積むケントや祐輔を始め、同僚たちが眩しくて、少し間を取りたくなると許可を取って実家に戻った。
 元来優しい祖母はもちろん、昔は厳しかった祖父も病のせいか角が取れて、自分たちのことを差し置いて穂高を労ってくれた。
 ただそれでも、不安ばかりが募っていく。


  二度と再び、あの場所に立てなくなったら、
  もし、二度と戻れなかったら?


 考えても仕方のないことは考えない。が出来れば良いのだけれど。
 寮の自室で、広い祖父母宅で、夜、一人きりになるたびに捕まりそうになる沼の淵で、穂高は窒息しそうになっていた。




 そんな頃に、その結婚式があったのだ。
 どこをどう考えても、愉快なことにならないのは解っていた。客寄せパンダには慣れているが、今の状況では心身ともに疲弊するだけだろう。身体の不調を理由に断ろうとも思ったが、新郎本人やチームの関係者には思い出と恩があるだけに、披露宴だけということで穂高も腹をくくった。
 めったに着ないダークスーツで病院に寄り、見舞いついでに祖母に袱紗の使い方や祝儀袋の書き方を教えてもらい、もろもろ世話を焼かれてから会場に向かった。なぜか顔見知りの看護師等、病院スタッフさんたちが変によそよそしかったが、気にしないことにした。スーツ姿の自分がいかに人目を引くのかなど、(普段が地味なだけに)穂高本人は知る由もない。
 式場に着いてみると、さすがに大安吉日、複数の華燭の典が同時進行中でひとの多いこと多いこと。そもそも二十そこそこで、親戚の結婚式くらいしか経験のない穂高にはだいたい全部のことが珍しかった。とりあえず会場の場所を、と思って三脚のセッティングをしているブラックスーツの男性に声を掛けたのだが。
「挙式される方のお名前は? ○○家なら、△△の間ですね」
 あっ、関東弁、と密かに思った。懐かしさが先に立つ。周囲はもちろんほぼ関西弁で(いろいろ分派があるが)、東北出身のケントも近頃はすっかりこちらの言葉がうつってきたので、東の音律はひどく新鮮に聞こえた。
「三階です。エレベータ前に案内図もありますから…」
 穂高の感慨を他所に、丁寧に教えてくれるその人は、よくよく見ればびっくりするくらい綺麗な人だった。あれ、女の人だろうかと見直すが、明らかに男性だ。身長も穂高よりは低いが170後半はあるだろう。カメラマンよりモデルの方が合うのではないか、と考えながら、長年の慣習で穂高がきちんと頭を下げると、その人はなんだか微妙な表情で「どういたしまして」と小さく応えた。
 そして無事に会場に辿り着くと、腱鞘炎になりそうなほどの握手攻撃と、笑顔がデフォルトになって初期化不可になる程度の記念撮影攻撃に耐え、穂高はなんとかその場を乗り切った。とにかく披露宴自体が過密スケジュールで、あまり深く事情を訊かれないのも幸いした。
 最後、金屏風の前に並んだ新郎新婦とそのご両親に挨拶し、記念品を手渡され、丁寧な握手を交わす。なんとかエントランスまで辿り着いたところで、危うく座り込むところだった。(ついでに優勝旗返還をこなした後輩に改めて感心した。)
 そうして、とかく縦横無尽に飲み物を勧められたので(下戸で本当に良かった)洗面所でひと息つく。真剣に顔が洗いたかったが、さすがに我慢した。更に云えば、このまま走って帰宅したいくらいだったが、まあそれも無理だろう。更に大きくため息を吐いて、さっさと帰ろうと身を反した瞬間、どん、と衝撃があった。続いて、ばさばさと紙かファイルかが落ちる音がする。
 反射的に、すみませんと口走ってから、ぶつかった相手が関東弁のカメラマンさんだ、と気付く。先ほどとはうって変わったカジュアルな格好で、この場では浮きそうなものを容姿で黙らせてる感があったし、こちらの方が馴染みが良い。ひょっとして年が近いのかも知れない。そうか、カメラマンも写真に写り込む可能性があるから仕事中はスーツなのか、というところまで考えてから穂高は我に返る。
「すみません!」
 もう一度謝って、慌てて床に散らばったものを集めようと屈んだところで、
「ああ、君か」
 と声がした。低くて好い声だなと思いながら、は? と振り仰げば、思いの外、真剣な貌があった。
「君、身長いくつ? 185? ああ、そう… なるほど」
 穂高の答えに頷きながら、やっぱ顔ちっちぇえなあ、と呟く。 
「八頭身くらいか… どうりで。君が入ると、写真の構図が狂う、てか遠近感がねじれるんだ。まあいいや、ちょっとそっちで待ってて」
 呆然とする穂高を他所に、さっさと落ちたものを拾うと穂高に手渡して、ロビーを指差した。え、あ、あの、とまごついているうちに彼はトイレに入ってしまった。仕方なく、穂高は近くのテーブルに座ると、ばらばらになった落とし物を整えることにした。
 当然のようにというか、落とし物は大小様々な写真のプリントだった。取り急ぎ向きや並びを合わせていくうち、穂高はあることに気付く。てっきり挙式や披露宴の写真かと思ったのだが、会場を撮したものでも静物が中心だったり、カップルがシルエットだったり、準備に勤しむスタッフの姿だったり。静謐で無機的な中に、研ぎ澄まされた熱を感じる。そして、とうとう別の場所の写真が続いた。鴨川や四条の京都の街、どこかの寺や鳥居、と…
「あ」
 見慣れた光景が写っていた。いや、実際には見慣れてはいないのだ、ちゃんと見たことはないから。しかし、明らかに覚えのある写真だった。
 ちょうど試合が始まろうとしているところだ。一塁側ダックアウト前に整列し、今まさに、グラウンドに飛び出そうとするナインの背中が写っている。舞台は甲子園。逸る心が列を僅かに乱し、真っ白いユニフォームの背中は朝日を受けてきらきらと輝いていた。そのユニフォームには見覚えがある。たまに練習試合が組まれていた強豪校。先日の夏大ではかなり勝ち進んだはずだから、その時の写真だろうか。ナインの背景で、銀傘の下は陽光の直線で白黒が区切られている。芝生の翠も瑞々しい夏色だった。
 うずうずと期待に揺れる背番号6や、線が硬く強張っている背番号2の少年たちの名前は知らないが、きっと知っている。そこで一際輝く、小柄な背番号1の背中も。
 試合直前特有の、緊迫と高揚の呼気まで感じられそうな。
「どうかした?」
 低い声に問われて、穂高ははっと顔を上げる。件の美貌がこちらを見下ろしていた。これらの写真はおそらく彼が撮ったものだろう。球場の写真はそれ以外に数枚あるだけで、他のモティーフより熱心に撮っているとは思えなかったが、やはり確かめずにはいられなかった。
「あの、これ、甲子園、ですか?」
「そうだよ、この夏の」
 夏の甲子園、リアルに酷暑だったな、あれはもう青少年虐待だろう、と眉間に皺を寄せてぼやく彼に「ですね」と軽く笑いながら、ふと気になって訊いてみる。
「野球、好きなんですか?」
「いいや、特には。ちょっと捜しものをね」
 それはどういう意味だろう? と思ったが、それよりも… 穂高は再びその写真に視線を戻すと、自然と口を開いていた。
 ぽつり、と、こぼれ落ちる。
 夕立の始まりの一粒に、似た。


「…試合前のこの時間が、好きでした」


 どんな試合になるかはわからないし、だいたいは想像通りにはならなかった。完勝した試合も、大敗したゲームも、ひりつくような一進一退の展開も、どうしても届かなかった一点も、それでも。試合が始まろうとしている時間がいちばん、好きだった。
「後ろからだと、こんなふうに見えるんだ…」
 フレームの外にいるであろう背番号11の少年を慈しむようにそっと、穂高はその写真を撫でた。


 この一枚には、あの時間が写っている。


「いい写真ですね」
 そう言って、穂高は微笑んだ。




「君、名前は?」
 問われて初めて、ああ、この人は俺を知らないのだ、と実感する。妙に安心した。
「こばやし、です」
「そう。じゃあ、小林くん、いま時間ある?」
 質問をされている、ということは判ったが、何を訊かれているかが解らなかった。穂高は顔を上げ、小首を傾げた。
「コーヒーでも奢るよ」
 ほとんどぞんざいな口調だったが、彼は柔らかく笑っていた。
「え、あっ、な、なんで…」
「写真、褒めてもらったお礼。ああ、僕は山科といいます」
 お礼をされるほどのことは、と、普段ならもちろん固辞するところだが、興味が勝った。
 この青年と少し、話がしたい。
 そうして二人で向かったのは、式場近くの古典的な喫茶店だった。そこら中にあるコーヒーショップではないところが意外というか、らしいといういか。昔ながらのお店らしく、分煙は非徹底だった。
「煙草、いいかな?」
 訊かれて、店内を物珍しそうに見回していた穂高は反射的に首を振ろうとした。休業中だがアスリートだ、受動喫煙とはいえ煙草は御法度だった。ただ初対面の人に失礼かもと思い直し、結果、中途半端なことになった。
「あ… いや、その、ちょっと苦手、で」
 もぞもぞと俯く穂高に、「ああ、そうなんだ。ごめんね」と、山科はこだわりもなさそうに軽く頷いた。取り出しかけていた煙草の箱を仕舞う。悪かったかな、とは思ったがそれ以上に、彼が煙草を吸う姿は少し見てみたかったな、とも思った。たぶんとても似合うに違いない。
 たぶん、とても。










