◇◇◇◇◇ 『虚実インクライン』の直後と、『妄想プリズム』の直後のお話 ◇◇◇◇◇













  月虹アンビバレンス


















 生まれて初めて、眠れない夜がきた。


 どうしようもないのに、楓は幾度となく彼とのやり取りや会話を思い出しては、どういうことだと問うた。誰に? 彼に? 自分に?
 何かがおかしいことは解っていた。嘘を吐かれているだろうことも予想はついていた。それでも考えるのだ、いつから? どうして? どうする?


 どうする?


 それを問われるべきは自分なのか。思わず楓は反駁する。
 明らかに彼の方が分が悪い。あちらはショービジネスの担い手で、こちらは一介の大学院生だ。そんなことは考えなくても解る。そもそもインモラル…いや、それは差別用語だ、と脳内で訂正する程度に冷静だったが、実社会では「アウト」な関係なのだ、自分たちは。まだ彼も新人に毛が生えた程度だから、誰にも気付かれていないだけだ。
 しかし今後はそうもいくまい。元から期待された素材だ、怪我が完治し、来季を迎えればあちら側に帰っていく。そこでのスキャンダルは命取りだ。
 …醜聞、なのだろう。


 そんなつもりは何ひとつ、ないけれど。


 液晶画面の青白い光が楓の横顔を照らす。とっくの昔に彼の動画は再生を終えている。もう何度も見た4年前の21奪三振。彼の本性。白球を投げるため、野球をするためだけにつくられた、非常で精巧な最新鋭の戦闘機。
 もしバレたら… 台無しだ。彼の経歴も、未来も。
 楓は生唾を嚥下する。自分の方も世界がひっくり返るのは解っていたが、それはどうでもよかった。失うに惜しい何ほどのものも無い。


 ではどうする?


 同じ問いに戻って、楓は乱暴に前髪をかき上げる。
 恋をした。
 次の約束が待ち遠しくて、その日まで夜を数えた。視線が合えば自然に笑みがこぼれ、声を聞けば胸が高鳴った。僅かな距離ももどかしく、触れた指先から伝わる熱に心が舞い上がった。一分一秒でも長く一緒に居たかった。一方的な思い込みや勘違いではない、はずだ。嘘を吐かれていたけれど、彼が名乗りづらかったのも想像に難くない。そもそも、まさかこんなことになるとは、彼も自分も思っていなかったのだ。
 思っていなかった。でも。
 恋、だった。


 堂々巡りの自問自答は出口を見つけられず、楓は泥のような現実に飲み込まれてゆく。






 晩秋、夜の訪れは早い。
 鳥の声が聞こえる頃には、もう深い赤と黒が塗り重なった空に、つめたく細い三日月が浮かんでいる。


 当てがあったわけではない。
 ただ、自室は言うに及ばず、研究室やバイト先にいても囚われる思考の無限回廊から飛び降りるように、楓は快速に乗った。車窓の向こうに黒々と広がる街の、家々の屋根やビルの窓は淡々として、日常はまるで見知らぬ他人のような貌をしていた。
 京都から姫路まで約1時間40分。新幹線のホームへの入場券を買うのもあの日ぶりだ。
 新幹線のぞみはほぼ15分間隔で通過する。それが上下線交互だ。ホームに上がる間にも、鋼鉄の大蛇が奔る音が響いてきた。夢の超特急。こんな形で深く記憶に残るとは想像も付かなかったと、自嘲しながら楓が下りホームに辿り着いた瞬間、向かい側のホームからひかりが発車するベルが聞こえた。こちらの白い蛇はのったりと身を震わせる。新幹線であれば京都まで在来線の半分、50分程度だ。時間を金で買う、その意味が解る程度に、楓も大人になっていた。
 そういえば、彼はいつも京都まで何で帰って来るのだろうか?
 という疑問がふと、楓の頭に浮かんだときだ。ひかりの最後の車両が過ぎ去って、一陣の風と共に向かい側のホームが見通せようになる。乗降客もはけて、人影はほとんどない…
「え?」
 ひとが居る。その長身のシルエットには見覚えがあった。先日、一緒に選んだ黒いコートがよく似合っていた。
 あの、楓が彼の正体に気付いた日から連絡をしていない。ほとんど毎日、LINEでもやり取りしていたから、彼も少し不審を感じているかも知れないが、しかし。
 まさか、ここで。
 呆然とする楓の一方で、彼もこちらに気付いて目を見開く。そして見間違いではないことに気付いてか、酷く嬉しそうに笑った。一緒に居るときと同じ顔で、黒い瞳がくるりと動く。その笑顔のままひらひらと手を振るものの、楓の反応がないことを訝しんで首を傾げた。
 そこで、駅のアナウンスが聞こえた。


