◇◇◇◇ 毎度お馴染み、実際の人物、団体とはぜったい、まったく、本当に無関係です ◇◇◇◇













   ひだりきき  


















「ああ、お前も小林なんだ」


 と、最初に言われたのだ。
 小林拓真はぼんやりとそれを聞き、3秒後、思わず「は?」と間抜けな声が出た。
「下の名前は? 拓真? じゃあ、まんま”たくま”でいいよな」
 うんうんと頷いて、彼は勝手に納得したようだった。初対面にもかかわらず自分のペースで話を進めるが、おおらかで真っすぐで、それを不快に感じさせない少年だった。
(…も、ってなんだ?)
 と思ったが、不都合もないので曖昧に首肯した。高校入学直後、たまたま隣の席になったクラスメイトはその後、学年で一番の有名人になったが、当時は「え、サッカー部?」「そうそう、お前は? 野球部?」などという、ごく平凡なやり取りが続いた。柔和な丸顔で明朗快活な少年とは、サッカー部のメンバ以外では一番といっていいほど仲良くなる。
 そして、それが拓真と柳澤圭一郎との初めての会話だった。


 この年、桜の開花は早かった。
 入学式を迎えた頃にはすっかり葉桜となっていて、拓真が何気なく見遣った窓の向こう、正門前の桜並木は薄紅色と黄緑色の斑模様で。
 春、だった。






 それからすぐ、”も”の理由は判明した。
 休み時間。
「圭一郎!」
 教室の出入り口から声が掛かって、拓真と周辺の幾人かと話していた圭一郎が「あ」という顔になる。拓真が声のした方に顔を向けると、色黒で長身の少年がこちらを見ていた。
「わり、ちょっと」
 と、拓真たちに断ると、ガタンと音を立てて椅子から腰を上げる。教室内の5,6割の視線を集めたまま、圭一郎は色黒の少年と立ち話を始めた。
(いま、柳澤と話してるの、あれって)
(あー、野球部、たしか右の)
(京都から来た… すごいんだって?)
(らしいよ、ほら、大阪のxxxxに熱心に誘われたって)
 ひそひそと、周囲から声が漏れ聞こえてきた。噂千里を走る。どちらかというと情報には疎い拓真だが、さすがに運動部のネットワークで基本情報は掴んでいた。
 野球部はこの学校のヒエラルキー最上位にいる。実績はもちろん、歴史やら大人の事情やらも絡んで、望むと望まざるに拘わらずそれは事実だ。サッカー部も相当に上位だが、野球部はまた一段高いのだ。そして、中学時代に全国大会優勝投手になり、東日本ナンバーワン左腕の看板をひっさげた柳澤圭一郎がその野球部に入部したということ。一方、同じように全国大会で入賞し、50を超える野球強豪校から声がかかったとかいう右腕が入部したということ。この二つは拓真でも知っていた。
 ほどなく圭一郎が戻って来たので、いちおう訊いてみる。
「いまのって」
「ああ、あいつ、野球部の…」
「それはさすがに知ってる。意外に細いな。なんだっけ、名前」
「お前と同じ小林、小林穂高。アレでもすっげー食うんだけどな」
 なるほど、だから”も”ね。
 とは言わなかったが。圭一郎も彼も野球部の寮生で、入学前から練習にも参加しているだろうから、恐らく最初に出会った小林は彼なのだろう。
「部活のハナシ?」
「そう。今日は午後、雨っぽいから室内練習メインになるって」
 業務連絡、などと言いつつ、クラス内の他の野球部員に何やらサインを出している。それが一通り落ち着くのを待って、
「仲良いんだ?」
 と訊いた拓真に圭一郎は少し、首を傾げた。
「えっ、だれが… あ、穂高と?」
「そう」
「同じポジションだかんなー、練習いっしょだし。まあ、一番よく話すけど」
「ふうん」
 特にこだわるふうでもない左腕に、拓真もそれ以上は何も聞かなかった。
 いわゆる特Aクラスの新入部員、しかも投手が二人。ちょっとビミョーな感じとかないのか? と拓真などは思うのだが、部外者が想像するよりは、それほど特殊なこともないのかも知れなかった。




