◇◇◇◇ もちろん実際の個人、団体、出来事とは一切無関係です。まったく関係ないよ!! ◇◇◇◇













  緊張ジャンキー


















 その日は朝から寮の空気が浮ついていた。


 小林穂高は歯を磨きながら首を傾げる。
 取り立てて誰かが騒いでいる様子もないが、むずむずといういか、わくわくといういか、落ち着かないこの感じ。記憶にある。しかし何なのか思い出せない…
 据わり悪さを抱えながら、穂高は朝食に行こうと隣室の健人をおとなうと、珍しく不在だった。じゃあと更に隣の祐輔の部屋をノックしても応答がない。あれ? と再び首を捻っていると、後輩だが同学年のまっちゃんが通りかかった。ちょうどいいやと連れ立って食堂に向かいつつ、彼に訊いてみることにした。
「なんか今日、ちょい雰囲気ちがくない? みんなそわそわしとるいうか…」
 そう言うと、まっちゃんは「おまえね」と言いさして、ちょっと呆れたような顔になった。もちろん他に人が居るときは違うが、同学年以下のメンツの時はタメ口である。濃茶のくせっ毛をわしわしとかき回しながら言うには、
「そりゃそうだろ、今日は抽選会だもんよ」
「は?」
 ちゅうせんかい…? と脳内で反芻し、穂高はようやっと気付く。
「ああッ」
 そうだった、今日は夏大の組合せ抽選会である。穂高の母校は一週間前、地方大会決勝でライバル校に敗退し、後輩達を慰めた記憶も新しいが、そういえば本番がこれからだった。高校時代は関東大会で顔を合わせたまっちゃんの母校もベスト4で涙をのんでいる。一方、ケントと祐輔の母校は甲子園の切符を勝ち取っていた。
 当たり前だが、あの頃と今は陸続きだ。他の同僚達の母校も悲喜こもごも、なおかつ血縁や関係者も山と居る。当事者ではなくとも重大な関心事だった。
「そっか、なるほど…」
「祐輔さんなんか、張り切りすぎて目が覚めたってさっき出てったぞ」
「…なにに張り切る気ィや」
「神頼みじゃね?」
 そう、組合せばかりはどうにもならないから、神頼み以外にすることはない。お百度でもする気か、間に合わないだろと言いながら、二人は食堂に入っていった。方々のテーブルから抽選会の話題が漏れ聞こえる。
 夏の頂きはもうすぐだった。




 オフだというのに、午後の談話室はいつになくごった返していた。皆、各々スマフォやタブレットを手にしている。また電子機器が得意な連中が、部屋のテレビをネットへ接続しているところだった。
「生放送あんの?」
「ああ、○○サイトのライブ動画配信やて」
「昔は抽選会、朝やってんで」
「ドラフトとかもそうだろ、最近は夕方にやって観客呼ぶし」
 口々に皆、抽選会を話題にし、エアコンの効いた部屋の温度が上昇しているようだった。
 それを横目で見ながら穂高は自室に向かった。抽選結果が気にならないわけではないが、あとで確認すれば良い。皆がここに集まっているのは好都合だ。久々に恋人に電話しようと考えながら、寮の階段をほとんど駆け上った。


 電話しながら爪の手入れをしていた穂高は、ネイルクリームがないことに気付いた。
 そういえば相棒に貸したままだったことを思い出す。終話後、祭りの後の倦怠感漂う食堂で逢うだろうと思っていたら、その姿がない。あれ、と首を傾げた穂高は、てっとり早く近くに居た後輩捕手の三河を捕まえた。
「ケント、何処にいるか知ってる?」
「ああ、談話室で果ててます」
「え? なんで?」
 と聞き返すと、周囲の人間が一様にざっと振り返る。おや? と思っていると、知らないのかと驚いた様子のミカワは首を横に振った。
「俺の口からは言えません」
「…そんなに?」
「はい、そんなにっす」
 周りの連中も何とも言えない表情で深く頷くのでそれ以上は聞けず、穂高は談話室へと向かった。


