“神様イミテーション”












  神様イミテーション 








 京都の夏は暑い。


 と、方々で言われているし、自分も言うのだが、実際問題なにが辛いのかというとやはり湿度だろう、というのが楓の結論である。ただ、夜になれば山から川に風が通り、気温も相応に下がることを考えると、アスファルトの灼熱地獄で30℃を切らない超熱帯夜が続く東京や大阪の夏の方がキツイのだが、この盆地の夏は楓の周囲で不評を独占している。まあ、大都会の人間は外に出ないのだろう。
 しかし、このしつこい蒸し暑さと底冷えのする冬の寒さを悪し様に言うわりに、京都に住んだことのある連中はこの街に愛着を持っていて、戻れるなら戻りたいと言う。(卒業生達の談だ、楓調べ。)
 これをツンデレと云うのだろうか? と、ポスドクの桃園に確認したところ、「用法としては合っています」とのことだった。
 そんな、うだるような盆地の暑さの頂点のような日の話である。




 先週、梅雨明け宣言が出た二日後に、夏はいきなり本番を迎えた。
 最高気温36℃の予報に、いつから体温より暑い国になったのか?と、山科楓は思わず声を出して突っ込んだものだ。最早、温暖湿潤気候の定義が危うい。その酷暑が数日続いたあと、ようやく通常の夏の気温になり、鴨川デルタも賑わいを見せていた。
 その日は土曜だったが、楓は朝から研究室に詰めていた。先週は少し早い夏休みだったので、その分を取り返す労働中である。妙な時期の休暇は、球宴には呼ばれなかった大家が少し残念そうに帰省してきたからで、一方の楓は願ったり叶ったりだ。相応に年も取ったので、若い頃のように四六時中、睦み合うこともないが、それはそれで久々の蜜月である。
 なのに、祇園祭でもなく滋賀大会三回戦と京都大会二回戦を見に行くあたり(高校野球の話だ)どうかしている。それでも大家が眩しそうに球児達を見るので、休暇の意味はあるのだろうとも思った。ただ、あまりの暑さに楓も既に夏バテ気味ではある。真っ昼間のあの気温の野外で高校生に運動をさせるとか、そろそろ狂気の沙汰であろう。高●連に意見書でも送るかと、楓は半分真剣に検討しながら文献検索でヒットした論文をプリントしていた。
 それにしても、プリンタが唸る以外の物音がしない。
 本当に珍しく津川研はほぼ無人だった。梅雨明けの開放感もあるだろうし、そもそも大学も既に夏季休暇期間ではあるので、院生や四年生達も土日は必要に応じて三々五々、顔を出す程度だ。とはいえ、この暑さだと下宿で悶々とするより冷房のある研究室で仕事をする方がマシ、という輩も多いのだが。
 それでも、午後からはボスの津川教授も顔を出すはずだ。今日から一週間ほど来日する共同研究者を案内するとかで、この湿度MAXの暑さに外国人が耐えられるだろうかと気を揉んでいた。それに関しては客人に努力してもらうしかない。と、楓が思い返していると、
 電話が鳴った。


 研究室の内線電話である。
 通常であれば四年生、院生が受けるが、今は人が居ない。そもそも、ラボの内線にかかってくるのは大学の事務か業者からの電話で、土日に誰から?と、訝りながら楓が受話器を取ると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「あれ、山科君? 今日いるの君だけ? そっか、あのね、今、出町柳の駅なんだけど」
「出町柳ですか」
 じゃあもうすぐ着きますね、と続ける前に津川が遮った。
「それが困ったことになって」
 後ろがいやに騒がしい。観光都市京都といえど、もっとずっと密度の高い雑踏のような。怒号に近い声まで聞こえる。
「どうしました? なんだかすごくうるさいというか、ん? 救急車ですか?」
「そうなの、どうも事件があったらしくて」
「ええっ!?」
 道路と地下鉄の駅が封鎖されているらしい、ということを聞き出して、慌てて場所を指定して電話を切った。客人はたしか南米か中米の研究者で、英語には不自由しないだろうが母語が違う者同士、この暑さにエマージェンシーとなれば、教授ひとりでは持て余すだろう。そして、今日の人気のなさはその事件が原因か、と思ったりもする。
 楓が理学部▲館から公道に出ると、確かに人が逆流していた。百万遍交差点では交通規制がかっており、更に混乱しているようだ。何だこれは、と思っていると通りすがりの人々の口から、「事件」「テロ」「爆発?」などと物騒な単語が聞こえてきた。
 テロ、とは…? 
 この国で聞くのは稀な単語だ。人波を擦り抜け、だいぶ大回りしながら駅近くのカフェに辿り着くと、「山科君、こっちー」と津川教授が手を振っている。店内も大混雑だ。
 ひとまず客人達と「ないすつーみーつー」と挨拶を交わす。南米からの研究者達は、この状況にも慌てず抹茶ラテに喜んでいる様子なのが救いである。
「何事ですか?」
「どうもね、銃撃事件なんだって」
「……はっ?」
 まさかここでその単語を聞くとは思わなかった。本当に。もちろん、発言している教授本人も首を傾げている。銃規制が徹底している現代の日本で銃撃事件が起こりうるとは、俄には信じられない。
「四条河原町のあたりだって聞いたけど」
「あんな街のど真ん中で、ですか? でも宵山や山鉾巡行は終わったばかりですし、今ごろなぜ……あ、」
 絶句する楓の脳裏に、ふと先ほど通った道の光景が過った。確か、いつもと違うものが視界に映り込んでいた。
「選挙、ですか…!」
 歩道の脇の植え込みで幅を取っていた立て看板、そういえば再来週に国政選挙を控えている。自慢はあまり出来ないが政治的な情勢に詳しくない楓でも、関西が微妙なパワーバランスで成り立っているのは知っている。大阪とは別の力学も働くので、京都では主要政党の大物政治家の演説も多い。
「うん、演説中だって話」
「だれが…?」
「●●元首相」
「嘘でしょう、この日本でそんなの」
 いや、津川が嘘を吐くわけもないのだが、反射的に応えてしまった。「だよねえ」と教授も溜息交じりに続ける。
「でね、更にマズいことに、捕まってないんだって、容疑者」
「…!! 逃走中ってことですか?」
「うん。だから非常線張ってるの。地下鉄まで止めてるのそのせいだって」
 それは本物の緊急事態だ。はっ、と気付いて楓はポケットからスマホを取り出すが、当然のように回線が混雑しているようでなかなか更新されない。これなら大学に戻ってテレビを見た方が早い。
 とはいえ、鉄道はインフラだ。それほど間を置かずに動き出してもおかしくないが、道路封鎖の方はしばらくかかるだろう。高速は今日中には再開しないかもね、と云う津川に軽く頷きつつ、誰か来ているかもと「ラボに電話します」と楓が出入り口から外に出ようとしたところだった。
「あら?! ガリレオ先生?」
 高い声とその呼び名に振り返ると妙齢の婦人がいる。キッチリと瀟洒なスーツを着てヒールを履いているが、両手の荷物がやたら重そうだ。
「早苗さん?」
「よかった〜! 先生、たすけて!!」
 と、ほとんど縋りつかれて、楓は彼女に気付かれないように溜息を吐いたのだった。


 電話は一度諦め、研究室のMLに事件発生の報だけ入れて、楓は赤谷早苗を伴って店内に戻った。客人達と京都市内の地図を覗き込んでいた津川が、ひょいと顔を上げる。
「早かったね。あれ?」
「えー、すみません、ちょうど店の前で偶然……こちら、赤谷投手のお姉さんです」
「ん、赤谷、ということはアカヤ紳士服の」
「はい、赤谷早苗と申します。こんなところですが、お目にかかれて光栄です。いつもお噂はかねがね」
 津川には既に大家のチームメイトも引き合わせている。桃園をはじめ研究室のメンバーと試合を見に行くほか、なぜか一緒に新年会をしたこともある。生粋のハマっ子である津川曰く、リーグが違うから気が楽、とのことだ。
 混乱の中、出くわした婦人は大家の同僚、赤谷祐輔の実姉だ。現アカヤ紳士服会長の次女でもある。祐輔は遅くに生まれた末っ子長男で、姉達とは一回り離れている。三人の姉は各々婿を取って家業に勤しんでいるそうだが、早苗は新規開発部門を担当し、特殊繊維の開発等も手掛けている。弟と新素材のウェアなどを試しているだけあって、楓とも顔を合わせる機会があった。
 南米の客人達に津川が簡単に解説する横で、楓は早苗に問い掛ける。
「今日はお仕事ですか?」
「そうそう。最近は日常に和装をってコンセプトで、絹以外の素材も試してるんだけど。今日は馴染みの職人さんのところに伺ったらこの騒ぎで……車も出せへんようになって、往生してたらちょうど山科先生が」
 彼女の足元にうずたかく積まれた荷物は、その新素材と諸々資料なのだろう。書類ケースや、おそらくノートPCやら図面などもあるに違いない。
「あっ、失礼しました。この暑さで大変でしたでしょう」
 と、津川が腰を上げる。ご婦人を立たせてはいけないと、レディファーストを叩き込まれている紳士達は、進んで席を空けて早苗を座らせた。外はまだ混乱が続いているようで、店内は更に人が増えている。
 周囲も事件の話でもちりきりで、楓もさすがに眉を寄せた。
「しばらく車は無理でしょうね。お戻りは大阪ですよね?」
「そうねえ。電車でこの荷物もキビシイかなあ」
 この混乱では社員を呼ぶにも難しいだろう。
「しゃあないね、実家に寄ることにします。誰かいてるかもしれへんし」
「実家、というと、祇園の?」
 噂に聞く赤谷会長宅であろうか。塔頭と見まごうお屋敷という、と楓が云うと「古いだけよう」と早苗はカラカラと笑う。祇園なら本来、地下鉄であれば3駅ほどだ。
「ま、あそこなら歩いてもなんとか」
「それでもそのお荷物では大変でしょう。山科君、手伝ってあげたら?」
 う、やはりきた、と声に出さずに呻きつつ、楓は何とか「そうですね」と頷いた。