 楓の吐く白い息がゆらりとなびいた。
 新神戸に向かうのぞみが駆け込んでくる。
 轟音が夕闇を圧して膨らんだ。
 パアン、と空気が弾ける音がする。
 風圧に楓の髪が乱れる。
 時速300kmの車体は僅か数秒でホームを駆け抜け、頬を打つような強風に楓は目を細めた。


 静穏を取り戻したホームで、彼が真顔になっている。
 ほとんど青ざめたようなその表情に、彼が楓の変化を悟ったことを知る。恐らく自分も同じように硬い顔をしているのだろう。楓は改めて彼を見詰め返した。
 またアナウンスが始まった。今度は下りだ。間を置かず、近付くのぞみの足音が地響きのようにホームを揺らす。
 低く唸る超特急はこちらを振り返るような未練もなく、ただその瞬間、バチン! と、架線から放電した火花の衝撃が胸に届いた。




 それが、号砲だった。




 楓は身体を反転させた。
 向かいのホームで、黒いコートの裾が翻ったのが見えた。楓はひと息に階段を駆け下りる。ほとんど乗降客のいない時間帯だ、全速力で駈けるが、もちろん彼の方が速い。あと数段のところで、既に階下に到着した彼が見える。視線がぶつかる。
「かえで!」
 彼が呼ぶ声が聞こえた。
 けれど、楓には今、呼ぶべき名がなかった。本当の名を呼ぶわけにはいかない。呼べない、けれど。
 飛びつくように彼を抱き締める。
「無理だ」
 なにが? とは彼は訊かなかった。楓も次に言うべき言葉はない。ただ彼の体温と鼓動が、世界と今を曖昧にする。これを手放すことが出来るか、と問われたから、無理だと答えたのだ。
 無理だ。
 この、どうしようもない切実さで彼の瞳を覗き込めば、黒い虹彩がじわりと滲んだ。耳元にかかる吐息が熱い。
「楓、好きや…」
「…おれもだ」
 絞り出すような楓の声に、うん、と彼は子どものように頷いた。
 端から見れば、久々の再会を果たした友人同士にでも見えるだろうか?
 いずれにせよ、もう、引き返すことは出来なかった。
 お互いに。




 これが愛かどうかは知らない。
 ただ一瞬ごとに、交わる視線に愉悦が見え隠れする。黒い瞳の奥に情欲以外のなにかが揺らげば、楓を止めるものは何も無かった。
 どうもしない。どうしようもない。ただ溺れていく。
 男と寝たことはないし、ふたりとも手探りだった。理論も正答もまるで解らなかったけれど、彼に消せない瑕を残したくて、楓は貪欲に彼を求めた。それでも、押し開いた彼の躯は、楓を受け入れて艶やかに変わっていった。