「物理?」
「そう」
 てっきり職業カメラマンだと思っていたらバイトの学生で、じゃあ市内の芸大生かと思ったら、その近所の某旧帝大の大学院生だという。
 え、それってものすごく頭が良いということでは? ノーベル賞とか関係あるんじゃ、とか、そもそも物理って何をしているのだろう? などと、ぐるぐると考える。穂高としては自分のコトを棚に上げ、珍奇な出会いをしたと思った。
 しかし、そんなハイエンドのインテリが何故にカメラマンのアシスタントを? というのも顔に出たのだろう、山科は解説してくれる。
「写真部のOBから頼まれてさ。ハイシーズンだし、雑用が多いんだ。まあ勉強にもなるから」
 ああそういう… と頷きながら、穂高は先ほど見たプリントたちを思い出す。技術的なことは解らなかったが、センスが良いと思った。しかし物理学の大学院生というならあれでも趣味の域、なのだろうか。
 などと考えていると、出し抜けに問われた。
「で、小林くん、野球やってたの?」


  やきゅう?


 何故それを、と狼狽えて、先ほど自分自身でそう言ったことを思い出し、慌てて頷く。
「は、はい。高校まで野球部で…」
 嘘ではない。嘘ではないが。
 心の中で言い訳を繰り返す穂高を他所に、山科はなぜかちょっと身を乗り出す。
「ポジションは?」
「…投手です」
 現在進行形でそれ以下でも以上でも、それ以外でもなかった。
 しかし、山科はそれに予想外な反応を見せた。
「よっし! やった!」
「え?」
「球種は?」
「は?」
「持ち球だよ、君の」
「え、あ、えっと、ストレートとスライダー、カーブ… フォーク、は実戦ではちょっと…」
 精度が今ひとつで試合ではほとんど使えていないから躊躇したが、彼はそこにこだわりはないようだった。
「実戦? いや、別に試合とかしないから。てか、フォーク投げられんの?!」
「はい… まあ…」
 曖昧に頷く穂高に、山科は「マジか!」と拳を握り締めた。何を喜んでいるのかは解らないが、ひどく嬉しそうだ。そして、彼はその端正な顔を真っ直ぐ穂高に向けた。
「変化球の原理は知ってるかな? マグヌス効果」
 聞き覚えのない単語に、なんだって? と瞬きを数度。変化球といえば、握り方とスピンとかが関係あったような、と思いつつ結局、申し訳なさそうに穂高は小声で答えた。
「…すみません、あんまり」
「いや、まあそうだね」
 つまりね、と山科は苦笑する。
「そもそも物を投げるとき、物体は必ず重力の影響を受けて放物線を描くだろ? ボールも同じで、キャッチャーミットに収まるまでの軌道は放物線になる。ただし、投手がボールを投げるときは、投球動作によってボールがスピンするからさ。このとき、空中をボールが進む間、重力のほかに空気抵抗と、スピンによって生じる気流による力、揚力を受けるんだ。これがマグヌス効果」
「このスピンは投球動作によって変化が生まれる。スピン次第で空気抵抗と揚力、ひいては球の軌道が変化するわけだ。あとはボールの握り方かな。それで球の軌道を変化させるんだけど、」
 深い声は蕩々と流れるようだった。しかし穂高にはまるで意味が採れず、外国語を聞いているのと大差なかった。
 ただ、山科がとても楽しそうなことだけは解った。完璧なカタチの瞳がきらきらと光っている。
 そのまま、「気流と回転の法則から…」などと続く解説を黙って聞くだけになっている穂高に、ようやく彼も気付いた。
「ああ、ごめん、わかんないよな。まあアレだ、どんな変化球も軌道が波だから、数式で表せるってことなんだ」
 いや既にそこから謎である。
「うーん、とにかく平たく言うと、ちょっと投げてもらっていいかな?」
「は?」
「変化球の軌道は個人差も大きいし、気象条件も関係するから。とにかくデータが欲しいから、いろんなやつに試してもらってるんだ」
 サンプルは多いほど良い、と、にやりと彼は笑った。
 はあ、と、引き込まれるように頷いた穂高だったが、そこで重要なことを思い出す。
「あ、でも俺、ちょっと前に怪我をして… いま、全力投球が」
 出来ないんですが、と言いかけると、山科は軽く手を振った。
「うん? いや、軌道を見るだけだから、本気でやらなくていいよ」
 君、真面目だね、と、彼はもう一度、今度は穏やかに微笑んだ。
 真面目だ、とはよく言われる。ただ、今の彼の言葉はやっかみでも揶揄でもないシンプルな評価だった。くすぐったいような気がして、穂高は微かに俯く。
 そんな穂高に気付くはずもなく、山科は朗らかに続けた。
「じゃあ、こんどテスト的に見せてもらえるかな、投球」
「えっ…」
「実際の測定、というか記録にはかなり準備が要るんだ。先攻する研究や、バドミントンのシャトルでの先例が… は、いいとして、その前に、そもそもちゃんとデータとして使えるかどうか、フォームとか投球を見てみたい」
 こちらも真摯な顔で彼が説明する。
「そんなに手間は取らせない。あ、ご飯ぐらいならご馳走するし。学食だけど」
 ははっと朗らかに笑う山科に、休みの日であれば、と頷く自分は何者だろうと、穂高は思った。


 ただ、それならもう一度、この人に会えると。


 おそらく、それだけだったのだ。それしか考えていなかった。
「えっと、いつがいいかな… あ、休みって週末でいい?」
 言いながら、山科はいそいそとスマフォを取り出す。
「そうだ、小林くん、下の名前は?」
 あまりに当然のように訊かれたから、そのまま答えるところだった。
「え」
「や、アカウント登録するから。俺のアドレスブック、既に小林が二人いるんだよ。名前は?」
 そこで穂高は躊躇った。
 もし、ここで素直に本名を答えてしまったら。
 今は判らないまでも、この頭の回転の早い青年はすぐに気付くだろう。穂高の正体に。そうすれば… そうすれば、どうなる?
 そもそも、学術的研究のサンプルになること自体、かなり面倒な事になるのではないか。野球選手の商売道具そのものだ。おそらく球団の了解が必要だろうし、権利やら何やら難しい話になる気がした。
 それ以前に。
 幾ら研究のためとはいえ、こんな面倒な人間に関わろうとする一般人が居るだろうか? ちょっとした有名人と知り合うのを喜ぶタイプの人間もいるが、彼はそういう人たちとは対極に居る気がした。


 そうなると、これは、もしかすると。
 二度と、逢えなくなるのでは、ないか。


 そう思った瞬間、穂高は嘘を吐こうと決めた。迷わなかった自分は、まったく信用できない人間なのだと知った。
「あ、あの… 披露宴で写真撮り過ぎてスマフォ、電池切れちゃって…」
「あー、ありがちだな。最近、みんなスマフォだけで撮るからなぁ。フラッシュ、電池食うだろ。デジカメはやっぱり本職だけあっていいぞ?」
 そう言いつつも楽しそうな山科をそっと窺いながら、穂高は訥々と続けた。
「だから、スケジュール、は、スマフォ見ないと… あと実は、LINEとかFBのアカウント、ちゃんと覚えてなくて… あんま使わないのもあるし」
 申し訳なさそうな口調が、表情が、できているだろうか。不自然に思われなかっただろうか。気を遣いながら、それでも穂高は止めようとは思わなかった。
 彼はきっと信じた。柳型の眉が下がる。
「まじか…」
「すみません… あ、あとでこちらから連絡します」
「ほんと?! あ、いや、無理にとは言わないんだけど」
 ごめんね、という彼の言葉に、ちりちりと胸が痛む。でも、穂高はちゃんと山科の目を見て頷いた。
「大丈夫です」
 


  嘘を




 穂高は微笑んだ。
 わらって嘘を吐いた。
「俺、は、こばやしあさひ、といいます」
「へえ、そう。漢字は旭川の”あさひ”でいい?」




 あの時、嘘を吐かなければ。
 ちゃんと本当の名前を答えていたら。


 こんなことには、ならなかっただろうか?