 ひとまず、改めて研究室に連絡すると桃園が来ていた。また、このあと学生達も顔を出すとのことで、手の空いてる男子が来たらこちらに寄越すように頼む。客人達は早苗ほど大荷物ではなかったが、この状況下なので人手はあった方が良い。
 その他、事件について桃園に尋ねると、まだ容疑者は逃走中であるらしい。被害者は救急搬送されたが意識不明という。警察の威信にかけて徹底した捜査が行われるだろうが、厄介だなと舌打ちしたい気分で楓は電話を切った。
 往来の人の流れは少し落ち着いたようだが、それはあまりの暑さに人が屋内に避難しているからだろう。楓が汗を拭いつつ店内に引き返すと、津川達が待つテーブルは何やら盛り上がっている。卓上には早苗が持っていたのであろうサンプル類が並べられ、日本の民族衣装、つまり着物の概説が行われており、客人達は「あめーじんぐ」やら「びゅりふぉー」やら歓声を上げているではないか。
 なお早苗は赤谷家では唯一、関東の大学を卒業したそうだ。ずっと京阪に籠もっては視野が狭くなる、とは本人談だが、かなり珍しい。(京都の女子は京都至上主義者が多い印象だ。個人の意見である。)おかげで相手に合わせてすぐ関東弁多めに切り替えられるあたり、バイリンガルの素養もあるが、まさかスペイン語混じりの英語を相手に日本文化と自社製品の宣伝とは。早苗のコミュ力に感心していると、津川がこちらに気付いた。
「お疲れさま。誰か居た?」
「はい、桃園君が来てました。これから他のメンツも来るらしいので、荷物持ちを要請してあります」
「ありがとう。事件のほうは何か展開あった?」
「それが、容疑者はまだ逃走中らしいです」
「そうかあ、厄介だねえ」
 これは午後はもう、研究室と大学の案内だけにした方が良いかな。ですね、と津川とやり取りしつつ、頃合いを見計らって早苗を促す。その際、津川と客人達に赤谷呉服店のショップカードを渡すあたりも抜け目なかった。「しーゆー」「はばないすでぃ」と挨拶を交わす早苗をエスコートし、楓はまた炎天下の街に出た。
「先生、ほんとにありがとうねー」
 早苗から荷物を受け取る楓に、きちんと礼を言うあたりもさすが社長令嬢である。
「いいえ。情けは人のためならずです。早苗さん、ヒールで大丈夫ですか?」
「これくらい平気よう。あ、これね、歩きやすいハイヒールってね、うちの新製品なんよ」
 息を吸うように宣伝が付いてきて、商魂たくましいを通り越して反射の素晴らしさは感嘆に値する。それは就活中の大学生に勧めてはと楓が応えると、既に大学生協には売り込んであるという話で、今度こそため息が出た。
 ちなみに、祐輔はじめきょうだいの母校の制服については、既に幾つかをアカヤ紳士服が手掛けているという。コネではなくきちんとコンペで勝ち取った、と祐輔が鼻息荒く宣言していたが、そういうところに手を抜かないのは見上げたものだ。流行に合わせたカスタマイズや型崩れしづらい素材の制作と試験など、楓にとっても興味深い話がほいほい出てくる。早苗の連れ合いが繊維関係の研究者だそうで(開発部の社員なのだろうか?)、そのあたりも話が合う要素なのかもしれなかった。
 しかし、出町柳から祇園はほぼ南へ直進するだけだが、昼下がりの京都は猛暑を通り過ぎて酷暑である。燦々とした夏の陽射しに古いガラスを通したように街の景色が揺らぎ、息を吸い込むだけで暑い。たまらず「帽子か日傘が必要ですね、これは」と楓も弱音を吐いた。
「さすがに車や思うてたからなあ。あ、今ね、猛暑対策で体感温度が下がる素材もいろいろやってて。男性用の日傘も出すつもりなんよ。先生、一本どう?」
「ええっ」
 このまま早苗と一緒に居ると新製品の一つや二つ買いそうだと思っていると、ようやく三条駅の交差点が見えてきた。
 しかし、そこは更に仰々しい光景が広がっている。河原町の現場が近いのだから当たり前だが、パトカーや警察官、その数倍はある普通車と人だかりに、楓が思わず後ずさりすると、「センセ、こっち」と早苗が脇道に入る。そこからは猫の通い路のような細い通りを潜って、気付けば知恩院と八坂神社の近くまで来ていた。
 さすが地元民と思っていると、楓が塔頭だと思っていた塀の通用口の前で早苗が立ち止まった。「まじか」と自然と口にしたそばから、扉が開く。
 鷹司の言葉は嘘ではなかった、な。
 と、久しぶりの顔を思い出しながら、楓は早苗に続いて門を潜った。






「おかあちゃん、いてるー?」
 と、まったく門構えや自らの装いとほど遠い呼びかけをする早苗の後ろから、楓は赤谷家に恐る恐る足を踏み入れた。由緒正しい平屋の日本家屋の他、慎ましやかな(それでも小林家より広い)二階建ての住宅があり、早苗はそちらにとんとんと入っていく。
「さなえ? どうしたん?」
「あれっ、百合ちゃん」
 玄関先に現れたのは和服の清楚な雰囲気の女性で、早苗と祐輔の姉、長女の百合だった。
「あら、ガリレオ先生まで。相変わらずシュッとしてはりますねえ、目の保養やわぁ。あっ、ひょっとして早苗、巻き込まれたん?」
「そうなのようー。車出されへんようになって、出町柳で偶然、先生に逢うて荷物持ちしてもらったの」
「いややわ、先生、ごめんなさいねえ」
「や、いえ」
 はいちょっと上がって、こっち涼しいから! 百合ちゃん冷たいもんある? ちょっと待ち、あんたもそれ脱ぎなさい。などなどとかしましい。ちなみに赤谷きょうだいは全員正統派の美形だが、中身は全員(祐輔含む)関西のおばちゃん成分が7割である。
 豪勢だが生活感のある(要するにそこそこ散らかっている)客間に案内され、アイスティーなど具されたところで早苗がはっと気付く。
「あ、せやった! ニュース! どうなっとるん?」
 はっ、と楓も顔を上げる。桃園との電話から1時間以上は経っている。そろそろ進展があってもいいはずだ。はいはい、と百合がリモコンで大きな液晶テレビのスイッチを入れると、慣れ親しんだ街の見慣れない様子が大写しになっていた。立ち入り禁止の黄色いテープが貼られた往来は当時の混乱を示すように荒れている。まだ多くの警察関係者とおぼしき人々と、それを取り巻く報道関係者、更にはそれ以上に多数の野次馬も写していた。
 この真夏日に気が知れないわね、という早苗の嫌味には頷くしかない。テロップには『元首相銃撃』『容疑者は烏丸方面に逃走中』『集中治療室に搬送』の文字が見て取れる。
「まだ確保されていない、ということですね」
 楓の苦々しい呟きに、百合が眉を顰めながら続ける。
「河原町て、選挙の時はよう演説してはるけど、今日、Aさんが来はるいうんはどこでわかるんにゃろ?」
「各政党・候補者が宣伝すると思います。最近はネットもありますし、WebサイトやSNSでも流すと思いますが、でもこの手の宣伝なら一番、ビラまきなんかが効果的でしょう」
 まだネットに馴染みのない世代も多いのだ。そして日本の場合、票田はそこにある。楓の談にご婦人方も肯う。
「せやねえ。あれだけ有名な政治家さんなら、分刻みで移動して、いろんなとこでやるんとちゃう? 予定変更も多そうやし」
「だから普段から人が多いところでやるんやない。河原町ならお昼頃、ぎょうさん通行人もいるでしょう」
 おそらくそうだろう。そもそも街頭演説に駅前が多いのはそのせいだ。また政治家たる者、それで身を立てているわけで、その声で、言葉で、支持者ではない通りすがりの市民の足を止めてこそだ。本来は。
 今回のA氏も、京都駅前や烏丸と回るコースが予定されていたようだ。ニュースは京都の現状を伝えるカットから首相官邸、議員会館などに場面を移している。少し、青ざめているようにも見える現首相や、眉間の皺だけが深くなる官房長官は「暴力は決して許されない」と繰り返している。野党からも「民主主義への挑戦だ」との声が出ているようだ。しかし容疑者が確保されていない今、まだ情報が錯綜しているのだろう、単独犯なのか複数犯なのかさえ曖昧である。捜査のため、詳しい情報を流さない警察の思惑も見て取れた。使われた凶器も見つかっておらず、現場付近の立ち入りや交通規制が続きそうな気配に、楓はまた溜息を呑み込んだ。
 カラカラとグラスの中で氷が音を立て、百合は溜息を吐きながら、今度は温かいお茶の準備をしている。
「でも、なんや意外いうか、信じられへんけど……なんでAさんなんやろ」
「まあねえ、どうせならB首相か、C防衛大臣のほうが有り得るゆうか、納得感はあるかも」
 今回標的になったA氏はタカ派として有名だったが、過激派の活動が続いているような時代ではない。総理大臣の職を辞してもう六、七年にはなるか。元首相としての影響力は無論あるだろうが、正直にいえば過去の人である。政界のフィクサーにしては表に出過ぎているし、愉快犯であれば、現在の元首や派手な言動と血筋で目立つ大臣のほうが有り得るだろう。
 犯人像がやけにぼやけている。
「何のために、か……」
 早苗の呟きが、興奮するレポータの声と真逆の高さで妙に響いた。
 なお、百合によって次々と和洋菓子が出されているが(赤谷家へのお中元由来だろうか)、被害者の容体や今後を思うといまひとつ食指が、ということもなく、有名洋菓子店はソルベまで美味いんだなと感心しつつ楓はニュースを聞いた。これも生きてこそである。
 それでも、世界遺産の密集する元首都での元首相銃撃事件など、前代未聞である。さすがに早苗がインテリ女子らしい発言をする。
「首相経験者の暗殺事件なんて、二・二六事件ぶりやないかしら」
 先の大戦以来、じゃなくてよかったです、と口に出そうとして思い止まる。巷に流れる京都人を揶揄する軽口のうち、楓が実際に耳にしたものはほとんどないが、この二人なら「先」が応仁でも不思議ではない。
 いやさ、それだけ重大事件ではある。
「これだとまだ、しばらく交通規制もかったままかも知れませんね」
 楓の評に「そうかも、車どうしよう」と声を上げた早苗が、はっと改めて気付いたように百合に尋ねた。
「ん? そや、おかあちゃんらは?」
「それがね、あんたと同じで、たぶん巻き込まれてはるんやないかしら」
 煎茶を二人の前に置きながら百合が言うには、赤谷会長夫妻は祇園祭関連の用事で街に出ているのだとか。
「祇園祭、ってもう終わったわけでは…?」
「山鉾巡業がハイライトやねんけど、本来はね、7月いっぱいなの。うち、もともと呉服屋じゃない? 巡業と宵山、お稚児はんと、いろんなところに衣装は出してるし、古株だしで、まあ重鎮扱いなんよ」
 扱いというか実際そうだろう。確か赤谷呉服店は江戸時代から続いているのでは、と思いつつ、楓は百合と早苗から祇園祭のレクチャを受ける。
「31日の八坂はんのところでようやくお勤めが終わるにゃけど、いろいろと後始末もあるし、今日は四条烏丸に行かはって」
「それはまた、事件のど真ん中ですね」
 鴨川を渡るだけで何時間かかるだろうか。
 なお、現在の赤谷グループの主力はもちろん紳士服だが、創業の呉服部門は女系が受け継いでいるそうだ。つまり祭りのような行事にはご母堂が出向くのであろう。今は祐輔達の母親が束ねているというが、百合が基本的に和服なのはそのせいもあるのかも知れない。
「まあ、あの人たちのことだから平気でしょ。おかあちゃんなんか私より元気やし。あ、中国語始めるゆうてたね」
「もうヨーロッパのほうはわりと覚えてはるもんね。あ、そういえば今度は海外のお客さん向けの羽織をね、やっぱり日本人とは体格が違うから……そうそう、先生は和装はしはります?」
「は?」
 いきなり話が飛んできた。赤谷姉妹の会話はもはや飛び道具である。
「いえまったく……」
 山科家は雅な名前と正反対に服飾には無頓着である。とにかく機能重視で洗える衣類が最上であるので、和装はその対極にある。というか、そもそも正直、和服が似合うとはとても思わないのだが……
「なに言うてはるの!? もったいない!」
「贅沢言ってんじゃないわよ、そんだけのポテンシャル、ドブに捨てる気?!」
 非難囂々である。だが、楓としてもこれには一家言ある。
「やはり着物は日本人のための衣装だと思いますね。どうも違和感が」
「まあ民族衣装だけどね、ん? えっ、センセ、日本人やないの?」
 言われて楓自身も気付くが、そういえば教えた記憶はない。必要がなければ開示しないが、特に隠しているわけでもないので、はあと頷く。
「そうですね、クウォータです。父方の祖父がイングランド出身で」
 最近ではダブルと表現することもあるようだが、伝達するなら1/4だなと余計な事を考えたりもする。そんな事を言いつつ煎茶を啜る楓の目の前で、婦人二人は大盛り上がりだ。
「もう、どうりでブリティッシュスタイルが似合うてはると思った!」
「そっかー、やっぱり純粋なモンゴロイドとは骨格から違うてるのかなー?」
 骨格…? と更に首を捻っていると、なら今度はあの型紙で、それなら○○の生地がとか何とか、違う話が始まっている。(なお先達て助教に採用されたときに、就職祝いと称した大家と二人でアカヤ紳士服でスーツをオーダーをしている。採寸や仮縫いでは祐輔はもちろん、三姉妹も加わって大騒ぎだった。余談である。)
 とにかく、早々に話を切り上げたい楓としてはめげずに続けた。
「ええっと、まあ和装の必要もないですし」
「あら、そうでもないですよ、ほら今日、先生の研究室にいらしてた南米のお客さまに日本文化を紹介するとか」
「え? いや、そういう分野ではないので、物理ですよ?」
「異文化交流は草の根から云いますでしょう?」
 今日の体験をさっそく活かす早苗に舌を巻きつつ、云うかもしれないが今じゃない、をオブラートに包んで言うにはどうしたら、と楓が悩んでいるうちに話が進む。
「まずはうちの新製品着てみません?」
「先生なら、きっとお似合いにならはる色柄のがあるんです」
「いや、そういうのは、まず祐輔君に、」
「祐輔はもう散々着せて撮りましたしねえ、新鮮味もないいうか」
 姉としては酷い言い様である。末っ子長男のモデルとしての素質は十分だと思うが、たしかにもう一通りは試しているであろうことも想像に難くない。そういえば結婚式の紋付き袴姿は赤谷呉服店のポスターになっていた。しかしこのまま流されてはいけない。楓は次の生贄を差し出すことにした。
「うちの大家はどうですか。もうスポンサード契約ありますよね」
「あー、ほたちゃんはね、細すぎてダメなんよ」
「単品で見れば、あんなバランスが取れたスタイルもなかなか見ないけど、和服となるとねえ……」
「案山子に布巻いた感じになるの」
「あぁ……わかります」
 もちろん商売道具だ、大家も熱心に鍛えているが、元々の体質なのかちっとも筋肉量は増えず、陸上の長距離選手のような体型のままだった。民族衣装とはもちろん、その土地の人間に会うようにつくられているものだ。着物は胴長寸胴でないとすぐ着崩れたりする。だいたい、穂高の腰の上で帯を結んだところで常人のウエストより位置が高い。思わず頷いてしまう楓に、ここぞとばかりに早苗と百合が攻勢をかける。
「ただね、今回は外国人観光客向けなんよ。それなら先生にうってつけ」
「そうそう、もう大学の先生も公務員やない云うし、副業してもええでしょう?」
「なんの話を、いや、あの、さすがにもう仕事が! 大学に戻らないと!」
 と、なんとか赤谷姉妹の追撃を振り切ったのだった。