 その冬、休日のほとんどを二人で過ごした。
 本気で2月1日など永遠に来なければいいと思った。それでも当たり前に暦は巡り、年は明け、少しずつ逢瀬の間隔が開き、とうとうシーズンインと同時に彼はそうあるべき場所に復帰した。
 約束された場所に戻った彼は、あまりに眩しかった。
 楓は自分から連絡することを辞めた。戦歴はネットでも確認できるが、なるべく球場に赴いて彼の様子を確認して写真に収めた。それでも安堵と焦燥はない交ぜに、どうしようもなくなるとハガキを書いた。SNSやメールでは際限がなくなるからだ。彼の仕事に支障をきたしたり、証拠を残すのは巧くない。鉄道や地図に纏わるハガキを、彼の職場に差出人を書かずに一枚出すと、遠征先から差出人のないハガキが一枚来る。そのアナログで細やかなやり取りだけが、二人の秘密。
 そして、多忙なスケジュールのほんの僅かな隙間に、たまさか掛かってくる電話と、慌ただしく帰京する彼から来るメッセージが、楓のほとんど唯一の命綱だった。
 それを待つしかない現実は甘美な痛みを伴って、楓の心に澱のように溜まった。


 そして、そんな状況下で楓が何をしたかというと、勉強した。
 大学受験でもこんなに真剣だった記憶はない。修論をベースに、博士課程入試やゼミ、研究会に顔を出したりと、研究に没頭した。余計な事に悩まなくていいようにではあったが、学問というのは本気でやればやはり面白い。やればやるほど熱中した。それに、そうして何にも寄り掛からず、自分ひとりの足で立っていることが、ぜったいに必要だった。まず自分を誇れるように。日々、成長と努力を続ける彼に対する見栄であっても。
 だから二度目の冬も無我夢中のままだった。復帰後、ブランクを取り戻すため大車輪だった彼は相応の成績を残し、若手選手育成の選抜チームに選ばれて海外遠征までこなした。楓が修論の追い込みの時期でもあり、通常より更に短いオフシーズンは、蜜月と呼ぶにはあまりに儚くて、最後の日は繋いだ手を離すことが如何しても出来なかった。
 薄い紙のような夜の中で、彼が自分を呼ぶ声が耳に残った。
 そして今年、上に呼ばれることが多くなった彼は更に忙しくなった。北は北海道から南は九州まで、目まぐるしい日程の中で、更に交歓はまばらになっていく。彼との前回の逢瀬は前半戦終了後、ほんの僅かな間だけ。そうして開いた3ヶ月という時間は、これまでで最長のブランクだった。