 それから二週間ほどで、ようやく約束の日が来た。


 こんなに先の日が待ち遠しかったのはいつぶりだろうか? 穂高はまた祖父の見舞いにかこつけて、いそいそと京都に戻る。駅までの道のりもほとんど駆け足になったし、予定の変更はないか何度もスマフォを確かめた。
 あの後、情報収集のためだけにあったアカウントで、彼に連絡をした。そのまま音信不通になることも覚悟していたのだろう、山科はずいぶんと喜んで、とんとん拍子で話は進んだ。
 だから、そのうち打ち明ければ良いと思っていた。
 そのうち、に…




「えっ、構内でいいんですか?」
「そう。というか、逆にここしかない」
 最近はボールを投げていい場所は限られててな、と、グレイのジャージ姿の山科は重々しく頷く。はあ、と、こちらは白いトレーニングウェアの穂高は緩慢に顎を引く。
 場所はK大北キャンパスである。
 そういえば、昨今は公園であっても往々にしてボールは使用禁止らしい。残念な話だ。しかし、今回の場合は硬球を使うこともあって相応の場所が必要で、大学構内というのはちょうど良いのかも知れなかった。なお、南側のキャンパスにはちゃんと野球部やソフト部が使うグラウンドがあるそうだが、ただのテストだからと山科は手を振った。よく考えると願ったり叶ったりというか、むしろ助かった。大学生となれば同世代で、その野球部員が穂高を知らないとは思えない。穂高はそっと息を吐く。
 さすが天下のK大、街中だというのにかなりの広さである。山科の所属する理学研究科の近くは開けた芝生地帯になっていて、数人で談笑する学生の他、構内をスケッチする中高年、ダンスかなにかの練習をしている学生、物見遊山に来た観光客らしき人影もある。
「ここはボールつこて大丈夫なんですか?」
「火気も可だからな。飲み会やったりするし、実験の空き時間にキャッチボールとかバドミントンするやつらもいるし、飼ってるウサギの散歩に来るとこもあるし」
 そのウサギ危なくないですか。てか、ウサギ飼ってるって何? と思いながら、穂高はまず最初に気になったことを訊く。
「火気って… 構内で何やるンですか?」
「バーベキュー、芋煮、花火、七輪で秋刀魚、きりたんぽ、焼き芋、流しそうめん、いろいろだ」
「…それ、ほんまに許可されてます?」
 と突っ込めば、
「たぶん禁止」
 そう答えて、山科もニヤリと嗤った。




 まず軽くアップを、ということで二人、キャッチボールからはじめた。
 傷の方はようよう塞がってリハビリ中だが、徐々に練習も再開してはいた。三頭筋に損傷があったので、簡単な動作であっても穂高は一挙手一投足に細心の注意を払った。思ったよりずっと肩が軽いのは、自分にも、チームにも、彼にとっても朗報だろう。
 程よいところで先ずはフォームをチェックしたいと言って、山科が三脚とカメラをセッティングする。リリースポイントとホームベースまでの距離をどう正確に測るかが問題で、とか、球速の測定ってどうやってるか知ってるか? とか話す彼に、質問したり相槌を打ったりする。そのうち準備が終わったのか、じゃあテストするからとファインダを覗いた山科に促され、穂高は両足と腹に力を込めて背筋を伸ばした。
 シャドウピッチングの要領でいいはずだ。穂高はいつものとおり、静かに構えた。


  そっと右足を前に出す。
  ゆったりと腕を上げ、するりと降ろす。
  たしかに、祈るように胸の前にグラヴを構えた。
  くっきりと上げた左足はそのまま、強く、踏み出すと同時に開く肩と、振り切る腕、の。


 透明な一球が放たれて、いつも通りキャッチャーミットに収まるのを確かめてから、穂高は彼を振り返った。
 一方の山科はファインダから目を切って、ぼんやりとこちらを見ていた。何だか妙だ。穂高は長い首を傾げる。
「どうかしましたか?」
 何かまずかっただろうか、と俄に不安になって声を掛けると、彼ははっと気が付いたように顔の前で手を振った。
「いや、違って。大丈夫… てか、君、すごく良いフォームしてるね」
 そう言って、山科は眩しそうに目を細めた。フォームを褒められるのは珍しくはないが、これほどてらいもなく称賛されるのは久々だ。かなりこそばゆくて、つい足の爪先を見る。そんな穂高にすこし笑いながら、「続けようか」と山科は促した。
 そうして、何度か投球動作を繰り返したあと、彼は動画をチェックしながら再び「ほんと綺麗なフォームだな」と呟いた。
「うちの野球部の連中なんか、いまだにフォーム安定してないのもいるのにな。小林くん、ちゃんと部活やってたんだ」
 本気で感心している。やはり穂高としても照れくさいを通り越して申し訳ないキモチになる。
「フォームがいいってのは大事なんだ。球にかかるスピンが安定してるってコトで、つまり軌道も安定するから…」
 丁寧に解説してくれる山科に頷きながら、ちりちりと、痒みにも似たものを左脛に感じた。
 もう傷は塞がったはずだが、これはなんだろう?
 と、そうこうするうち、実際の投球に移った。怪我のことは伝えてあるし、捕るのが山科という時点でもちろん、実際のブルペンでの投球とはまったく異なるが、事故後、ほとんど初の投球だ。高校時代の夏の初戦と同程度に緊張した。
 まずストレートから、ということで軽く投げた球はもちろん全力投球からはほど遠く、ただ真っ直ぐな軌道を描いた。パシンッ、と思ったよりいい音がして、白球は山科のグラヴに収まった。
 大丈夫かな、と自己判断したところで、山科が呆然と呟くのが聞こえた
「…嘘だろ」
「え、ええっ?」
 今度こそなにか不味かっただろうか、と慌てていると、山科は眉間に皺を寄せたまま訊いてきた。
「小林くん、一番調子のいいとき、球速どれくらいだった?」
「は、球速、ですか… 130後半くらい、です」
 これこそ嘘だった。145は超えていた。
 だろうな、と山科は厳しい顔で呟く。
「すっげーバックスピンだな。これ、本職呼ばねえと… うーん、いま、誰か居たっけ」
 とスマフォを取り出し、何かチェックしている。
「キャッチャーはさすがに無理かー。経験者さえ少ないからなあ。なんかもったいないよなあ… まあ、ぜったい問題ないとは思うけど、球種、一通り見て良いかい?」
 だいじょうぶです、と応えながら穂高はまた、左足に熱を感じる。が、それは見ない振りをして、穂高はテスト投球を続けた。
「え、なに、これスライダー? 縦に落ちるって?」
「カーブ、って、これあれか、スローカーブ… えっ、違う? この球速差はヤバくない?」
「ちょっと待て、これ打てる奴いんの? てか、その前に捕れるもんなの!?」
 賑やかに応答する山科に、すみません、コントロール悪くて、と謝るが、たぶん聞こえてはいなかった。
 ちなみに素人にしては捕球する山科の反応がいいので、穂高も感心していた。なにかスポーツもやっていたのだろう。細かい足捌きも上手いので、きっとショートやセカンドが向いている。
 怪我のこともきれいに忘れる程度に夢中になった結果、すっかり息の上がった山科が先に音を上げた。
「イヤ、わりぃ、舐めてたわけじゃ、ない… けど、甘かったな。小林くん、リアルに甲子園目指してただろ」
 正確にいえば目標は全国制覇だったが、穂高は「ええ、まあ…」と曖昧に首肯した。あの頃はあまりに当たり前だったが、それはやっぱり一般的には夢物語の範疇で、決まり悪さに穂高が再び俯くと、思いも寄らない言葉が降ってきた。
「本当に一生懸命、練習したんだ。えらいな」
 毎日、きちんと手を抜かずに。
 そう言って、山科は柔らかく微笑んだ。
「俺は、そんなふうに一生懸命だったことがないからさ。勉強も部活も学校も、毎日、何となくやって… 中途半端だったな」
 中途半端でK大生なら十分なのでは、と思いつつ、それはたぶん見当違いのフォローで、だから穂高は黙った。
 それが、と山科は切り出す。
「甲子園撮りにに行ったのはまあ、偶然ってか、勧められたからなんだけど… 見てたらちょっと、羨ましくなった」
「…うらやましい?」
「そう。あの球児たち、きっと明日とか将来のこととか、考えない訳じゃないだろうけど… 今、やらないとっていうか、今しかないって感じだろ。そのために毎日、すっげー練習してんだな、って。なのに高校のとき、俺は、その瞬間を全力でなんて恥ずかしいと思ってた。もう、そんな時間、二度とないのにな」
 もったいなかったな、と思ってさ。
 そう言って、やはり山科は華やかに笑うのだ。
「ちょっと羨ましいよ、君が」


  そんなに いい思い出ばかりでは なかったけれど
  でも確かに、たったそのためだけに 投げて 捕って 打って 走って
  生きて 生きて 生きて


 左脛が、熱い。




 彼の言葉に何と答えていいか判らず、応えるべきとも思えず、その代わり、穂高は別の事を訊ねることにした。
「山科さんのアイコン、なんで紅葉なんですか?」
「はい?」
 山科のアカウントを見たとき、はて、と思ったのだ。別にポートレイトにすべきとは思わないが、頑なに無味無臭なアイコンに少し違和感を感じただけだ。
 ああ、それな、と気のない風に頷いて、彼はぶっきらぼうに答えた。
「紅葉じゃなくて楓、まあ植物的には同じだけどな」
「え?」
 へえ、もみじってかえでなんだ、と大脳に入力したのはいいが。いやソコじゃない、とさすがに穂高も気付く。
「かえで、なのは何でですか?」
「…俺の名前、楓だから」


  は?