 脱兎の如く赤谷家を離脱し、復活していた地下鉄に乗って楓はようやく大学に戻った。
 だいぶ街中の人ははけていたが、研究室の学生達に聞けば、やはりまだ方々で非常線が張られているらしい。職質をかけられる学生とそうでない学生の差はどこにあるのか、と盛り上がる院生室に赤谷家から持たされた菓子箱を積み上げてから、楓は自分のデスクに向かった。
 ネットで事件の概要を再確認しつつ、大家に今日の顛末を簡単にメールする。彼はこういうことの事後報告を嫌がる、というか、おそらく祐輔ルートで伝わるので、ちゃんと連絡すべしということは楓も学習していた。夫婦円満の秘訣である。
 すぐに「おつかれ。お姉さんらは元気だった?」と返ってきて、「元気すぎだ」とレスする。取って喰われるところだった、と打ち込みかけたがさすがに止めた。それより、問題は銃撃事件だ。少なくとも選挙期間中は厳戒態勢になるだろうし、大勢の人が集まる場所もそれに倣うかもしれない。新幹線や航空機の長距離移動は警備も変わってくる可能性があり、そうなると彼にも影響があるだろう。
 こんな時でも「気を付けろ」としか云えず、それ以外に出来ることを探しても楓に残るのは無力感だけなのだが、だからといって云わない理由にはならない。
「うん、気を付ける」
 と返ってきた返信に、後でちゃんと声を聞こうと思う。
 結局、本日の進捗は思わしくなかったが、楓はPCをシャットダウンして帰路に着いた。






 翌朝、楓が目にした最初で最悪のニュースは、昨日銃撃されたA氏が死亡したとの報だった。
 予想のひとつではあるが、さすがに気が滅入る。楓としても特に支持していた覚えはないし、むしろ価値観の相違を感じていた相手だが、これは民主主義国家としてあってはならない事件なのだ。
 そして二番目に悪いニュースは、まだ事件の容疑者が確保されていないということだ。昨夜から通行人が端末で撮影したらしき粗い画像が公開されており、容疑者とみられる男(おそらくそこそこ若い)の姿が繰り返し放送され、切り取られたらしき写真も新聞に掲載されていた。しかしほとんど人相も分からない画像では、容疑者を特定する望みはほとんどなさそうだ。きっと当局には玉石混淆、どころか、ほとんどガラクタの情報が寄せられているのではないか。捜査本部に合掌。
 しかし京都だけではなく全国の警察が躍起になっているだろうに、いったい何処に逃げたのか。楓は溜息を吐くと、新幹線で距離を稼がれると難しい、関空から海外の可能性を等と解説するニュースキャスタの顔を、プチンと視界から消した。

 物々しい、どころではない。
 7月終わりの日曜日、真夏日のK大キャンパスなど、本来なら学生と教職員、通りがかりの物好きな観光客しか居ないはずだが(暑過ぎて散歩に来る市民もいない)、その日は明らかに様子が違った。
 制服姿の警察官だけではなく、構内外にダークスーツの屈強な人影が散見され、地図や携帯を片手に数人で集ったり、忙しなく動き回っていたりする。少し前のサミット開催時の方がまだ長閑だっただろう。楓が守衛に会釈しながら農学部表門を通ると、「失礼ですが」と制服警官に声を掛けられ、IDをかざすはめになった。
 数理研を通り過ぎ、物理棟に入ったところで顔見知りの事務員(休日出勤だろうか)に出くわし、どうしたことかと聞いてみると、やはりどうやら昨日の銃撃事件に関係しているようだ。しかしなぜ大学に…?と、楓が首を捻りながら研究室への階段を上がったところで、津川教授ともう一人、和装の紳士が立ち話をしているのが目に入った。
「ああ、山科君、おはよう」
「おはようございます。日向先生、今日はお着物ですか」
 ボスの向かいに立っていたのは、地球惑星の日向教授だった。日向は端正な美貌で微笑むと「おはよう」と挨拶してくれる。いつ見ても隙がない。楓としては自分は混血故の下駄を履いているだけで、本物のイケメンとはこういう人のことを云うのだと密かに思っている。薄い織物の羽織に袴をキッチリ身につける姿は、それこそポスターになっていてもおかしくない。
「そうそう、日向先生、それ暑くないの?」
「それが意外にも帯を締めると汗は止まるんですよ」
 へえええ、と感心する津川の一方、つまり暑くないわけじゃないんだなと楓は思ったりする。
「今日は私用で……ただ昨日、夕方まであれでしたから、車をここに置いたままで」
「あー、やっぱり」
 交通規制はかなり遅くまでかかっていたので、自家用車で通勤している教職員はご同輩が多そうだった。日向は和服だというのに器用に肩をすくめてみせる。
「でも結局、今日もこの様子だと歩いた方が早そうですね。仕方がありません」
「お疲れ様ですねえ」
「それにしても、ずいぶんと物々しいですね。なぜ大学に警察がこんなに来るんでしょう?」
 楓の言葉に、ふっと津川と日向が目を見交わしたのが分かった。何事だ?
「山科君、ニュースは見た?」
「あ、はい、朝のやつだけですが」
「……まだ詳細は報道されていないでしょうね、おそらく」
 眉根を寄せる日向の言葉に、でしょうねえ、と津川も頷いた。
「どうもね、逃げてる容疑者、うちと関係してるかもしれないって。正確なところは分からないけど、警察の人、事情聴取に来てるって」
「えっ、うちの……大学とですか?」
 まさかこのご時世に学生が銃撃事件ってありえますか、と抗弁する楓に教授連はすこし、難しい顔をして黙った。どこかで、ブウン、と空調が唸る音が響く。
「山科くん、前の、阪神の震災の年って日本に居た?」
「は?」
 また唐突な質問である。阪神淡路大震災といえば、1995年1月に関西地区で発生した直下型地震による震災だ。
「いえ、確か祖父の、ロンドンでした。あの頃はネットもまだで、詳細はよく……」
「だよね、Windows95より前だったもの。じゃあテレビと新聞くらいか」
 津川の念押しに曖昧に頷く。地球の経度半分かそれ以上の距離感があったのは否めない。更に、
「ということは、地下鉄のテロの方も?」


 !


