頭の上に、たっぷり水が入った赤い洗面器を載せた男の話


 が、十八番なのは某有名脚本家だったか。男は、頭の上の洗面器から水がこぼれないよう、ゆっくりゆっくり歩いているという。そして「私」は男に問う。なぜ頭の上に洗面器を載せているのか、と。
 回答はいつも語られないままに終わる。


 たとえば、俺とおまえの間にあったのは水槽だ。
 実験台のような平面の机に、二抱えぐらいの大きさの水槽。何だろうと興味本位で覗いてみても、物も言わぬ硝子の箱だ。透明な板の向こう、僅かに歪んだ世界に、おまえの眼が見え隠れする。
 そのうち、水槽にはどんどんと水が溜まっていって、ついにはたっぷりと満たされた。表面張力で辛うじて保った水面は、ほんの少し、指一本でも動かせば弾けてしまうくらいに。
 これは、


 こぼれてしまったら、おしまいだ。


 俺たちはようやく気付く。
 その時にはもう手遅れで、張り詰めた水面を身じろぎもせず見詰めるほかなかった。
 息も出来ずに。






 時間を確認し、ポケットにしまおうとした楓のスマフォ画面が一瞬、光った。
 半分閉じた目で確認すれば、メッセージが一件。差出人に覚えはあるが、あまりに予想外で二度見した。一気に目が覚める。
 「今日から帰る」とだけ。
 山科楓はスマフォを片手に眉根を寄せたまま、理学研究科の正面玄関、巨大な自動ドアを出る。ほぼ夜は明けていた。世界は薄青く、10月中旬のひやりとした空気が額を撫でる。
 なぜ、あと30時間早く… せめて16時間早く知らせてこないのか。
 とにかく反射で「何時ごろ?」とタップする。舌打ちしたい気分で、しかし身体が心を追い越して、駐輪場までほとんど駆け足になった。現役を退いたとは言え、バドミントン部の元エースならではの瞬発力で。頭の中では先ほど仕掛けた実験系と所要時間、シミュレーションの解析結果、抄録の締め切りなど、タスクを並べて全部組み直す。
 これからアパートで仮眠する予定だったが、諦めるべきだった。とりあえず風呂に入るとして、部屋を片付けるかどうかはもう少し考えることにする。
 徐々に白んでいく早朝のキャンパスを、楓の自転車が駆け抜ける。




 楓には、珍しい職業につく『友人』が居る。
 日本ではほぼ840人だという。人数以上に、特殊技能が必要な職種だから、これまで楓の人生で出会う機会はまずないタイプの人間だった。ちなみに、将棋のプロ棋士は170名弱だそうなので、ほぼ5倍だ。そう考えると多いような気もするが、楓の場合、それでも棋士の方が世界線が近いと思う。なんなら相関係数を出してもいい。
 もちろん、そんな人種と知己となる予定はなかった。第一、最初は漁師だと思っていたのだ、遠洋漁業あたりの。高卒で、肉体労働、1年の2/3は定住できず、その当時、怪我でシーズンの1/3を棒に振ってリハビリ中だと聞けば、楓の想像力ではそれが限度だった。彼は日に好く焼けていて、鍛えていたようだったし、早起きだったし。
 彼は自分の職業を言わなかった。ただ高校時代は野球部だった、と、だけ。
 それがまさか、そんな。
 わかった時にはもう、遅かった。
 オンシーズンの彼はとにかく忙しい、というより隙間などほぼない。今はオンからオフへの移行期間で、ポストシーズンや国際大会等が続き、これに無縁な場合でも秋季キャンプや広報活動諸々、まだまだけっこうな過密スケジュールだ。その中での休暇であれば、こちらに居られるのは最大48時間、と楓は読んでいた。だから無理にでも今日から時間を空けたのだ。
 出会ってもうすぐ二年になる。
 ひょんな事で知り合って、その後、楓が何をしたかというと、まず禁煙した。それから当時付き合っていた彼女と別れた。煙草もその子も、それなりに愛着はあったが、あったはずなのだが、もう思い出すこともない。
 そんな予定は、やはりなかったのだけれど。