 はたして、広間の片隅でケントの大きな背中が蹲っており、向かいに座った岸本が励ましていた。岸本さん、と穂高が声を掛けると、彼も首を振る。
 岸本は学年はひとつ上、入団は一年下の期待の右腕である。社会人時代に培ったマウンド捌きで一年目から一軍でも登板し、二年目からはローテ入りという次期エース候補だ。「どうっすか?」と尋ねた穂高に「ダメ」と即答する。
「なんか皆そう言うにゃけど… 俺、組合せまだ見てなくて」
「マジ? これこれ」
 岸本が寄越したタブレットで初戦の組合せを確認した瞬間、皆のリアクションが腑に落ちた。思わず嘆息する。ケントの母校の相手は秋の神宮大会では優勝、センバツは準優勝の堂々たる優勝候補だった。
「西の横綱と東北の雄、ゴールデンカードやて」
 軽い岸本の声を聞きながら、これは初戦が決勝戦といわれるヤツだ、と思いながら、穂高はまだテーブルに突っ伏したままのケントを見やる。納得感。
「あそこのキャプテンって、わりと毎年クジ運悪いような…?」
「夏の初戦でセンバツベスト4以上と当たるの3回目らしいで」
 あはは、と岸本は明るく笑う。ファニーフェイスで、若手の中では祐輔と女性ファンの人気を二分しているが、祐輔と張るくらいの肝の太さを誇っている。まあ、だいたい投手というのはそういう生きものだが。
 それにしても、
「今年こそは白河の関越えってゆうてたのに…」
「せやなあ、そろそろ獲ってもええじゃろとは思うけど。まあ、前はおまえに阻止されたかんね」
 こういうことをさらっと言うのも岸本ならではだ。彼が言うと嫌味にはまったく聞こえないが、当事者としては少しもにょる。
「や、阻止したのは俺やのうて圭一郎で…」
「妬かないの。俺なんか、そもそも最後は出とらんし」
 あっけらかんと言う岸本は、瀬戸内有数の古豪の出身だが自身の代での甲子園出場がない。それはそれで思うところがあるらしく、いくつになってもこの時期、チームメイト間で微妙なパワーバランスが生じる。やはりそれくらい…
 トクベツなのだ、夏大は。
「そう悲観してもしゃあないけどな。トーナメント戦はどうなるか判らんよ。特に夏の初戦はむっちゃ難しい」
 岸本の言はもちろんその通りで、穂高もそれはイヤというほど知っていた。
 ただ、今春準優勝校は黄金世代との呼び声も高い。そこと当たるだけでもプレッシャは相当なものだろう、一方で穂高は冷静に分析する。なおスポーツ界のみならず、そういう年が数年おきにあるもので、飛び抜けて優秀な人材が多い年がある。近年だとO谷F浪世代がそれに当たるだろうか。
「あとあれや、コイツの従兄弟だっけ、いるんやろ?」
「ああ、ほとんど弟みたいなもんゆうてましたね」
 ケントは長子で妹が一人いるが、近所に四つ下の従兄弟がいる。ケントに倣うように野球をやって、後を追いかけて名門校の扉を叩く。そして今年、ようやく兄貴分と同じく聖地に辿り着いた。背番号は二桁だがムードメイカとしての役割を担い、ケントの血縁ということもあって、ちょいちょいメディアにも取り上げられていた。
「晴れ舞台やないか。満員札止め必至の大一番、むしろ喜んでやれよ」
「…無理っす…」
 蚊の鳴くようなケントの声に、穂高も「しっかりせえ」とばしっとその背中を叩く。
「ま、現地は無理でも、見れたら皆で見ような」
 岸本の爽やかな笑顔で押し切られ、穂高は曖昧に頷く。まあ、天候もあるしスケジュール次第ではあるが、それはそうなるだろうとも思った。
 うううと呻くケントに「まあ、弟分を信じようや」と声を掛けながら、穂高はあの黄金色の夏の結晶のような球場を思い出していた。




