恋歌ロンリネス




















 春の終わりは実に曖昧だ。
 すいっと身を切るような冷たい風が幽かに緩んだと思った瞬間、ほわりと梅の香が流れる。気付けば木々の新芽がにゅっと顔を出し、暖かな陽射しと凍える朝を繰り返すと、ざわりと一斉に桜が街を覆って、気付けば若緑と赤、黄、薄紅、白、紫と、山はほころぶように笑っている。かと思えば、あっという間に陽射しは鋭く射貫くように、山の装いは艶やかになって夏が春を駆逐していた。
 K大構内の緑も最早、瑞々しいというより目に痛いほどで、初夏の匂いに山科楓は目を細めた。




「年々、春が短くなるな」
 言わずもがなの言葉がつい口を突いて出た。楓の印象では子どもの頃、五月の大型連休はまだ春だったのだ。今や四月下旬から初夏という単語を耳にする。ほとんど年寄りの愚痴の類か、と思い直して溜息を呑み込んだ。
 楓は吉田キャンパスの南側にある野球場から住処の北部構内へ戻るところだった。硬式野球部とは例の実験協力を仰いで以降、例年ほどほどの付き合いが続いているが、やはりそこそこ愛着はわく。今年は春季リーグ開幕からこっち、残念な展開のゲームが続いているので、檄を飛ばしに顔を出した帰りだ。当たり前に最初っからハンディを背負った戦いだが、それは当人達はもちろん誰もが知っていることで、楓としても激励することしかできないのがもどかしいところだ。
 そんな事で、悶々としながら時計台記念館前のロータリーに差し掛かったときだった。
「ん?」
 時計台とその前に根を張るクスノキはこの大学のシンボルだが、ベンチ状になっているその植え込みに和服の男性が居た。傍らには杖がある。まず大学関係者ではないだろうが、K大は観光名所でもある。和装の男性は珍しいが不審ということはない。ただ、どうも様子がおかしい。教員は大学のスタッフでもあるし、観光客とお年寄りには親切に、というわけではないがと楓はさり気なくそちらへ近付いた。
 近寄ればはっきりモノの良さの分かる装いのグレイヘアの老紳士。品の良い色白の細面は、若い頃はさぞかし美男子だったろう。ただ今はその形の良い眉を寄せ、明らかに困惑しているようだ。
 結局、
「どうされました?」
 と声を掛けた。最近は構内のセキュリティも厳しくなり、方々でIDカードが必要になった。逆にいえばIDを提げていればそうそう怪しまれまい、と思っていたのだが、老紳士はつと顔を上げると、驚いたように楓の顔をしばし見詰めた。妙に長い沈黙に、楓は慌てて補足する。
「あ、突然失礼しました。私、理学部の助教で、山科といいます。何かお困りのようでしたので、つい」
「いえ… あいすみません、ちょいと驚いて… ありがとうございます」
 東京弁、いや、江戸弁か? 楓は僅かに眉を上げた。この古都では殆ど耳にしない懐かしい音律だ。散歩中の近所の住人、という可能性は早々に消去する。
 一方、老紳士は切れ長の目を眇めるように楓を見ていたが、視線が合うとふうわりと微笑んだ。杖や髪の色からして父親より一回り年上くらいかと予想していたのだが、妙に水気があるといういうか、色気のあるひとだなと思っていると、「実は」と切り出したところを聞けば草履の鼻緒が切れかかっているという。どれ、と楓も屈んで確認する。
「ああこれは… ダメそうですね」
「ええ、どうも長く使っていたもので…」
 これを履いて歩くのは無理だろう。楓は紳士の様子をちらりと観察する。和服に杖、となれば短い距離の移動でも難しい。しかもその草履は門外漢でもわかる高級品で、適当に代わりを探すということにもならなさそうだ。楓は即断すると顔を上げて紳士に告げた。
「少しお待ち頂けますか。修理できる店を探してみますので」
「えっ」