 その、野球部の小林少年と知り合う機会はすぐにあった。
 知り合うというか、挨拶したというか、認識されたというか… 圭一郎と特別教室から戻る途中に偶然出くわした際、「そうだ、」と、もののついでとばかりに紹介されたのだ。
「こっちがサッカー部の小林、小林拓真」
「あー、こないだゆうてた?」
「そうそう。拓真って呼べばいいから」
 いや、それなんでお前が許可すんだよ、と口では突っ込みながら、拓真はしげしげと穂高を眺めた。
 確かに手足は長いがまだまだ身体は薄く、音に聞く評判にはあまりそぐわない、どちらかというと大人しそうな少年だ。圭一郎とにこやかに話す様子からは、マウンドに立つ姿はあまり想像できない。拓真の持つピッチャーのイメージからは、だいぶ遠かった。
 と、不意に右手が差し出された。
「よろしく」
 穂高少年はふんわりと笑って、拓真も慌てて手を出す。こちらこそ、と答えながら、部活以外でひとと握手するのは初めてだな、と拓真はそんな事を考えていた。
 その、右の掌は熱くて、ざらついていた。
 覚えずしげしげとその手を眺めていると「どした?」と圭一郎に訊かれる。
「いや… ピッチャーって指長い方が得なわけ?」
「あ?」「え?」
「いや、穂高くん、指長いなって。ボール握るの楽そうだし、器用そうだ」
 思わずそんな事を口にした拓真だったが、想定外の反応があった。
 ぷくくく、と、籠もった笑い声が聞こえて、拓真が隣を向くと圭一郎が笑いをかみ殺していた。実に可笑しそうに。え、なに? と思って今度は穂高の方を見ると、こちらはものすごく眉尻を下げている。
 二人の様子に「なんで?」と戸惑う拓真に、圭一郎が顔の前で左手を振りながら答えた。
「コイツね、ほんっと不器用なの」
「は?」
「ちょ、ちょっと、けいいちろ…」
 遠慮がちに止めようとする右腕に構わず、左腕が活き活きと語るところに依れば、穂高は稀にみる不器用なのだそうだ。箸の持ち方から洗濯物の干し方まで、周囲に厳しく?指導を受けているらしい。
「未だにネクタイ結べねえし。ほとんど毎朝、俺が締めてるもんな」
「だっ、それは… しゃあないやんか、うちの中学、ネクタイなかったし」
「それでももう何週目よ。さっさと覚えろよ」
「イヤだいぶ覚えたって! でも、なんか左右逆な気ぃすんだけど」
「そりゃおまえ、俺、左利きだぜ? 頭使えって。ほんと、野球以外のことはぜんぜん出来ないのな」
 と。
 こちらのことはそっちのけで続く会話を聞きながら、拓真はひとつ頷いた。


  なるほど、仲が良い、どころではないことはよく解った。


 ギスギスしているよりはよっぽどいいか、と首の後ろに手をやったところで、拓真は小耳に挟んだ話を思い出す。
 この春の大会、この二人は背番号をもらったそうだ。つまりレギュラだ。この超名門校で、一年生の春から背番号をつける… それがどういうことのなかは、おぼろげながらではあるが拓真にも分かる。チーム内で二人が置かれている状況も。
「あ、てか穂高、今日、古典ある?」
「古典? っと、もう終わった、一限」
「おっ、らっきー! ちょっと教科書貸して。うち、五限にあんだ」
「…ちゃんと持って来いよ」
「たまたまだって」
 そうやって穂高から教科書を借り受けた圭一郎がじゃあなと手を振って、拓真もちょっとだけ頭を下げて身を翻す。
 二人のゴールデンルーキーズを見詰める複数の眼差しを背中に感じながら、拓真は窓から入ってくる春の風を吸い込んだ。