 18時前の研究室は盛況だった。
 これからが(多くの学生の)本番なので当然ではあるが、楓は逆に後始末に掛かっていた。組み直したタスクの進行に合わせ、たためるものをひとまずたたむ。明日はココに顔を出せるか分からない。
「山科さん、こっち、もうすぐ終わります」
「おう、了解。ありがとう」
 四年生の声に、別のモニタを眺めていた楓は浅く頷く。
「悪いけど、これかけっぱで出るから。終わったら閉じていい」
「わかりました。あれ、今日はもう帰るんすか?」
「さすがにな。そろそろ寝さして」
 お疲れでーす、という綿毛のような挨拶を聞き流しながら、楓はざっくりとログを確認する。漏れや抜けはないようなので、スケジュールの収支は合うはずだ。机を急いで片付けながら、彼とのやり取りを続けていた。


 「もうすぐ終わる。いまどこ」
 「電車」
 「(答えになってねえよ)到着は? 何時」
 「あと30分くらい」


 間に合うかどうか、と片眉を上げたところで、ふと思い立って「どこに」と訊くと、「烏丸、18:26着らしい」と返ってきた。
「は? からすま?!」
 思わず声が出た。周囲の連中が振り返るが、気にしている余裕がない。
 どういうことだ。なぜ京都駅ではないのか。庶民なら新幹線など以ての外だが、彼の場合グリーン車だって文句は言われないだろう。何をやっているのか。おそらくここに近いとか、料金が一番安いとかそんな理由だろうが。第一、彼の実家は京都駅の方が近い。
 こういうことを平気でするから…
 楓は大きくため息を吐いて、それでも白衣を投げ出す。ロングカーディガンを掴んで「おさきー」と言いながら研究室を出た。






 あのとき、幽かに震える水面を、俺たちはただ見ていることが出来なかった。
 諦めきれなかったのは俺のほうで、でも、おまえはそれを解っていて見ないふりをした。
 そうして今も、こんなふうに連絡を寄越す。


 こんなふうに。
 




 夕刻の人波を縫って歩くのがもどかしい。
 息が上がらないよう、駆け足にならないでいるのが精一杯で、楓はようよう改札口に辿り着く。ざっと見渡すと券売機の端、右手にスマフォ、長い足を放り出すようにして壁に寄り掛かる姿に、僅かに息を止めた。約三月ぶりか、前半戦終了直後に逢ったきりだ。
 ブルゾンとジーンズというあっさりとした格好で、よくよく見ると非常にスタイルが良いという以外は、これといった特徴はない青年。普段は不思議とあまり目立たないのだ。足元に小振りのスーツケースが一つ。下手をするとほとんど手ぶらなこともあるのに、珍しい、と楓は少し眉をひそめた。
 わざと靴音高く近付いて、彼が顔を上げるのを待つ。短い黒髪がふっと動いた。
「わりぃ、待たせた」
「いや」
 だいじょうぶ、と小さく笑って、彼は「ごめんな」と言う。
「いきなりで」
「…せめて昨日のうちに言えよ」
「うん」
 またごめんと言いそうなのを「メシは?」と遮る。
「あ、まだ…」
「中華でいいか?」
 答えを待たずに、楓は踵を返した。どうせ、希望を訊いてもなんでもいいと言うのだし、彼は本当になんでもよく食べたから。




