◇◇◇◇ 毎度お馴染み、実際の人物、団体とはぜったい、まったく、本当に無関係です ◇◇◇◇













  定点観測


















 その場所はグラウンドの片隅にある。


 少し高くなっていて、そこからは霊峰富士が切り取ったように臨めた。すぐ向こうに通用門があり、放課後のこの時間、下校する生徒の他、校外にある専用グラウンドやロードに出る運動部の連中が通っていく。先程もフットボール部(サッカー、ラグビー、アメフト)が賑やかに駆け抜けていったし、既にアップを始めた体操部が掛け声も勇ましく、第二体育館へ走っていったところだ。
 長峰篤宏は彼らの後ろ姿を見送ってから、空を見上げた。
 豊穣の秋、身体の中まで同じ色に染まりそうな蒼さだった。




 写真部のアツヒロは毎日、この場所で富士山を撮影している。
 父親から譲ってもらったデジイチで、いつも必ず同じ場所、角度で。複数枚撮ることもあるが、大抵は一枚だ。よほどの悪天候でなければ雨の日も風の日も続けて、二年の二学期からだから、もう一年以上になる。
 おかげで、ココを駆け抜ける連中も一方的に馴染みになった。友人や同じクラスの顔もあるから、ちょっと挨拶したりもする。たまに「なにやってんの?」と聞かれれば、真っ直ぐその先を指差せば誰もが「ああ」と納得した。
 アツヒロはそこで、走るとひと言でいっても千差万別なのだと知った。
 陸上部トラック競技のメンバーは、専門職は言うに及ばず、跳んだり投げたりする連中もかなり真剣に走る。走力・持久力が重要なバスケと水泳もけっこう熱心だ。一方、校内の外周だけを走るバレーにバド、柔道剣道などの体育館組は、運動部でもいかにもアップという感じ。更には吹奏楽の連中も運動部に混じって走るが、これも意外に真面目だ。肺活量がモノをいうからだろうか?
 それぞれ速さや勢いも違って、馬やガゼルのようだったり、ブルドーザのようだったり、修学旅行先の長崎で見た路面電車のようだったり。ラグビー部の連中なんかは水牛の群れみたいだ、と思ったりする。実物を見たことはないけれど。
 その中でも、やはり圧巻はロードから帰ってくるときの陸上部長距離組だ。スピードはもちろん、その威圧感というか、存在感と迫力は群を抜く。
 アツヒロは彼らとすれ違うたび、トップスピードの新幹線を思い出す。
 台風のような風圧と、かえって音を吸いこむような轟音と共に駆け抜ける夢の超特急。ちゃんと距離は取っているはずだが、すれ違う瞬間に思わずよろめいたことも何度かある。
 特にその、先頭の右側を走る、








「なにやってんの?」
「わわわわわ!!」
 突然かかった声に、デジイチを取り落としそうなって大慌てで掴み直す。アツヒロが振り返ると、そこには白いトレーニングウェアの少年が立っていた。
 あ、と声に出さずに再び驚く。今ちょうど思いを馳せていた陸上部の長距離陣で、いつも先頭を走っている顔だ。
「C組の… 佐倉くん、だっけ」
「そう。よく知ってんね」
「ゆ、有名人だからね…?」
 佐倉駿輔、たしかインターハイ出場者だったはずだ。
 写真部は学祭や体育祭などの校内イベントを中心に、校内報や卒業アルバム用に生徒の写真を撮ることも多いので、自然、アツヒロも学年全体に詳しくなる。特に目立つ生徒には。
 同じクラスになったことはないが、シュンスケはかなりの有名人だ。名前の通り本当に足は速い。学内マラソン大会ではもちろん毎年入賞しているし(三学年合同で走るので、一年時からそれはけっこうなことなのだ)、体育祭のリレーでも選手に選出されている。
 実はスポーツで名を売るこの学校だが、陸上競技ではそれほど有名ではない。それでも全国大会出場なのだからやはり、スポーツエリートであろう。
 その彼がいったい何を、と思っていると、シュンスケは再び口を開く。
「で、何やってんの。ここで、毎日」
 そういえば質問されていたのだったか。アツヒロは急いで例のものを指差した。
「…ああ、富士山」
「そう」
「毎日撮ってんの?」
「うん」
「なんで?」
 そこまで突っ込まれるのは初めてだった。え、と思わず聞き返しながら、改めてちゃんと向かい合ってみると、印象よりも小柄なことに気付く。中背でやせ型のアツヒロとそう体格も変わらない。
 今のシュンスケはちょっと気怠げで、普段の、走っているときの研ぎ澄まされた顔や体躯とはまったく違う。いつもは二回りくらい大きく見えるのだが。へえ、と密かに驚きつつ、アツヒロはたどたどしく応える。
「えっと、風景写真でも、被写体が同じでも天気とか、季節とか、そういうので変わるから… 記録っていうか、日記? みたいな?」
 言葉を繋ぎながら、これ伝わるだろうか… 無理だな、と判断して「つまり」と手にしたデジカメの液晶画面に保存されている画像を呼び出す。
「こんな感じ」
 画面をシュンスケに向けて、富士のフォルダに入っている写真をコマ送り。そこには見慣れた山の、しかし確実に少しずつ違う姿が撮されていた。
「へえ…!」
 シュンスケは存外、素直に感嘆するとカメラを手に添えて、画像に見入る。秋から冬、雪が増えていくのも、冬から春、山が明らかに碧くなっていくのも。こうしてみると本当に違うもんだな、とアツヒロ自身もけっこう感心した。
「すげえな。同じにしか見えなかった、ってか、毎日見たことねえな、そういや」
「あー、まあね」
 あまりに当たり前すぎて、認識しないのだ。なくなったりしないし、いきなり形が変わったりもしないので。いつもそこにあるから見ない。見ているけど、見えていない。
 それでも、確実に毎日違う。
 それを見る自分の眼も。並べてみれば、その時々によって露光や露出、コントラストを変えているのが解る。シャッターを押す瞬間に感じたものが写っている。だから富士の写真はアツヒロにとって、自分自身の定点観測でもあった。
 自分の心のカタチ、の。