 大家の同僚に呉服屋の息子が居る。当然、家業は継いでいないが、心当たりくらいはあるだろうと算段し、スマフォを取り出した。
 楓はまず研究室の内線にかける。
「ああ、山科です、いま時間あるかい? うん、誰でもいいんだけど。よし、じゃ、時計台まで実験室のサンダルで一番綺麗なやつ持って来てくれるか? そう、いますぐ」
 それから、呉服屋の息子にざっくり状況をLINEで知らせると、運良くすぐ着信があった。
「どったの、先生」
「俺に恩を売るチャンスだ、御曹司」
 と始まった通話は、「了解。ちょっと姉ちゃんらに聞いてみるから、待っとって」と切れた。そして自分の今後のスケジュールとタスクを反芻してから、楓ははっと気が付く。
「すみません、最初に確認するべきでしたね。これからのご予定は? 学内のどちらかにご訪問でしたか?」
 ぼうっと楓を眺めていた紳士は、幾度か瞬きした。
「はァ、こちらの図書館に昔の… 師匠の噺の音源があると伺いまして、そちらは無事に用が済みました」
 ししょうのはなし? 音源? 耳慣れぬ言葉に楓は内心、首を傾げたが、そこに拘っている場合でもないので、軽く頷くと先を促した。
「ではこの後のご予定で、お時間が迫っているものはありますか」
「…いいえ、もう、あとは宿に戻るばかりで」
 やはり旅行者か。ならば、まずは修理に目的を絞ってもいいだろう。楓は胸の内で頷く。今日はもう講義もゼミもないので、数時間、研究室を空けても問題はない、と判断したところで声が聞こえた。
「やましなせんせー」
 ギコギコと自転車を漕いでやって来るD1の加納に、ここだと楓は手を振った。
「おう、早かったな、よくやった」
「うちにキレイなサンダルなんて無理ゲーですよう。コレでええですか」
 実験室用なのに綺麗じゃないほうが難しいのでは、と思わないでもないが、確かにどのサンダルも骨董品のような有様なのは楓も知っている。加納はその中で一番まともな一足を見繕ってくれたようだ。
 急場しのぎなので、と弁解しつつ、それでも老紳士の小粋な長着や真っ白な足袋にはあまりに不釣り合いで、楓は思わず瞑目した。申し訳ないと再度口にしたところでようやく、紳士の名前も聞いていなかったことに気付いた。
「あの、今更で恐縮ですが、よろしければお名前を」
「いいえ、こちらこそとんだ失礼を。アタシは芝田と申します」
「では芝田さん、あちらのカフェでもう少しお待ち頂けますか?」
 移動させるのは気が引けたが、せめて椅子がある場所でと正門近くのカフェを勧めた。楓が手を貸そうとすると、芝田氏は大丈夫ですと丁寧に断って、自ら杖を突いて歩き始めた。右足をわずかに引き摺るようなところはあるが、すっきりと伸びた背筋に目を見張る。それを見送りつつ楓は加納にざっと経緯を話し、ボスを始め研究室のメンバに伝言を頼んだ。加納は「センセ、やっぱお人好しですねえ」と笑って帰っていった。
 顔見知りのカフェの店員が親切にお茶を出してくれたところで、御曹司から連絡があった。「あつらえの草履を扱ってるとこで、K大からなら○○の方がええって。こっちからも連絡しとくわ」とメッセージとともに送られてきたURLで地図を確認すれば祇園である。通常であれば地下鉄で十分だが、状況を考えて車を出すことにした。乗れればいいとばかりに雑に扱っている愛車を前に、せめてマメに掃除をすべきだったと反省しつつ、楓は芝田氏を乗せて出発した。
(ちなみに大家はまったく自動車に関心がない。身分証代わりに免許は取得したし、動体視力と反射神経と空間認識能力が破格なのでびっくりするくらい上手いのだが、如何せん“自動車での移動”が好みではないらしく、彼の業界には珍しく自家用車を所有していない。結局、オフの間も二人で一台を使っていた。余談である。)