 日向の質問に、思わず楓の顔もこわばった。
「ええ、まだあちらでした。でも……そちらの方が、むしろ頻繁に報道されていましたので」
 大地震はもちろん悲惨な大災害だが、危険性に地域差がある。しかし地下鉄のテロは……世界中の何処であっても危険性があるのだ。特に、公共交通機関で市民を無差別に狙った宗教団体による同時多発テロだ。前代未聞の事件に、欧米では連日のように大々的に報道されていた。震災の影が薄くなるほど。
 そうかもねえ、と津川は首を傾ける。
「あの頃、僕はまだ博士終わったばっかりかな、T大に残ってて……本当にね、厄介だったんですよ。化学科は隣でしたしね」
「ああ、それは大変でしたでしょう。私はそのころまだ名古屋だったので、たいしたことは」
「そうでしたか。あれ、それでも警察来ましたか?」
「ええ、でもあれは、捜査というよりは……牽制みたいなものでしょうね」
 けんせい?
 なんだそれは、と思っていると、津川が小さなため息を吐いて応えてくれる。
「あの頃は……とにかく全国的に捜査網が広げられたんだよ。少しでも可能性があるところは関連を疑われてねえ。うちの隣の研究室には同期に……がいたという助手の人も居て」
 たしかテロに使われた神経ガスを開発した容疑者たちは、事件を主導した宗教団体にはT大やK大を始め、有名大学を卒業したエリートが多かったと報道がされていた。そこまで考えてから、あっ、と楓は息を呑む。
「えっ、まさか」
「うん、まさかとは思うけど、どうも……似てるんだよね」
「そうなんですよ、あの頃の雰囲気と少し、近い」
 ただならぬ緊張感、不穏な空気、そんなものが。
 似ている。
「だってそんな、あの団体は確か解散命令が」
 たたみかけた楓だが、うろ覚えながら完全に消滅してはいなかった記憶もある。しかし、20年以上も前のテロと今回の銃撃事件を結びつけるだけの何かがあったということなのか。
 更に問いかけようとしたところで、思わぬ方角から意外な声がかかった。
「やましなせんせい」




「鷹司さん!」
 廊下の先に現れたのは知人の刑事だった。いささか、いやかなり疲弊している。いつもはきちんと着こなしているスーツもよれて、せっかくの渋い男前も台無しだった。
 鷹司は数年前に楓が巻き込まれた盗聴事件の担当だったが、その後、所轄の生活安全課から府警の捜査二課に戻った。詳細を尋ねたことはないが、もともと優秀な人で、事情があって所轄に異動になったのが元の鞘に収まったということらしい。それでも楓の大学時代の後輩である綾野検事を通して、細々と交流が続いていた。行きつけの喫茶店でひょっこり出くわしたこともある。
「ということは、あの事件のご担当ですか?」
「ええ、もう、うちはほぼ全員これで」
 まあそうだろう。
 府警としては威信にかけても逃がすわけには行かないホシだ。鷹司の後ろに立つ、妙にガタイのいい若手刑事の顔も疲労の色が濃いが、目だけは光っている。事件の緊張感もあるだろうが、この暑さだ、疲労感は倍増しているだろう。
 その様子を教授二人は興味深げに眺めていたが、日向がはっと気付いた様子で云う。
「すみません、時間が。私はこれで」
「やあ、こちらこそお引き留めして。いってらっしゃい」
 では、と腰を折る姿も優雅な日向を見送っていると、後ろにいた大柄な刑事が呟く。
「いまのひと、こちらの先生ですか?」
「ええ、隣の地球惑星科の教授をなさってます」
「教授せんせい……あれ、でも、たしか■■■の道場にいてはったような」
「は?」


 どうじょう?


 クエスチョンマークが一同の顔に出たのだろう、その刑事が補足する。
「えっと、本職はもともと武道採用で。いまのひと、武術師範の道場でお見かけしたことがある気ぃします」
「こいつ機動隊出身なんですよ、春にうちに異動になりまして」
 鷹司の補足に、なるほどという納得感が漂う。堀河です、と名乗った若い刑事は確かに、大家の同僚にいてもおかしくない体格と佇まいである。そこで津川が何かに気付いたように「ああ」と首を傾けた。
「道場、通ってても不思議じゃないかなあ、日向先生、剣道もやってたと思います」
「も?」
 反射的に楓と鷹司のツッコミがそろった。
「弓道部のOBらしいんだけど、それ以外にもやってたって誰かが……なんでもね、流鏑馬出来るらしいよ?」
「やぶさめ??」
 って、あの、馬で駆けながら弓を引くヤツですか? 葵祭とかのニュースで見る? という楓と鷹司の疑問に、そうそう、と津川は頷く。
「正直、意外でもなんでもないですね、似合いすぎる」
「かっこいいよねえ、着物もビシッと着こなして」
「そういう人材がフツーにいるのがK大っぽいっすね」
 そこは偏見です、と断ってから、楓は鷹司と堀河に向き直る。
「お二人ともお疲れでしょう。お茶でもいかがですか、少し休憩されては」
 率直に云えば事件の話を聞きたかったのだが、二人の憔悴ぶりに仏心も出たので、楓がそう水を向けると、堀河の顔が目に見えて明るくなった。鷹司も僅かに逡巡したが、ひとつ息を吐くと「ご馳走になります」と会釈した。
 どうぞこちらに、と教授室に案内しつつ、楓は津川と日向の言っていた「あの頃と似た空気」の正体は何だろうかと考えていた。






「堀河、40分、仮眠してええで」
「えっ、いいんすか!?」
 跳び上がらんばかりに喜ぶ堀河に、バレないようにせえよ、と鷹司が付け足す。ああそれなら、と楓が提案した。
「暗室、お使いになりますか。平面で寝た方が少しでもマシかと」
 最近はデジカメが主流なので、暗室は単なる作業部屋になっており、院生達の仮眠にも使っている。バンザイの格好のまま固まる堀河に、「学生に案内頼みましょう」と告げ、向かいの院生室に向かう。運良く来ていた桃園に簡単に経緯を話してあとを任せ、昨日赤谷家から仕入れた茶菓子を手に教授室に戻った。
 ドアを開けると、ジャケットを脱いだ鷹司に、津川が洗顔を勧めていた。さもありなん。
「コーヒー、ではないものが良いですかね。むしろ温かいものにしますか」
「……恐縮です」
「ラボに風呂かシャワーがあればいいんですけどねえ」
「や、それは学生が住み着くんでダメです」
 言いながら、楓はポットを沸騰にセットし、確かまだあったはずと冷蔵庫から柚子茶のビンを取り出す。ラボに余っているタオルで顔を拭く鷹司の前に、湯気の立つマグカップを置いた。
「いやあ……染みますね、これは」
 恐らく寝ていないだろう刑事に、他にもカロリーをと焼き菓子や練り菓子を並べておく。
「私は室内にも居ましたが、堀河は昨日、鴨川をさらいましてね。濡れて困る季節ではないとはいえ、この気温ではさすがに」
 猛暑日の炎天下、川の中で肉体労働…! 思わず楓も津川も瞑目した。40分といわず寝かせてやりたい気持ちになりつつ、それはつまり、とつい聞きたくなる。
「鴨川に事件の手掛かりが?」
「ええ。容疑者が逃走中に、ディバッグを投げ込みました」
 それはこの上ない証拠品だ、どんな川でも捜索するだろう。事件が発生したのは河原町なので、その直後に鴨川に所持品を投げ入れたということか。容疑者はその後、烏丸方面に逃走したことになる。楓は本棚から道路マップを取り出し、市街地のページを開く。
「て、それ、部外者が聞いてもいいやつですか…?」
「あんまりよくはないです。でも、先生方ならまあ。どのみち、今日中には報道に出ます」
 この事態にも冷静な鷹司に、おうふ、と楓が唸るが、
「ということは、うちとその、容疑者との関連がはっきりしたということですね?」
 津川の的確な質問に、ええ、と鷹司が浅く頷いた。
 容疑者は逃走しつつ、背負っていたディバッグから自らの所持品を鴨川に撒いたそうだ。捜査霍乱のためだろうが、おかげで京都府警の捜査員の相当数が川底をさらうことになった。
「何が落ちたかわかりませんからね。あの辺り一帯から下流の方まで大々的に」
「そうでしょうね。水量が少ない時で良かったです」
 これが梅雨時や台風の後であったら、もうアウトだろう。
「とにかく、少しでも怪しいものは引き上げることになりましたが、その中にほとんど濡れていない書籍が数冊ありました」
「……なるほど」
 書籍なら重さもあるだろう。走りながら投げ捨てたとしても、運良く川面まで到達しなかったということか。捜査陣には幸運な、容疑者にとっては……想定のうちかどうか。
「それで、その中の二冊がこちらの、K大図書館の蔵書でして」
「ええっ!?」
「貸出用バーコードのシールが」
 そんな迂闊な、というより致命的なミスに聞こえた。楓も津川も息を呑む。
「近頃の図書館は蔵書の管理も厳しいですよね、そんな」
「少し返却が遅れただけでも電話かかってきますし、誰が借りたかなんて」
「ええ、そうですね。私の現役時から根本的な変化はないようですが、ここしばらくのIT化でネットワーク上での管理に変わって、データベースも随分拡張されていました。でも」
 そこで鷹司は手にした柚子茶を飲み干した。


 肝心のブツは、10年以上前に図書館から消えたものだった、という。


 ブウン、と教授室の空調が軋んだ音を立てた。
「そんな……貸し出したっきり、返却されていなかったもの、ということですか?」
「はい。もちろん、当時も管理は相応に厳格で、データベース化もされていました。ただ、いかんせん10年以上前ですのでね」
 うわっ、と楓も思わず声が出た。
「データ化されていただけマシ、というわけにはいかないんですよ。システムが古いんです。情報を呼び出す手間と手段が限られていることを考えると、結局、打ち出しを確認するハメになりました。人海戦術のほうが楽で」
 横を見れば、津川の気の毒そうな顔が目に入った。恐らく自分も同じ様な表情をしているだろう。楓は、全員の茶を煎れ直すことにした。
 その手の作業は慣れている、まだ印字だった分、楽でした、と平然と云う鷹司を楓は心から尊敬した。おまわりさんありがとう。
「それに、それなりに珍しいものだったので、探し始めれば早かったです。ルターの『95ヶ条の論題』ほかラテン語原典を中心とした著作とその解説集でした。ほぼプロテスタントの研究書ですね」
 は、と一瞬の間を置いて、二人の物理学者による脳内検索が行われ、結果、
「ルター? マルティン・ルターですか?」
「宗教改革の?」
 さすが、インテリの先生方は話が早い、と鷹司は簡単に称賛した。楓としても世界史の教科書程度の知識しかないが、マルティン・ルターの主張はプロテスタントの起源であり、反ユダヤ主義としてもその存在は極めて大きい。キリスト教的に超重要人物だ。
 確かに日本の一般人が所持している書籍にしては珍しいかもしれないが、そうなると更に捜索範囲は狭まる。
「あともう一冊、一般書でしたが、シェイクスピアの戯曲集が」
「シェイクスピア、となると……シャイロック? ユダヤ人の金貸しですか」
「で、しょうかね……ヴェニスの商人は収録されていましたが」
 それを聞き、うーん、と津川が唸っている。そもそも、この国ではキリスト教徒が少数派なのだ。楓もそれこそ血筋の関係で教会に通ったこともあるがあまり馴染まず、帰国後はすっかり疎遠である。津川も信仰を持っているという話は聞いたことがない。というか、だいたい周囲の人間ではっきり信仰が分かっているのは、小林家に通ってきてくれるマリさんぐらいである(アレも本来は本人のというよりは婚家の関係だろう)。
 プロテスタントとユダヤ、なかなかの組合せだが、それと今回の銃撃事件の関連はまるで見えない。とにかく、
「それは当然、最後に借りた学生が判明した、ということですよね?」
 楓の質問に、湯飲みを手にした鷹司が応えて「なんですが」と、ひっそりとした声が。
「死亡していました。13年前に」