「の、割には反映されないな」
「え?」
 切れ長の目が瞬くのを、イヤ別に、といなす。
 そしてざっと彼を見直すが、今シーズもやはり体重は増えていそうにない。公称では身長185cm、体重は78kgだったか。下手をすると夏の間に減量したのではないだろうか。以前のインタビューで、目下の悩みに「太れないこと」と世のあるクラスタを敵に回すようなことを答えていたが、それは現在進行形らしい。
 大学近くの安くて旨い中華料理屋は、黒酢の天津飯がおすすめだった。
「とりあえずテキトーに頼むから。足りなかったら言え」
 と、楓はさくさくと勝手に注文する。彼は「うん」と頷くと、特に拘るふうもなく物珍しそうに店内を見渡していた。
 いつ戻る、と訊こうとして止めた。おそらく楓の仮説はそれほど的外れではない。ならば時間の空費は避けるべきだ。近況、というより、うすぼんやりとした背景情報と雑多な日常会話でも希少なのだし。
 そんな中、彼は餃子をつつきながら、不意にその話を持ち出した。
「虹ってなんで出来るんだっけ」
「は?」
「や、水滴のせいやいうのは知ってるけど。いっつも、三塁側の方に見えるのはなんでやろ」
 …なるほど。
 こちらの得意分野の疑問を門外漢から振られる場合、重要なのは回答の深度だ。見誤ると軽んじられたと誤解されるか、置いてけぼりを喰らわすか。
 しかし楓はあまり、そのあたりを重要視していなかった。特に彼に対しては。意外にも、というほどではないが、彼はわりにシステマティックな解答を望む方で、地頭が良かった。まあ、でなければ、あんな特殊な職業には就けまい。
 だから手加減はしないで答える。
「おまえ、光は波と粒子だ、って言って解るか?」
 ぽかんと一瞬の空白があって、楓は彼が「すみません、わかりません」と言うのを遮る。
「謝んなくていい。とりあえず、この場合、光はそうめんだと思え。長さがバラバラのそうめん」
「…ハア?」
「光は波の一種で、直進して質量がない。が、ある物体に反射し、折り曲げられて分解されることがある。ある物体というのがプリズムで、ガラスなんかの透明なもののこと」
 普段は無色透明な太陽光が真っ白なそうめんで、それがプリズムを通ると長さによってばらけて色つきそうめんになる。それがスペクトル。空気中の水滴がプリズムの役割を担うと、分解された太陽光はスペクトルが並んだ円弧状の光として知覚され、虹になる。
 楓は「ココは、」とテーブルを指で叩く。
「地球は太陽光の反射と影で出来てる」
 自然現象の光源は常に太陽で、その光が分散して発生するということは。
「虹は太陽の反対側にしか見えないし、太陽の正反対の点を中心にした円の形にできる。それを目視できるいうことは、観察者、この場合はおまえだな、も太陽に背を向けてるってことだ。ちなみに、有り得ない話だが、太陽を内側に抱えるような虹が見えたら、それは夢を見ているか、太陽系以外の銀河系に居るか、それは虹じゃないかの三択だ」
「…はい」
 従順に首肯する彼に頷き返し、楓は更に続けた。ここからがキモだ。鞄からレポート用紙とペンを取り出す。タブレットもあるが、こういう場合は紙に書くのが一番だ。
「太陽が正午に一番てっぺんに届く、つうのは知ってるな?」
「し、知ってます…」
「光は直進しかしない。光源である太陽と、プリズム効果を持つ水滴、おまえの角度が40度ぐらいだと虹が見やすい。つまり太陽が高いところにあるとき、虹は低い場所に見えるし、太陽が低いところにあるときには高いところに、つまり大きな虹が出来る」
 言いながら、楓は太陽ー水滴ー観察者を紙に図示する。太陽の高さによって、見える虹の弧の範囲が変わるのが解るように。彼はひどく真摯な眼差しで紙と楓の手に注視する。
「水滴、まあ水蒸気だな、これはある程度の大きさがないとプリズムにならない。大きな水滴が出来やすいのは圧倒的に夏だ。なんでか解るか?」
「…暑いから?」
「正解。気温が高いということは気体の密度が低いってことで、空気中にたくさんの水蒸気が存在できる」
 そもそも空気中の水蒸気は何由来かと言えば、もちろん雨だ。
「それでも大きな水滴が存在しうるのは雨が降っている最中か、降った直後かだ。だから通り雨のあとによく観測できる。日本の場合、通り雨が降るのは夏の午後が圧倒的に多い。日が傾いて、気温が下がれば空気の密度が高くなるから当然だな、そっちは雨のシステム」
 たぶんこれは全部解らなかったろうな、とは思うが楓はそのまま続ける。
「つまり、だ。昼下がりから夕方の太陽は空のどっちにある?」
「に、西…」
「そう、西、ということは、日本の球場ではほぼライトスタンドから一塁側の方で、その逆側、つまり三塁側に虹が見える」
「ああ… なるほど」
 いつか見た光景を思い出すように、彼はゆったりと頷いた。そして、楓がざっくりと描いた球場の画をしげしげと眺めて、ぽつりと、
「すげえなあ…」
 と感嘆したのは、自然現象にか今の解説にか。せめて両方であってくれれば良いが、と、思う。そして楓が主虹と副虹の説明をするかどうか迷っているうちに、彼はとあることに気付いた。
「ん? でも球場って必ずこの向きになってるんか?」
 それくらいは引っ掛かってもらわないと困る、と内心では頷いて、楓は余裕綽々で言い放った。
「いい質問だな」
「おおう…」
「日本の球場では、と言ったろう。本来のベースボールスタジアムは南向きだ。ただ日本の場合、多くは本塁を北から北北東に設置する」
「マジで。てか、なんで?」
 ちなみに、これは楓が野球を見に行くようになって、あまりにその規格の違いが気になって調べて知った。球場によって広さが違うとかゲームとして成り立つのか、と今でも思わないでもないし、そのへんは許容範囲なのだと言われても納得がいかない。
「観客が見やすいように、らしい。太陽を背にすると内野席の観客が眩しくない。一方、日本ではプレイヤ重視で、守備がしやすいように北側がホーム、南側がセンターになってる」
 甲子園とかそうだろ、と続ければ、ああそうかも、と彼は簡単に頷いた。ただ少し考えるように首を傾げ、
「あれ、でも眩しかった、ような気ぃするけど…」


