◇◇◇◇ 間違いなく、一から十まですべてフィクションです。 ◇◇◇◇













  流星の記憶


















  まだ、桜の蕾も堅い時分だった。


 思い立って、佐倉駿輔は高校入学前に練習用のロードを走ることにした。これから三年、日々走ることになる道だ。興味6割、惰性3割、警戒1割。走ることに飽いてはいないが、練習には程々に飽きていた。
 だから、ファーストインプレッションに心は躍った。だいたい、校内は勿論、近隣にシュンスケより速いランナーが居ない現実がやっと変わる。
 と、意気揚々と新しいコースを流したシュンスケだったが早速、収穫があった。彼の足をもってしても、どうしても追いつけない少年がいた。長身で痩せ型の、色黒の少年。さすがにスポーツエリートの集まるマンモス校、高校生は速えな、と思いながら彼に声を掛けたのだが。
「え、マジで? 一年?!」
 関西弁の少年は、シュンスケと同じ新一年生だったのだ。同級生の後ろについて走るなど何年ぶりだろうか。思わずまじまじと眺めても、相手はなんだか長閑な顔で微笑んでいる。その顔にも小林穂高という名前にも覚えはなかったけれど、逸材というのは居るところには居るんだなと、素直に感心したものだ。
 まあいいか、とシュンスケはひとり頷く。三年間で追いつけばいいし、チームメイトなら好都合だ、と思った。都大路や、いずれ箱根も出雲も伊勢も一緒に走るのだし、と。


 なのに結局、彼と一緒に走る日は最後まで来なかった。






「はあ?! 野球部?」
「うん、そう」
 と、当たり前のように首肯した穂高に、シュンスケはしばし絶句した。てっきり同じく陸上部に入るものだと思っていたのに、練習に現れないので(スポーツ推薦の生徒は入学前から練習に参加するのだ)白昼夢か学校違いかと不安になっていたのだが、入学してみればクラスにその顔を見つけた。ほっとしてから勢い込んで問い糾すと、彼はなんと硬式野球部員だというのだ。
 よりによって野球部、とは。
 この学校の野球部は超が付く強豪で、校内ヒエラルキーの最上位にいる。プロ選手も多く輩出し、実績はもちろん、歴史やら大人の事情やらも絡んで、望むと望まざるに拘わらずそれは事実だった。
 つまり、それだけ過酷な部活だということだ。
 そもそも、レギュラになれる人間は限られている。方言からしてわざわざ留学して来ただろうに、そんな有象無象の輩が集う場所で、この身体能力は高いが温厚そうな少年がやっていけるか甚だ謎だった。厳しい現実に、あっという間に脱落してしまうのではないか? と他人事ながら心配したシュンスケだが、まあそれならそれで宗旨替えを勧めるチャンスも早々に来るだろう、と前向きに考えたりもした。
 が。
 違った。穂高はそこいらの球児に埋没することがない、本物だった。足も速いが投げる球も速い本格派右腕、鳴り物入りの新入生だったのだ。ちょっと聞いただけで、硬式野球部の新入部員情報なら簡単に手に入る。中学時代はシニアで全国大会入賞、50を超える野球強豪校から声がかかり、大阪の某強豪校など監督直々に勧誘があったという。
 それから情報がもうひとつ。中学時代に全国大会優勝投手になり、東日本ナンバーワン左腕だとかいう新入生もいた。柳澤圭一郎という大柄な少年は、ちょくちょくシュンスケ達のクラスにも顔を出し、穂高と仲の良さを見せつけて(?)いった。
 シュンスケは臍を噛んだ。
 陸上部の活動もメンバも充実してはいたけれど、長距離では穂高ほどの走力を持つ同級生は居なかった。だから、体育の授業や部活のアップでたまに穂高と一緒になると心が逸った。そしてその都度、なぜ野球なんかやっているのかと思ったものだ。(実際に口にも出した。)
 そしてたまに想像した。強力なライバルも居るようだし、もし穂高がエースになれなければ… ひょっとしたら伸び悩むかも知れないし… というところで、さすがに我に返った。シュンスケとしても別に穂高の不幸を願っているわけではない。
 …訳ではない。はずだ。