「おっ、長崎じゃん」
 弾んだ声にはっとする。
 そういえばシュンスケにデジイチを渡したままだった。彼は別のフォルダも開けたらしい。やばっ、と一瞬焦るが、入っているデータは学校用でまずいモノはなかったはず、と冷静に考え直す。いや、私用のだってヤバイやつはない、誓って。きっと。たぶん。
 シュンスケは興味深げに画面を目で追っていた。
「修学旅行まで撮んの?」
「卒アルに使うから… 採用されるかはわかんないけど」
「そうなんだ、すげーな! コレとかけっこういいじゃん」
 正直な称賛がすこし、心地良かった。自分のように特技も学力もない生徒は、よほどのことがなければホメられることもないことぐらい、本人も解っていた。
 こういうのがひねてるってことか、というアツヒロの自嘲を、妙に低いトーンの声が遮った。
「…甲子園まで行ったんだ」
「あ、うん、新聞部と一緒に… まあ、野球部だから。今年は特に」
 野球部はこの学校のヒエラルキー最上位にいる。実績はもちろん、歴史やら大人の事情やらメンドクサイものも絡んで、望むと望まざるに拘わらずそれは事実だった。学校ではもちろん試合ごとに応援団が組まれるし、試合の際は校内でのパブリックビューイングもある。
 更に云えば、地方大会から本命視され、そのまま日本一になるなんてことはそうそう起こらない。今年は地方大会開幕からこっち、写真部もほぼ全員駆り出されておおわらわだった。アツヒロも大会終盤はずっと現地だったのだ。
「やっぱ暑そうだなァ。てか、スゲー人だな! なんじゃこりゃ」
「ああ、甲子園って四万七千人はいるんだってさ」
「はー、よくやるよなあ、この猛暑に」
 呆れているというよりちょっと、揶揄するようなもの言いにひっかかってシュンスケの顔を見れば、口調とは裏腹に実に真剣に画面に見入っていた。「なんでいっつも」等と言いつつ舌打ちした。あれ…? とアツヒロが首を傾げていると、
「あっ!!」
 一際大きな声が上がって、アツヒロは反射的に身を縮めた。が、
「これ、一枚もらっても… あ、いや、やっぱいいや… や、でも、」
 こちらとカメラの画面を交互に見ながら、シュンスケは「いや」と「でも」を繰り返す。それまでの怠そうな様子はどこへやら、彼はとても狼狽して、というより、浮き足立っていた。
 これはつまり、偶然すごく気になるカットを見つけたということだろう、とアツヒロは結論づける。というかそれ以外ない。気になる写真となれば、気になる子が写っていたと考えるのが定石だ。甲子園ならチアかブラバンの子かな、と予想しつつ、アツヒロは手を振りながらなるったけ軽く聞こえるように承諾した。
「いいよ、あげるよ。卒アルとかに使わないならどこにも出ないし」
 昨今の肖像権とか個人情報云々によれば、本来は削除すべきだろうと思う。が、やはりカメラマンとしては、自分の撮った写真を完全に消去するのはなかなかに難しく、削除できた試しがない。
 内心は忸怩たる思いのアツヒロを他所に、シュンスケの表情がぱあっと明るくなるのがわかる。見ているこちらも嬉しくなるくらいに。
「いいの!? マジで! や、でも… なんか悪いし…」
 これまでのふてぶてしいとさえいえる態度が霧散して、もじもじと遠慮するシュンスケにピンときた。そうか、よく知らない奴にピンポイントで好きな子を知られたくないよな、ふつう。
 ということで、アツヒロはシュンスケからデジイチを取り戻しながら訊ねた。
「佐倉くん、いまスマフォ持ってる?」
「持ってるけど…」
「それなら、ここであげるよ。自分で好きなの選んで転送していいし」
「えっ、そんなコトできんの?!」
「このカメラ、無線LANでとばせるから。とりあえず、このアプリ入れて」
 と、アツヒロも自分のスマフォを取り出し、シュンスケをナビゲートした。
 誰だろうなあ、とアツヒロは頭の隅で考えてみる。さすがにアルプスは散々見たので、チアもブラバンもメンバーは覚えている。なお、この学校のチアガールは可愛いので有名だった。ただチア部は野球部のほとんどの試合に随行するせいか、野球部員と付き合う子が多いらしい。人気のある選手にファンがついたりもして、特に三年ではキャプテンと、あと外野手の誰かに集中してるとか。あくまで伝聞。
 シュンスケも学内ではそれなりにモテ男だろうが、チアはハードル高そうだと考えるあたり、アツヒロも余計なお世話だった。
「で、スマフォを指定して… 接続しましたって表示出たから、これで写真選んで… 送信でOK、と」
「おお、ベンリ…!」
「データ移すのに、いちいちケーブルとか出すの面倒だしさ」
 スマフォさまさまだ、とは父親の最近の口癖である。
「好きなの、指定して自分んとこに送ればいいから」
 と、アツヒロは再度、デジイチをシュンスケに渡した。
「ちょうサンキュー…!」
 はにかみながら写真を探す少年の横顔を見ると、ちょっとだけ良いコトをした気分になった。まあこれくらいはいいって、きっと、と自分に言い訳したりもする。そしてアツヒロは三度、富士を仰いで、