 それから三年間、拓真と圭一郎はクラスメイトとして過ごすことになる。(スポーツクラスの編成からすれば、それほど珍しい事もない。)
 そして部活の話題になれば、圭一郎の話にはもれなく穂高が登場した。二人の関係からすれば当たり前なのかもしれないが、拓真からすると、ここまでくれば友だちの友だちでは最早なく、同姓なのも相まってか直接の友人のような気になっていた。
 だから、その変化にもたぶん、いち早く気付いたのだ。


 二年生の6月、全国高等学校野球選手権大会の地方大会開幕を控え、組合せ抽選会が行われる時期だった。
「小林がさ、」
 どうということもない、無駄話の途中で圭一郎がそう言いさした。拓真の隣席で、彼が他のクラスメイト数人と話していたときのことだ。
「…はい?」
 こんなタイミングで苗字呼びされる心当たりはなかったが、呼んだか、という態で圭一郎の方に顔を向ければ、彼は瞬きを二回。
「あ、おまえじゃなくて、穂高のほう」
「ああ」
 と頷きながら、拓真はその違和感の正体を噛みしめる。
 この頃、圭一郎は相棒を姓で呼ぶ。まるで他人を呼ぶような響きに、拓真は僅かに座り悪さを覚えていた。それとなく理由を訊いたら、新聞や雑誌のインタビュを受ける機会が増えたせいだという。常にセットで取り上げられるため、お互いのコトを名前で呼び合うのをそのまま記事にされるとガキっぽくてハズイ、とかなんとか言っていたが。
 本当にそれだけとは思えなかった。
 少し眉根を寄せた拓真を他所に、圭一郎達は会話を続けていた。
「だから音痴なんだって、あいつ」
「マジで。てか、そういやコバ、カラオケとかいかんくね? 俺、一緒に行ったことねえな」
 と、同じく野球部の石倉が首を捻った。フツーの高校生で部活のチームメイトとカラオケに行かない、ということが有り得るのか? 周囲の人間も一様に驚く。
「だからさ、ほんとダメなんだよ。ほら、試合のあと、勝つと校歌歌うだろ。あいつとはずっと隣だから聞こえるけど… 一年の頃なんかぜんぜん、音程かすらなかったもん」
「ええっ!? 校歌で?」
 校歌はあくまで校歌で、それなりに歴史のあるこの学校のそれは、垢抜けてもいないし凝ってもいない、いかにもなコード進行の曲だった。つまり誰でも同じように歌える難度の曲だということだ。むしろアレをちゃんと歌えないというのは一種の才能ではないか? と、思わず拓真が口にすれば、
「あははは、そうだな、むしろ才能かも」
 と圭一郎は妙に明るく笑った。
「いいんじゃね。あんだけ運動神経いいんだから、歌ぐらい下手でも」
 歌くらい、ね。
 拓真は胸の中で繰り返した。その投げ遣りな言い方にも少し、引っ掛かる。
 投手としての実力は相変わらず伯仲しているのかも知れないが、やはり差がつくことが往々にしてある。たとえば、穂高の身体能力の高さは群を抜いていた。学内のスポーツ大会では何をやっても上位に顔を出す。走るのは苦手だったり泳げなかったり、得手不得手の振り幅が広い圭一郎と比して目立った違いだった。
 拓真の物思いを他所に、話題は逆に歌の上手い同級生達のことに移行していったが、その様子を横目で見ながら拓真は、ふむ、とひっそりと頷いた。