 目的地近くの駐車場に車を止めた瞬間、楓は心底ほっとした。
 運転は苦手ではないが、ただでさえ一通が多い上、道が古くて細くて文化財に行き逢ったりで、京都市街地の運転は難度が高い。潔くタクシーを使うべきだったと二度目の後悔をしながら、そんな様子は見せずに芝田氏を伴い、件の履物屋に辿り着く。楓が暖簾を潜ると、
「いらっしゃい」
 と、店主と女将か、年配の男女が同時にこちらに顔を向け、愛想良く微笑んだ。待ち構えられていたようだ。
「ごめんください、赤谷さんのご紹介で参りました」
 そうして後ろの芝田氏を振り返りつつ、「こちらの草履の修理を…」と切り出したところで、
「師匠…!」
「あらまあ」
 えっ? と今度は楓が戸惑う番だった。ししょう? そういえばその単語はさっきも聞いたな… と思っている間に、女将はぱきぱきと手際よく座布団をしつらえ、芝田氏を案内するとすぐに茶が出て来た。店主は楓から草履を受け取ると、はあはあ、なるほどと頷いている。
「これは鼻緒をすげ替えないといけませんねェ。底も貼り替えた方が…」
「ああ、もの自体が古いんです。随分と昔に誂えて頂いたもので… あんまり勿体ないもんですから、なかなか出せなくって」
「それはそれは。大事にお使いになってらした」
「それじゃ、すげ替えるにしてもお使いになりたい布もおりありでしょう」
「ほんなら、こちらでは応急処置をさせて頂いて、お戻りになってから改めてお直しになったほうがよろしいおすな」
「そうですねえ、そうしましょうか」
 楓の鼻先で勝手に話が進んでいく。いやそれはいいのだが、むしろ辞去するタイミングを逸したようで、少々身の置き所がない。方針がまとまったところで、店主は草履を手に店の奥へと引っ込んでしまった。楓はとりあえず出された茶をすすり、口を挟む隙を伺っていると、
「こちらはお弟子さんでいらっしゃいます? イケメンさんやわあ」
 まさに興味津々という眼差しの女将に、少々身を引く。『お弟子』という呼称に、さすがに楓もいくらか閃くものがあった。
「いえいえ、こちらはこんな半端な商売じゃございませんよ、K大の先生でいらっしゃいます」
「あら、K大の… せんせい…」
「は、ええ、物理をやっています」
「物理…?」
 ちなみに名乗って響く打率は五割を切るのが常なので、楓は普段はあまり使わない名刺を取り出し、芝田氏と女将に渡す。しげしげと名刺を眺めながら、女将はははあと嘆息し、芝田氏は「好いお名前ですねェ」と幽かに笑んだ。
 そこでようやく、楓は「失礼ですが、芝田さんは…」と、老紳士の正体を質す機会を得た。
「林家菊助師匠です。明日からの独演会にお出にならはる」
 女将が視線を向けた先、店の奥の壁に落語家林家菊助・独演会のポスターがあった。確かに芝田氏が品良く座っている写真付きだ。予想は付いていたとはいえ、物知らずで申し訳ないと楓が頭を下げると、芝田氏は慌てて「噺家なんぞに頭を下げちゃァいけません」と止めた。
「今日はね、先達て、K大の図書館にうちの師匠のXXXの録音があると聞きましてね。レコードにもなってない噺で… これも何かの縁と伺いました」
 師匠の師匠は昭和の大名人なのだとか(女将談)。古い土地では、好事家が所有していたものがひょんなことで見つかることがある。その貴重な音源もそういった来歴だろうか。
「そこでこの有様ですよ。難儀していたところを、山科先生には助けて頂いて」
「先生、人助けなさいましたねえ」
 いやそれほどのことでは、とその表現を固辞しつつ、謎はすべて解けた気分で「ではこれで」と腰を上げようとすると先手を打たれた。
「せめてお礼を… 履き物をお借りしたばかりか、こちらまで案内して頂いて」
「…いえ、むしろ大変な失礼をしているような」
 菊助師匠の足下に視線を落とし、楓は何とも言えない気分になる。あの草履の修理代で、ホームセンター産のこのサンダルが14足は買えるだろう。どちらかといえば、これを縁にこの履物屋や御曹司の実家の顧客になってもらった方がありがたい(このご時世、日常的に和装をする男性は貴重どころか絶滅危惧種だ)と歯に衣着せぬことを言うと、師匠は苦笑し、女将もカラカラと笑う。しかし、やはりそういう訳にもいかなかった。
「それではアタシの気が済みません。山科先生、落語はご存じですか?」
「…お恥ずかしいことに、寿限無ぐらいしか」
 楓は答えながら、今後、知らないことを問題にするような物言いは絶対にしないと心に誓った(さすがに言わないようにはしているのだが、学生相手が長いと油断する)が、さすがに菊助師匠はふふふと微笑む。
「上出来ですよ、理系の学者さんですもんねえ。なら、寄席もお入りになったことはござんせんでしょう?」
「ええ…」
「じゃアタシの高座、いらっしゃいませんか。ものは試しに」
「高座、ですか」
「その後に改めてお礼もさせて下さいな」
 ポスターによれば独演会は明日の夜、大家の登板は来週だから時間はある。あまり断るのも失礼、というのと生の落語への興味もあって楓は結局、その申し出を受けることにしたのだった。


