“鴨川アイロニー”












  鴨川アイロニー (前編) 








 川面で光の粒が跳ねている。


 鴨川デルタ、という呼び名はこの街に来てから知った。
 今ではK大を舞台にした小説のおかげで全国区になったが、元はといえばK大中心のスラングであったろう。ま、いずれにせよ大学からほど近いその場所は、いわゆる観光名所ではないが、いつもけっこうな人出だった。
 柳の緑と水面の光の瑞々しさ。梅雨の晴れ間は誰にも平等に貴重で、いっそ残酷なほど美しい。


 こんなところで野球中継のラジオを聞くというのも、ほとんど昭和だな、と山科楓は思う。実際、昭和生まれだが。
 今季、彼の出番は日曜日のデーゲームが多かった。
 日曜の昼間なので研究室で聞いてもいいのだが、元からの趣味でもないし、あれこれと突っ込まれるのも鬱陶しい。というより、おそらく無言で七転八倒する自分は相当おかしい人間に見えるだろうことは想像に難くないので、楓もわざわざこんな所に来たのだ。(土日といえども研究室はだいたい、誰かしら詰めているものだ。)それなら、いっそのこと自宅で聞けばいいのだが、あくまで本業の息抜きであるべきなのでこうなった。
 誰より本人が分かっているが、やせ我慢である。
 野球中継のツールとして恐らく最古参だろうラジオだが、中継に非常に適した優秀なツールであることに楓も利用し始めて気付いた。面白いのだ。下手なテレビ中継よりよほど良い。市民の娯楽が増え、野球中継自体がコンテンツとして廃れ、地上波の放送がどんどん減ってはいるが、地方局やケーブルテレビでは増えているし、いずれWebで配信されるだろう。しかし野球のラジオ中継は残るかもしれないなと考えながら、楓は人気がない適当な場所に腰を下ろし、ラジオのスイッチを入れた。
 両チームのスタメンを耳で確認し、立ち上がりが肝だなと思っていると、背後を人が通った気配があった。二人か?と、楓は一瞬振り返りかけるが止めた。立ち止まる様子もないし、野外で気になる音量でもないだろうと判断する。そのうち試合が始まって、楓の意識もそちらに集中していった。




「よっし!」
6回表までに3点をリードし、その裏の一死一、二塁を彼が凌いだところで、楓はひと息吐いた。次の打順からして、おそらくここで彼もお役御免だろう。楓はベンチから立ち上がって伸びをした。
 息抜きだというのに、研究よりよほど力が入っていることは努めて無視する。目の前の川は相変わらず光を受けながらゆっくりと流れている。気付けば、周囲のざわめきも増えている。そろそろ研究室に戻るか、と楓があたりを伺ったところで、人が争うような声が聞こえた。
 争う、は言い過ぎか。せいぜい口論、というか片方が一方的にまくし立てるような声だが、楓も何事かと声がする方を向く。楓の居るベンチより更に奥で人影が見えた。が、すぐに声は低くなり、楓も再開された中継に意識を戻した。
 そしてそのすぐあと、楓の後ろを人が歩いて行った。さっきの人影かと合点したが、どうも一人だけのようだ。あれ、と楓が首を向けたところで、ぱちぱちと音がして、妙に香ばしいというか、大陸のお香にも似たエキゾチックな薫りが流れてきた。
 おそらくタバコであろう、とは思う。
 しかし、半年ちょっと前までは喫煙者だった楓だが、この匂いには心当たりがなかった。それくらい珍しく、少なくともこの国には馴染んでいなかった。輸入物か。
 そして見つけた、少し先のベンチに、煙草をくわえた人がひとり、座っていた。