 入学以来、圭一郎と穂高は前評判通りの実力を遺憾なく発揮していた。
 昨秋からは主戦として公式戦に登板し、二人揃って球速140キロ超を記録している。二年生ながら、三年生のエースとあわせて140キロトリオとかなんとか称されて、頻繁にメディアに取り上げられてもいる。既に今夏の地方大会も優勝候補だ。
 ただ、冬の間に圭一郎が怪我をした。
 症状自体は重いものではなかったが、調整は遅れた。おかげで、この春は県大会や関東大会では穂高の方が重用されていたと聞く。ちょうどその辺りからだ、苗字呼びは。そんな事を思い出しながら、拓真は買い出しに寄った購買から戻る途中、穂高のクラスに足を向けた。ほんの… 気まぐれで。
 教室の入り口に近付くと、陸上部の佐倉が出てくるのが目についた。部活時のロードで見知った相手だ。「穂高、いる?」と訊けば、ああと頷いてから彼は室内に声を張った。
「穂高、お客さん! こば、えーと、サッカー部の小林!」
「拓真?」
「正解!」
 続いて色黒の顔が現れて、「どうした?」と快活に笑う。拓真と似たり寄ったりの状況で、穂高も圭一郎から洗礼を受けているのだろう。いまでは二人、ほとんどクラスメイトぐらいの距離感で話をする間柄だった。
 拓真も出来る限り自然な『愛想笑い』を浮かべた。
「世界史の教科書もってる?」
「あるけど…」
「貸して☆」
「なんにゃ、忘れたんか」
 うん、うっかりなー、とかなんとか言うと、しゃあないなあと穂高が教室に戻っていく。何事かと顔を出す連中になんでもないと手を振りながら、拓真は自分が何をしようとしているのか、まったく解らないままに廊下の窓を振り仰ぐ。
 もったりとした濃い灰色の空から、雨が落ちるまでのカウントダウンが始まっていた。
 午後、世界史の授業で、拓真は自分の教科書をしまったまま穂高の教科書を開く。教師の声をナナメに聞き、どうでもいいページを開くと、拓真は写真や口絵にちまちまと落書きを始めた。
 そして雨の季節が来た。




 雨を振り切るように始まった県大会、野球部はおおかたの予想通り巨大トーナメントを制した。その決勝で、穂高は21奪三振の新記録を打ち立てる。
 27個のアウトを取る野球というゲームで、27分の21だ。
 相手が初めて夏の決勝にこぎつけたチームであったことを差し引いても、それは衝撃的だった。記録達成の瞬間は、全校応援で駆り出された拓真もスタンドで見ていた。最後の一球が打者のスウィングをかいくぐり、キャッチャーのミットに吸い込まれる。21個目の三振。怒号のような歓声に球場が揺れる。拓真も周囲の連中も言葉にならない何かを叫んだ。


 目に痛いくらい蒼いあおい空の下、金色に輝く球場で『彼』は右手を突き上げた。




 穂高の記録更新と同時に、硬式野球部は甲子園への切符も手にする。
 それからの二ヶ月間を、彼らはジェットコースターの勢いと速度で駆け抜けた。冬にピークを迎えるサッカー部員はそれを横目で見るだけだ。羨望と期待と、ほんのちょっとの嫉妬をもって。ただもちろん、全てが上手くいくわけではない。
 結局、野球部は夏の甲子園の初戦で惜敗する。
 圭一郎も穂高もリリーフしたが、どうしようもなく一点が届かなかった。外野から見れば、甲子園出場というだけでも十分な戦歴だったが、彼らの目標はそこにはない。野球部には泥のように凝った空気が蔓延した。
 そもそも夏休み中なので顔を合わせる機会も少なかったが、拓真であっても圭一郎たちに声も掛けられなかった。たまに校内ですれ違っても軽い挨拶をするくらいで、尖った横顔を見送るほかない。もともと野球部の練習量は群を抜いていたが、それは更に厳しいものになっていく。夜遅くまで煌々とライトがグラウンドを照らし、打球音が響いた。
 夏休みが明けると、硬式野球はすぐに秋季大会が始まった。拓真は、エースナンバは左腕が獲ったと又聞きで知る。しかし豊饒の秋色も濃い10月半ば、秋季関東大会の準々決勝、センバツを賭けた一戦で先発したのは右腕だった。
 応援要員は各運動部持ちつ持たれつ、その試合も拓真はスタンドの応援席にいた。21奪三振から一気に全国区になった穂高だが、同じく注目を集める好投手との対戦で、延長13回の力投の末、力尽きた。またも一点、届かなかった。
 サヨナラ打を浴びて膝を折った穂高を、圭一郎が何度も背中を叩き声を掛けているのは見えた。それでもベンチに戻れない穂高の背中も。