 その後、本物のお弟子さんが師匠を迎えに来たのを潮時に、楓は履物屋を辞した。
 大学に戻って、とりあえずと女将が持たせてくれた干菓子を加納に渡し、顛末をざっくり話せば、元落研という隣の研究室のM2が菊助師匠を知っていた。「レアなんすよ、菊助師匠。ウラヤマです、山科先生!」というので、空き時間にグーグル先生のお世話になった。するとなるほど、キャリアの割には情報が少ない。ほとんど古典落語一辺倒で、人情話や艶話が得意で、テレビは勿論、高座以外にはほとんど姿を出さないという。人嫌い的な評まであって、今日、助けた老紳士の印象とまるで違う書き込みに楓は首を捻った。
 菊助師匠はいったい、どんな噺家なのだろう?




 落語、といえばテレビの『笑点』(しかも大喜利)ぐらいしか思い出せない。
 楓の実家はインテリ一家だが、あいにく全員理系で、寿限無をはじめ幾つかの話の要素を教養として把握している程度だ。しばらく前に落語家を主人公にした朝ドラや連ドラがあったり、最近では漫画や小説もあった気がするが、いずれにせよ楓にとってはフィクションの領域だった。現代版江戸っ子とはいえ、上野や浅草の演芸場とも無縁だ。
 通常の寄席では漫談や音曲、紙切りなどの芸も披露され、落語も前座から二つ目、真打までレベルの違う噺家が高座に上がる。今回は師匠の独演会で、いわゆる寄席とは違うが、いずれ全部が初体験の楓にとっては一から十まで物珍しかった。独演会会場の入り口を入ると、履物屋の女将と店主が居て、女将が愛想良くこちらに手を振っていた。
「先生、ほんまにありがとうございます」
 なんでも、本当に師匠は新しい草履を誂えてくれるそうだ。「お揃いの帯も、赤谷社長のところでお願いしてくれはるそうですえ」と言われると、言い出しっぺとはいえ恐縮するばかりである。女将は生来の世話好きなのであろう、楓の処遇についてスタッフに声を掛けてくれている一方で、店主が「そういえば先生」とそろっと声を掛けてきた。
「赤谷社長とお知り合いいうことでしたけど… 末っ子の坊ちゃんの?」
「ああ、はい、友人、です」
 殆ど小姑のようなものだが友人には違いない、と、口に出さずに付け足していると、店主は「やっぱり」と顔をほころばせる。
「去年はあれでしたでしょ。復帰はいつ頃やろかって、仲間内で噂してましてん」
「ええ、順調なようですから、夏前には戻れるんじゃないかと思いますが」
「そら楽しみですねえ」
 大家の同僚、赤谷祐輔は去年、膝の手術をしていた。怪我がつきものの商売だけに珍しい事ではないが、もちろん生命線だ。ただ昨日の様子からしても、経過はだいぶ良いのではないかと楓は予想している。
 ちなみに御曹司も相当に愉快な来歴だ。元は呉服屋の赤谷の実家だがこのご時世、今はほぼ紳士服メーカである。上に姉が三人おり、遅く生まれた長男を両親が心配して体力作りにと始めた野球だったが、うっかりそちらで才能が認められてしまった。結局、姉達が婿養子をとって家業を継いだという話だ。まあ本人も広告塔兼モデルとして貢献しているようだが。なお細々と呉服の商いを続けるほか、最近では特殊繊維を使用したスポーツウェアにも挑戦中だとかで、いずれは球団公式ユニフォームを手がけるのが目標だそうだ。野心的である。
 そうこうするうち、会の開始が近付いたようだ。昨日も見かけたお弟子に挨拶され、楓も会場内に足を向けた。


 独演会は市民ホールや劇場が会場になることが多いそうだが、最近では廃業した映画館を使用したり、お笑いのライブやディナーショーのような会も行われるという。時代だろうか、などと楓がじじむさく考えている間にも、そこそこの広さの会場はどんどんと埋まっていく。お弟子にはご招待席に案内されそうになった楓だが、いや末席でと押し問答の挙げ句、なんとか関係者席らしきエリアの端に着席した。ざっと見渡したところ、いわゆる「いっぱいのお運びで」という状況だ。たった独りで公演を打つとなれば、相応の人気と経験がないと無理だろうが、さすが菊助師匠ともなると客入りの心配は無用であるようだ。
 いわゆる出囃子に続いて、昨日と同様、師匠の小粋な姿が高座に現れた。方々から声が掛かる。
 そして、もうそこからは別世界の。