 ただ、共に走れないことが淋しかった。
 どうしようもなく。




 シュンスケの祈りも空しく、高校球児としての穂高はこれ以上はない戦果を得た。
 エースナンバこそ獲れなかったが、二年の夏は地方大会決勝で21奪三振の新記録、最後の夏にはダブルエースの片割れとして活躍、夏の甲子園と国体の二冠を達成。秋にはとうとうドラフト会議での指名を受け、相棒の柳澤共々、無事にプロ野球選手への道が開けた。そのあとでもワガママを通して練習に付き合わせたりもしたが、そんな日々ももう終わる。
 練習であっても、一緒に走ることはないだろう。二度と。
 三年の冬の初めの校内マラソン大会、おそらく真剣勝負の最後のチャンスだった。二人共に毎年入賞しているが、これまでシュンスケの方が一歩及ばなかった。しかし陸上部長距離のエースとして、シュンスケは今年こそ首位を獲らなければならなかったし、強敵のはずの穂高はプロ指名に紐付くばたばたで練習不足だ。
 マラソン大会自体は全校生徒が参加するが、当然、スタートラインには有力候補が並んで、号砲直前の独特の緊張感に揺れている。その真ん中に立つシュンスケは、今年は入賞は無理かもなー、などと暢気なことを言っている隣の穂高を呼んだ。
「なあ」
「んー?」
 のんびりと答える彼の方は見ずに。真っ直ぐ前を向いて、シュンスケはひと息で言う。
「俺が一位になったらさ、ちょっと頼みがあんだけど」
「…え?」
 長い首を傾げた穂高が問う前に、位置に着くようアナウンスが入った。






「ねえ、コバは? どっか行ったの?」
「今日は居ないぞ。外泊届けが出てる」
 前正一塁手のミズキの問いに、前キャプテンのタカヒロが答えた。
「え、外泊? ユニフォームの採寸とかだっけ」
「それは圭一郎の方」
「あっ、そうか」
 その日、野球部はオフで一、二年生はのんびりと過ごし、寮に居残る三年生の方がむしろ忙しく立ち働いていた。進学組も就職組も、年明けには新天地に赴くメンバが多いので方々で片付けが進んでいる。手続き等で地元に一時的に帰るメンバーもいた。
 そんな中、そのまま近所の系列大学に進むタカヒロ、ミズキ、前正遊撃手のトオルは比較的手が空いていた。今日も後輩達の自主練に付き合ったり、雑用を手伝ったりしている。ミーティングルームで、タカヒロは出納帳の確認中、トオルはタブレットをいじってバッティングフォームの動画をチェックしていた。そしてミズキはあるミッションを執行中で、さて、と頭に手を遣る。
「来週のサッカー部の応援、誰が行くか決めようと思ったのに」
「えっ、コバと圭一郎も行かせんのかよ?!」
 トオルが思わず声を上げる。もうすぐプロ野球選手だぜ、人使い荒いな!と言う遊撃手に、イヤイヤとミズキは首を振った。
「本人達が行きたいって言ってたんだよ。最後だし。ほら、MFの小林とかDFの高城とかと仲良いし」
「ああそうか。まあ国立かかってるしな、俺も行こっかな」
 そもそも応援要員は各運動部持ちつ持たれつ、シーズンが違うサッカー部には野球部の応援にもちょくちょく来てもらっている。恩は返さねばならない。特に今年こそ野球部と全国大会アベック出場だ、とイレブンも息巻いていた。ちなみにアベックが何を意味するか、判っている生徒は少ない。
「や、トオルは既にメンバ入りしてる」
「なんで!? 初耳なんだけど!」
「だってトオル、賑やかしにはもって来いだもん。好きでしょ、ああいうの」
「だな。応援くらいしか取り柄ないだろ、おまえ」
「…ひでえ」
 タカヒロからも断言され、トオルはがっくりと肩を落とす。一応、これでも国際大会選抜チームのメンバに選ばれるほどの選手なのだが、普段の行い?からこのチームにおける地位は低い。それを放置して、ミズキは「まあコバとヤナギが帰ってきたら聞くよ」と言いながら話を戻した。
「で、コバはどこいったの?」
「ああ、陸上部の佐倉んちらしい」
「シュンスケんとこ? なんで?」
「この前のマラソン大会、佐倉が一位で、コバ、ぜんぜんダメだったろ。だからなんか約束したって」
「ダメッたって、11か12位だろ。最近、走り込みしてなかったのに。意味わかんねえ」
「そもそも佐倉が優勝して当然な気もするけど、まあいいか」
 タカヒロの説明は突っ込みどころ満載だったが、それが意味することを考えたトオルはぼそりと呟く。
「てかさ、それ、また一緒に走らされんじゃねえの?」
 たしか、先月も陸上部のエースと右のエースは5kmのラップを競っていた気がする。それはありそうなと頷くミズキの一方で、どうかな、と冷静な顔で出納帳のチェックを続けながらタカヒロが言うには。
「単に名残惜しいんじゃないか」
「なごりおしい…」
「もう最後かもだろ」
 その言葉に二人ははっとする。
 野球部員同士であればこの先、OB会や各種イベントで再会する機会はあるだろう。しかしただのクラスメイトとなれば、せいぜい同窓会ぐらいしか集まる切っ掛けがない。しかも特殊な環境下に置かれる元同級生とは、どう考えても疎遠になるに決まっている。
「そうねえ」
「そういやコバとシュンスケ、仲良かったもんな」
 卒業という節目が目の前に迫っていることを思い出し、なんとなくしんみりするファーストとショートだったが、セカンドはまたそれをひっくり返す。
「ま、名残惜しいから走るかも知れないけどな」
「うえッ! でもなんかありそう、あの二人なら。俺、長距離走好きな奴って、全員Mだと思う」
「トオル、それ暴言…」
「それなら、コバはどっちかっていうとSだろ」
「や、あれ投げてるとき限定じゃん。普段はMっぽいし」
「Mっていうか、すごく鈍いだけじゃないっすかね」
「それは同感だけど。ま、コバ、二重人格だしね」
 最終的に本物の暴言になったところで、三人は今のやり取りに別の声が混じったことに気付く。
「あれッ、上條?」
「はあ、俺です。佐倉さんちの近く、いいランニングコースがありますよ」
 ミーティングルームに現れたのは新キャプテンの上條で、タカヒロに「これが去年のです」と別のノートを渡した。お、サンクス、と受け取るタカヒロ越しに、トオルが彼を巻き込む。
「どこから聞いてたのよ、おまえ」
「名残惜しいのあたりですけど。てか、そもそも外泊届け、俺もチェックしますから」
「それもそうか」
「上條は佐倉のこと知ってるの?」
 ああそれは、と上條が語るには、佐倉とは同じ中学出身だという。つまり自宅も相応に近所なのだろう。この校舎から電車とバスを乗り継いで70分は掛かる街だった。
「んー、ギリ通学圏?」
「頑張れば。中等部からココに通うのもアリでしたけど、ちょっと遠いんですよね」
「うちの練習じゃあ、そうだなあ」
 寮があるのは高等部からなので、中等部の場合は自宅から通うことになる。野球部の練習量を考えると、毎日となるとやはり難しい。
「ま、ホントに郊外なんでなんもないですけど…」
「リアルに最後のランニング説が有力だな」
「コバ… 気の毒…」
 涙にむせぶ三年生たちだったが、「あ、でも、関係ないっすけど」と思い出したように上條が付け足した。
「佐倉さんの姉ちゃんがすっごい美人です」
「まじか!!」
「早く言えよーーー!」
「いや、言ってどうなるんすか…」
「そりゃなんか理由つけてついて行くに決まってんだろー?」
「とりあえずお顔だけでも拝みたいねえ」
「サイテーっすね…」
「いいじゃんか、それくらい。てか、写真とかないの?」
「AKBなら誰似?」
 ほらSNSとかさ、アカウントとか知らないです、でもクラスとか部活つながりでなんかないの? ええっ!? とトオルが上條にまとわり付いている。しまいには、佐倉姉と同じ部活にいたはずの生徒探しを主張して、上條を連れて部屋を出て行ってしまった。
 がんばれ上條、と心の中で熱いエールを送ったタカヒロはノートを開こうとした、が。