 その人は真っ白だった。


 比喩ではない。間違いなく、実際、白かったのだ。
 中年の、と言っていいのか……両親より一つ下の世代だろうか。ライトグレイのジャージを身につけた人は、性別がよく分からなかった。細い体だが、女性にしては長身だ。はっとするほど整った横顔が、眼前の川を静かに眺めている。かなり短くなった煙草には気付いていないのか、そのまま雛人形のように動かない。そして、頭には白いニット帽を被っていた。
 この晴れ渡った夏の日に。
 美しい貌をよく見れば、年相応のシワなどもあるが、抜けるような、という表現では追いつかないほどの白さで。それは不自然なほど。
 入院患者か、と、楓は反射的に思い浮かべる。その白さが、日にほとんど当たらない生活と血色の悪さによるのだと見当をつけたところで、
 ふっと、
 その人が楓の方を振り向いて、思わず目が合った。
 濃い睫毛に縁取られた切れ長の目が数度瞬いて、ようよう焦点を結んだ視線は、楓の上を通り過ぎる。
 それから視線を前に戻すと、我に返ったように、手にした携帯灰皿にほぼ灰になった煙草を押しこむ。またポケットから煙草を取り出すと、一本を引き出した。慣れた動きをする指も、細く真っ白だ。
 楓はそのまま動けずにいる。
 その人は次に当然、ライターを取り出す、かに見えたのだが。ポケットを探る手がはたと止まった。あっと気付いた顔になり、一度、空を仰ぐ。
 もしかして……
 楓は彼女の方に歩み寄ると、自分のポケットから持っていたライターを引っ張り出し、その人の眼前に差し出した。
 ライターと青年の顔を……
 その人は何度か見比べたが、楓の手からひょいとライターを取り上げると、難なく火をつけて、すっと息を吸い込んだ。ぱちぱちと音がして、あの、芳ばしく甘く不思議な薫りがする。
 それから無言で楓にライターを返す。楓も黙ったまま受け取って、そのまま背を向けようとしたところで、
「ちょっと待って」
 声がかかって、楓は振り返った。ああ、声は出るんだな、と思う。
「君、学生さん?」
「……はい」
「ありがとう、助かった」
 少し低いが、女の声だった。その人はゆったりとした仕草で首を傾げて、続けた。
「どうせなら点けてくれたらよかったのに」
 こちらを射る鋭い眼差しに、楓も思わず顎を引く。少しでも気を抜くと、その黒々とした瞳に呑まれてしまいそうで。
 だから、楓はくるりと体ごと向き直ると、下腹に力を入れて答えた。
「贅沢言わないで下さい。やりませんよ、ホストじゃないんで」
 自分の視線を真っ直ぐ受け止めた青年に、彼女はふっ、と薄く笑った。そうして煙草の先をまじまじと眺めながら、それもそうだな、と呟く。
 その煙草の火に、何があるわけでもないのに。
 拍子抜けした、程でもないが、その転換に興を惹かれて、楓は問い返した。
「どうしたんですか、ライター。というか、さっきの煙草もどうやって点けたんですか?」
「ああ…… ちょっとな、使いに出てる」
「……は?」
「自分で持ち歩く習慣はもう、失って久しい」
 謎かけのような、そして少し堅苦しい物言いだが、その人が口にするなら違和感もない。はあ、と気の抜けたように頷く楓に、その人は顎先で自分の隣りを示す。
 断るには、剛胆にも怯懦にも足りなくて、すこし戸惑いながらも楓はベンチに腰掛けた。そうしてみると、また強くあの香りが漂う。おかげでつい余計な事をした。
「それ、珍しいですね」
「あ? ああ、これか?」
 彼女が指に挟んだタバコはやはり海外製らしく、少し長い。あと模様?のようなものがある。
「精油だ」
「え?」
「このシミはクローブの精油がしみ出たものだ。それから、おそらくタールの含有量は世界一だ、マイルドだが33mgもある」
 なんだって、と思わず声が出るところだった。もちろんただの偏見だが、そんな代物は女性が吸うには重いだろう。楓がまじまじと眺めていると、彼女はニヤリと笑って「君も吸ってみるか?」と一本、差し出してきた。一瞬迷って、
 好奇心に負けた。
 楓は、それではありがたく、と断るとそれを受け取る。軽く嗅ぐと、刺激的な、パッションフルーツのような甘酸っぱい薫り。そして、フィルタを咥えたところで、
「あまッ」
 反射的に声が出る。本当にタバコにあるまじき甘さだ。彼女の笑いの意味が解って、楓はなんとも罠に掛かった気分になったが、乗りかかった船だ。火を点けると、やはりぱちぱちと音がする。
 すると彼女の声が割って入ってくる。
「火を点けるとクローブが弾けてそんな音がする」
「クローブ、というと、香辛料の?」
「そう。この匂いも甘さもそれのせいだ。インドネシアのガラムというタバコでな。火を点ける際にこういう音がするタバコを、インドネシアではクレテックシガレットという。クレテックとは現地語でぱちぱちという音を表す、いわゆる擬音語だ」
 涼やかでよく通る声だ。ほほう、と楓は頷きながら、なんとなく講義を聴いている気持ちになる。
 それにしても本当にお香のような匂いだ。吸ってみるとやはり強い甘さと、確かに香辛料らしい刺激的な薫りで肺がいっぱいになる。
「いつものと比べてどうだ?」
「あ、いや、ちょっとこれは、キョーレツですね……」
 だろう、と彼女はくつくつと実に愉快そうに笑う。
「余りに匂いとクセが強くてな、迷惑がられて喫煙所でも吸えない」
 だからこんな所にいるのだと言いながら、彼女は実に美味そうに吸う。楓は、まるで別世界の住人を見るように彼女を見た。
 不味くはないが、あまりに独特で表現しづらい。ただ、これだけ個性が強いと熱狂的ファンもいるだろうこと分かる。楓もタバコの先をしみじみと眺めた。
「思ったよりは吸いやすいですが、久々なのもあってちょっと、キツイですね」
「は?」
 ああ、禁煙して半年です、と自然に応えてから横を向くと、彼女が不審そうな貌をしている。
「出来てるのか? 禁煙。ライター持ってるくせに」
 そういえば、と本人も改めて気付く。なにせ止めた動機が動機なので、まるで吸いたいという気持ちにはならなかった。楓は、はあ、と気の抜けた返事をした。
「出来てますね。ライターはまあ、道具として便利なので」
「道具として、ってな……」
 彼女は綺麗な形の眉をひそめて、少し考える風だったが、あっと声を上げた。
「そのライター、貰いものか? カンタンに捨てられないとか」
 当たりである。
 なぜ分かるのか、と聞き返そうとした楓だが、先手を打たれた。
「それで、禁煙の理由はたぶんに外的要因だろう。だからライターがあっても止められた、というか止めざるを得なかった……たとえば、新しいカノジョはタバコが苦手だったとかな」
「はっ、やっ」
 迂闊にも楓は煙にむせた。彼『女』ではないがほぼそのままである。
「なんだ、ほんとにそんな陳腐な理由か?」
 陳腐と、言われてしまうと、まあそうだろうか。いや、思いやりと言って欲しい、と反論する楓に、彼女は呆れつつも「青い春だな」と快活に笑う。
「まあ、理由は何にせよ、止められるンなら止めた方がいい。身体には毒だ」
 他人にも勧めておいて、ずいぶんな言い様である。そう言おうとして、楓は息を呑んだ。この人は、タバコなど吸ってもいいのだろうか。明らかに……何か疾病を……と言いあぐねていると、
「ん? でも君、そのライターの贈り主、まさか前の彼女とか言うなよ」
「なっ、なん」
 なにを、と言いかけて止める。正解だと言っているようなものだ。いやそれも既に遅しで、彼女は盛大に顔を顰めた。
「マジか! うわ、おまえ、サイテーだな。禁煙は今カノのためなのに、元カノのプレゼント捨てないとか、最悪だ」
 すぐ捨てろそれ、と、まさに柳眉を逆立てるというか、毛を逆立てている猫のような感があった。
 これまで、むしろ男性的とも言える物言いをしていたのに、その言い方は妙に『女子』っぽくて、楓は「はいすみません」と答えながら、つい笑ってしまった。
「笑ってる場合か! そういうことしてると、おまえ、そのうち刺されるぞ」
 最初はちゃんと『君』だった呼称が『おまえ』になっている。
「顔が良いとな、そんなふうに曖昧なことをしてると勘違いする女も出てくるんだ。それで結局、騙したの騙されただの、もめて困るのは周囲だからな!」
 ……これは誰の話だ?
 と楓は内心首を傾げる。自分ではない特定の誰かのことを言っているのは分かる。おそらく非常に親しい男性に対する評価であろう。指輪はしていないようだが、十中八九、パートナーへの愚痴だ。
 存外、子どもっぽいところがある人なんだなと、楓は笑って謝りながら、結局、立ち去る切っ掛けも彼女へ問うタイミングも逸してしまった。