 演目は饅頭こわいと牡丹灯籠。
 饅頭こわいのほうは楓でも知っている、古典中の古典だ。後者は師匠の十八番だというのはあとで知った。牡丹灯籠はともかく、師匠が饅頭を高座にかけるのはいつぶりか…? ぐらいだとかで、履物屋の女将さん曰く「ほんまに珍しい」そうだ。そもそも前座話で、通常、独演会でやる演目にはならない、らしい。しかし楓のような門外漢にはありがたく、すっと噺に入って行けた。
 菊助師匠の落語は、まさに「芸能」そのものだった。
 本人の身ひとつ、精々が扇子と手拭いの小道具のみ、声としぐさのみで立ち上がる世界は、圧倒的に強力だった。目の前に居るのはたった独りの老紳士のはずが、大人と子ども、女と男、江戸の町、朝と夜。鮮やかな明度と彩度をもって、確かに息づいている。客席は噺家の一挙手一投足に細波のように震え、沸く。楓も声を上げて笑い、思わず身震いし、終演時には夢中で拍手していた。現代では一部の愛好家向けの古典芸能扱いされている落語だが、その普遍性に感嘆した。
 これは、演劇よりも音楽に近いのではないか?
 と、楓の脳裏をそんな考えが過ぎった。


 己が身を楽器として物語を爪弾く噺家たち。


 そうして噺は正しく、在るように、在るべき場所に還って、閉じた。
 会場には、殆ど多幸感とも呼べる空気が満ち、万雷の拍手の中、菊助師匠は深々と頭を下げた。




 座がはねて、楓はこっそり帰ろうとしたのだが、やはり引き止められた。「師匠が是非お礼をと」と食い下がるお弟子をあしらえずにいると、当の本人に捕まった。
「あまり年寄りに恥をかかせるもんじゃあございませんよ、先生」
 少々口惜しいが、結局、楓は菊助師匠に連れられて街に出た。




「先生、東京のお生まれですか?」
 そう見えますか、と切り返そうと思わないでもなかったが、端正な笑顔で問われれば楓も素直に答えるほかない。
「ええ、小石川のあたりで… 大学までは東京でしたが縁があってこちらに。でももう十年近いですね」
「おや、江戸っ子ですか」
 本来は三代続いて朱引きの中でないと江戸っ子とはいわないそうだ。そうなると楓は範疇外なのだが、さすがにそこまで細かく拘る必要もないだろう。
 連れられた先は師匠の行きつけの店らしい。話は通してあるのか、奥のこぢんまりとした半個室の席に通された。師匠は相変わらず和装のままだが、この店にも街にも溶け込んで、楓はむしろ自分が異分子であるような気さえした。
「住んでからはだいぶ経ちますが、ほとんど学内で生活しているようなものですから、あまりこの街には慣れていない気はします」
 それは大家と自分を比べて強く感じることだ。あちらは高校入学以来、この街にいる時間の方が短いというのに、明らかに京都の男なのだ。言葉はたしかに大阪ふうに寄ったりもするが、有り様というか馴染み方が違う。
 そうですねえ、と師匠も小首を傾げて続ける。
「アタシも生まれも育ちも東京ですが、ここは何遍来ても… お客さんのまんまですからねえ。そこが京都らしさかもしれませんけど」
 それは分からないでもない。楓は胸の内で深く頷く。この街に根強く残る風土は、楓は大学関係者だからその手の苦労はないが、商売人だとかなり辟易するのではないだろうか。しかし、師匠はむしろ長閑な物言いをした。
「まあ、それでもアタシにも声を掛けてもらえるんですから、有り難いお話です」
 確かに上方落語もあるが、関西圏はやはりお笑い王国だ。東京よりも更に落語はニッチなのかもしれない。そこで楓ははっと気付く。自分が今日の礼をしていない。
「今日は本当にお招きありがとうございます。佳いものを見せて頂いて」
 そう頭を下げると、イヤですよ、改まって、と師匠は笑った。
「いえ… 正直、こんなに面白いとは思いませんでした」
「それは正直過ぎですよ、先生」
 そう言いながら、師匠は嬉しそうに楓のぐい呑みに酒を注いだ。謙遜する師匠に、いいえ、と楓はキッパリと言い切った。
「師匠の落語はまさに芸能ですね。言葉でつくった世界に観客を引き込む」
 芸術家とは無から有を生み出す者だ。その作品に触れた者に新しい世界を見せる。大家や、あの世界の住人の仕事ぶりを見ていても思わずには居られない。芸があるというのは、それだけで価値があるのだ。人々に娯楽を提供する、出来る。その得がたいこと。
 楓の真剣さが意外だったのか、菊助師匠はしばらく楓の顔を見詰めていたが、はにかんで、細く息を吐くように。
「先生みたいな人にそう言って頂けるなんて、長生きはするもんですねえ」