 なまえ… と口の中で繰り返してから、この人は”やましなかえで”さんなのか、とようやく気付く。それはまた… ずいぶんと「っぽい」なあと素直に思った。だからそのまま口にした。 
「きれいな名前ですね」
 女性の名前かと思ってました、と。穂高がそう言うと、山科は盛大に眉を顰めた。
「君ね…」
 苦々しいとはこのこと、という表情と口調だった。とはいえ、そのまま穂高に当たったりしない。
「あまり名前に良い思い出はないな」
 平坦に言う楓に、すみませんともぞもぞと詫びながら、なるほど、彼なら子どもの頃は女の子に間違われていそうだ… いや、つい最近でも、自分だって最初に確かめたな、などと思い出す。
 ああそういう… とひとり納得する穂高に察したのだろう、楓はまた険しい顔をした。あっ、この人は自分の容姿が好きではないのだな、と何となく思っていると、言われた。
「てか、小林くんの名前も女名になるだろ」 
「…え、ええ?」
 予想外。
 咄嗟に名乗った弟の名には女性らしさは欠片も見出せず、勇ましささえ感じていたのだが。ぽかんとする穂高に、楓はすらすらと告げる。
「秀吉の妹にいたろう、旭。家康んとこに嫁に行った」
「ひ、秀吉? 家康? って、あの秀吉と家康ですか??」
「他に居んのか?」
「い、いません、たぶん…」
 居るわけがない。
 秀吉と家康って親戚だったのか! と、まずそこから衝撃的だが、そこにひっかかっている場合ではない。穂高はとりあえず、自分の認識を表明する。
「あさひ、って、うちでは山の名前や言われてたんで…」
「ああ、旭岳か、北海道の大雪山系」
 この打てば響くというか、思いもしない反射速度の返答にはとにかく驚く。インテリってすごい、と単純に感心する。
「うん、あれは好い山だよな、悠然として。日本で一番はじめに紅葉する山だ。ま、君の場合、秋より冬山っぽいか」


  ふゆやま?


 初めて言われた。どのあたりが、だろう? と思ったが、訊ねるには何かが足りない気がして、穂高は結局、黙った。
 とりあえず足下に転がった硬球を拾い上げ、バッグに集めようとして、元の数を知らない事に気付いた。数の確認は片付けの基本だ。
「あ、楓さん、ボール何個あるんですか?」
 そう呼ぶと、彼はぎょっとした。
「君、俺の話聞いてた?!」
「聞いてましたけど… でも、好い名前なので」
 正直に応えると、彼は口を開きかけたが、声を出す前に閉じる。そして逡巡した結果、
「…どもうありがとう」
 と、柔らかそうな髪をかき上げながら、なんだか仕方なさそうに笑った。
 それから二人でボールを回収し終わると、メシにするか! と楓は大きく伸びをして、穂高を促して歩き出す。
 そのぴんと背筋の伸びた後ろ姿を見ながら、穂高は、それでもその名前はこの人によく似合う、と、思った。






「1511円までなら好きに食べていいから!」
 というスポンサーの力強い(?)言葉に従って、穂高が熟考した結果のトレイを見て、彼は暫し絶句した。(なお、なぜそんなに中途半端な金額なのかと訊ねてみたら、素数、としか返ってこなかったのでそのまま受け取るしかなかった。)
「いちおう、俺も体育会系出身だけどな… なんかこう、オールスターキャストだな。まあいいや… ほうれん草は胡麻あえにした方が良い。ビタミンEが摂取できるから」
 ああそうなんだ、と感心する穂高の一方で、楓は、まあ消費カロリーを考えればこれくらいの摂取カロリーはアリか、等とぶつぶつ云っている。
 前言通り、山科は穂高を学食に連れて来た。院生を中心に人影はあるが、週末の学食は人もまばらだ。大学の食堂、という時点で既に穂高にとってはワンダーランドではあるのだが、楓はまた別のワンダーランドに出会ったらしく、
「唐揚げは飲み物、ってホントに存在する世界線なんだな…」
 等と感嘆していた。ちなみに、自らの日替わり定食はほとんど減っていない。
「…楓さん、食欲ないんですか?」
 大丈夫デスか、と首を傾げた穂高をしみじみと眺めながら、楓は何とも言えない表情で応えた。
「腹は減ってたんだけどな… なんかこう、質量保存の法則を反芻してる」
「え、なに保存?」
「いい、気にすんな。ほんと、その細いウエストの何処に入ってくンだろな、その米… ま、思う存分食え。それ以上、身が減ったらアレだし」
 食べても太れないのは昔からで、穂高本人としては忸怩たるものがあるのだが、それこそ子どもを心配する親の顔でちらを観察する楓の手前、咀嚼に徹した。
 ただ、そんな穂高の食べっぷりを見る彼は、けっこう楽しそうだった。




「食材の皆さんも、食堂のおばちゃん達も本望だな、これは」
 きっちり食べ終わった穂高のトレイを見て、楓は妙な感心の仕方をしてから、さて、と切り出した。
「こういう言い方もアレだけど、君が大変優秀なサンプルだということは解った」
 深く首肯する楓はかなり真剣だが、穂高は「はい」となんとなく返事をした。
「怪我がちゃんと治ったら、本格的に測定したい。それまでにこっちも真剣に準備するから…」
 そこで恐らく、煙草を取り出そうとしたのだろう。楓はごく自然にポケットに手を入れて、止めた。ほんの一瞬の動きを見咎められたのは穂高の動体視力の賜物で、一般人ならほとんど気が付かないのではないか。食後の一服が習慣になっているところ、今日は遠慮しているようだ。
 そういう気の遣われ方も新鮮だった。
 きっとこの人はモテるに違いない。と、穂高は断じた。まあ、そもそもモテない要素が見当たらないが。食堂のほうじ茶を啜りながら、ぼんやりとそんなことを考える。
 一方で、楓は穂高を不思議そうに眺めている。それから微かに首を傾げ、
「なんか、新しい生きものみたいだな」
 と囁いた。
 うん? と穂高が目線を上げると、楓はなんでもないと手を振った。 
「そういえば、小林くんの仕事ってなに?」
 いつか聞かれるだろうとは思っていたが、いざ聞かれてみるとこんなに答えづらいものなのか、と穂高は気付く。だいたい”小林穂高”のことを知らない人間と面と向かって話すこと自体、稀なのだ。自分に汎用性が低いことを改めて思い知り、殆どしどろもどろになった。
「え、あ… 肉体労働、です。ちょっと珍しい種類の…」
「にくたいろうどう」
「季節労働者というか… 今年は怪我で三ヶ月くらい棒に振ったので… 次のシーズンは頑張らないと」
 こんな説明を真に受ける人間がいるのだろうか。穂高本人でさえ、あまりの胡散臭さに頭を抱えたくなったが、楓はそこを掘り下げることをしなかった。しばし考える風だったが、そうなんだ、と受けた。そして、
「早く治るといいな」
 とだけ言うと、笑った。
 労られたことよりも、やはり嘘を吐いたことに囚われて、穂高はまた俯いた。今、言うべきではないかと、間に合うのではないかと思って、つと顔を上げた瞬間、楓は別の事を訊いてきた。
「じゃ、趣味とかは?」
「しゅみ?」
「そう。あ、野球以外で」
 野球は趣味ではなく仕事だが、もうタイミングを逸していた。
 穂高は徹底して無趣味、ということで通っている。運動全般が好きなのだが、以前のインタビューで訊かれた際に「ランニング」と答えたら、それはトレーニングの一環だな、とケントに突っ込まれた。(尚、野球選手ではメジャな趣味であるゴルフは、身体を動かした気がしないのでまったく性に合わなかった。)元来、不器用なのでゲームも不得意だし、読書や映画、音楽鑑賞も趣味といえるほどのものではなかった。関西人としてはお笑いも好きではあったが、あれこそ趣味というより日常生活だ。結果的に、
「地図を、」
「え?」
「地図を見るのが好きです。路線図とか、航路図とかも」
 趣味として共感されたことは一度もないが、それ以外に答えられるものがなかった。その昔、当時の相方にさえ微妙な反応をされたが。
 しかし、事態は意外な方向へ転んだ。
「ああ、楽しいよな」
「…は?」
「地図はロマンだよなー。フェティシズムというかさ。あ、伊能図はわかるか? 伊能忠敬」
 その名前はたしか教科書に載っていた。穂高が戸惑いながらそう言うと、楓は満足そうに首肯する。
「アレなんかまさにその結晶だ。あのオッサンが夢中になるのも解るよな。ていうか、あの人、あれがあったから長生きしたんだろうなあ」
 江戸時代に50歳超えてから、天体観測とか測量勉強して、想像できるか? 緯度を正確に測るために江戸と蝦夷地の距離を測るとか、マニア通り越して酔狂だろ。あの測定法は微積で解けるけど、17年かけて全国行脚して、今の地図と比較しても誤差が1000分の1だぞ。リアス式海岸に“測定不能”とかご丁寧に書いてくれるんだよ、かっこいいよな、とかなんとか。
 あまりに楽しそうに楓は語るが、正直、物理の話と同等についていけなかった。つらつらと止めどなく語られるコアな話題と、そのモデルのような容姿のギャップに穂高は呆然とする。
「古地図は? せっかく京都にいるんなら、洛中洛外とか、昔のやつと対比させると楽しいぞ。当時の屏風図とかとも比較できるし。あと京都ならではなら琵琶湖疎水とインクラインだな。ほら、いつかテレビで、ブ●タモでも出てきたろ?」
 穂高はふるふると首を振る。それを、信じられないものを見たとばかりに楓は畳みかける。
「え、見た事がない? 見ろ! 録画貸すから! あとあれだ、鉄博だ」
「てっぱく?」
「そう。路線図好きなんだろ? 見学しよう。じゃ、今から、」
 そこで時刻を確認した楓が、しまった、という顔になる。それから相変わらずの強引さで一方的に話を進める。
「わりィ、今日はダメだ。えーっと、次、いつ暇?」
「は?」
「来週、は、いきなりか。暇な日、あとで連絡して! ごめん、ちょい急がないと」
 名残惜しそうに、しかし俄に慌ただしくなった楓に、穂高は言わずもがなのことを、それでも訊いた。
「バイトとかですか?」
「あぁ、ちょっとね」
 少し決まり悪そうな態度に、カノジョかな、と思ったりもする。一時近付いた楓がすこし、遠くなった気がした。