 そういうことか……


 あまりの事に言葉を失う楓と津川に、刑事は淡々と続ける。
「当該の学生はその研究書を借りた直後に中退し、すぐに亡くなっていました。記録上は事故ですが……転落死でして」
「!」
 津川が痛ましそうに眉根を寄せる。転落死、となれば、自死の可能性もあったのだろうことは想像に難くない。遺書のような決定的な証拠がない場合、転落死は全て事故死になる。
「返却されないまま放置されたのも、そういう事情があれば有り得る話です。それどころではなかったでしょうから」
 中退後、地元に帰ってすぐのことだったという。電話や書類での照会が行われ、物理的にかなり離れた学生の故郷には既に捜査員が派遣されていると云うが、 13年前の話だ。家族や縁者が残っていればいいが。
 第一、その学生が件の書籍を地元に持ち帰らなかった可能性も高いのだ。引っ越しの際、他の蔵書と合わせて捨てたか古本屋に持ち込んだか。図書館の蔵書と分かっていながら引き取る筋の悪い古書店があるとは思いたくないが、古くなって処分するのを引き取った、と言われたら信じるだろう。古紙回収されたものが拾われるケースもあるかもしれない。そうなるとお手上げである。
 いずれにせよ、
「つまり鷹司さんは、その学生の当時のことを確認にいらしたんですね?」
「ええ、ご明察です」
 そもそも、それ以外でこの場所でこの人を見かける理由はないのだ。楓はすっかり冷めた茶を飲みながら、干支一回りした大学に、どれくらいその学生の残滓があるかと想像する。よほどの事がないと……難しいだろう。
 三人の沈黙に唆されたか、廊下を行く学生たちの声が響く。「あれ、交通規制って続いてんの?」「まだ犯人捕まらんてどういうこと」「ケーサツも無能やなあ」と続いて、つい楓は腰を浮かせかけ、鷹司がそれを制して大きくため息を吐いた。
「13年はなかなか、時間的に厳しいですが、ここが最高学府で助かりました。まだ当時を知る先生方が残らはってて。分野的にもそれほど、入れ替わりがないとかで」
「まあ、旧帝は上がりみたいなものですからね……とはいえ、ひと世代はまわってますよね? どこの学科です?」
「数学科です」
「ええっ、数学!?」
「文学部ではなく?」
 まあそうなりますよね、と刑事も同意しつつ、記録上も間違いないです、と断言した。宗教改革やルターに興味を持つ学生なら、当然その分野の所属と思い込んでいたが、まさか。
「でも、そうですね、ここでお見かけするということはそうなるか……」
 理学部の学生だったのだ、その研究書の最後の借主は。
 しかし数学科……間違いなくこの学部では勇者の集まりである。楓も知り合いの教員・学生を思い浮かべてみるが、宗教改革とはまったく重ならない。ただ、純粋に世界の根源と向き合いたいという欲求は、数学と宗教、ひょっとしたら少し……重なるのかも、と楓がぼんやりと思考していたときだった。


「なるほど、それで当局は、あの頃と同じことを警戒しているんですね?」


 あの頃?
 はっ、と顔を上げると、眉間に皺を寄せた鷹司と、それを正面から見据える津川が居た。刑事も心当たりはある様子だ。
「……当時のことは、私も知りませんのでなんとも。ただ、お偉方は当時を思い出す向きも多いようで、宗教ですからね……もともと、大学と警察は全共闘の頃から犬猿の仲です。公安も動いてるとは、思います」
 あの頃、というのが某宗教団体の捜査が行われていた時期のことだとは察しがついたが、全共闘まで出てくると全くの守備範囲外だ。楓は強くマグカップを握り締める。
「少なくとも、A氏とルターの宗教改革の関係となると、我々も皆目見当も付きません。どうせなら、●●の件で強制捜査でも入っていてくれれば、と考えてしまいます。いや、それが出来なかった警察と検察の落ち度ですが」
 残念ながら、生前のA氏には様々な疑惑があった。三代にわたって政治家を務めたサラブレッドだけあって、華々しい経歴や派手な言動で注目も集めた。政治献金にまつわる噂も絶えず、一時期は首相退任後、すぐに強制捜査が行われるのではという憶測さえ飛んでいたのだ。捜査二課の刑事として、鷹司としても砂を噛むような思いもあるだろう。
 なにより、あってはならない事件の被害者となってしまった今は。
「死なれてしまういうのは、最悪なんです」




 そうですね、と重々しく呟く津川の横で、そわそわする楓に気付いたのだろう、鷹司が補足してくれる。
「それでもさすがに、今の数学科で当時を直接知るひとが少なくて。記憶に残っているという方もいましたが、本人のことはなかなか……引退された教官の方々にはこれから当たります」
 さもありなん。中退であれば卒論も書いていなかったかもしれない。そうなると、当該の学生の記憶が残っている教官・学生はどれだけいるか。
「あとは個別に同級生等を当たるしかなさそうです。しかし当該の学生は片親、母子家庭だったようで、母親も既に死亡していました。兄弟がいたはずですが、現在の消息はどうもあやふやで。そこを含めて向かった連中が調べてくるはずです」
 その情報だけでも、なんとも言えない気持ちになる。縁の薄い母子と数学と宗教。銃撃事件との関係はまだ分からないが、幸薄い孤独な青年の影が見え隠れする。
 学生の故郷に捜査員が今日中に到着したとして、さて容疑者が確保されるのとどちらが早いか……楓の大脳が計算していると、がやがやと廊下が賑やかになる。どうやら堀河刑事が起きてきたようだ。鷹司が「よっ」と掛け声とともに立ち上がった。
「だいたい45分てとこですね。まあそんなもんでしょう」
 そう言う鷹司はいい上司なのだ、と思ったりもする。若い刑事の英気が少しは養えていればいいが。しかし、これからの捜査と京都の夏を思うと、「お持ち下さい」と楓は鷹司に洋菓子の詰め合わせを一箱進呈した。
「これはどうも」
「貴重なお話をありがとうございました」
「いえ……こちらもお話しして、少し整理できました。なんとか、一両日中には決着をつけたいとこですが」
 事件とは時間との勝負だ。特に被害者が死亡した今、一刻も早い解決が望まれるだろう。何より容疑者の確保が……そしてあえて誰も口にしないが、生きたままでの確保が求められている。
 どうか生きていてくれと、願わざるを得ない。
 楓が先導して教授室のドアを開けた。鷹司は上着と菓子箱を手に、「ご馳走さまでした」と丁寧に頭を下げる。津川が「くれぐれもお体にお気をつけて」と返している。その声を聞きつけたか、院生室のドアが開いて、堀河刑事が顔を出した。こちらも顔は洗ったようだ。
「そろそろ行くで。あとこれ持っとけ」
「あ、はい。ん? これ、○○○の焼き菓子やないですか、どないしたんです?」
 もろうた、と簡単に答える上司について歩く大きな背中に、甘い物好きだったか、もう一箱渡しても良かったと思いながら、楓は室内に戻った。先に机を片付ける津川を、やりますよ!と慌てて止める。
 ありがとう、と応える津川は、どこか上の空だ。それも無理からぬ事だろうと、思う。楓も無言のまま湯飲みとカップを流しで洗った。そうして三度お茶を入れたところで、教授はぽつりと、
「どんな子だったんだろうね、その……数学科の子」
 と。
 津川の立場であれば、教え子が中退したあと自殺したということの方が辛いのだ、と胸を衝かれた。答えられる言葉はない。数学と宗教改革と元首相暗殺か、と、楓が視線を投げた窓の外は真っ青に塗られている。雲の影さえ見ない。
 また、今日も暑くなりそうだった。






 その日は前日の遅れを取り戻すべく、楓もきっちりと働いた。
 とはいえ、途中、休憩と称して『ヴェニスの商人』を検索したりした。楓としては未だにあれが喜劇に分類されるのに納得がいかない。シャイロックが気の毒だ。あとで原文に当たるかと思いつつ片付けをしていると、帰り支度を済ませた桃園がやってきた。
「山科先生、もう帰られますか?」
「おう、そろそろ外に出ても死なないだろうしな。終わるよ」
「せやったら、もう実験室も閉めますね」
 いちおう、危険と云うほどでもないが、様々な機器や薬品もあるので戸締まりは重要である。ああ頼む、と言いながら楓は首を傾げた。夏休みの日曜日とはいえ、まだ夕暮れ前だ。完全に無人になるのは珍しい。
「ということは、院生室ももう誰もいない?」
「ええ。やっぱり落ち着かないみたいで、みんな帰りました」
 あー、と思わず渋い声が出た。それはそうだろう。構内にはまだ警察官の姿もあったし、銃撃事件の容疑者の遺留品が鴨川で見つかった件は昼のニュースにも出ていた。そしてまだ容疑者確保の報はない。
「もう……しばらく続くかな」
「ですかね。鷹司さんたちの健康が心配です」
「違いない」
 安全性で名高いこの国で起きた凶悪テロに、全国どころか世界中が注目していた。選挙に多大な影響があるし、このままだと観光都市京都としても困るだろう。という話をしていると、桃園がはっと気付く。
「そういえば、津川先生のお客さんたちはどうされてるんですか?」
「ああ、この騒ぎだからな……市内観光もアレだし、研究会は明日からだしで、今日は赤谷グループの工場見学に」
「えええっ、まさかの!」
「外国人観光客もウェルカムだろう、あそこ。昨日の貸しもあるし顧客も紹介したからWin-Winだ」
 そう、昨日早苗から渡されたショップカードを元に、渡りに船とばかりに押しつけ、もといオススメしたのだ。ホストの津川にも気分転換になっただろう。異文化交流の一環だなどと受け売りを口にしながら、楓は桃園と理学部を出た。


 そのまま出町柳駅へ向かい、百万遍の交差点に差し掛かったときだった。
 前方から紙袋を提げた和服姿の男性が歩いてくる。端正な姿は見間違えようもない、日向教授だった。まだ蒸し暑い時間だが、涼しい顔でこちらを認めると会釈してくれる。
「先生、いまお戻りですか」
「ええ。ようやく交通規制も解けたようなので」
 そういえば交差点の交通量もいつもの、ほどではないが朝よりだいぶ増えている。逃走経路がある程度絞り込めた、というより、これ以上は人流や物流が耐えられないという話のような気がした。
 そういえば、朝、出くわした鷹司から聞いた件を日向に伝えたほうがいいのでは、という考えが一瞬閃いた。事件は日向も気にしていたし、それ以上にこの紳士の考えも聞いてみたかった。ただ、こんな往来で話せるものでもなく、しかもかなりの機密事項だ。軽率にシェアするわけにも、と楓が逡巡していると、「どうされました?」という桃園の声が聞こえた。
 あ、いや、と断ろうとして、楓はそれが自分に向けられた質問ではないことに気付く。ということは、訊いている相手は日向だ。
「え?」
 改めて日向教授を見と、和装の紳士はどうも楓たちの背後を見ていた。切れ長の目が、酷く……険しい。まるで、見てはいけないもの、否、在るはずのないものを見ているような。桃園もそれに気付いて、肩越しに日向の視線を追う。
 わずかに、
 後ろを、振り返るのを躊躇ったのは、事実だ。
 しかしどうしようもなく、楓は振り返る。