「まあ、ヤナギとマサハルがいなくてよかったねぇ」
 ミズキの声がするりと滑り込んできた。タカヒロは片眉を上げる。
「…なんで」
「や、なんか揉めそうだから」
 過保護でしょ、あのひとたち。
 そう言って、ミズキはにこりと微笑んだ。あの人たちとは、左のエースと前正右翼手のことだろう。その言葉にはどこまで含まれるのか、タカヒロにはよく解らない。地味につかみ所がないのだ、この左隣の相棒は。右隣の相棒であるトオルが、まったく単純明快、裏表無しのタイプだから余計にその差が際立つ。
 全国各地から俊英が揃い、個性派の巣窟である野球部だが、意外なほど仲が良い、と見られていた。しかし非常にうっすらとではあるが派閥が存在する。県内出身の左腕と中学時代から同じボーイズのタカヒロやトオルを中心とする地元組と、右腕と関西選抜や全国大会で知り合ったマサハルや四番のリョウタなどが核になる留学組と。ただ、トップの二枚看板が誰より一番仲が良いので、垣根の高さが限りなくゼロに近いだけだ。
 そして右左腕とは別に、第三極を形成しているのがミズキである。
 ミズキはこの学校の近所で生まれ育ち、四兄弟の末っ子だった。一番上の兄は硬式野球部で主将を務め、二番目はセンバツ準優勝の時のレギュラ、三番目は首都圏の野球強豪校でクリンナップを担い、いずれも甲子園出場という正真正銘の野球エリートだ。その冷静な判断力と情報収集・処理能力への信頼は半端ないが、おかげで部員の誰より、下手をすればコーチより野球部に詳しく、人脈と情報網の全容が知れない。野球つながりの知り合いを辿れば4人目までにミズキに辿り着く、とは前正捕手・岡の談である。
 とはいえ、左右のエースと等距離に仲が良く、違うバックボーンを携えた有能な内野手は、主将としては非常にありがたかったのも事実だ。なんせ二枚看板に説教、もとい意見が出来る人間は限られている。副キャプテンとしてチーム内外の調整弁を担ってもらっていたミズキには、タカヒロであっても少々頭が上がらない。
 そして、こういう妙に鋭いところが厄介だった。
「別に… 揉めないだろ」
 いや、居たらゼッタイに揉めるだろうと思うが、ここはしっかりと否定しておく。それに「そうねえ、そろそろ子離れしないとだしね」と相槌を打つミズキだったが、きっと自分の心づもりくらいは見抜かれてるんだろう、とタカヒロは思った。
「ま、明日、コバが帰ってきたら、ランニングとか美人のおねーさんの感想とか聞こっか」
 ミズキはそう言うと、やっぱりニコリと笑った。