 ふっ、と楓は夜の中で目を覚ました。
 目の前に彼の項が見える。伸びやかに締まった肌はよく日に焼けて、今は僅かに汗ばんでいる。
 学生のひとり暮らし、当たり前に安物のシングルベッドだ。彼は細身とはいえ手足が長すぎるし、このベッドは二人にはあまりに狭く、距離は必然的に0センチだ。いっそのこと、融け合ってマイナスになってしまえばいいと考えて、楓はすこし嗤った。
 もう、二度と連絡は来ないかも知れないと、思っていた。
 楓は彼の項に顔を埋める。彼を抱く腕に僅かに力を入れると、鋼のような抵抗がある。見た目は相変わらず細いままだが、さすがに徹底的に鍛えられた身体は本物の工芸品に近い。背筋の見事さなどため息が出るほどだ。おまけに基礎代謝がいいから体温が高い。熱い躯をするすると撫でながら、体脂肪率何パーだろうか、10は切ってるだろう、長距離ランナー並かな、などとやくたいもないことを考える。首筋の上から下に舌を這わせ、肩甲骨の入り口辺りを少し強く吸う。「ん」と彼が小さく呻く。
「わりい、起こした」
「…うん」
 くぐもった声は僅かに笑みを含んで、楓をほっとさせる。もう一度、項にかじりつくと、くすぐったい、と笑ったあとで、「あのさ」と彼の声から甘さが消えた。
「虹、が、太陽が低いところにあると虹が高いところに見えるいうことは、もっと北のほう… ロシアとかイギリスとか、あ、フィンランド、とか? の方が虹がでかいゆうことやろ。なら、ほとんど円に見えたりするん? ほら、太陽が沈まない日とかあるんやろ?」
 おおっと、と楓は内心舌を巻く。虹の話をそれなりに咀嚼したらしい。この『友人』はとても勤勉なのだ。楓の思考は一瞬で切り替わり、脳内で地球の気象モデルが一回転した。
「それはない」
「なんで?」
 彼が半身を捩ろうとするのを止めて、楓は指で彼の背中に真横に一本線を引くと、「ひゃっ」と声が上げる。
「これが地表で、観察者の点Pがここ、太陽がこの点P’にあるとすると、」
 真横に引いた直線と背中が交わるところにぴっと指を置き観察点Pを、次に左斜め上の肩甲骨付近に太陽の位置P’を示す。
「太陽と、プリズムになる水滴とおまえの角度が40度ぐらいということは、こんな感じだろ」
「くすぐったいって」
「集中しろ」
 くすくすと笑う彼にキリリと厳命し、楓は各点とそれぞれの角度を示しながら続ける。
「虹は太陽の反射っつったろ。太陽と観測者を直線で結んだ先、対日点が虹の中心だ。太陽は地面より高いところにあって、自分が地面に立ってれば対日点は地平線の下だ。だからせいぜい半円にしかならない」
 このあたり、と彼の右下の脇腹をつつくと、彼が息を詰めるのが分かった。楓は「でも」と、またすっと指を動かす。
「地上より高いところに観察者が居れば話は別だ。観察点Pが、こう、このあたりとかな。たとえば飛行機から雨上がりの空を見下ろすような場合や、巨大な滝、イグアスとかビクトリアとか、にかかる虹を滝の上から見下ろす場合は、かなり円形に近い虹が見えるらしい」
「へええ…」
 もう少し深く突っ込むと、虹と同じ大気光学現象では、太陽を中心に光の輪が出来る日暈や光の散乱によるブロッケン現象がある。そちらはまさに円になるが、そこまで説明すると夜が明けるので辞めた。
 そうして、もう一度、彼をかき抱いて項に鼻先をつける。
「虹は昼間だけ見えるもんだと思ってるだろ」
「…うん、だって、太陽の反射って」
「光量が足りれば、月でもいい。だからほぼ満月の日だけで、夜がきっちり暗くないと見えない。日本だと条件が揃う場所と日時はめったにないだろうな」
「まじか…!! じゃあ、何処なら見られるん?」
 彼の弾んだ声を聞く。
「滝とかダムとか水滴が常に発生していて、市街地が遠い場所。あとハワイだな。にわか雨が多くて水蒸気が多いから、ふつうの虹も毎日出るらしい」
「そうかあ…」
 月の虹、そのまま『月虹』と呼ばれる現象だ。光量の関係でさすがに光が弱く色は薄く、白虹と呼ばれることもある。ただ、暗闇にほわりと浮かぶ光の弧はまるで夢のように。
「見たい」
「行くなら雨季だな… マウイ島か…」
 これ以上、具体的な話をするわけにはいかないのは分かっていたが、楓は反射的に考える。観測に最適な季節、場所、時間…


  満月の夜、その微かな光を反射して浮かぶ、ひそやかな虹
  夜にしか見えない虹を探す人影は、薄闇に紛れるだろうか?


  その夜 どこで なにを
   だれと


 たまらなくなって、強引に体勢を変える。
 彼に覆い被さり正面から向き合えば、不思議そうな貌が瞬きする。彼が何か言う前に唇を塞ぐ。少しずつ深く、熱く、柔らかく、強く。思う様にキスを繰り返していると、彼が「まだ足らんの?」と笑った。大きめの唇と艶ぼくろが、楓の唾液でぬらぬらと光っている。
 足りない。
 きっと永遠に足りない。
 楓は彼の揶揄を無視して口づけを再開する。
「いっしょに、月夜の、」
 彼が掠れた声で囁いて、麻縄のような腕がするすると楓の背に伸びた。耳、顎、喉、鎖骨と、味わうように吸ったり舐めたりを繰り返しながら、楓は彼の腰を引き寄せる。