 その結果、圭一郎の顔は一際厳しくなり、とうとう教室でほとんど部活の話をしなくなる。当然、穂高の名前も登場しない。
 一方で、拓真はちょくちょく穂高のクラスを尋ねては、彼から教科書を借りた。そして他愛のない落書きを足して、返す。その繰り返しをひっそりと続ける。何度か持ち主から抗議も受けたが、改めなかった。
 その行為の意図を、自分自身でもはかりかねたまま。




 そうして表面上は静かに冬を越えた。
 拓真のいるサッカー部も、国立を目指して戦ったが県大会準決勝で敗退。野球部とのアベック出場とはならなかった。(そういえば、アベックって何だろう? と拓真はふと思う。)
 シーズン中はあまり他のことを気にする余裕はなかったので、2年生の終わりになって、拓真もようやく圭一郎たちの状況を知る。穂高が秋の大会後に腰を痛め、冬から春にはかけてはほとんど投げられていないとか。春季大会から復帰出るかどうか、微妙なところだという。
 相変わらず、部活や相棒のことは何も言わない左腕の、いつもの馬鹿話に付き合いながら、拓真は待っていたような気がする。
 何かを。
 
 結局、野球部は春季県大会を制し、関東大会でも準優勝する。
 不安要素だった右腕も復調し、関東大会準決勝では昨夏ベスト8の強豪校を7回コールドでねじ伏せている。一方、左のエースも決勝で二年前のセンバツ優勝校を四安打に抑えたが、またも一点差で優勝を逃した。
 ただ、珍しく圭一郎が歯噛みするほど悔しがった負け試合をも飲み込んで、彼のチームは研ぎ澄まされていく。
 その後の活躍は語るまでもない。
 圧倒的な強さで県大会二連覇を果たし、数々の記録を打ち立てて夏の頂上も奪取した。初回、11球で4点を取った準決勝など語り草だ。そして迎えた最後の公式戦、国体でも優勝して二冠を達成する。
 長い、長い夏がようやく終わって、彼らが学校に戻ってきた。