 なんの変哲もない、いつもの百万遍だと思った。
 いや、 


 真っ黒い影が


 ごくり、と喉が鳴る音がした。楓自身のだ。
 いや、そんな、と慌てて目を瞬かせる。まだ陽は残っていた。目の前に広がるのは見慣れた道で、ただ、後ろから一人の男が近付いてくるところだった。背丈は楓と同じくらいか、ひどく痩せていて、猛暑だというのに黒いパーカのフードを目深に被っている。手ぶらだ。
 ああ、この男だ、と思った。
 何の予感も確証もない。でも確かにそう思った。
 殺気というのは見たことも感じたこともない。だから判断のしようもないが、どうやっても相容れない、禍々しいとさえ云える匂いがした。生きものとしての本能がそう訴える。
 蒸し暑さを暫時、忘れるほどの冷えた空気が。
 楓は気力を奮い立たせ、こちらも硬直している桃園を背後に下がらせ、道を空ける。その横を、まるでこちらが見えていないように、穴ぐらのような男は真っ直ぐ進む。日向もすっと半身を返すが、厳しい顔をその男に向けたままだ。
 勿論、男はこちらを一顧だにしない。変わらぬペースで交差点を渡っていく。
 楓の足は何かに囚われたように、重く動かない。ただ、証拠はなにひとつ無いが、鷹司に知らせるべきだ、スマホを、とポケットに手を入れようとするが、凍えたように手がかじかむ。この真夏日に!
 ふっと、空気が動いた。
 え、っと顔を上げると、日向が手にした紙袋をこちらに差し出している。
「あっ、えっ?」
「申し訳ない、山科君、すこし預かってくれるかな」
 はいと返事をする間もない。日向教授は身を翻すと男を追って交差点を渡っていく。風のように。あっと、思うがもう遅い、点滅していた信号は赤に変わる。
 追わねばならない、としか思わなかった。
 間違うと死人が出ると思った。
 呪縛が解け、楓はまず鷹司のケータイに「百万遍で怪しい男を見かけた」という一報を入れる。それから桃園に先に帰るよう告げる。いつぞやの盗聴事件では、真っ先に容疑者を追いかけてしまったのだ、この女性は。さすがにそんな危ないマネは二度とさせられない。何より、今回の相手は銃器を所持している可能性があるのだ。
 信号が変わるまでの十数秒が永遠に感じられた。もう日向もあの男もだいぶ先に行っているはずだ。出町柳駅までに追いつくか。
 走りながら、大家に、というか、大家の仲間達に張り合って、そこそこ運動をしておいて本当によかったと思った。しかし、袴とは云え和服であの速度で動く理学部教授とは?と、首を傾げるしかない日向の羽織がようやく視界に入る。その前に居るはずの男だが、そちらもほとんど駆け足なのではないか。人通りが多い程ではないが、駅からの人の流れもある。
 どうにか、人波をかき分けるように進む黒い頭が見えた。日向もさすがに速度を落として後を追っている。楓もなんとか「すみません」を連呼しながら前に進む。地下鉄の駅に続く階段を降りられたらまずい、その前にどうしても、と焦っていると、黒い頭が階段の入り口を通り過ぎ、加茂大橋へ進むのが見えた。
 えっ?
 と、訝るうちに、日向がその背を捉えるのが見えた。男の肩に手を伸ばした、瞬間、男が走り出す。声を上げる隙はまったく無かった。周囲の人間を突き飛ばし、交差点を渡る。日向の羽織がまた、大きくはためいた。
 楓も「通ります!」と大声を上げて奔った。大橋に辿り着いた男は、そのまま、こけつまろびつ橋を進む。日向は間合いを計っているようだ。楓が橋の袂にようよう辿り着いた時、黒い男が欄干に取り付いてよじ登るのが見えた。鴨川デルタを背にして、石灯籠に?まりながら立ち上がる。周囲から悲鳴が上がる。「やめろ」「危ない」との声が飛ぶ。楓は最後の力を振り絞って進む。
 夏の長い陽が落ちようとしていた。
 糺の森は影絵になって、鉄色の川面は時折、鱗のように閃いている。
 男は、パーカーの腹ポケットに手を入れた。まさか、と楓の顔から血の気が引く。「せんせい!」という叫びだけが声になった。
 それからのことは、もう、一瞬だった。


 熟れた鬼灯のような空を背にした黒い男の手に、より黒く光るものがあった。
 日向が羽織と草履を脱ぐ。
 羽織を小脇に抱えると、ひと息で欄干に飛び乗った。
 男は想定外のことに動きを止める。
 袴の裾捌きも鮮やかに、日向は滑るように欄干を渡り、手にした羽織を広げた。
 羽織が風を切り、パシッ、男の手から凶器を叩き落とす。
 それを追おうと手を伸ばした男の身体が、橋の外側に傾ぐ。
 通行人から「きゃあ」という悲鳴が上がった。
 しかし、日向はまた一歩踏み込むと、再び広げた羽織で男を絡め取り、抱えるようにして橋の内側に飛び降りた。
 どう、と倒れ込んだ二人の元に、楓はようやく辿り着いた。


 何処か打ちつけたのか、通路に蹲る男を日向は器用に羽織で包み、拘束した。それからすっと顔を上げると、楓を認めて声に出さず「警察を」と言った。はっと気付いた楓はスマホを取り出して鷹司に電話しつつ、近くのカップルに声を掛ける。
「救急車を呼んでください!」
「あっ、えっ?」
「119番」
「はいッ!」
 男性が戸惑っているうちに、女性の方がスマホを手にしていた。このご時世、女の方が肝が据わっている。鷹司の電話は運悪く留守電で、楓はメッセージを入れたあとにすぐ、110番する。いずにれせよ、そちらの方が先に到着するだろう。楓は日向の草履を確保しつつ、日向と男の側に片膝を突いた。
 そうして改めて正対したその男は。
 ボサボサの髪、伸びた髭、痩せこけた頬、落ち窪んだ眼窩、土気色の唇。そして、穴のような眼でこちらを、否、ここではないところを見ていた。それから何かを唱えるようにぼそぼそと繰り返していたが、不意に、その目が焦点を結んだ。
 ばちっ、と楓と視線が合う。
 意外なほど、澄んだ瞳の。数秒だったはずだが、気が遠くなるほど遠い、時間と距離が。周囲の喧噪も、行き交う車両の音も、消えて、彼はひと言、


「瑞穂は神様じゃない」


「えっ?」
 みずほ、とは、なに……名前か?
「神様、あなたなんかいない」
 なんだって、と、楓が聞き返した瞬間、男の口からツッと赤い液体が溢れた。はっ、と日向が懐から手拭いを取り出し、手際よく男に猿ぐつわを噛ませた。それからギュッと眉間に皺を寄せる。楓は息を呑んだ。
 男は目を見開いたまま、なにも見ていない眼で、天を仰ぐ。
 ぞわり、と文字通り背筋が凍る。
 悲鳴と怒号が交錯し、出町柳の駅の方から幾人かが駆けてくる。恐らく、騒ぎを聞きつけたのだろう駅員たちや、近所の交番の警察官だ。
「救急車が来ます!」
 女性の声が響いて、サイレンの音が近付いて来る。
 楓は男の顔から目が離せない。
 日向は男の身体を横たえ、応急処置を始める。警察官と駅員たちが周囲の整理や保全に当たっていた。
 楓は時間と場所の記録のため写真を撮り、マップに男を見かけた場所と時間をメモしていると、110番要請が届いたか、制服の警官が「通報者はどこですか」と尋ねている。
「私が」
 楓は短く返事をし、立ち上がった。他の警察官たちは救急車両のために交通整理を始めている。救急車が橋の袂からこちらに曲がってくるのが見えた。
「現場は」
「なにがあった?」
「怪我人は」
 口々に大声を上げる警察官や救急隊員、渋滞を始めた車両からのクラクション、通行人や野次馬たちのざわめき。既に鴨川に沿って街灯がぽつぽつと浮いている。石灯籠にもぽっと灯りが点った。
 深い藍色の夜が追いかけて来る。




 簡単な事情聴取を受けてから、あの男を乗せた救急車を見送った。
 現場はまだ騒然としている。正直なところ、男が今回の銃撃事件に関連しているというのは、楓の中の一番悪い予感でしかない。先ほど見た拳銃らしきものも、逢魔が時だ、見間違いの可能性もある。ただ加茂大橋の欄干に登った酔っ払いを保護した、だけなのかもしれない。
 しかし、そんなことはないだろうと、思う。あの肌の粟立つような感覚が、楓にまだ残っている。
 彼は……死ぬつもりだったのだろうか。
 日向の手当てを見るに、舌を噛んだように見えたが。そこで、あっ、と気付いて傍らを向けば、同じように救急車の去った方角を見る日向教授がいる。
「先生、お怪我はないですか?!」
「……ああ、山科君」
 お履きものを、と足元に草履を揃えると「大丈夫ですよ、どうもありがとう」と冷静な声が返ってくる。あれだけのことがあったのに、この落ち着きぶりは驚嘆に値しよう。しかし、穏やかな貌にもさすがに悲嘆の色がある。
「あとこちら、」
 と、預かった紙袋を渡そうとして、取り返しの付かないほどボロボロになっていることに気付く。当たり前だ、途中で投げ捨てなかったのが不思議なくらいだ。よく見れば出町ふたばの豆餅である。中身は……無事とは思えない。
「す、すみません。ちょっとこれは……買い直して来ます! あっ、もう閉まって、」
「ははは、いいですよ、申し訳なかったね。お供え物なら、むしろ今日の話のほうが喜ぶでしょう」
 えっ? と、聞き返そうとして止めた。おそなえもの、というのは、それは。
 ただ、紙袋を見下ろす日向の、哀しそうでもあり、嬉しそうでもある横顔は美しかった。
「……取り急ぎ、新しい羽織をお求めになるなら、呉服屋をご紹介できます」
「えっ?」
 たぶん割引してくれます、と言いながら、頭の中で”かみさま”と反芻する。
 こちらもなにひとつ確証はなかったが、日向もあの男から”何か”を感じて追ったのだろう。そして、あの最後の二言も聞いたはずだ。詳しい話が出来ないのがもどかしかったが、間近に男を見た感覚を知りたくて、楓はひとつだけ問うた。
「彼は、助かるでしょうか?」
 教授はすっと視線を上げ、石灯籠の向こうを見る。真っ赤な空を背に、黒い何かが落ちていった”外側”を。
「どうでしょう……彼が、生きたいと思えたなら、或いは」
 昏い予言は、まだ迷っているように聞こえた。あの穴のような男の、透き通った瞳を思い出す。


 どうか、


 死んでくれるな、と、心の底から願った。
 しかし、男の最後の言葉が甦り、楓はどうしても神に祈る事が出来なかった。






 加茂大橋での騒ぎはニュースにはならなかった。
 とはいえ、ネット上ではいくらか祭りになって、日向教授の勇姿が粗い画像で拡散されたりもしたが、熱中症でおかしくなった男が鴨川に飛び飛び込もうとして騒ぎになった、程度の話だった。
 表向きは。