 このまま、夜が終わらなければいいのに。








 眩しい。


 倦怠感と戦いながら楓が瞼をあげると、細く開いたカーテンの隙間からの光がちょうど顔に当たっていた。手探りで見つけたスマフォを確認する。ほとんど昼だ。ということは、と考えるまでもない。彼の姿は既になかった。
 毎度の事ながら、これがきつかった。たいてい彼は早朝、楓を起こすこともなく部屋を出て行く。後朝の別れを惜しめとは言わないが、せめてひと言、と思う。とはいえ、それならそれで余計に離れがたくなるのも解っていた。
 楓は大きなため息を吐き、ベッドから起き上がる。バスルームに向かおうとして、ふと視界の違和感に気付く。視線を戻して部屋を眺めると、発生源は座卓の上だ、何かある。
「…?」
 近付いて見ると、レポート用紙に書かれた文字が見える。それから鍵が一本。
 彼の上手くはないが丁寧な筆跡で、住所が書かれていた。市内ではあるがまったく心当たりがない地名で、正確な読みさえよく解らない。(この街の地名は怖ろしく難解だ。)慌ててタブレットを手にしようとして、PCの方がいいかと迷い、その前に風呂だと思い直した。
 落ち着け、自分。
 夜の残滓を洗い流しながら、楓は出来るだけ思考をクリアにする。予断は禁物だ。と思いつつも結局、ほとんど烏の行水になった。濡れた髪をタオルで拭きながら検索すると、やはりまったく知らない場所だった。山が近い。住宅街? 近くには寺と学校の、というか野球のグラウンドがある。
 いや、未知の地名だったが、その場所に何があるのか想像はついていた。
 しかし彼の意図が解らない。
 楓はしばらく液晶に映った地図を睨み付ける。解らないが、だからといって他に選択肢はない。楓は大学からその住所への経路を調べ、身支度もそこそこに研究室へ向かった。


 昨日仕掛けたシミュレーションの後始末をしても、さっぱり身が入らない。おかげで普段の楓ならまずやらないミスを連発し、修士や四年生たちに「山科さんがおかしい」と真剣に心配された。
 終いには助教のW先生に「体調が悪いなら早めに帰れ」と諭され、腹をくくって研究室を出たのは夕方に近かった。彼に連絡しようか散々迷ったが、辿り着いてからにしようと決め、電車に乗った。
 辿り着いた場所は、想像以上に静かな街だった。
 楓も地図は読める質だが、さすがにこれだけ変哲のない住宅街だと難度が高い。スマフォに頼りつつ進む間も、住民らしき人々の姿以外はほとんど見掛けなかった。そうして行き当たったのは、一軒の住宅。
 表札には『小林』とある。
 当然のようでいて、しかし京都にいるのは母方の祖父母ではなかったか、と楓は記憶を反芻する。書き置きと一緒に残されていた鍵は、おそらくこの家のものだろうが、はたして…
「たかちゃん、まだ帰ってへんの?」
「は」
 後ろから声を掛けられ、心底びっくりした。振り返れば、まるっこい女性が立っている。うちの教授と同世代だろうか、と楓は当たりをつける。彼女はこちらを伺うようにもう少し、首を傾げた。
「たかちゃんのお友だち? 野球部の子?」
 たかちゃんとは… 彼のことだろう。おそらく。
 一瞬、戸惑ったが、楓はここは肝心なところだと気を引き締めた。不審者扱いされるわけにはいかない。
「いえ、野球部ではないんですが。僕、K大の大学院生で、山科と云います」
 名乗りつつ、出来る限り柔らかく微笑んでみる。この時ほど、自分の学歴と容姿に感謝したことはない。古都はよそ者には辛口だが大学生には寛容だったし、楓の笑顔は彼女の警戒を解くに十分だった。彼女は「あら、K大の」と頷いた。
「小林くん、出掛けてるんですか?」
 久しぶりの呼称に、ちりちりと舌が疼く。
「ええ、昨日戻らはったみたいやけど、昼過ぎに逢うたら、出掛けてくるゆうてたから」
「そうでしたか。じゃ、ちょっと早かったかな」
 恐らく戻ったのは朝だろうが、無論、そんなことは黙っている。すっかり楓が彼の友人だと信じきった彼女は、少しくだけた口調になる。
「たかちゃん、いつまでこっちにおるんやろ。まだお休み期間やないでしょう?」
 オフシーズンもそう表現されると長閑だ。楓は「そうですね、まだ秋季キャンプがあると思います」と応えながら、この女性は彼とはかなり親しいご近所さんだ、ということを脳内にメモする。
「約束しとったん? あのこ、のんびりやさんやから」
「大丈夫です。鍵を預かっていますので、中で待たせてもらおうと思います」
 鍵を掲げてみれば、あら、と女性は笑った。
「ごめんなさいね、小林先生のおうち、普段は誰もいてへんようになったから不用心やろ? ちょっと気になって」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
 再度微笑みながら、こばやしせんせい… 普段は誰も居ない…? と、それも大脳に書き留める。そして「では」と会釈すると、楓は門を開けて敷地に足を踏み入れた。