 ハマスタ、とか。


 と、彼は囁くように呟き、楓はきつく眉根を寄せた。すこし座り直してから、低い声で答える。
「ドーム球場を別にして、主な球場だとハマスタと神宮だけ異質だ。南向き」
「えっ、なんで?」
「さあな。でも実際、眩しいんだろ」
「あー、うん、外野はサングラス必須やな。神宮もか」
 そっか、眩しいのはそれでか、なんて。彼は妙に納得したようだったが。
 こういうときだ、忌々しい、と思うのは。
 しかし、こちらの不満が伝わるのはよろしくない。ただの嫉妬だ。楓は、努めてなんでもないようなふうで話題を切り替えた。
「で、満足したか?」
 は? と顔を上げた彼に、机の上を見回して示す。
 焼き餃子2、麻婆豆腐、レバニラ、青椒肉絲、天津飯2、で足りたのかどうかだ。彼は死屍累々と並ぶ皿を認めると僅かに迷ってから、「水餃子か油淋鶏だったらどっちがええ?」と訊いてきた。
「好きにすれば」
 と、答えて。
 その胃袋の構造の方がよっぽど謎だ、と混ぜっ返しながら、楓は青島ビールを飲み干した。






 その後、おまえは帰ると言わなかった。
 言わなかっただろう、あのときも。
 だからといって承知の合図ではないけれど、俺は俺の都合の良いように解釈する。


 だって、おまえはひとつ嘘を吐いている。
 決定的な嘘を、ひとつだけ。






 アパートの駐輪場で、階段で、玄関前で。
 なんとなく距離を測ってみるが、やっぱり楓には解らなかった。それでも、ざっくりとでも部屋を片付けておいたのは正解だった。
「適当に座ってろ」
 と言いながら、タブレットと、本棚から出した京阪神と首都圏の詳細マップを渡した。
 スーツケースを部屋の隅に寄せていた彼は、一瞬考えてから、ああ、と頷く。
「球場のカタチまで載ってるンか?」
「あんがい詳しいぞ、それ」
 楓はキッチンに向かい、冷蔵庫から炭酸水のペットボトルと発泡酒のロング缶を出す。ダイニングの座卓の上に載せると、彼は地図から目を上げて「サンキュ」と言った。
 彼の左隣に座ると、缶のプルタブを開けて口を付ける。かなりいける口の楓と違って、彼は飲まない。というより、まったくの下戸だった。職業柄、好都合なこともあるらしいが、ちょっと残念とは本人の談だ。その彼は手慣れた様子で地図をめくっては、ほんとだ、ほっともっとも北向きやな、等と頷いている。
 1DKの楓の部屋はモノが多い。それでも、今はもう研究室に居る時間の方が長いので、だいたいのものは向こうにあった。アパートに残るのは、学部生時代の書籍や資料と、バド部の名残。カメラも本体共々、関連したものはほとんど研究室に置きっ放しだ。楓はラケットケースを見遣り、それでも基礎体力維持を期して久々にやるべきか、とも思う。
 きっと彼の部屋は物が少ないだろう、と楓は予想する。昔の写真等を飾っていなければ良いが。
「あ、そういや」
 不意に彼が声を上げ、なんだ? と思っていると、彼はいそいそとスーツケースを開ける。
「はい」
 と差し出された箱を受け取った。軽い。
「なにこれ」
「おみやげ?」
「…はあ」
 なぜ疑問型、と思わないでもないが、それ以上に気になることは幾つもあった。というか、スーツケースはこの為か、と思ったりもする。楓は手の中の箱をしげしげと眺めながら、まず尋ねた。
「どうして…」
「や、久々に逢うのに手土産の一つも持っていかないのは社会人失格や、言われて」