 でもねえ、そう言ってもらえるほど、たいしたもんでもないんですよ、アタシの噺は。




 と、菊助師匠はそっと囁いた。
「昔ね、ただひとりの為だけにやってたんです」
 
 あの人に聞いて欲しくて、やってたんです。


 それはどこか、告解に似ていた。






「あの頃のアタシは、本当にへったくそでしてねェ」
 問わず語りに始まった師匠の思い出話は、半世紀近くを遡った。
「二十になるかならずか… なんとか二つ目には上がったんですが、どうにもね。今なら、得手不得手もあるからと割り切れるし、そんならそれで遣り方もあるって腹もくくれるんでしょうけど」
 そん時はがむしゃらにやるしかない、そう思い込んでましたのさ。そういう余裕のないの、お客さんにも見えちまうんですね、さっぱりなんです。それこそ寿限無やってもひとっつも沸かない。
 つるつると語られる過去は、活動写真のように曖昧でふくよかな画を結ぶ。
「でね、そんな時分、上野でやってるときに、まいんち通って来る外人さんがいたんですよ。ぱりっとした良い背広着て… お昼間からお見えになる日もあったから、いったい何者かってんで小屋でも話題になってたんですが、どうも留学生だったんですよ。比較文化論、でしたっけ。ヨーロッパから」
 銀色の髪で青い目の、西洋人形のような人でね。しかもほんと、これっぽっちも笑わないんですよ。もう、アタシだけじゃなくて、うちの師匠の話だってダメで。
「…母語が違えば、ある程度は仕方がないのでは?」
「まあねえ。でもかなり日本語はお上手で。研究の一環だってお話でしたし、そこはねえ」
 師匠の言も分からないでもないが、やはり難しいだろう、と楓は冷徹に分析する。笑いは文化だ。というか、文化の本質だ。噺を聞いて笑うためには、語られる世界を共有しないといけない。それこそ寿限無であれば、町人の子どもが分不相応な立派すぎる名前をもっている、という設定を理解するにもけっこうなハードルがある。もちろん、正確でなくても通じることもあるだろうが、ひとりの人間の語りだけですすめる落語であれば、異文化を共有する困難は想像に難くない。
「それでね、いつの間にか、アタシも意地になって。なんとかして、あの人を笑わせるんだって、ずいぶん稽古しましてね」
 丁寧に、わかりやすく、素直に。小手先の芸なんかじゃなく、たしかに生きている人間の、毎日の、景色と空気の話を。案外、それが良いほうに転んだんでしょうねェ、と。ひっそりと、彼は笑んだ。


 初めて… アタシの饅頭こわいでね、笑ってくれたんですよ、あのひと。


「嬉しくってねえ。高座に上がって、あんなに嬉しかったことは、後にも先にもあれっきりです」
 先、はこれからでも、とは言えなかった。あまりに… 師匠の横顔が美しくて。
 異文化であればもちろん、シンプルなものの方が受け入れられやすいだろう、とか、相手の方もリスニング能力が上がった、とか、分析は簡単だったが意味はない。楓はぐい呑みの底に視線を移した。
「じゃあ今度は目黒のさんま、次は猫の皿、そしたら茶の湯… ふふっ、ほんとうにね、あの人に聞いて欲しくてやってたようなもんです」
 日毎語られる、たったひとりの相手に向けた噺。なんと贅沢な…


 まるで恋歌のような。


「おかげでアタシも上達したんですねェ。師匠に驚かれましたよ。でもそのうち、その人がぱったり小屋に顔を出さないようになって… 留学生ですからねえ。帰国したってえェ話を聞いたのは、ずいぶん後になってからでした」
 牡丹灯籠か、明烏ぐらい聞いて欲しかったンですがね、と。今度ははっきりと溜息と共に呟いて、師匠は自分のぐい呑みを傾けた。あっさりと途切れた交歓、師匠の昔話を映した活動写真はカチリと止まった。
 その留学生の消息を… 尋ねなかったのか… いや、探したからといって… ゆらゆらと楓の胸を過ぎって消えた。
 おそらく、菊助師匠はその留学生の名前さえ知らないのではないか。きっと言葉も交わしたことはないだろう。高座と客席、噺家と客の距離と時間だけがあった、そのとき。