 大丈夫だろうとは思っていたが、カチリと鍵が回ったとき、楓は心底ほっとした。
 おそるおそる小林家に入る。侵入した、としか言い様がないのは自分でもガッカリだ。玄関を上がった先に昨日見た彼のスーツケースがあり、これは安心材料だった。三和土に靴を脱いで揃え、誰にも聞こえないのは分かっているが、楓は「おじゃまします」と呟いてから上がり框を跨いだ。
 ごく普通の、住宅のようだった。
 とはいえ、家というのは用途がひとつしか無いわりに、実に唯一無二の存在だ。楓基準の印象だが、この家は相応の広さがある日本家屋で、彼の祖父母の住居なのは間違いなさそうだった。
 ただ、人の気配が皆無だ。もちろん彼は留守だが、それ以上に今、棲んでいる人間が一人もいないことが解る。冷えた、硬い空気。しかしホコリが積もっているようなことはなく、ある程度手入れがされていた。彼がまめに帰省して掃除しているとは思えないので、誰かにメンテを依頼しているのかもしれない。
 これはいったい… と訝りながらも、楓はようよう歩を進める。まずはリビングか、と見当を付けてドアを開けた。いわゆるダイニングキッチンとリビング、いささか殺風景な気がしないでもないが、家主が質実剛健な質ならこんなものだろう。使い込まれたダイニングテーブルに手を置いて、楓はぐるりと室内を見渡した。
 ふと、キャビネに目を留め、近付いて中を窺う。幾多の中学校の卒業アルバムと教職員名簿が見える。なるほど、先生とはこれか… と楓はひとり頷いた。それ以外には辞書や地図、実用書などがちらほら。それ以外に聖書や史書、日本書紀などがあり、社会科か…? と見当を付ける。
 しかし、楓が真っ先に予想したものがない。
 彼に所縁の家だという確証が必要な気がして、楓はそろりと移動した。拭えない罪悪感も、興味が先に立った。探しているものはおそらく、彼の自室があればそこに、でなくとも、おそらくどこかにあるはずなのだが… とりあえず、手近なところで客間らしき和室の襖を引いた。
「あ、」
 あった。
 楓は最後まで襖をあける。当てずっぽうに壁を探ると、照明のスイッチが見つかる。蛍光灯がちかりと瞬いた。