「何故、我々はこれほど虐げられなければならないのか!?」


 夏の優勝投手はそう言って、バアン!と、机を勢いよく叩いた。
 教室でポスターの色塗りに精を出してた拓真は、のんびりと彼を振り返る。左腕は色画用紙を手にしていた。これから教室の飾り付けに使う何かであろう。虐げる… とはこの作業に関することだろうか。いちおう、拓真は彼に付き合ってやる。
「…どした?」
「ハサミだ!」
「はさみ」
「どうしてこうも右利き用ばっかなんだ?! 左利きだって人口の約10%だぜ、もうちょっとあってもいいじゃんか!」
 机の上にあるのは、何の変哲もないハサミである。はあ、と曖昧に相槌を打った拓真は首を傾ける。我々、とは左利き人のことだろうか。
 ちなみに現在、拓真達は今週末から始まる学祭の準備をしていた。
 学祭は対外的にもこの学校の一番大きなイベントで、生徒の保護者や関係者、ここを志望する小中校生やご近所さん等、一般人も多く訪れる。おかげで生徒達も気合いを入れて準備を行い、普段は学校行事は疎かになりがちな運動部の連中も準備に精を出す。身近な人に好いところを見せたいのは子どもの本能だ。まあ、さすがに圭一郎は事故や不測の事態に備えて当日は隠されることになるだろうが。
「ハサミって、利き手関係あんの?」
 と何の気なしに訊ねた拓真に、圭一郎はびしっ!と指差して応える。
「ある。ハサミの刃の合わせ方って、ほとんどが右利き用なんだよ。左手で使うと噛み合わないから、もうぜんぜん使えねーの」
「へえぇ」
 そんなもんか、と頷きつつ、拓真が机のハサミを手に取って眺めていると、圭一郎は鞄を探っておもむろに別のハサミを取り出した。
「…それ」
「左利き用!」
 なんだ、持ってんじゃん、と言いながら、拓真は元のハサミと圭一郎のハサミを見比べる。なるほど、確かに噛み合わせが違っている。はいよ、と左利き用ハサミを圭一郎に返しながら、
「それ、いっつも持ち歩いてんの?」
「いーや? いつもは右利き用のハサミしかないし、ふつーのも使えるんだけどな。でも左利き用、すっげー使いやすくてびっくりした」
「ああ、そう… てか、いままで使ったことなかったのか?」
「うん。あるってこないだ初めて知った」
 さっきは自信満々に断言していた圭一郎が妙に素直に頷くものだから、あれ、と拓真はまたも首を傾げる。
「じゃ、それどうしたんだ?」




「穂高にもらった」




 ふうん、と。
 ひどく楽しそうに、左利き用ハサミで色画用紙を切り始めた圭一郎を眺めながら、拓真は小さく鼻を鳴らした。




 拓真が高校最後の冬に挑む頃、圭一郎と穂高の二枚看板は無事、ドラフトで指名された。
 フットボール部はこれからが本番だったので、学校を上げてのお祭り騒ぎはあまり記憶にない。ただ、年明けにはもう就職先での練習が始まるというので、冬休みを前に圭一郎も穂高も身辺整理をしてしていた。なぜだか教室にがらくたを大量にため込んでいて、クラスメイトや周囲に冷やかされながら片付けをする左腕を、拓真もニヤニヤと見守った。もちろん手伝ったりはしない。
 ただすこし、寂しかった。
 それから思い出したように、穂高にLINEを入れる。返事を確認すると、拓真は穂高のクラスに向かった。
「穂高居る?」
 と聞けば、今度は元野球部の武田が「コバ、MFの小林がきてんぞ」と呼んでくれた。
「なんかごぶさた?」
「ちょい久々かも。てかお前、身長伸びた?」
「なんだ、嫌味かよ」
 長身の穂高に比べて、拓真の身長はほぼ男子の平均だ。ちょっと見上げるくらいになるが、そこは圭一郎と対するときも同じである。あははと笑いながら、穂高は世界史の教科書を差し出した。
「はい。でも、なんに使うん?」
 拓真は「おう、サンキュ」とそれを受け取りながら、自分が持っていた世界史の教科書を代わりに手渡した。
「は?」
「それ、俺の」
「…はい?」
「これとそれ、交換な」
 え、なんで? という顔になった右腕に、拓真は満面の笑顔を向けた。
「いやー、俺、世界史の授業、ほっとんどお前の教科書で受けてたからさ、なんか自分の見てもさっぱり思い出せなくて」
「え、ええ!?」
「やっぱ、受験勉強するならお前の教科書じゃないとダメだなって」
「はいっ?! なにそれ?」
 てか、お前、内部進学なんだから受験しないだろ、と。穂高はぶつくさ言っていたが、それを無視して「じゃあ、元気でな」と拓真は彼の教室をあとにした。




 どうか、元気で、と。
 二人のエースに別れの挨拶を。




 そうして狂乱の年は明け、迎えた春。桜は早々に咲いて、駆け足で散ってしまった。
 三年前と同じに。






























2017.5.5収録



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