「なんかさ、断りもなく冬が来た感じするよな」
 彼のその言葉に、シュンスケは思わず顔を顰めた。
「…なにその感想」
「いや、今年は秋大出てないし、なんか夏が続いてた感じで… 秋、あったっけ? と思うて」
 秋の記憶がない。と言うと、穂高はちょいと首を傾げた。
 彼がそんな事を言うそばから、鋭く乾いた夜風が二人を追い越していく。密度と温度の低い風に、シュンスケは思わず首を竦めた。走っている時の彼らであれば木枯らしに追いつかれることなどないが、今はほどほどの歩調で坂道を登っていた。
「秋、ふつーにあったろ。夏が長かったの、おまえらだけだし」
「うーん、そっか… あ、巨峰食べてないからか!」
「そこかよ」
「秋刀魚は食べたけど」
「おまえの秋イメージってそんだけ?!」
 鮭と梨と栗は聞かねえぞ、と念をおし、シュンスケは先を急ぐ振りをした。
 当初意外だったのだが、穂高は相当なおしゃべりである。更には他人のおしゃべりへの参画率も高い。『大阪のおばちゃん』という生きものとの共通点を見つけて、かなり衝撃的だった記憶がある。外見との差が激しいだけに。(正確を期せば、同じ関西圏といえど大阪と京都の溝は日本海溝程度に深いが、門外漢のシュンスケにとっては同じである。)今日の彼も、シュンスケの家に来る間から、到着してから、夕飯の時、そして今とひっきりなしに喋っている。
 ただ、話題の幅がかなり広いのには改めて驚かされた。これだけ野球しかやっていないわりに、部活以外のクラスや学校の話だけでなく、遠征先の話はドラマティックに、トレーニングについてはシステマティックに語ったりする。スポーツ紙各社の取材方針の比較などはかなり興味深かった。まあ、その話題の多くに柳澤圭一郎の名前が出て来てシュンスケを苛立たせたが。
 今ごろになって思い知るそんな些細なことでも、きりきりと脇腹に差し込まれるようだった。
 シュンスケが微かに俯いていると、いつの間にか話題が変わっていた。
「冬の星座なんて、オリオン座くらいしから知らんなあ」
 なるほど、季節の話はここに繋がっていたか、とシュンスケは本来の目的も思い出した。
「それがわかんなら、冬の大三角形も覚えてるだろ?」
「え、さんか… んー、ん? あ、あれか、シリウス」
「正解」
「あとなんだっけ、ベテルギウスと、プロ… プロト…?」
「プロキオン」
「それや!」
 北極星とかも覚えとけよ、中学の理科の授業でやったろうが、と突っ込みながら、上げた視線の先に目的地が見えた。
「着いたぞ」