  ああ、


 部屋の一角に置かれた棚に、ずらりと並べられたトロフィーやメダル、賞状。新聞の切り抜きや写真も壁に貼られている。定規を引いたような直線で切り取られて、コレクションの主の几帳面さが窺えた。
 そのほとんどが、彼のものだった。
 少年野球大会から運動会、陸上競技会、球技大会。小学校、中学校、高校、ドラフト指名、プロ入り後… 様々なシーンの華々しい戦歴の記録がそこに在った。とりわけ目立つのは、棚の一番いい場所に飾られているものだ。
「やっぱここか…」
 全国高等学校野球選手権大会の優勝メダルと、国体の高等学校硬式野球の部の優勝メダル。最後の夏の二冠が燦然と輝いている。それからネットや雑誌でお馴染みの優勝ナインの集合写真や、彼とその相棒のツーショットも。職場の寮はせいぜいワンルームだろうことを考えると、ココに在るのが小林家では一番自然なのだろう。
 ただ、その隣にはすこし違った写真が掲げられている。サイズで云えば一番大きい。
 中学生ぐらいか、ジャージ姿の彼と、その両足にまとわりつく同じ顔の子どもが二人。子どもは就学前だろう、片方は満面の笑みを浮かべ、もう一方は今にも泣き出しそうだ。彼は困ったような笑顔で、両の手のそれぞれに二人の頭や顔を抱いている。
(旭と剣か…?)
 楓はすいっと目を細め、その写真立てを手に取る。
 年の離れた弟は二人いるはずなのだ。祖父母とすれば、全国制覇の記録よりはお気に入りの一枚なのだろう。まったく正しい。楓はため息を吐くと、中睦まじい三兄弟の写真を棚に戻した。
                       