 そうやって、勢い余って『次』の約束を交わし、穂高は楓に手を振って別れた。
 地下鉄へ下りていきながら、流体力学と伊能忠敬について調べよう、ネットではなく図書館かどこかで、と思った。




 次の約束のためにやり取りも続いて、電話もした。電話など、家族以外とはほとんどしないのに。(昔の相方とでもだ!)
 楓が二歳上だそうだが、部活でもあるまいしタメ口でいいと言われるが、中途半端に残っている。それでも、口調ももの言いも更にくだけて近付いて、彼の二人称は“小林くん”から”おまえ”になった。「小林くんだと、なんか明智小五郎みたいじゃん」と言う意味がわからなくて、グーグル先生のお世話になった。なんだか可笑しい。
 ただ、次に逢える日をそれこそ、指折り数えた。


 次、を。










 京都鉄道博物館には初めて来た。


 よく考えればそれもそのはず、まだ正式開館して1年足らずだそうで、前身の施設から数えても穂高の小・中学時代とはかぶらない。まあ、たとえ開館していても来ていたかどうかはビミョウだ。なにせ、当時から通学と野球以外のことをした記憶がない。
 楓に聞いたところによると、埼玉にも大きな鉄道博物館があるそうだが、京都の館はSLがメインとのことだった。
 京都駅の西側にある博物館に到着し、入り口へ向かうと、すれ違う人たち(主に女性客)のうち幾人かが後ろを振り返って、連れに何かを囁いていた。ねえ、いまの人、とか、モデル?とかいう声が聞こえる。なるほど、解りやすい。
 プロムナードに続くエントランスへ近付くと、その端麗な姿が目に入る。男性ファッション誌(祐輔が持っているので見たことはあるが、自分で買ったことは一度もない)の写真のようだ。これで物理学者… と内心、首を傾げたが、もちろんそんな事は言わない。
「すみません、お待たせしました」
 穂高がそう謝ると、「遅れてないだろ。俺もいま来たところだから」と楓は笑った。
「まず、SLの運行スケジュールを確認しようか、あれだけ別だなんだ。あとジオラマの走行時間と」
 率先して歩く山科の背中を眺めながら、きっと恋人が待ち合わせに遅れても、彼は同じ答えをするんだろうなと、思った。




「つまり、蒸気機関車の動力は熱エネルギー、というか圧力の変換だ」
「はあ」
 びしっ、と断言され、頷くしかない穂高である。
 SL試乗中、職員のお姉さんが蒸気機関車の成り立ちや仕組みについて説明してくれたが(主にちびっ子向けに)、その後、補講の憂き目に遭っている。
「機関車は動輪を動かしてレールの上を走る。その動輪を回す=動かすのがピストンだな。圧力を掛けて押し出す、圧が下がって戻る、を繰り返すピストン運動で動輪が前後に動く。そのピストンを動かす圧力を生むのが蒸気。石炭を燃やして水を沸騰させ、その蒸気を貯めておく、圧力が上がる、圧力が閾値を超えるとシリンダに閉じ込められたピストンを押す、って順だ」
 と。鉄道のシステムや構造にまつわる色々な展示や体験施設の中で、楓は丁寧に解説してくれる。休憩スペースを兼ねたちょっとした広場は間仕切りの一部がホワイトボードになっており、そこに図解までするものだから、周囲の親子連れもついでに聞き入っていた。
「つまり、蒸気機関は熱エネルギーから動力への変換で、この発明でこれまで人力や牛馬に頼ってきた動力を機械化できるようになった。これが、いわゆる産業革命の核になる。特に最も成功したのが交通機関への転用で、蒸気船や蒸気機関車のおかげで交通、軍事のシステムが世界的に丸ごと入れ替わった。幕末の黒船来港も、元はといえば蒸気船の軍艦の発明があればこそだな」
 社会科に話が飛んで一瞬、道を見失うが、なんとか教科書や授業の記憶を掘り起こし、穂高は口を挟んだ。
「黒船て… ペリーの?」
「そう、それ。ちなみに、蒸気船がアヘン戦争の勝因の一つとも云われている。ただし、蒸気機関の問題はかなりエネルギー効率が悪いということで、そこを解消するために動力の開発は更に進む。それがディーゼル機関と電気機関。ディーゼル機関は空気と軽油を混ぜて爆発させ、そのエネルギーでピストンを動かして発電機を回して電気を作る、その電気でモーターを回す、モーターが車輪を回す、というフローになる」
「電気でモータを回す、っつーのは一緒だけど、現代では電力の元が位置エネルギーか熱エネルギーか核分裂かってことで… コレ話すと日が暮れるな、また今度な」
 その前段で既に追いついていなかったが、はい、と穂高は神妙に受け取った。ちなみに、二人の後ろで数組の家族連れがうなずいたり、ひそひそ話を続けていたが、気にならないフリをした。
「いずれにせよ、蒸気機関車から電気機関車に切り替わったことで、飛躍的に上がったのが速度だ。蒸気機関車の営業最高速度はだいたい95km/hだったのが、新幹線で最速のはやぶさは320km/hにまで到達する」
 なるほど、と相槌を打った穂高に、楓はひょいと話を振る。
「慣性の法則は覚えてるか? 中学でやっただろ」
 残念ながらほとんどうろ覚えだった。
「…ご、ごめんなさい… な、なんとなく…」
「まあいいや、ちょっと想像しろ。どんな電車でも発進させるときに一番エネルギーが必要で、一番速度が遅い。で、しばらく走って速度を上げていくと、いずれ最高速度に達する。ただ、ある地点で減速しなきゃいけなくなる。なんでか解るか?」
「え? スピードを落とす… あ、駅?」
「そう、停車するためにブレーキを掛けるだろ。ただ、スピードに乗った車を停止させるには、しばらく時間もエネルギーもかかる。この時、前に進む力=推進力とその逆に働くのが摩擦力だ。時速300km/hに近い新幹線のブレーキ踏んで、摩擦の力を大きくする。それできちんと駅で止まる=速度0km/hにもってくためには、距離にしてだいたい4kmだそうだ。つまり、4km前にブレーキを踏まないと駅を通り過ぎるってことだ」
「4キロ…!」
「運転士ってすげーよな。そんな鋼鉄の乗り物、数センチのズレでなんとか止めてるんだぜ」
「はぁ、たしかに」
「ま、だから新幹線に限らず、駅からしばらく行ったところで最高速度になって、駅にある程度近付いたら速度が落ちる。速度はこういうグラフになるな」
 と、楓はホワイトボードにグラフを書き足す。移動距離をx軸、速度をy軸とした図に台形の曲線を描いたところで、その速度上限で平らになった線を指しながら続けた。
「のぞみの場合、このトップスピードになる地点は博多のあたりと山口のあたりだが、姫路駅でもけっこうなスピードが出る。上り下りのほとんどが直線だし、神戸から岡山までノンストップで走るやつがな」
 ふんふんと聞き入る穂高に、楓はまた意外なことを言う。
「で、それが海外からの観光客に人気だ」
「は? 観光? なんで?」
「姫路駅のホームで、世界に名だたる新幹線の最高速度が体感できるからだ。おまえ、最高速度の新幹線、見たことあるか?」
「な、ない、です… たぶん」
 新幹線はそれこそ何度も乗っているが、正直、駅に停車していたり、ホームに入ってくる車体以外は見たことがないに等しい。体感? と穂高が首をひねっていると、「すげーぞ、あれは」と彼がニヤリと嗤う。
「夢の超特急」
「え?」
「新幹線開業の時のキャッチフレーズだ。それがな、わかる」
 そう、自信たっぷりに笑う楓は蠱惑的だった。
「姫路駅は写真も撮りやすいらしいし、姫路城もあるし、外国人観光客にはちょうど良いんだろう。そうだな、これから行くか!」
「は」
 これから? 姫路に?
 ぱちぱちと瞬きを繰り返す穂高を促すと、楓は立ち上がった。
「まだ入ってないとことかシミュレータとかもあるけど、また来ればいいしな。姫路までなら1時間半くらいか。あ、時間、大丈夫か?」
 またもや勝手に話が進んでいくが、渋る気も起きなかった。平気ですと応えて、穂高は彼のあとについて歩いている途中、下半身に軽い衝撃を感じた。