 それだけの
 それだから


「だから今日は、先生に聞いてもらえて嬉しかったんですよ」
「…は?」
 何故、と、聞き返そうとすると、くすくすと、師匠が今度は鈴が転がるような声を立てた。
「ちょいとね、先生、似てらっしゃるんです、その人に」
「え、あ、はぁ…」
 なんと応えてよいか、応えるべきかも分からず、楓が戸惑っていると、ああもうありませんねえ、と師匠は徳利を手に店員を呼ぶ。と、店員ではなく、女将らしき和装の女性が顔を出した。
「師匠、ようお越しやす。もう少し早うご連絡してもろうたら、旬の良いところを用意しましたんに」
「いえいえ、十分よくして頂いて」
 そんな社交辞令も含めた挨拶を、さらっと聞き流していた楓だが、
「それで、こちらは新しいお弟子さんですのん?」
 はっと顔を向ければ、女将が目を輝かせて訊いてくるではないか。楓が二度目だな、と思っていると、菊助師匠はハハッと快活に笑う。
「それは○○屋の女将さんにも言われましたねえ。違うんですよ、K大の先生です」
「あら!」
 と、その後は前日とほぼ同じやり取りを繰り返し、女将はしげしげと楓の名刺を眺めていたが、斬新な手を繰り出してきた。
「先生、いっそのこと菊助師匠に弟子入りされたらいかがどす?」
 けっこうな真顔で言われると返しに困る。女将の出身は大阪だろうか?(その昔、赤谷に真剣にリクルートされかけた記憶も甦る)と、楓が若干、偏見に満ちた感想を抱いていると、師匠は意外にも合わせてきた。
「そうですねえ、好い声をなさってますから、向いてるかもしれませんねェ」
「ほんま、お弟子さんにならはったらいいのに。こないな男前ならぎょうさんご贔屓もついて、売れっ子になるんとちがいます?」
 いや、ちょっとそれは、とか、ご冗談もほどほどで… などとやり取りをしているうちに、新しい徳利とぐい呑みがやってきて、女将も「ではごゆっくり」と微笑みを残していった。




「先生、たいした人気ですねぇ」
「…物珍しいだけだと思いますが」
「でも本当に好い声をなさってますよ」
 どうも、とおざなりな挨拶をする楓に、ふつふつと笑う菊助師匠は明らかに面白がっていた。楓は既に手酌で杯を重ねている。
「まぁ、落語のマクラなんかは講義に役立つような気はしますが」
 落語の導入部、いわゆる“マクラ”のようなものは、講義では効果的なことがままある。特に基礎的な理論や抽象的な概念を取り上げる時、エンタメに慣れた現代っ子の注意を引く導火線は必要だ、というのは大学教員としての楓の感想である。
「こちらも学生の時間と授業料を預かっている身ですから、少しでも実になる講義をとは思うんですが」
 もちろん、学生の方に学ぶ姿勢があるのが前提ではあるが、大学が教育機関でもある関係上、そういう意識も必要だと楓は思っている。話は聞いてもらってなんぼ、とそんなことをちらと語る物理学者に、噺家は柔らかな眼差しを向けた。
「…芸人なんてェものは、そんなにいいもんでもござんせんよ」
 だれかに、たとえ、ただひとりであっても、他者が受け取って初めて成り立つ、もの。笑ってもらって初めて、そこに存在することが認められる。それは芸術作品、音楽や絵画、小説であっても同じだろう。聞く者、見る者、読む者が居て初めて「在りうる」のだ。
 その点、学問とは有り様が根本から違う。
「誰に聞いてもらえなくても、学問は、学問であるだけで意味がありますでしょうに」
「…それは、そうなんですが」
 楓としても、それは理解しているが、だからといって迷わない訳ではない。
 たまに、途方に暮れることがある。
「私の専門は、とても大雑把にいえば力学ですが、いわゆる“役立つ”研究ではありません」
 師匠の様子を窺いつつ、ざっと専門分野の概説をする。それを進めたところで、それこそ『世界』の存在を証明する一助にはなるかもしれないが、そんなものは証明しなくてもいいのだ。現にいま世界は存在するのだし。
 基礎研究はそうしたものだ。それこそ、青色発光ダイオードやiPS細胞のような、はっきりと誰の目にも明らかな成果が上がる研究ではない。内容を正確に理解出来るのも、同じ分野の研究者だけ。もちろん、菊助師匠が言うように、そもそも学ぶこと、問う事自体に意義がある。それは解ってはいる。わかってはいるが、