「マスター、ご無沙汰してます」
「こちらこそ、綾野さんもお元気そうで何よりです」
 柔らかく微笑むマスターに、綾野が□い恋人を渡している。「今は札幌地検の女なんですよ!」などと言いながら。
 綾野は数年の京都地検勤務を経て、先年から札幌に異動していた。今日は激務を縫って、大阪高裁に用事があるとねじ込んで出張をもぎ取ったらしい。相変わらずの決断力と行動力には頭が下がる。彼女は「アイスコーヒーとブレンドお願いします」と大胆な注文をしてから、楓たちの座る奥のボックス席にやってきた。
 場所は大学からは少し離れた、楓行きつけのクラシカルな喫茶店である。
「津川先生もご無沙汰してます。相変わらずダンディですね」
「綾野君は本当に口が上手いねえ。ショートカットもお似合いですよ」
「もう暑くって。でも京都はこれでも暑いですね! 坊主にしたいくらいです」
 変なファンがつくから止めておけ、とは言わずに、楓はどうぞと後輩に席を勧めた。綾野と津川はT大時代から面識があるので挨拶は抜きだ。
 あの事件からちょうど一週間後である。津川教授の共同研究者達を関空に送り届け、その帰りに綾野落ち合った。本来は鷹司に会いたいところだが、さすがに事件の渦中で無理な話だったところ、綾野が引き受けてくれたのだ。
「ま、私も知りたかったので」
 そうだろうなと思いつつ、やはりありがたい。楓も二度ほど事情聴取を受けたが、警察はこちらの知りたい情報はくれないものなのだ。
「鷹司さん、元気……なわけはないな、無事だったか?」
「死にそうでしたね」
 そうだろうなあ、と言いながらブレンドをすすった。津川も「気の毒に」と言いながらバナナケーキにフォークを刺している。
「では、さっそく本題を」
 そして、マスターが気を利かせて先に出してくれたアイスコーヒーを手に、綾野は取り出したファイルをめくった。


 加茂大橋で騒ぎを起こした男は、未だ身元不明である。
 というより、意識が戻っていない。救急車で搬送された後、そのまま集中治療室で昏睡しているという。
「昏睡? 意識不明、なんじゃないのか?」
「意識不明ですが、起きない理由が見当たらないんだそうです」
 は? と困惑する楓に、綾野が云うことには、懸命な治療と一通りの検査の結果、目覚めない理由がないのだそうだ。確かに搬送直後は脱水症状があったらしいが、臓器や四肢に大きな損傷はなく(擦り傷と打ち身程度)、脳のCTでも異常が見当たらない。血液検査やバイタルにも異常なし。
 ただ、目覚めない。
「……それはやっぱり、頭を打ったか、熱中症の後遺症か……薬物?」
「それも調べたそうですが、今のところこれといったものは。あと、彼を確保してくれた教授の先生でしたか、の応急処置も非常に的確だったそうです。出血も最小限で済んで」
 まあそうだろうな、というか、楓としてもそこを疑ったことはない。なお日向は翌月曜以降もふだん通りで(ちなみに改めて赤谷呉服店は紹介済だ)構内で端正な姿を見かける。そういえば堀河君を通じて聞いたんですけどね、と綾野が言う。
「あの先生、府警武術師範の師匠筋にあたるそうですが、それ以上はどうも……何者ですか?」
「いや、俺にも分からない。とりあえず、超かっこよかったな」
「ええー、なんですかそれ。でも、その捕り物騒ぎ見たかったなあ!」
 綾野が野次馬なのも相変わらずだが、あれは一見の価値はあった、と楓としても思う。お見事としか言い様がない。失敗していたら……間違いなくあの男は生きては居まい。


「それにしても、そうなると……ひょっとしたら、目を覚ましたくない、のかも」


 綾野の言葉に応えられる訳もなく、楓も津川も沈黙するしかない。
 なお、本当に何ひとつ所持品がなく、身元不明ではあるが、彼の正体についてはだいたいの予想は付いている。
「山科先輩が見せられた写真はこれですか?」
 綾野が取り出したのは、恐らく卒業アルバムの写真を引き伸ばしたのであろう、粒子の粗い顔写真だ。おそらく中学生か、生真面目そうな詰め襟の少年が映っている。
「ああ、そうそう、これとあともう一枚、」
「ということはこちらも?」
 と、続いて今度はそれより成長した感のある、角刈りの青年の、やはり証明写真のようなプリントをテーブルの上に置いた。同一人物である。間違いないと楓が頷くと、綾野は「うーん」と唸る。
「やっぱり一般人に見せられるのはこれぐらいか……」
 それから「それで、先週見た男性と同一人物か、判断出来ますか?」と楓に尋ねる。
「どうだろうな。顔はほとんどフードで隠してたし、髪も伸びて面変わりしていたから、はっきりとは」
「ですよね……」
 綾野は眉根を寄せて、またファイルを捲った。
「ここからは本当にオフレコですので、ご注意を」
 と差し出したのが、もう一枚の写真。最初の写真と同じ時期の少年と、もう一人、小学校高学年ぐらいの少女が映っている。面差し、というよりは雰囲気からして兄妹だろうか。二人とも簡素な服装だが、とても”うつくしい子ども”だった。
「この少年が鶴岡航平さん。隣の少女が鶴岡瑞穂さんです」
「みずほ…?!」
 楓がはっと顔を上げると、綾野は軽く頷く。そして、
「この瑞穂さんが、例の書籍を借りていた数学科の元K大生です」
「……ええっ!」
「女の子?!」
 思わず声が大きくなって、津川と楓は思わず身を縮める。しかし、それくらい衝撃的だった。もともと数学科に女子は少なく、一学年に一人、二人だ。だから、すっかり男子学生だと思い込んでいた。
「ま、意外ですよね。お二人がそう思うのも無理はないんですが」
「いや、でもその名前は」
 楓としては驚きの情報だったが、つまりあの時、鶴岡が口にした言葉は。
「ええ。だから捜査本部としても、あの男性は鶴岡瑞穂さんの兄、航平さんとして捜査をかけています」
 例の呟きを聞き取ったのは楓と日向と、他にも居ただろうか。
「それは確度の高い話なのか?」
「ビミョウです」
 綾野は渋い顔で言い切った。彼女がそうキッパリ云うからには、本当に難しいのだろう。
「鶴岡瑞穂さんの出身地、死亡時の状況等の調査にあたった捜査員によると、瑞穂さんが転落死した時点で、戸籍上、兄がいました。それが航平さんですが現住所は不明。なお両親は瑞穂さんが生まれた後に離婚していて、ふたりは母親に引き取られましたが、その母親も他界しています」
 ぐっ、と楓の喉が鳴る。既知の話とはいえ、やはり厳しい。
「捜査本部としては参考人として鶴岡航平さんを探していますが、未だ見つかってません。また鴨川に投棄された書籍からは、はっきりとした指紋が出なかったんです。そして、先週保護された男性も指紋が消されていました」
「は? 消されて、って、あ、うん?」
「指紋を、消したんだね? 希硫酸かな」
「ええ、おそらく」
 津川の斬り込みに綾野が頷き、自分の右手をかざす。指の表皮を薄い硫酸で溶かせば、しばらくの間、指紋は消える。
「皮膚は昏睡中でも修復はされるので、生きていればそのうち戻ります。ただ、そもそも”鶴岡航平の指紋”が記録されていないので、同一人物という確証が得られません。それでも指以外の模様、掌紋というやつです、このへんの……は、ちらっと残っていて、いま、科捜研が全力を挙げて特定中です」
 そもそも、指紋がないこと自体が怪しいが、そんなあやふやな状況証拠に意味はない。やはり物的証拠が第一なのだ。とはいえ、そこまで集中して追っているということは、警察もそのセンが最も強いと考えているのだろう。
 つまり、それだけの理由がある、ということだ。
 頭を上げた楓に、綾野も同意した。
「はい、ここからが本題です」




 新しいブレンドが三つ来たところで、綾野が新しい資料を出してくる。
「お二人は、この団体のことはご存じですか?」
「団体?」
 差し出されたパンフレットのようなものを手に取り、ぱらっとめくったところで楓も気付く。これは某新興宗教団体の勧誘パンフだ。キリスト教系だろうか、『主』や『神』の文字が見える。
「正式には新宗教というそうで、いわゆるカルトは除外されますが、その境界はなかなか難しいんです。ここはかなり新しくて、いまの教祖が個人的に立ち上げたものです。ここに、鶴岡兄妹の母親が所属していました」
 はっとした二人の方は見ず、綾野は淡々と続ける。
「つまり鶴岡兄妹はいわゆる宗教二世です。航平さんが生まれた後、育児疲れから母親がカウンセリングにかかったところから、この宗教に傾倒して洗礼を受け、瑞穂さんを妊娠した頃には団体でも有力な信徒として扱われていたようです。相当な額の寄付を」
「それで離婚を…?」
 信教の自由とはいうが、この国では信仰を持つこと自体がレアなので、家庭生活に大きな影響をもたらす。金銭問題が絡むと尚更だ。うーん、と綾野は腕を組んで首を捻る。
「因果関係というか、卵が先か、鶏が先かなんですが……夫婦生活が上手くいっていなかったから宗教にハマったのか、ハマったから夫婦関係が破綻したのか、はっきりとは。でもおそらく、それ以前に火種はあったんです」
 火種とは? と、訊く前に続きがきた。
「もともと、この母親は地元では才媛といわれるような女性だったそうです。優等生で、それこそ学級委員や生徒会役員をやるような娘さんで……高校の成績も優秀でしたが、両親に大学進学を反対されました」
「え、なんでだ?」
 という楓の愚問に綾野は舌打ちする。山科君ところは学者一家だからねえ、そういうの無いだろうけど、と津川が取りなしてくれるが、綾野は呆れたように言う。
「あるんですよ、いまだにそういうところが。そのへん、結佳さんか桃ちゃんも詳しいと思いますよ」
「ゆいか……戸嶋さんか? あのひとも?」
「ええ、たしか。あと桃ちゃんも九州でしょう。だからT大だのK大だののネームバリュが必要だったんですよ、たぶん」
 戸嶋さんは二人の共通項、バドミントン部で楓と同期だった時任の婚約者だ。いまは東京でフリーランスのライター兼カメラマンをやっている。確かに綾野とも仲が良く、「あんないい女がどうして時任さんなんかと」等と(また)言っていた。
 しかし、身近にそんな断絶があることに驚愕せざるを得ない。
「女は大学に行かなくてもいい、なんて物言いは、昭和の遺物じゃないんです」
「……勉強します」
「よろしく。まあ、それで結局、地元の短大を出て信用金庫に就職、同僚と結婚して専業主婦に。そこで良妻賢母を強要された、とは言い過ぎかもしれませんが、育児ノイローゼの一因ではあるでしょう。家事や育児に終わりはありませんし、評価もされません。元優等生には辛い日々だった」
 そこで縋ったのが『神』だったのだ。
 こういう言い方はなんですが、と綾野が続ける。真面目な人間ほど、信仰を持つと深入りするのは自然なことで、特にこの手の新興宗教団体はノルマをこなすと評価されるシステムなのだという。勉強会、寄付、布教と、信仰が篤くなればなるほど、関われば関わるほど、教団内での”地位”が上がり、生活が信仰に浸食されていく。
「鶴岡氏の収入を寄付につぎ込み、生活費にさえ事欠くようになった時点で婚姻関係は破綻しました。しかしこの国は、余程のことがなければ親権は母親に渡ります。子どもが幼い場合は特に。兄妹は父親と別れ、母親とともにこの教団のコミュニティで育つことになりました」
「……学校には、行けてたの?」
 津川教授の細い問い掛けに、綾野は「それはなんとか」と頷いた。
「二人とも学業優秀だったようです。ただそれが……残酷な結果になりました。まず航平さんは中学卒業後、自A隊に入隊します」
「自A隊に? なぜ?」
 また思わず口を挟んだ楓の隣で、津川が痛ましそうに眉尻を下げた。
「……収入が、あるからだね?」
「はい」
 母親が生活費さえ寄付につぎ込むのだ。離婚後、細々とした収入や実家からの援助、父親から送られてくる養育費でさえ、おそらく兄妹のために使われてはいまい。それを補うため、兄は当時、高校進学と同等の資格と収入の両方を得られる道を選んだのだ。妹の、ために。
「教団としても、信者の身内が国家公務員になるのはメリットですからね。ただそれは、教団にひとり妹を残すことになりました」
「直接的に庇護することができなくなった、ということで……行動が制限されるのはもちろん、搾取されたということか? 奉仕活動で勉強や部活ができないとか。いや、でもうちに受かったってことは」
「ええ、瑞穂さんはすごく賢かったんです。K大数学科ですよ?」
 それもそうだ。
 数学科は少数精鋭(いろいろな意味で間口が狭いのもあるが)選ばれた学生しか来ない。
「ん? ということは、女子でも大学進学を許された、っていうのも変だな。母親が、自分が行けなかった分、期待をかけたという話か?」
「それもそうなんですが、逆の使い方を……されたんです」
 逆?
 綾野の酷く昏い顔に、楓は首を傾げた。自分が出来なかったことを、と反動で教育ママになるようなケースは聞いたことがあるが。しかし使い方、とは。
 ……つかいかた?