  ん?


 左足に何か纏わり付いている。子どもだ。
 小学校に上がる前ぐらいだろうか? 少年が穂高の足に縋り付いて、こちらを見上げていた。父親か、保護者と間違われたのだろうか。
「どうしたの?」
 少年の目線に合わせようと屈んだ。昔、まだ弟たちと暮らしていた頃はこうやって、練習に行こうとすると邪魔されたものだ。そんなことを思い出しながら、穂高は微笑んだ。
「お父さんは?」
 訊ねると、少年はふるふると首を振る。む、と首を捻っていると隣から高い声がかかった。
「ハルキ!」
 弾かれたように少年が振り返る、前に、別の少年が先の少年を抱きかかえるように取り付いた。少し年長で、小学校3,4年生くらいだろうか。兄弟だろう、疑いようがないくらいに二人はよく似ている。だから穂高が「お兄ちゃん?」と訊けば、うん、と年長の少年は頷いた。
「よかった」
 危ないからちゃんと手を繋いで、と言いかけると、兄の方がじっと自分を見ていることに気付く。ああ、この少年は自分のことを知っているのだな、と、すぐ気付いた。
 この眼はよく知っている。
「…野球、やってる?」
 そっと問うと、少年はまたこっくりと肯う。
「ポジションは?」
「…ピッチャー」
 すこし、恥ずかしそうに答える少年に、穂高の頬は自然にほころぶ。なるほど。
「そっか。がんばれ」
 右手を差し出すと、少年もおずおずと右手を伸ばしてきた。小さな手を柔らかく?んで、握手する。指の長い穂高の手に比べると半分くらいの大きさだが、ちゃんと握り返してくる。
 嬉しくなって少年と視線を合わせると、彼は瞬きして何かを言おうとする。穂高は小さく首を振る。人差し指を唇の前に立てて、「しー」っと声を出さずに合図を送ると、少年は開いた口を閉じて頷いた。その一連の二人の動きを、左手で抱えられた弟が不思議そうに見ている。
 穂高はそっと、少年の手を離した。
「いい兄ちゃんが居てよかったなぁ。今度は、手ぇ離さんようにな」
 そう言って、ぐりぐりと弟の頭を撫でてやると、兄は照れくさそうに笑った。
 二人を送り出し、よいしょと腰を上げたところで、
「案外、手慣れてるな」
 と声がした。はっと振り返れば、楓が腕を組んで立っている。聞かれただろうか、と一瞬慌てたが、いや、大丈夫と胸の内で打ち消す。
「あ、あの… 弟と、たぶん同じくらいで」
「へえ、弟! どっちかっつーと兄貴が居ンのかと思ってたけど」
 本当に意外そうに言う楓に、穂高は鼻の頭を掻きながら、促されるままにまた歩き出した。
 年度末の生まれのせいか、これまで上級生に囲まれることが多かったせいか、振る舞いのせいか、末っ子扱いを受けることは多かった。しかし、実生活での10も離れた弟たちとの少ない思い出は貴重で、つい応対も甘くなるから、ファン感謝デーなどの催し物では子どもに人気が出る。
 なんだか幼さを指摘された気がして、少し悔しかった。が、
「弟くん、やっぱ山の名前?」
 問われて引き戻される。そういえば高校時代、友人に似たようなことを話したことも思い出しながら、穂高はもう一人の弟の名を答えた。
「はい、つるぎ、です」
「剱岳か! ガチだな、親御さん」
 やっぱり知っていた。ほとんど守備範囲の広いショートストップのようだ。うちのチームに一人欲しい。密かに頷きながら歩いていると、ふと風が臭った。ああ喫煙室… と思って、そういえば楓が今日、一度も煙草を吸う素振りを見せていないことに気付く。我慢をさせてしまった、と、穂高は慌てて声を掛けた。
「楓さん、煙草、いいんですか?」
 すると彼は寸の間、足を緩めたが、振り返らずにこう答えた。
「…いい、気にすんな、もう辞めたから」
 え?
 辞めた、ということは… 禁煙したということだろう。いつから?
 そうですか、と、呟きながら、彼が煙草を吸う姿を見られなかったのを、穂高はもう一度、残念だと思った。


 なんだか余計な事ばかり考えるな、と。
 穂高は、先を行く楓の背中を茫洋と眺めた。






 姫路駅で降りたのは初めてだった。といっても、駅の外には行かず、そのまま新幹線のホームへ向かう。
 街中に見える姫路城はテレビで見る”江戸城”だったが、大修理を終えたばかりで本当に真っ白だ。白過ぎだよな、と軽口を叩く楓に続いて、まずは最初にのぞみが通過する下り方面のホームへ上がった。
「…入場券って、初めて買ったかも」
「まあ、そうだよな」
 エキナカがある駅はともかく、なんのために必要なんかな、と首を捻っていると、「どうしてもホームで見送りたいひととか、いたんだろ」と楓が言う。わざわざホームで別れを惜しむひと、か… とぼんやりと思いを馳せていると、列車が通過する旨のアナウンスが流れた。
 ホームから神戸方面を覗き込むと、遠くの方でライトが光った気がした。時速300kmということは、分速5kmで、つまり10秒ではっぴゃく…


  なんだって?
  10秒で800メートル?


「来るぞ」
 楓の声に続いて、空気が震え始めるのが解った。
 音、というより何か非常に重いものが迫ってくるような、引っぱられるような、沈むような感覚。
 引力の源が、近付いて来る。純白の、長い蛇のような…


 ぎらり、と、大蛇の双眸が瞬いた。


 ばん! と風が顔面に当たる。
 身体が傾ぐほどの風圧。
 足下が揺れている。いやホーム全体が。
 ごおっ、という重低音が聞こえたと思ったが、消えてしまう。轟音は空間いっぱいに広がって、かえって無音になった。


 呼吸が、止まる。


「はっ」
 目を、閉じずに居るので精一杯だった。
 全長400mはある白と青の車体は、ものの数秒で駆け抜けた。
 はやい、と言いかけて止める。それでは足りない。すごい、とか、やばい、とかではきっと言い表せない。
 なるほど、これが体感する、か…
 どうしよう、と思って隣を向けば、同時に楓もこちらを振り向く。目が合う。笑う。
「これ、が」
 口を開いてはみたが、次の単語は見付からず、そのまま固まる穂高に、楓はもう一度深く笑んだ。
「そう。これが夢の超特急」
「ちょうとっきゅう…」
「すげーよな、ほんと」
 うんうんと首を何度も縦に振って、穂高は白い大蛇が消えていった方角を追いかけるように眺めた。すると、またアナウンスが入った。今度は逆、上りの新幹線がやって来る。
 あ、そうだ写真、と思ったが既に遅し。またいくらもしないうちに、空気が凝縮して、弾けた。
「すごい」
「すごいな」
 そんな短い感嘆を二人、幾度も繰り返した。紛れもないリアル、“速さ”と”強さ”という圧倒的な力に目が眩む。白球の二倍の速さで駆け抜けて行く、鋼鉄の蛇。
 息が、出来ないくらいの。