 そして、楓はそれぞれの表彰状や記事に記された名前をひとつひとつ、確認する。


 まさか別人というわけでもなく。
 苦笑をひとつ。最後に、大人げないと思いつつ、甲子園優勝投手たちの写真をぱたんと伏せて楓は和室を後にした。




 ダイニングキッチンに戻った楓は、少し迷った末、食卓に腰を落ち着ける。
 それから、再び部屋をぐるりと見渡した。静穏な時間は動きを止め、この家に降りている。装飾品の類は少ないが、ところどころに短冊や刺繍の小物があったりする。丁寧な日々は閉じて、微かにくすんだ薄紙が、ぱらり、はらりと一枚ずつ剥がれるように失われている。
 楓がぼんやりとしていると、玄関の方から物音がした。
「楓? 来てるん?」
 バタンとドアが閉じて、彼の弾んだ声が聞こえる。
「迷わなかった? ごめん、ちゃんと説明せんで… なんか、なんて言えばええかわかんなくて、メモに書こうかと思ったんだけど、やっぱどう書けばええかわかんないし、」
 矢継ぎ早に続く彼の言葉は壁に吸い込まれず、古びた刻の上に積もっていく。
「…かえで?」
 ひょい、と、ダイニングの入り口から彼の顔が覗いた。少し心許なげな表情に、楓はひとつ頷く。
「迷った」
「…ごめん」
 ここは何処だ、と、口には出さず、楓は彼の目を見詰めた。彼はおずおずと部屋に入ってくると、楓とある程度、距離を取って台所のシンクに寄り掛かる。長い足が余って、ほとんど腰掛ける態になる。
「うん… じいちゃんとばあちゃんのうち。中学の頃は俺もここに住んでて… 夏に、じいちゃんがのうなって、ばあちゃんは一人でこの家は辛いゆうて、おかんのとこ」
 大体予想通りではあったが、ここ数ヶ月、連絡が来なかったのはそのせいか、と思ったりもする。楓は「そうか」と相槌を打って先を促す。
「今は、近所のひとたちに頼んで、たまに掃除とか、いろいろ見てもらってるんにゃけど。とりあえず相続とか手続きがいるって… でも、もうばあちゃんも住まないだろうし」
 おかんはひとりっ子だし、という彼の話を要約すると、この家はいずれ彼が相続することで話が決着したという。法律的には彼に直接、相続権はないはずだが、遺産分割、生前贈与などあれこれと手配しているとのこと。楓の何となくの知識でも、それはけっこうな金額が動く話のような気がするが、彼は年齢にしては高所得者だったと気付いたりもする。
 いすれにせよ、ここは文字通り彼の家になるようだ。と、楓が無言で納得していると、妙な方向に話が進んでいる。
「でも俺が住むいうわけにもいかないから」
「そうだろうな」
 オンシーズンは定住生活でさえ出来ないのだし。
「ただ家って、ちゃんと掃除しとっても人が居ないと荒れるっていうし… だから、貸そうかと思って」
 貸家、ということだろう。まあ妥当なところだなと、楓は頷いたが、彼が次に続けた言葉を聞き逃した。というか、内容が理解出来ずに訊き返した。
「なんだって?」
「や、だから、楓に貸そうと思って」
「…は?」
 反射でもう一度問い返したところで、その内容を理解する。空き家になり、祖母や母親から相続したこの家を、彼は大家として楓に貸し出す予定だ、と言ったのだ。
「ちょい、や、けっこう大学からは遠いけど… 管理人ていうか、そうゆうことで家賃は安くするし。あ、なんか税務署対策?で、タダゆうわけにはいかへんのやて」
 駐車スペースはあるから、必要ならつこてくれてええし。おかんがリノベーションした方がええ言うから、水回りとかはほとんど新品になるし。あと、実は敷地の端に物置になっとる蔵があるんにゃけど、整理して、トイレとかつけて離れとして使う手もあるし、等々。けっこう遠大な計画を聞きながら、楓はようやく彼の意図を把握した。
 カモフラージュ、か。
 おそらく、彼は彼なりに考えたのだ。この関係に対外的なラベルを貼る方法を。秘密を守る最も簡単な方法は、嘘を最小限に止めること。大家と店子という煙幕は、ある程度の雑音を遮断するだろう。そうして身内にも職場にも楓にも傷を付けないで済む方法を、彼は。
 考えたのだ。
 とはいえ、家を用意されるとは思わなかった。まるで囲われものみたいだな、とか、ほとんどヒモじゃねえか、とか。憎まれ口ばかり思いついたが、それを口に出す前に笑ってしまう。あはは、と楓の妙に明るい笑い声が響いた。
「…かえで?」
 ああ、そうやって彼は気軽にこの名を呼ぶのだ。まったく好きではなかったこの名前も、もう嫌いではなくなった。
「ほぼほぼ愛人契約だろ、これ」
 結局、口にしてからまた楓は笑った。きっと無自覚だろう彼も、自分が何を言っているか思い知ればいい。
「あ、あい!? え、ええ?! いや、それは、そういうつもりじゃ、」
「知ってる」
 そんなつもりは無くとも、それだけ厚顔な話なのだが、それで良かった。既に手遅れなのだし、自分のこの二年の日々は彼にくれてやったも同然で、自分しか知らない彼が存在するのも確かなのだし。
「てか、その前に俺、おまえの名前、知らないことになってるんだけど」
 彼は虚を突かれた顔になり、ひどく申し訳なさそうに俯いた。今更、最初の嘘をわざわざ指摘した。本当にいまさら。葉書だって出しているのだ、そんなことは百も承知の上で、それでも。
「おいで」
 楓はゆったりと笑って、彼を手招く。楓の意図が読めないのだろう、戸惑いながらも近付いてきた彼の腰を抱き寄せた。手に力を込めると、彼は素直にこちらに身を預ける。
 どうしても、きちんと彼の名を呼びたかった。初めて呼ぶのだ。舌の上で転がすように、囁いた。




「穂高」




 この先、何度でも呼ぶのだ。
 そして呼ぶ度に、冬の、青く眠る雪渓を思い出すだろう。

















































 物理屋の恋、いったん決着です。
 珍しくえっちいシーンが…あるはずなんだけどどうだろう。途中でめんどくさくなっちゃうのが悪い癖だとは思います…ごめんよ、楓さん…
 あと、結局、ご近所では噂になるとは思いますけどねぇ… きっと穂高のおじいさまとおばあさまはご近所でも慕われていたんでしょう。(まとめた)
 でも楓さんがやっと報われました、よ…!

2018.9.2収録



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