 生垣の割れ目から敷地内に侵入し、そこだけ鍵が壊れている通用口隣の窓を開け、室内の様子を確認していると、穂高がぽつりとこぼした。
「これ、不法侵入と違うか」
「人聞きの悪いこと言うな、違うって」
 たぶん、とシュンスケが小さく付け足すと、「やっぱビミョウやないか」と眉尻を下げているだろう声がした。もちろん無視する。
 二人が今いるのは、シュンスケの家から暫く歩いたところにある小学校で、彼の母校だ。少子化の余波でシュンスケが卒業した後に近隣の小学校と統合されて廃校になり、今では地域活動用の施設として再利用されている… のだかいないのだか。放置はされていないが管理も中途半端で、宙ぶらりんな状況だった。
 そしてそれ以前に、夜の小学校に他に誰の気配があるわけもない。
「夏の間なんか、花火とかやりに来る連中も多いぞ。公然の秘密… じゃなくてなんだっけ、公共の施設?」
「違うと思うなァ」
 穂高の声を再度無視して、シュンスケはそのまま窓枠を乗り越え、そっと校舎内に侵入した。いちおう、先月ひととおり確認してはいるのだが。
 がらんとした空洞に彼のスニーカが立てた音が響く。窓もドアも今通う校舎に比べてずいぶん小振りだ。穂高が彼と同様に窓枠を乗り越えるのを見届けると、シュンスケは廊下側の引き戸を開けた。
 新月が近い今夜、月明かりは期待できない。非常口を示す緑の光だけがちらちらと見える。
 足下を照らす懐中電灯の円が、心許なげに揺れた。
 校舎の中を土足で歩くのはどこか罪悪感というか、背徳的な感じがした。
 二人の微かな足音が、無人の校舎を浸食してゆく。
「こっち」
 穂高を促して、蹴上げの低い階段を一段飛ばしで上がる。校舎は四階建てで、その昔、高く遠い気がしていた屋上まではあっという間だった。
 屋上に続くドアノブを掴んだ瞬間、鍵が掛かっているかもという可能性がシュンスケの脳裏に閃いたが、いまさら考えても無駄だった。ノブを思い切って回すと、ありがたいことに難なく開く。
 ひやり、と先ほどより更に冷えた空気が頬を撫でる。
 二歩、三歩と進めば、冬の大気が身体を包むのがわかる。
「あ…!」
 シュンスケの背後から、彼の感嘆符が聞こえた。
 頭上には満天の星空、は望むべくもないが、都会の片隅にしては立派な夜空が広がっていた。








 星を見よう、と。
 穂高にはそう言った。ふたご座流星群も近いし、冬は夜空が美しいからと。
「へえ、天体観測」
 佐倉にそんな趣味あったんか、と。相変わらずのんびりと応えて穂高は承知した。ただシュンスケの自宅の場所を聞いて、「え、それ、行き帰り走るとか言う?」とおののいていたが。
 もう、彼と走る必要は無かったので、やんねーよと軽く応え、とにかく防寒対策だけはして来いと厳命した。屋外での活動にはイヤというほど慣れているだろうが、観測や観察、観戦など見るだけの行為は想像以上に冷えるのだ。
 ひとしきり夜空を見上げたあと、二人は、屋上の片隅にあった誰が置いていった段ボールやら、持参したシートやフリース、ダウンケットを出して観察に備える。今日は望遠鏡等の装備は不要だ。ただ、懐中電灯の下に星座早見表を取り出し、シュンスケは穂高に概説する。
「稜線が見える方が西、イ○ンの看板がある方が南だ。つーことは、東は」
「あ、あっちか」
「そうそう。で、さっき言ってたオリオン座は… 今は12月上旬だからこの時間…」
 とシュンスケが有名どころを解説するのに、彼はふんふんと真面目に頷く。そういえば以前、地図を見るのが好きだと聞いたことがあるが、地理や空間を把握する能力には長けているようで、すぐさま飲み込んだ。
「はー。ほんまに冬の星座って分かり易いなぁ」
「空気が乾燥してるし、今日は新月だしな」
「そう考えると、月って明るいにゃなあ」
「だから流星群観察には最適なんだよ」
 なるほど、そーいうことか、と感心しながら星座早見表を覗き込んだ穂高の額は、シュンスケのすぐ目の前にあった。野球部引退後、坊主頭からいくらか伸びた真っ黒な前髪は、少し揺れれば触れそうなほど。
 もう、2センチもない。
 シュンスケはすっと身を引いた。懐中電灯の輪から外れた自分の影が大きく動くのを感じながら、敷物やケットを忙しく広げるふりをする。そして穂高を促すと、ありがと、と言いながら彼もダウンケットにくるまった。結局、少しでも暖を取ろうと二人の距離は近付く。
 そうして、並んで空を見上げる。
「流れ星って、そんなカンタンに見えるもん?」
「見える。てか、べつに流星群じゃなくても、粘ればふつーに見られるぞ」
 とシュンスケが言うなり、夜空の片隅にきらりと細く星が流れるのが見えた。