 そう、ちなみに彼が手土産を持参したのは初めてである。そもそも、そんな間柄ではなかった。
「誰に」
「うちの… えっと、同僚に」
 同僚、ね。
 直接会ったことはないが、彼の同期を中心に何人かの姿を思い浮かべて、楓は眉を上げた。いったい何をどう話しているのか、気にならないと言えば嘘になるが、今は気にしても仕方がない。
「で、中身は?」
「ラスク。先輩のおすすめ」
 まあそんなところだろう。あのあたりの土産といえばお菓子で、彼は甘い物はあまり好まない。ああ、いったい何だこれは、と思いつつも、楓は溜息を呑み込んだ。そして菓子箱を押し頂いて様式美を一つ。
「えー、では、ありがたく頂戴致します」
「いえいえ、どういたしまして」
 ひと仕事終えたとばかりに、彼はまた地図帳に戻る。今度は首都圏版を開いて、神宮って何区? とかなんとか言っていた。楓はほとんどひと息に発泡酒をあおる。そろそろ限界だった。
「あれ、保土ケ谷も… 南西向き、か?」
 という呟きに、タン、と音を立てて缶をテーブルに置いた。
 ん? と彼がこちらを向くのが解る。楓は振り向かない。彼はすこし首を傾げた。
「楓、ひょっとして眠い?」
「眠い」
 間髪入れず答える。
 それからひと息。
「今朝は徹夜明けで、そのままもろもろ準備。昨日は昨日で昼まで測定だったし、一昨日はゼミで、つまりここ3日で10時間寝てない」
「ご、ごめん。じゃあ、もうおれ、」
 帰ると、彼が口にする前に。
 左腕を掴む。
 彼の右手から地図が落ちる。
「そう、すっげー眠い。だから、抵抗しないでもらえると助かる」
 ようやく彼の黒い瞳を見詰める。精悍な貌は微かに狼狽えていた。本当に、いまさらだ。前回はそれなりに抵抗されたのだが、今日は手加減する余裕がない。だいたい本気で抵抗されたら、おそらく楓に勝ち目はないのだ。
 でもきっと、彼はそんなことはしない。
 体重を掛けて、引き倒す。
 な、と開きかけた唇を唇で塞ぐと、彼は顔を背けようとする。
 逃げ遅れた唇の端、口元の小さなホクロをついばむように吸うと、「あ、ン…」と濡れた声がこぼれた。もう一度、捕まえ直して深く口づける。こじ開けた口内に舌を入れると、熱くて、あつくて。
 理性などとっくに手放していた。お互いに。
「かえで…」
 切れぎれに零れる彼の声に、脳幹が痺れるような感覚。
 彼が呼ぶのなら、この名前も厭ではなかった。




 でも、楓にはこのとき、呼ぶべき名前がなかった。
 彼が、楓に本当の名を告げなかったから。




 まさに覆水盆に返らず。
 水槽からあふれた水はこの部屋を飲み込んで、俺たちは溺れた。
 今も。
 …そうして水槽の中では、俺の大脳とおまえの右腕がゆらゆらと揺れている。
 いまは。


 いつになったらおまえは、俺に、本当の名前を言うつもりだ?















































 ちょう久しぶりにキスシーン書いたよ!(ばか)
 いや、たぶん野球選手には悪気がなくてですね、単に名乗るタイミングを逸したというかなんというかなんですよ、ええ。でも全面的に君のせいだよ、楓がかわいそうだろ…


2017.2.12収録



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