 『瑞穂は神様じゃない』

 その可能性に気付いて、楓は思わず腰を浮かせた。
「かみさま、って、まさか」
「ええ、そのまさかです」
 綾野の冷たい答えに、津川教授も息を止めている。綾野は黙ってファイルから新しい資料を取り出す。恐らく綾野自身の字で、簡単な人物相関図とタイムラインが書き記してあった。
「この手の新宗教の代表は神またはその代理人を兼ねます。神の言葉を語り、奇跡を行う。この団体の創始者も元はセラピストだったんですよ。彼は妻帯者ではありましたが、他にも信徒の中に愛人がいることが分かっています。教団内では愛人とは云わないでしょうけどね」
 危うく、クソ野郎、と口に出すところだった。
 あの事件を起こした某宗教団体と同じだ。否、同じと言ってしまうのは早計だとしても、これはあってはならないことではないのか。神の名の下に、信仰心を利用してそんなことが行われたとして。
「瑞穂さんの父親は、ひょっとして」
「戸籍上は鶴岡氏です。でも、母親が教祖に傾倒していった時期を考えると、否定する材料がないです。DNA鑑定でもしないかぎりは。だから、そこをむしろ逆手に取ったんですよ」
 誰が、とは、恐ろしくて訊けなかった。なんてことを、と、津川が囁くのが聞こえた。まったくだ。
「そして瑞穂さんは優秀でした。教義、というより『聖書』の理解も深かった。またこの写真以外は、やはり卒業アルバムのようなものばかりなんですが、とても、とても綺麗な女性でした。また、そのころは母親も教団内でかなりの地位にいたんです。頭脳と美貌、教祖の娘かも知れないという噂。それがそろったら、山科先輩ならどうします?」
 口にするだに苦々しいが、他に有り得なかった。
「……広告塔にするだろうな。有用だ」


 カリスマを作るのだ。
 人工的に。


 あれ、でも、とそこで津川が疑義を呈する。見つかったルターの『95ヶ条の論題』等の研究書を、彼女は何のために借りていたのか。
「瑞穂さん自身がそれをよしとしなかった、というより、ひょっとして、宗教改革を調べていたといいうことは」
「待って下さい、津川先生、それはつまり」
 ぱん、と綾野が手のひらを打合せ、津川と楓を遮った。
 すみませーん、ブレンドお替わり!とマスターに声を掛け、三人で冷め切った残りのコーヒーをすすった。各々、脳内でこれまでの情報を整理している。そうでもしないと……言ってはいけないことまで口にしそうな気がした。楓は大きくため息を吐く。
 そして、ここからは私の妄想です、と綾野は厳かに宣言した。
「鶴岡兄妹の母親は、瑞穂さんを次の教祖にしたかった。彼女にとってはそれが人生の”上がり”です。喪ったものを全て取り返す、乾坤一擲の一手だった。一方、瑞穂さんは母親とは別の“信仰”をもっていた。自分にかけられた期待や思惑を分かって尚、それに疑問を持つ純粋さと信念があった。更に、航平さんにとってはそれはどちらも寝耳に水です。あってはならないことだった」
 家族であろうと他人は他人だ。しかも、三人の思惑は絶望的に相容れない。その溝はあまりに深く、相互理解が及ぶところでもなければ、法律や規則も意味がない。そうして、どうしようもなくすれ違った家族は決定的な決裂を迎える。
「実は、瑞穂さんの転落死と母親の死亡、これは病死となっていますが、実は教団の施設内で起こっています。死亡診断書を書いたのも教団のお抱え医師、信徒のひとりです」
 再度、楓は絶句した。それでは、なにひとつ信用できないのではないか。
「記録によれば、まず瑞穂さんが転落死し、その後、母親が病死。ですが、真相は藪の中です。たとえば瑞穂さんは退学後に死亡と報告されていますが、それさえ疑わしい。退学の手続きは本人でなくても出来ます。二人の間に何があったのか、どうしてそうなったのか……更に悪いことに、ちょうどその時期、航平さんは海外派遣されていて、二人の死亡を知ったのは帰国後だそうです」
「なんだって!? そんなまさか、血縁の死亡だぞ、連絡が」
 と、言ってから楓も口を閉じる。
 ふつうの……家庭ではないのだ。二人がいたのもふつうの場所ではない。ある意味、こことは違う”他所の国”だ。彼にそれを伝えてくれる人物はいなかったし、彼が二人に連絡を取ろうとしても、教団の連中が口裏を合わせ、修行中だ、旅行中だと言えば追求できなかったのではないか。なんなら、メールの偽造ぐらいは出来るのだ。
 やっとの思いで帰国した祖国で絶望に直面した息子は、兄は、どうしただろうか。
 楓は暫し瞑目し、漂うコーヒーの香りで何かを飲み込んだ。
「……れで、それでも、なぜA氏なんだ? 有り得るとしても、まず教祖を」
 狙うなら。
 復讐すべき相手は。
 しかし、新しいコーヒーカップを手にした綾野が、実に悔しそうに応える。
「残念ながら、その教祖も3年前に死亡しています」
「!」
「しかし、こちらも微妙な記録です。心不全となっていますが、また教団施設での出来事のようで、それ以上はなにも。今は戸籍上の妻だった女性が教団代表を務めています」
 ぞわり、とまた腹の底がざわめく。不穏で得体の知れない情報だけが積み重なっていく。確実なのは、ひとが四人死んでいるということだけ。楓の脳裏に、真紅の夕暮れの空、欄干に立つ男の影が甦る。
「それで、この教団、A氏の後援をやってるんです」
「は?」
「教祖とA氏は大学の先輩後輩だそうで。宗教団体は票田です。A氏が教団の勉強会や集会に姿を見せたり、ビデオレターを出したりしたんですよ。そこから教団の知名度も上がって、鶴岡兄妹の母親もそれが縁で入信したようです」
 それで、仇と思い定めたのか。
 しかし……あまりに危険な計画ではないか。宗教団体の代表とは云え、一個人とは訳が違う、超大物政治家だ。難易度が格段に上がる。考え込む楓に、綾野も同意するように続けた。
「でも、狙うにしてはあまりに大きすぎる。そして何故いまごろ、という疑問も残ります。鶴岡母娘が死亡したのが12、3年前なのに、教祖が死んだのも3年前……そこで例の研究書と、シェイクスピアが気になります」
 返されなかったままの図書。
 最後に妹が手にしていたはずのそれは、なにを物語る?


 もし、遺品整理や何かのきっかけで、埋もれたままだった『何か』が見つかったとして。
 そのとき起こったこと、語られたはずの言葉、あるはずだった明日が……


 ひょっとしたら、存在したはずの温かで柔らかな日々
 それは高望みだったとでもいうのだろうか、神は。




「そういえば、山科君たちが見たという凶器は?」
 すっ、と津川の声が滑り込んできた。楓もはっと目を上げる。あの鈍色の川に落ちていった黒いもの。
「まだ見つかっていません。相当な範囲で探しているようですが……あ、証言は山科先輩以外からも取れたんですけどね、防犯カメラとか、そういうのには映ってないんですよ。なぜか」
 角度が悪いのかなあ、としきりに首を傾げる綾野に、恐らく見つからないのではないかと楓は言えないでいる。確かに見た。日向教授も見ただろう。しかし、あれは。
 あれは……
 それでもきっと堀河刑事は、今日も鴨川をさらっているのだろう。




 かみさま、あなたは ずるい




「野球……見るか」
 ぽつり、と楓は呟いた。
「え?」
「なんですか?」
 二人に聞き返されて、自分が発声していたことを知る。ええっと、と、楓はもっともらしく真顔を作って宣言した。
「こういうときは、もうぜんぜん関係なくて単純なことをしましょう。競馬とか焼肉でも良いです」
「……That’s a good idea、だよ。行こうか」
 意外にもすぐに津川が同意して、マジすか、と言いながらも綾野も資料をしまい始めている。「競馬も興味はあるんですが。え、京セラですか?」等と言うので、「甲子園はそろそろ高校生が使うだろ」と応えてみる。記憶では祐輔が先発のはずだが、と楓はスマホを取り出した。
「チケット、すぐ取れるもの?」
「大丈夫ですよ、あそこ空いてるんで」
「えっ、ちょっとかわいそう…」
 それは言ってくれるな、と応えながら、チケットを手配する。今からなら序盤には間に合うはずだ。
 神様がいるかどうかは知らない。
 それでも、あの、祈るようにマウンドを眺めていた彼の顔を思い出す。その一瞬、なにかを信じていた少年たちも。それは罪ではない。それは切実でどうしようもない、想い。


 鶴岡航平が、いつか目覚めるといい。
 楓は、それだけは祈ってもいいと思った。たとえ、相手が偽物の神であっても。















































 もう紹介の必要もなく、あの事件からの着想なんですが、宗教の話というよりは、疑心暗鬼、がテーマだった気がします。それこそ20数年前の事件のあと、社会や大学にあった、大学に対する妙な緊張感や嫌悪感ものがポイントというか。
 でも単に加茂大橋での大立ち回りが書きたかった、というのは否定できない!楽しかった!!
 橋の石灯籠に上ったあげく鴨川に落ちる男の映像は四畳半アニメ最終話見ていただくと、あんな場所であんな感じ、とか思ってもらえる…?
 ま、神様を信じたい子どもの話、だと思います。だから青春ジャンル…どうだろう…ミステリというより怪談っぽくなるのは仕様です!

2023.05.02収録



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