  吸い込まれそうな深さと透明度に、
  濃紺の天蓋へ昇ろう
  もし、降る星に祈るとして いのるとして、
  なにを




「しかし、この点々つーか、ツブツブつーか、なんでこれが”こぐま”になるんや?」
 ぽろっと穂高の口からこぼれたのは情緒もロマンもない感想で、答えるシュンスケの声もため息交じりになった。
「つぶつぶって。昔のひとは… 想像力豊かっていうか、余ってたんだろ。ネットもテレビもないし」
「…暇だった、と」
「いや、まあ、それこそ死活問題っつーか、今みたいに写真とか紙だってないわけだし、名前を付けないと先に進まないっていうか。天文学ってそうとう昔から発達してたろ、それこそ農耕民族のセーカツにさ。地図とかふわっとしてた大昔は、星の位置を見て旅してたりしたわけだし…」
 訥々としたシュンスケの説明に、またも穂高は素直に反応した。
「えっ、だって星の位置ってちょっとずつ変わるんやろ?」
「そう。だからちゃんと計算して、少しずつ補正して」
「マジか。昔のひとすげえな!」
 天動説の頃だって天球儀とかあったろ、まあ、川とか山の方が目印としては役立つだろうけど、と言いさして、シュンスケは穂高の名前の由来を思い出す。
「そういや、穂高って山の名前なんだって?」
「ん、そう。なんや、佐倉、よう知っとるな」
 と意外そうな貌をする穂高に、ちょっと前に写真部の長峰と知り合って教えてもらった話をする。ただ、その時にもらった写真の話はもちろんしない。彼の姿はネットにも雑誌にも溢れているが、ほとんどが相棒とのツーショットばかりだったから、長峰には足を向けて寝られないと思ったほどだ。


 マウンドに唯一、凜乎として立つその姿は。


「冬の奥穂高かぁ」
「有名らしいじゃん。小説になってるって」
 らしいなぁ、読んだことないけどな、と笑う穂高に、その長峰が名付けたのは父親かと推理していたことを告げると、まったく予想外の答えが返ってきた。
「惜しいな、好きなんはおかんの方や」
「えっ、お母さん?」
「そう。あのひと、山登りばっかしてて、しょっちゅう出歩いとる」
 おかげぜんぜん家に居なくてなー、などとほとんど他人事のように穂高は言う。 
 たしか中学時代は祖父母の家に居たと言っていたが、それも関係していたのだろうか? またもや今さら判明する事実に、いかに彼を知らないのかを思いしって、みぞおちの辺りが少し痛い。シュンスケはそっと唇を舐めた。
「よっぽど好きなんだな」
「うん、だから弟たちも山の名前がついた」
 弟たちも? ていうか、弟が複数居ること自体が初耳だッ! と思ったものの、そこに文句が付けられるはずもなく、努めて声を抑えて尋ねた。
「ふうん… どんなの?」
「剣と旭。北アルプス、日本で唯一氷河がある剱岳と、北海道で一番高い大雪山系の旭岳からって」
「か、かっけーな… 弟、たち、おまえと似てる?」
 予想より遥に徹底した命名に、シュンスケも思わずどもる。そしてその名と、穂高の血縁という情報からは鋭く立ち上がるスピードスターしか思い浮かばない。
「んにゃ、ぜんぜん。あ、でもそれなりに足は速いな」
「マジで! 学校どこ、てか、いま何年?!」
 反射的に勢い込んで問い糾すが、やっぱり彼は春の小川のように笑うのだ。
「どっちも小学2年生」
「はあ!? 双子? てか、小二?! なにそれ!!」
 いくらなんでも青田買い過ぎて、さすがにチームに勧誘する気にはならなかったが。それでも、彼とこうして授業とも部活とも関係のない会話を交わすのが、なにより、
 今、この瞬間が、一分一秒が、群青の天幕を過ぎる流星よりまばゆく。