 …新しい世界が、


 そのまま一時間近く、二人、夢中になって上り下りの新幹線を眺めた。
 辺りがとっぷり暮れてから我に返って、大慌てで京都へ戻った。穂高としては姫路から寮に戻った方が早いが、少しでも長く彼と話したくて、そのまま快速に乗っていた。別の新幹線の特徴や路線について、愉快そうに語る楓に相槌を打ちつつ、穂高は足下が揺れているような錯覚に陥っていた。


 まだ、心と躯がくらくらする。




 それから、穂高は休みの度に京都に戻り、楓に逢った。


 まず新幹線とは対極にある路面電車を体感すべしと、嵐電に乗って嵐山に行った。観光客でごった返す渡月橋を尻目に、対岸の山の斜面に登って渓谷を眺めた。
 また別の日、楓の電力と琵琶湖疎水の講義を聞きつつ、蹴上のインクラインから発電所、南禅寺から哲学の道を歩いた。
 あとはケーブルカーに乗れるからと天橋立まで出掛けたら、なぜか砂州成立のメカニズムと天橋立ゆかりの和歌を覚える宿題が出た。
 そうして楓の部屋で某テレビ番組を見て復習したり、図書館で洛中洛外図の比較をしたり。


 すっかり耳に馴染んだ彼の声で、徐々に近付く距離に感じる互いの体温と、交わす視線の熱に、ちりちりと胸を引っ掻かれるような。
 微かに触れあう手や肩先が、深くなればなるほどに離れがたく、意図して絡めた指先に力がこもれば、抗う術など何ひとつなく。


 そうして、坂道を転げ落ちるようにふたり、恋をした。










 底冷えのする都の冬は厳しい。


 …はずだった。
 しかし、その寒さを感じる余裕も必要も、穂高にはなかった。
 おそらく、楓にも。


「なあ、結局、リニアってどのルートになったん?」
 穂高は座卓に広げた標高図と中央新幹線の資料を見比べながら、キッチンの楓に声を掛けた。
 もうこの頃では特に同意も確認もなく、京都に帰る度、楓のアパートに寄っている。祖父母の家を出てから寮生活しか経験したことのない穂高にとっては、大学生のひとり暮らしはそれだけでも憧れだったが、今やそんなことはどうでもよかった。
 家主はケトルに水を汲み、立ち働いていた。ちなみに楓は由緒正しいコーヒー党だが、カフェインを制限している穂高にはゆず茶など煎れてくれる。それが少し面映ゆい。
 楓は食器を取り出しながら簡潔に応えた。
「南アルプス突貫、最短距離」
「ふうん… ん? 突貫って?」
「山脈の下、掘るんだよ」
 えっ、できんの?! と慌てて標高図を開いていると、楓がこちらにやってきて、素早く資料をめくったり、ノートPCを操作してルート比較の地図を表示させた。
 JR東海肝煎り、というより国家主導プロジェクト、超電導リニアによる中央新幹線は品川から名古屋、はては大阪までの建設を予定しているが、とにかくルートで大揉めに揉めた。建設費や工事の難度、所要時間以外に、オトナの事情や政治の思惑も絡んで、だいぶん残念なことになっていた。が、二十年以上の騒動の末、ようやくルートが決定したのがつい数年前のことだ。
「このルート最大の難所は南アルプストンネルだな。計画では、全長25km」
「長っ!」
 楓は穂高の背中から標高図を覗き込むと、長野のこのあたりから、と地図の等高線が密集している箇所を指し示す。
「南アルプスの地下を突っ切る。その後はこっちの中央アルプスだ。こっちも20km超になる」
「…マジか。え、あれ、こっちの下にある線は?」
「中央自動車道、元はといえばこの高速の計画が日本で一番早かったはずだ。けど、全線開業は東名高速に抜かれた」
「へえ、最初って東名やないんか… え、抜かれたって、なんで?」
「技術的に難しかったからだ、トンネル掘るのが」
 ああ、なるほど、と納得していると、背中にかかる重みが増すのが解った。後ろから抱きしめられたまま、穂高はしばし地図を眺めていたが、図形の意味は消え失せている。
 楓は、いい匂いがする。
 そのうち、首筋に楓の唇が当たるのが分かる。生暖かくて湿った感触に、ぴくりと身体が震えた。そのまま、項を這う舌の感触に呼吸が浅くなる。思わず、かえで、と彼を呼ぶ。
「…まつげ、くすぐったい」
「我慢しろ」
 彼は取り合わず、柔らかく笑う。楓のしなやかな指が、穂高の胸や腹をするすると撫でる。それから耳の後ろを強く吸われた。ん、と穂高は息を詰める。


 このまま、振り返ってしまうと、きっとキスをするんだろう、と、思う。


 初めてではない。ちょっと前に初めてして、それ以上のこともすこし、した。穂高としても男相手にするのは初めてだったが、あまりそういうことは考えなかった。(オンナノコ相手だって、そんな大した経験値でもない。)
 ただ、唇は甘い、と。
 初めて知った気がした。でも、いま、振り返るのはあまりよくない。よくは、ないのだが。
 どうしよう、と迷っていると、ピー、っとケトルの笛が鳴って、ちっと楓が舌打ちする。穂高はそっとひと息吐く。
 渋々とキッチンに向かう楓の方をなるべく、見ないようにした。彼に触れられた部分が熱い。中途半端なことになっているのはよく解っていたし、彼がそれに焦れているのも解っていた。だが、


「あさひ!」


 その声が、胸に刺さった。
 楓はひょいとこちらを振り返ると、尋ねてくる。
「おまえ、まだ腹減ってる?」
「…あ、いや、大丈夫」
 その先に進まないのは、まだ、彼に言えないでいるからだ。
 本当の名前を。
 呼ばれるたび、違うんだと動揺し、何度か告白を試みたが、穂高にはどうしても決心がつかなかった。ただでさえ、別の意味で決壊しそうなこの関係は、その秘密の暴露できっとまったく違うものになる。恐らく、悪い方へ。
 そう思うとますます言い出せず、こうしてまだ惑っている。
「冷え込んで来たな。もう冬コートの時期か」
 そう言いながら、戻って来た楓はゆず茶のマグを穂高の前に置いて、隣に座る。
「…おれ、コート持ってへん」
「は? なんだって?」
「え、あ、いや、なんかコート… あんまり必要なくって…?」
 穂高は元来とても暑がりなのと、そもそも外出はほぼ仕事&トレーニングと同義なので、厚着をしない。走っていることも多い。そのため、あまりコートを着用することがないのだ。
「意味がわからない」
「…せやな」
 まあ、さすがにそれもどうかと思っている、というより祐輔や聖に言われているのだが。おまえね、と楓は大きな溜息を吐いた。
「社会人でそれはマズイだろ。明日、買いに行くか」
「あ、明日は病院、経過観察で…」
「その後は?」
「…うん」
 マグを両手で持ちながら頷く。それでも簡単に明日の約束をする自分は、いったいどんな嘘吐きだろうと思う。でも穂高に断る選択肢などなかった。
 気付けば、楓との距離はほぼ0センチだ。触れあった二の腕や太股から伝わる熱に、また少しずつ浸食されていく。しばらく二人、その温度と深度を味わっていたが、楓がそっと尋ねてくる。
「足、経過はどうなんだ?」
「うん、フツーに順調やねんけど、筋肉に傷が付いたし、足は体重がかかるから、念のため長めに観察しようって言われてて」
「そうか。そうだよな。てか、そもそもそれ、どんな怪我?」
「え、あ… 割れた木片が飛んできて、脛に刺さった、というか…」
「マジか! なにそれ、すげえ物騒だな」
 まあ物騒だ。場所によっては選手生命ではなく、ホンモノの命に関わったのかも知れない。具体的に状況を想像したのだろう、綺麗な顔を歪めた楓に、穂高は曖昧に肯った。
「でも傷はもう塞がったし、リハビリも細かく面倒みてもろうて…」
 ぼそぼそと言い募っている間、彼が自分の左足を注視していることに気付く。その、酷く冷徹な眼差しに少し、気後れする。ただそのまま沈黙できる胆力もなく、「なん?」と尋ねれば、彼はその尖った顔のまま訊いてきた。
「その傷、見ても良い?」
 ああなんだ、それくらい、と。「別にええけど」と応えた時点で、穂高ははたと気付く。左脛のその傷の位置からして、ジーンズの裾を捲り上げるのではなく、脱いだ方がいい。
 それくらい、なら…
 それ以上考えたらいけない気がして、穂高はマグを置いて立ち上がると、思い切りよくジーンズを脱いだ。別に、患部を見せるだけなのだし、と。自分に言い聞かせながら、ふと楓の様子を窺ってみれば、本当に眉一つ動かさなかった。おかげでその真意はまったく読み取れず、穂高は下着姿のまま楓の隣に座り直すと、左足を差し出した。
「ここ」
 折れたバットが刺さった傷は、引き攣れた跡を残している。元々、穂高は色黒だが、さすがに日やけしない位置なので、皮膚も薄く、青い血管が浮く脹ら脛の傷跡は無闇に目立った。
 二人でしばらくそれを眺めていたが、楓はまた尋ねた。
「触ってもいいか?」
 …なにを、と聞き返すのは野暮だ。うん、と穂高が頷くとの彼の指がそれに触れるのはほぼ同時だった。
 傷跡をそろそろとなぞる彼の指先に、互いの意識は集中していた。ひやりとした指先の温度とさらさらとした感触に、腹の底がさわさわとざわめく。彼の指先を追いかけるように、ほぼ完治しているはずの傷が熱く、甘く疼くような気がして、穂高は息をひそめた。
 どくどくと脈動の音さえも聞こえそうな程の静寂。
 互いの熱く浅い呼気を感じて、ああ、これはよくない、と思ったのに身体は動かない。と、
「あ」
 声には、ならなかったかもしれない。
 内股をすっと撫でられ、股を開かされた。楓の唇が患部に触れる。さすがに左足に力を込めたが、ぴくりとしか反応しなかった。疵を舐められる。ちょっと待て、と制止するのと同時に押し倒された。
 楓は意外にもしっかり筋肉がつくタイプで、実は穂高とウェイト差があまりない。無論、穂高の筋力であれば振り払うのも難しくはなかったが、その重みと熱に胸が震えた。そのまま唇を奪われる。
 侵入してくる彼の舌を受け入れて、ほとんど必死に応えていると、彼の手が下着の中に入ってくる。「力抜け」と囁かれても、本当にそうしたら、ぐずぐずに溶けてしまうだろう。
 それは、それでは。そうなるわけには。
「ま、待って、って」
 なんとか声を出すと、当然、拒否される。
「無理言うな」
「あ、あした、びょういんいかないと、」
 病院という単語に、楓の瞳が険しく陰って、手が動きを止める。「クソ」と苦々しい声が聞こえて、慌てて穂高は言葉を継いだ。
「つぎ、次のとき、なら、」
 いいからと、言う自分に、内側の別の自分が『いいのか?』と尋ねるが無視した。楓は溜息を呑み込むと、穂高の耳元で囁く。
「…次、は、いつ?」
「ら、来週」
 ほんとうに? と聞き返す彼の顔はあまりに真摯で、美しかった。
 うんうんと何度も頷きながら、穂高は最後通牒が来たことを感じていた。