 たった独りだと、思うことがあるだけだ。


「でも、先生は論文をお書きになるんでしょう?」
「…え、ええ、まあ」
 それこそ、何人に読まれているか解らないが。楓は訝しげに眉根を寄せたが、師匠は「それなら」と大らかに微笑む。
「でしたら、10年後、20年後に学生さんが読むかも知れないですし、それこそ50年後、100年後も残るかも知れないでしょう」
 いや、それはどうだろう… と一瞬思ったが、師匠の笑顔は反論を許さなかった。
「落語もね、いまではすっかり古典芸能扱いですが、当時は流行りもんでしたのさ。昔話や説話、滑稽話を、往来の辻辻で、誰かがすきに喋ってたのが元ですからね。お坊さんの説教が元だってェのもありますよ。いまはテープやらディスクがありますし、江戸の頃には紙もありましたでしょうけど、本来は口伝です。誰かが話した噺を誰かが真似る。それが続きに続いて300年、化石になったとはいえまだ、残ってンです」
 それに、いま隆盛を極める漫才も落語と同じ“話芸”の一種だ。『芸』はカタチを変え、続いている。
 根源的にひとが欲している、もの。
 その意味では、学問も同じだろう。生存戦略の手段ではあっただろうが、そもそもが喜びだったのだ。学ぶこと、知ること、問うこと。新しい事を知る幸福に、ひとは頭を垂れたのだ。だから、
 芸術も、学問も、それ自体は残っていく。
「でも、いつだって不安で仕方ないんですよ」


 誰かが聞いてくれるのか、笑ってくれるのか。
 誰かが知ってくれるのか、理解してくれるのか。


 誰かに、届いているのか?


「何百編やっても慣れたりしないんです。今でも、だあれも笑わない高座の夢を見たりね。頭真っ白になって、ひとっつも噺が出て来ない、とか… 今日こそダメかも知れないって思う日もあります」
 なのにねえ、気付いたら着替えてるンですよ。帯締めて、扇子と手拭い懐に、羽織りに手ェかけて。
「それでも辞められないンです。身体引き摺ってでも座布団に座るンです。先生だって、そうでしょう? 誰も理解してくれないかもしれないからって、研究、お辞めになりますか?」


 辞めない。
 それだけは考えなくても解る。


 声に出した訳ではないが、楓の顔を見て師匠は頷いた。
「そうでしょう。病みたいなもんですからね。それでも、どうしてもついて回るんですよ、孤独ってやつが」


 誰か、と、願うことは当たり前だ。
 恥ずかしいことでも、くだらないことでもない。


 誰か、たった一人でもいい、この声を聞いてくれる、誰か。
 だれか、と。




 それは、祈りにも似た。




「なのに辞められないンだから業腹だ」
「…そうですね」
 ふたり、干したぐい呑みの底をしみじみと見詰める。
 いつも飢えてる。
 当に、死に至る病のように。それでも。
「どうしようもなくなったときはねェ、思い出すんです」
 あの日、饅頭こわいを聞いてくれたあの人の顔、と。そう言って師匠はクスリと笑った。その記憶は色褪せず、今もまだ飴色の活動写真のように。菊助師匠の横顔は初夏の木漏れ日のように眩くて、楓は目を細めた。
 これが、この人の強さだ。
 圧倒的な孤独を抱えて、それでもなお。
 それから、考える。自分にもあったろうか、そんな奇跡のような瞬間が、どこかに。


「あっ」



 あった。楓は思わず息を呑む。届いたことがあった。きっと、解ってくれた。あの高揚、興奮。知ることと、体験することの喜びを。
「…どうされましたか?」
「や、いえ、なんでも」
 心配そうな顔の師匠に手を振って、楓は慌てて徳利を取り上げた。酒を注ぎながら思い出す、あの、瞬間を。


 夕暮れの、姫路駅
 息が止まるほどの風圧と 震えるような地響き
 少年のように目を輝かせた 彼と、
 自分は、確かに あのとき




 孤独ではないと 
 いっしょに、世界が輝く瞬間を、
 確かに



 たしかに




 絶対に、忘れないようにしよう、と。
 楓はそう心に決めた。

















































 昭和元禄〜のドラマ化とか、大河で落語が取り上げられてたりで、ちょっと書きたくなったというか…思いつきです。(きっぱり)
 ので、落語家さんの設定と造形はほとんど適当ですすみません…名前とか特に(笑) 昭和元禄〜の八雲師匠っぽいかんじ? と勝手に思ってます。
 淡い恋物語、の予定だったのに、意外に「孤独」の話になったなあとは思ってます。
2019.8.31収録



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