「てか、そもそも、なんで天体観測とか好きなん?」
 無駄話も挟みつつ、想像の5倍くらいは熱心に観測を続けていた穂高だったが、ふと思いついたように尋ねてきた。
 理由を問うのには勇気が要る、ということを知らない子どもなので、問う側に気負いはなく、答える側に誠実さは委ねられていた。それに二人が気付くのも、ずいぶん後になるのだろうが。
「夜中に…」
 シュンスケは応える。子どもなりの誠をもって。
「走りたくなるコトないか? ああ、おまえなら投げたくなること、か」
 試合前や合宿中、不意に囚われる衝動。焦りや焦燥、というほどのものではない。むず痒い、という感覚が一番近い。居ても経ってもいられずに、寝返りを繰り返す夜。
 この頃ではその遣り過ごし方も解るようになってきたが、まだそんなことは思いもつかない頃だった。合宿中、目が冴えて眠れない。どうしようもなくなってこっそり着替え、爆睡するチームメイトをまたいで、シューズを履いて外に出た。
「合宿先、どこだったかな、長野とか山梨とか、そんなかんじ… 初めて行くとこで、さてどうしようかなって。でも到着したときとか、昼間走ったとことか、覚えてる道を何となく…」
 適当に走った。とうぜん迷った。
「人通りなんてもちろんないし、車だってぜんぜん、通らなくてさ。気付いたら、見覚えのある道どころか、帰り道もわかんなくなって」
「どうしたん…?」
「夏だったけど、なんもしないと寒いからさ。朝まで、なんとなーく走ったり歩いたりで」
「おおう…」
 翌朝、ようやく出会った通行車に助けを求め、なんとか合宿所に帰り着いた。無論、大騒ぎになっていて、それはもうこってり絞られたのだが、その時のコーチがそっと教えてくれたのだ。
「星の位置で方角がわかるから、迷ったら空を見ろって」
「ああ…!」
「合宿所が日本のどこにあっても、なんなら海外だって、北半球なら北極星を見つけろって」
 自分が何処に居るか、何処に行くべきか。
 夜空が教えてくれた。
「だからまあ、ついでみたいなもんで」
 うちからもこんだけ見えるし、合宿所って田舎多いだろ? と言い訳のように続けながら、シュンスケはそれでも思い出す。夜空に見慣れた輝きを見つけた瞬間、心許なさが消える感覚を。
 何より”日本中のどこであっても”見える、というのが良かった。




 ココ と ソコ が離れてしまっても。




 普段の勉強はさっぱり好きになれなかったが、夢中で覚えた。おかげで一通りの知識が身について、ちょっと理科の成績が良くなったのはご愛敬だ。ついでに地理も覚えたので一石三鳥でもある。
 そんなことをとりとめもなく語るシュンスケを、彼は珍しく黙って見詰めていたが、最後に、
「そっか。それは、いいな」
 そう、ちいさくわらってうなずいた。


 きっとそれで、良かった。




 そうして夜半まで屋上に居たらすっかり身体は冷え切って、寒いさむいと言いながら二人、全速力でシュンスケの家まで帰った。たぶん新記録が出ていただろう。
 熱い風呂から出て、客間に並んで敷かれた布団に倒れ込んだあとはもう記憶にない。
 しかし翌朝、習慣でいつもの時間に目覚めてしまい、朝練の辛さと厳しさについて愚痴を言い合い、シュンスケの母親が張り切って準備してくれた朝食を片端から平らげ(とにかく穂高は食べるのだ! ドコに入っていくんだと思うくらいに!)結局、腹ごなしにと近所のランニングコースに出掛けて、無駄に真面目に走りきった。タイムを計っておくべきだった、と残念がる穂高の背中を押して、気をつけて帰れと送り出した。
「じゃあ、また明日」
 と微笑む彼に、おう、また明日、と返して。
 あと何度、明日は来るだろうと思い、それを数えるのは止めようと思い直し、シュンスケは彼の背中が視界から消えるまで見送った。






 右腕が帰寮したというので、タカヒロが玄関先まで出向くと、すでに大騒ぎになっていた。
 とにかく眠そうで、靴を脱ぐのでさえ覚束ない穂高に、トオルが勢い込んで聞き込みを始めていた。それをミズキが実に楽しそうに眺めている。
「だいじょうぶ? 起きてる?」
「ねてる…」
「コバ、待て、寝るな!」
「無理、ねっむい。寝る」
「なあ、シュンスケのおねーさん、美人だったー?!」
「んー? お姉さん? いてなかったけど…」
「え、留守!?」
「うっそ、残念…」
「…でも、お母さん、美人だったかも」
「まじか!!」
「ああ、やっぱついてけばよかった!」
「うっせーぞ、おまえら。てか、コバ、そこで寝るな! 部屋まで歩け!」
 タカヒロが叱咤して、ミズキがなんとか穂高を引っ張っていく。トオルがそれを手助けするが、単に話の続きが聞きたいのだろう。まだ何やら質問を続けている。
 まるで収束しない騒動に、「野球やってなければ、ただの悪ガキなんだよな、基本…」と上條がこっそり呟いたのを、タカヒロも咎める気にはならなかった。
 どうせこんな日も、もう二度と来ないのだから。