 ひとしきり愚痴を言ってスッキリしたのか、その人は唐突に話を変えた。
「喉、乾かないか?」
「え?」
 そこの角に、とその人は半分、振り返って先の交差点を指し示す。
「コンビニがあるだろ。コーヒー、ブラックで。それと苺牛乳」
「は、はあ?」
 彼女は楓に500円硬貨を無理矢理押しつけると、びしっとコンビニを指差して命じた。
「ダッシュ!!」
「は、はい!」
 楓は跳び上がるように腰を上げ、一気に駆け出した。


 これこそ条件反射と言わずして何と言おうか。
 しかし、楓は自分でも首を傾げる。海外暮らしもしたので、顎で使われるような態度には徹底抗戦する質だった。だから誰の指示にでも従う彼ではないが、あの人の声には有無を言わせぬ迫力があった。命令し慣れている人間の声だ。おそらくどこかの教員だろう。
 ……たぶん。
 と、結論が出たところでコンビニに飛び込んだ。楓はひとつ大きく息をつく。理不尽なことは明らかなのに結局、そのまま陳列棚を巡って目的のものを探した。
 ブラックコーヒーと苺牛乳……えっ、イチゴギュウニュウ? なんで? ほんとに?? と、悩みつつレジを通過した時点で、
「何者なんだ、あのオバサン」
 やっと真っ当な疑問が、楓の口をついて出た。















































 こちらも後半は拙著『共振ルーズベルトゲーム』でお楽しみ下さい!!
 これもバテリのころ、同じテーマ・題名で書いたものですが、女子っぽいノッブが楽しかったです。ノッブはノッブでモテたと思うので、このへんの苦労はお互い様じゃないかとは思いますが。
 ちなみに豆大福はふたばをイメージして書いたんですが、未だにありつけてないです。残念。トウキョウだと音羽に有名なところがあって頂いたことがありますが、むかし近所にあったお店のが美味かった思い出。

2022.01.30収録



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