「野球選手にとって一番重要なことは、野球が好きかどうかだ」
 とは、正捕手に定着した聖さんの談だ。
「どう考えたって厳しい世界だ。才能だけでこんな生活、続けられるもんじゃない。結局、好きかどうかなんだよ」
 だそうだ。現実主義のキャッチャーにしては意外にもロマンチシズム溢れた意見で、穂高もちょっとびっくりしたものだ。が、確かに周囲を見渡せば、どうやっても野球に人生を投資した連中ばかりで、それ以上でもそれ以外でもなかった。
「毎日練習して、試合やってて、明日も明後日も明明後日も野球やるってのに、オフに野球見るんだもんな」
「どったの?」
 訝しげなまっちゃんに、いやなんでも、と応えながら穂高は座り直した。
 決戦の日、同期を中心にチームメイトがケントの部屋に集合していた。テレビには陽が傾きかけた甲子園の空が映っている。大会5日目第四試合、大一番を控えて両チームはキャッチボールを始めていた。
「これからってことは、日没までかかるだろ、だいたい。線審っていつからはいんの?」
「17時とかでしたっけ?」
「暗さによると思うけどな」
「雨の日とか、朝からいてはりますよ」
「そういや去年、○○と△△の試合、すげー雨だったな!」
「1時間も中断したんすよー」
「俺んとき、降雨ノーゲームになったぞ」
「それ、しかも延長しませんでした?」
「そーそー、危うく再試合手前だったんやで」
 中継映像に三々五々、声が上がるが、一様にそこはかとなく緊張している。ケントのように直接的な関わりがある人間は他には居ないが、そこは一度は通った道で、数年前の自分たちに置き換えては思い出話にも花が咲く。
「…ケント、息してる?」
 岸本の声に、ケントが首を振った。酸素マスクとか準備しときゃよかったか?と呆れる祐輔に頷きながら、ミカワが麦茶のペットボトルを渡していた。
 テレビに映る各チームの選手と戦歴紹介と、センバツ決勝までの春の映像に皆の嘆息が重なった。見事なものだ。
「なんか、最近の高校生ってすごいっすね…」
「なに言ってんだ、3年前はおまえも高校生だったやないか」
「やー、でもなんか、こんなすごくなかったっすよ」
「うお、やべ、緊張してきた」
「自分で投げる方が、なんぼかマシやなー」
「ああ、それは思います!」
 ようやく画面が切り替わり、ダッグアウト前に整列するナインが映る。見慣れたユニフォームに全員が一瞬、口を閉じた。穂高も数年前、この場所でこのユニフォームと対戦した。懐かしいという感慨以前に、来たな、と思った。暴発しそうな緊張と興奮に、グラウンド全体が浮き上がって見えた。
 四人の審判がホームベース後方に並ぶ。両チームのナインが瞬時、腰を落とし、キャプテンの号令と共に駆け出す。綺麗な二列のラインが出来て、36人の球児が一斉に礼をして、


 試合が、始まった。




 大方の予想を裏切って、両チームの先発はエースではなかった。
 互いに甲子園常連校、練習試合も組む間柄だという。手の内を読んだ上で、当日の調子や打線との相性を見ての采配か。観戦するメンバーでそれぞれ予測してみるが、もちろん正解は分からない。ただ県大会でしたたかな攻撃力を見せたケントの母校や、西日本最激戦区を制圧した相手校の重量打線を鑑みるに、打ち合いになるだろうという予想も外れ、試合は投手戦になった。
 両チーム、ランナーは出るが続かない。卓越した守備力と四死球の少なさも相まって、7回までゼロ行進が続いた。ただ両先発に疲れが見え始め、選手層の厚さから、やはり西の横綱に分があるかと話題になった8回表。
 先攻は西の横綱、死球で先頭が出る。当然のように犠打、かと思えば強攻だった。この局面で、しかも今日は目立った当たりがない下位打線だ。皆が身を乗り出す。揺さぶりを掛けてから、疲れが見える投手を嘲笑うように成功するセーフティ、決まって無死一、二塁。
「ここだな」
 祐輔の言葉に全員が無言で頷くのが解った。
 そして投手が送って一死二、三塁。当たりの出ている一番に戻って、球場と室内の緊張は沸点に達する。
 ここで一番避けたいのはバッテリーエラーだ、とは岸本の談で、それは穂高も異論はない。落ちるボールにどれだけ精度があるか、追い込んだあとに使うなら高めの釣り球か、口々に言い合うみんながさあどうだと拳に力が入ったところで、インに入ったボールを打者が弾き返した。
「どうだ?!」
 というのは誰の声だったか。
 高くたかく上がった打球は、しかしスタンド前で失速する。全速力で追いついたセンターのグラヴに収まった瞬間、ミカワが「タッチアップ」と囁き、三塁ランナーがスタートした。
 ケントがぐう、と呻く。
 まっちゃんの舌打ちが聞こえた。
 ランナーは悠々とホームベースに辿り着く。