 ◆◆◆◆◆◆◆








「ほんとにそれだけだったのか…?」


 尋ねてから、それだけではなかったらこの話はしないだろうとは思ったが、やはり言わざるを得なかった。
「は? それだけって?」
 当然のように、まったくこちらの意図を理解しない彼が、道路地図を持ったまま長い首をかしげる。楓はダイニングテーブルに突っ伏した。
 その話の流れで何も起こらない方がどうかしている、とはとても言えない。
「いや… ちょっと涙で前が見えない」
「ええっ?! なんでや?」
 あまりに気の毒だった、その長距離のエースが。
 それも傲慢だな、とは思うが、これも同類相哀れむの一種だろう。楓は内心で嘆息しつつ、いちおう聞いてみた。
「…そいつ、佐倉だっけ、無事か?」
「元気やないか? この間、群馬だっけ、走っとったな。ニューイヤーズ駅伝?」
 たしか箱根も、山登りではなかったが、復路を二回ぐらい走ったはずだ、と自慢げに語る彼は本当に何一つ、なにひとつ曇なく。仲の良い元同級生の活躍を喜ぶ以上の感情は持ち合わせていないようだった。
 ただ、一緒に走るのは楽しかった、と笑っただけで。
 ほっとしたような気もするが、スポーツエリート同士でしか持ち得ない感覚は、やはり羨ましいような気も、した。
 ただ、そのランナーにとっても、自分にとっても、どうせ一番高い障害は同じだった。
 楓は改めて頭を上げ、彼の引き締まった横顔を見た。




 今、彼が職場近くに借りているマンションに居る。
 神戸で研究会があった関係で、珍しく楓の方がこちらに来ていた。オフシーズンではあるが、ついでに彼も職場に顔を出しに戻っている。
 明日はまっとうな休日だが、ほとんどないオフシーズンの休日に二人で何をするかといえば、だいたいは出掛けている。ベッドで一日過ごしてもいいのだが、それは彼の性に合わないのだろう。博物館か水族館か山か海か島か温泉か、出来る限り目立たない場所。お互いの好みの集合を取るとそうなる。
 明石にある天文台に行こうかと話題に出すと、意外にも彼が冬の星座は一通り知っているようなので、不思議に思って聞いてみれば、出て来たのがクラスメイトとの卒業間際の思い出話だ。それこそ最近の青春恋愛映画そのままな話に、ちょっと呆然とした。
 いやこれ、ゼッタイ主人公達が付き合う流れだろ。
 という突っ込みが最初の質問だったのだが、幸か不幸かそういうことにはならなかったらしい。


 …そういうこと、には。


 楓は、本棚の前に立つ彼の名を呼んで手招いた。
 少し怪訝そうな顔の彼は、手にした地図をテーブルに置いて、楓の間合いに入ってくる。本人の希望に反して細いままの腰に、右手を回して引き寄せた。
 左手で彼の右手を取る。長い指には積年の努力の跡がくっきりと残っていた。この、ボールを投げること以外には、まったく特化していない指に、手のひらに、甲に、手首に、腕に、肘に…
 ひとつずつ、口づけをしながら力を込めると、麻縄のような躯は特に抵抗なく楓の腕の中に収まった。
「…てんもんだいは?」
 彼の声が掠れていた。
「延期。晴れそうだから、明石海峡大橋にしよう」
 冬の星座の思い出を上書きする気には、なれなかった。ランナーへの同情ではない、たぶん勇気への敬意だ。
 その夜の少年と、あの日の自分との差が何だったのか、楓には永久に解らないだろうし、答えを知っているはずの彼にも解らないだろう。ただ今、お互いが感じている熱と鼓動だけが命綱だ。
 そっと、指先で彼の口元にある小さなホクロに触れる。楓が唇をねだると、彼は素直に応えてきた。間近に覗き込めば黒い瞳が潤んでいる。




 流星を産む彗星が見る夢が、数万年前の太陽の記憶だとして、
 その夜の痛みも、この夜の微熱も、あしたに流れていく。




 ああ、それでも、
 昨日も今日も明日も明後日もその次も、北の空に星は輝くだろう。



















































 定点観測のシュンスケ君、まさかの再登板です。
 元はといえば、サイト11周年企画で頂いたお題で、彼をテーマに書いた140字が発端ですが、書く機会あるかなあと思ったネタがカタチに成ったと。よかった?(笑) なお、ミズキの人物造形が一番気に入ってます…
 本人も自覚がないくらいの仄かな想いはいいですね!!


2017.8.27収録



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