  嘘が、嘘に、うそ、を










  ◆◆◆◆◆◆◆










 彼に隠し事をされていることは、薄々勘付いていた。


 おそらく、身分というか正体に関することで、けっこうな重大事であろうことも想像が付いたが、楓は敢えて追求しなかった。非常に魅力的なサンプルではあったが、プライベートなことだし、当初は彼とそれほど深く関わることもないと考えていたからだ。が、途中からはもう、そんな事はどうでもよくなった。
 別に彼が何者であっても、どうでもいい。
 もう、どうしようもない。




 測定の待ち時間、楓は研究室の作業台にばらっと写真を撒いた。
 彼の投球テストから、一緒に出掛けた先で撮ったものが主だ。写真は家族の影響で始めた趣味で、部活動としては中学から大学の教養までバドミントン部に所属していたが、本人としては写真の方が好きだった。そしてデジタルで撮影したとしても、やはり写真は現像してなんぼだと思っている。その中の一枚を手に取る。
 改めて見ても、いい投球フォームだった。
 流れるようなワインドアップは軸もぶれず、まさに正統派。おそらく相当な鍛錬の賜物だろう。また、その身体能力は折り紙付きで、群を抜くとはこういうことか、とため息が出たものだ。


 新しい生きもののようだ、と思った。


 厳選された素材を、研ぎ澄まされた技術で組み上げた、精緻な工芸品のような。
 純粋培養、徹底的に訓練され、磨き上げられた高級品。
 職業は肉体労働というので、最初は遠洋漁業の漁師かと想像していたのだが、その後、ひょっとして武道か伝統芸能なんかの旧家の出か、と思った。由緒ある寺か神社の可能性もある。古都ではそんな出自の人間もちらほらいる。
 結局、彼の正体は分からないまま、気が付けば後戻りは出来なくなっていた。
 非常に狭い世界で育ったような世間知らずな面と、たまに見せる妙に世慣れたところのアンバランスに興味を持った、のだろうか?
 楓としても、自分が好奇心旺盛な質だというのは解っていたが、まさか男に惚れるとは思わなかった。少なくともこれまで、自身の性癖を疑ったことはなかった。というか、容姿のせいでその手のことに巻き込まれた経験を思い出すと、むしろ敬遠していた。
 なのに、あっという間に溺れていた。
 二度目に逢った後、煙草を辞めた。
 四度目の約束をした後、付き合っていた子に連絡して、別れ話をした。好きな人ができた、と言った。


 ひとを すきに なった




「しかし、どこがいいんだろうな、ほんと」
 骨格だろうか。まさか!
 と自問自答する。我がことながら本当にまったく心外だ。完璧な投球フォームの写真を手に、楓がしみじみと呟いた時だった。
「あれ、小林穂高じゃん」
 そう言ったのはM2の先輩、高瀬湊だ。湊は作業台の上の写真を眺めながら、あれか、変化球の軌道のやつか、と笑う。楓は一瞬、息を呑んだ。
「え…?」
「や、小林穂高だろ、それ」
 湊はひょいと写真を取り上げる。湊は元高校球児で、県大会で今はプロ入りした某投手のノーヒットノーランを阻止した、というのが持ちネタだった。経験者ということで、テスト投球にも付き合ってもらったし、いろいろアドバイスもくれていた。
「良いフォームだよな。山科、知り合いだったのか。すげえな」
「こばやし、ほたか?」
 まず、山の名前だと思った。
 湊は記憶を探るように、首を傾げつつ続けた。
「あれ、違ったっけ。ほら、一昨年かその前の… 優勝投手だろ、夏の」
「ゆうしょうとうしゅ」
「超高校生級のダブルエースって、ちょっと話題になっただろ。こっちが右腕で、もう一人、左腕がいて」
 楓自身は野球自体にはそれほど興味がないので、そこまで聞いてもその情報に心当たりはなかった。しかし、血の気が引くのがわかった。思い当たる節が… ありすぎた。
「甲子園で優勝、なら… ドラフト候補、とか」
「そうそう、二人いっしょにドラフトかかって、左腕は○○だったかな? で、この小林の方が△△に指名されて」
 左の方は柳澤だっけ、偶に見るだろ、名前、と言う湊に、楓は頷くこともできなかった。
「コレ最近の? 近頃、聞かないけど、どうしてんの?」
「…怪我を、したって言ってました」
「あ、そうだ! そういや、打者のバットが割れて、足に刺さったとかだっけ。怖ええよな。あ、そうか、小林ってこっちの出身だっけ」
 ビンゴだ。
 もう、湊の声も遠い。


 彼の、正体が分かった。




 少し調べただけでも、”小林穂高”の情報は山のように溢れていた。さすがに夏の甲子園で優勝したとなると情報量は桁違いだ。当時のチームの構成やその戦歴は目を見張るものだった。まさに圧巻。その中心たるダブルエースの経歴も燦然たるものだ。
 そして、小林穂高の持つ記録で特に目をひくのは、二年時の県大会決勝で記録した21奪三振だろう。
 27個のアウトを取る野球というゲームで、27分の21だ。
 検索すればあっさりと動画も見付かる。あまりに鮮やかな奪三振劇。最後の一球が打者のスウィングをかいくぐり、キャッチャーのミットに吸い込まれる。怒号のような歓声に、球場全体が揺れていた。


 目に痛いくらい蒼いあおい空の下、金色に輝く球場で「彼」は右手を突き上げた。


 こんな少年は知らない。
 この少年は、楓の知っている”小林旭”ではない。
 それでも、恐らくこれが彼の本体だ。どこかで、気付いていた。白球を投げるため、野球をするためだけにつくられた、おそろしく優秀で精密な、最新鋭の戦闘機。


 でももう遅い。
 もう、好きになってしまった。




「…次、は」
 次に会うときの彼は、誰だ?



















































 やっと書けたよ、馴れ初め話!! と思ったんですが、なんかこう…これで恋が始まるのが不思議です。おかしいな。
 中身はただの理系ヲタクと野球ヲタクの恋というか。(身もふたもない) やっぱりどう考えても楓さん気の毒なので、なんかもう好きにして良いよと思っています。がんばれ!
 でも理系男子のデートコースとしては、けっこうよく書けたと思います。うん…


2018.1.6収録



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