 …先取点


 規則正しくゼロが並ぶスコアボードに、1が。
 穂高の嘆息がもれた。
「落ち込むな、次や!」
 祐輔の叱咤にケントが顔を上げる。そうだ、ここで切れるかどうかで試合が決まる。しかし四球が続いて二死一、三塁の大ピンチ。ほとんど無言になったメンバだったが、リリーフした東北のエースが踏ん張って、1-0のまま試合は9回裏を迎えた。
 内外野のライトは既に点灯してる。
 白金に煌々と輝く美しい球場は、うっすらとした朱色の夕闇に浮かぶ船のようで。割れるように響く応援団のコールと太鼓をバックに打者はバッターボックスに入り、皆も前のめりになったままだ。穂高もカラカラに乾いた喉に炭酸水を流し込む。
 ここまで横綱の背番号10は5安打無失点、これ以上は望めない好投といっていい。まだ球威もある。ただし点差は僅か1、延長は後攻が圧倒的に有利なことを考えれば、慎重にならざるを得ない。
 結果、初めて先頭打者を歩かせた。「よっし!」とまっちゃんが手を打ち、ケントが無言でガッツポーズ。続く打者は捕邪飛に倒れるも、三人目にクリーンヒットが出たところで、今度は本物の歓声が上がった。
 こうなると球場の観客も応援に加わる。相手が近畿の名門校でも判官びいきは根強いし、なにせ東北の悲願を背負っている。こういうとき観客は残酷なのだ。穂高にも覚えがある。観客は公立校や新参者に味方しがちで、だいたいの強豪校はヒールだ。ケントの母校だとて、地元では立場が逆転するだろう。
 圧を感じる応援がスタンドに谺し、内野席まで打者を鼓舞する。それを真正面から受け止めて、それでも投手は投げるのだ。捕手のサインと野手の集中力と、己の腕を信じて。
 バッテリーはまだ冷静に見えた。無表情でサインを交わしたピッチャーはセットポジションにつく。滴る汗さえスローモーションで見える緊張の中、足が上がった。腕が、しなる。


「あっ」


 穂高の声は音になったか。まっちゃんの溜息がかぶった。ぼてぼてのゴロはショートへ、ゲッツーコース。過たず捕球した遊撃手から、セカンドベースに走り込む二塁手、ミットを構える一塁手へ流れるようにボールは送られ、試合がおわっ、
「えっ!?」
「はっ? セーフ?」
「なんで?!」
「あし、足!」
「外れてる!!」
「うっそ!!」
 一塁塁審のジェスチャに、全員がテレビ画面の目の前に折り重なるように集合した。
 うおおお、と言葉にならない咆哮は一塁にヘッドスライディングした打者が発したに違いない。騒然とするグラウンドに呆然と佇む一塁手と、くしゃりと歪む投手の顔がちらりと画面に映る。


 ダメだ。


 穂高は心の中で呟いた。その顔はダメだ。
 守備陣が浮き足立っている。切り替えよう、と、きっと声を掛けたであろう捕手の姿もぶれている。「まずいな」という岸本の言のとおり、代わった一塁走者は盗塁に挑んだ。
「まじか!」
「ここでかよ?!」
 これぞ勇気、という走塁は成功し、走者は両手を天に突き上げた。二死二、三塁。画面に映る球場は、二倍に膨れあがったようにさえ見える。
「伝令出るで」
「打者はどうする」
「代打!」
「誰?」
「背番号15、中田やて」
 そこで「ゆういち、たのむ」と囁いたケントの声が、妙にはっきりと穂高の耳に響いた。 
 この部屋に居る誰もが知っていた。


 打者にとってはこの一打席が、
 投手にとってはこの一球が、
 少年たちがこれまで、野球に費やした心と躯と時間を担保に、
 野球の神様が気まぐれに仕掛けた、決定的な賭けだった。


 神様は残酷だ。
 そんな事は知っている。無意識に、穂高の眉間に力が入る。マウンド上の投手の気持ちは痛いほど分かる。穂高も二年の秋、センバツを賭けた一戦でサヨナラの危機を背負ったことがある。


 そうして投げた一球は、


 息をするのさえ憚られるような緊迫の中、カウントが進む。1-3、まだベースは空いている。初打席のバッターはこの投手にあまり合っていないように見えたが、無理はしないか。誰かが生唾を飲み込む音が聞こえた気がした。
 ボールでも構わないというほど外にはずれた球を、しかし打者は迷いなく振り切る。


  キーン!


 と、夕空をつんざく音が響く。
「やっべえ…!」
「いけ!」
「越えろ!!」
「たのむ」
 幾多の祈りを載せて、白球は鋭角に飛んだ。
 照明に白く浮かぶダイヤモンドで、白いボールが奇跡のように内野を越えて行くのを、四万人の観客とその数倍の視聴者がただ、見ていた。


 それからの十数秒はコマ送りのように。
 ホームベースに駆け込んでくる走者がひとり、ふたり。2人目がホームベースを踏むと、次打者が飛びついた。タイムリーを放った打者をナイン全員が迎える。
 マウンドで膝を折った投手に、サードが手を差し伸べた。顔を覆いしゃがみ込む一塁手を、セカンドとライトが抱えるように助け起こした。
 試合開始時と同じように、しかし土まみれになったユニフォームの36人が並んで、礼をした。両チームの主将が歩み寄る。敗者の坊主頭を、勝者がぐりぐりと撫でた。
 東北の雄はホームベース後ろに並び、凱歌が流れた。
 ケントが低く歌う声が重なる。
 夕暮れの球場は歓声と悲鳴で膨張し、勝者と敗者は明確に区別される。
 それでも、万雷の拍手は両者に平等に、割れんばかりに響いた。


 そうして終わる物語があり、世界はただ美しかった。




 ばしばしと手をたたき合い、喜ぶチームメイトを尻目に、穂高はどうしても背番号10を目で追ってしまう。泣き崩れる少年たちがちらりと映って、思わず前のめりになると、
「大丈夫だろ」
 岸本がこちらを見ずにそう言った。
 こうも見抜かれていると、少し恥ずかしい。穂高は膝を抱えて座り直した。
「おまえは、ちゃんとリベンジできたやないか。あいつもきっと、取り返せる」
「…そうっすね」
 そうだといい。そうなればいい。
 あの日、サヨナラタイムリーを打たれ、ベンチに戻れない自分の背中を、当時の相棒はずっと支えてくれていた。そして、それから10ヶ月後、確かにふたりで夏の頂きを駆け上がった。
 穂高はあえかに微笑んだ。


 画面の向こうの聖地は、ゆっくりと夜に沈んでいく。
 明日の試合予定が映し出されるテレビの前に、祐輔がきりりと立ち上がる。
「よおっし、今日は飲むで!」
「いやちょっと、まだ初戦ですよ!」
「ええやんか、もう飲もう」
「それ祐輔さんと岸本さんが飲みたいだけでしょ」
 高揚に囀るようなやり取りを続ける仲間の声を聞きながら、穂高の瞼の裏で、夢のように飛んだ白球が鮮やかに甦る。








 ◆◆◆◆◆◆◆








「引退?」
 心底意外そうに眉を顰めた彼に、穂高は浅く頷いた。
 こちらの表情に察するところがあったのだろう、彼は問いを重ねることはしなかった。ぼちぼちと手元のスポーツ紙に視線を戻す。
「あいつなら、他から声がかかりそうなもんだが… そうか…」
 少し目を伏せると、長い睫毛の影が出来る。穂高はひとつ頷いた。
「やり残したことが、あるんやて」
 ゆっくりと、はっきりと。ケントの言葉を繰り返す。
「日本一に、なるんやて」
 一瞬、何のことか解らない、という顔になったが、次の瞬間、彼のアーモンド型の瞳が大きくなる。
「なるほど」
 そうひと言、呟いて、彼は紙面を眺める。ただきっと文字を読んではいまい。もう一度、なるほど、と聞こえた。
 ストーブリーグを迎え、職場周辺はひどくざわついていた。その中で、今の相棒が下した決断は穂高の心にひりついて、何年か前の夏を思い起こさせた。
 あそこに帰るのだとケントは言った。
 あの、夕暮れを切り裂く白球と、祈りの。
「まあ… そうだな。いいかげん、関を越えてもらわないとな。できんだろ、あいつなら」
「うん。そんで、胴上げされて、自慢されるんやろなぁ」
 ふふっ、と笑った穂高をちらりと斜め見し、彼は言い放った。
「おまえも引退したら?」
「は、はい?!」
「そろそろいいだろ、もう。日本一にはなったし、開幕投手とかS村賞とかは無理そうだし」
「なっ、なにそれ、ひどくない?!」
 抗議する穂高には応えず、「ああ、でも」と彼は再びスポーツ紙を眺めながら、


「柳澤に勝つまでは待ってやる」


 とだけ。
 結局、どうしようもなくて、穂高は笑った。



















































 読みは(すとれすじゃんきー)です。ちょいと無理やり。  いろいろあってたいへん公開し辛い一編でしたが、なんだろう、良い試合だったんですよ、ほんとに…接触事故はほんとうにただの事故だと…!!でも外野の私が言ってもしょうがないので…(ポジションではなく)(笑うとこです)
 ただ、それでも劇的に幕は下り、少年たちは新しい朝を迎えるのだけは確かで、野球を嫌いにならないでいてくれればいいな、と、それだけを祈っています。


2018.4.8収録



Up

*Close*