  ざわり


 周囲の空気が動いた。
 いや、グラウンド全体というべきか。なんだ? と思って振り返ると、野球部が校舎に隣接するグラウンドに出るところだった。練習が始まるらしい。
「野球部、か」
 もちろん夏の大会終了後、直ちに新チームに移行しているが、前が前だけにかなり苦労している。おかげで日々の練習も非常に厳しいものになっていた。仕方がないとはいえ、下級生達がちょっと気の毒だった。もちろん他人事ならではの感想で、アツヒロとしてもわきまえているので口には出さない。
 と、
「…今日もいねーなァ」
「えっ?」
 思わず聞き返すと、また当初の気怠いふうの態度でシュンスケは短く答えた。
「二枚看板」
 言われて探してみれば、確かに居ない。
 野球部が誇る左右のエースは、ここしばらくはまさに震源地だった。予想できたこととはいえ、二人同時にドラフトにかかるというのはやはりおおごとだ。そういえば指名挨拶だの交渉だのと、ちょこちょこ二人の顔はニュースで見たが、グラウンドでの姿を目にする機会は減っていた。
「ああ、柳澤くんと、小林…」
 とアツヒロが言いさすと、
「ほたか。小林穂高」
 瞬殺でシュンスケが継いだ。そう、右腕の方は姓に比べて名は少し珍しい。だからつい声に出た。
「そうそう。穂高、っていい名前だよね。お父さんとか、山好きなのかな」
「は? やま?」
 シュンスケが心底びっくりした、というように目を丸くするので、むしろアツヒロも驚いた。
「いや、ほたかって… 穂高岳由来だよね? たぶん」
「そんな山あんの?」
 そうか、知らないのか。と内心、動揺しながらも、まあそれが普通だよなと自己完結する。アツヒロは深く頷いた。
「あるよ、長野かな。日本で三番目に高い山」
「三番目って… 中途ハンパ…」
 徒競走のスペシャリストらしい発言に、アツヒロは少しだけ苦笑する。三位だってかなりすごいことなのだ、本来は。
「一番だと問答無用で”ふじお”とかだよ。それよかカッコいいって」
「そうか、そうだな… そうかな…?」
「高さはそうだけど、岩山で、難しいんだよ、穂高岳。日本三大岩場だったかな」
 井上靖の小説、『氷壁』の舞台でもある。アツヒロの家の居間には、父が撮った冬の奥穂高の写真が掲げてあった。夏の碧い姿もいいが、やはり冬季の白く深く眠るような佇まいが素晴らしい。
 ひたすらに、美しく雄々しい山なのだ。
「いい山、なんだ。いつか、撮りに行きたいんだけど」
 日本三位の標高の上、険しい岩場があり、夏でも雪渓が残る連峰は、素人が登るにはそれなりの勇気が必要だった。もちろん、最近の望遠カメラは優秀だから、ある程度まで近付けばその姿もかなりの精度で撮影できる。
 しかし、それではダメなのだ。
 山の写真は、それでは駄目なのだ。アツヒロは自分もまず、学校の外周を走るところから始めた方が良いのかもしれない、と真剣に考え始めたところで、
「俺も山、登るんだ」
 唐突にシュンスケはそう、宣言した。
 それは間違いなく宣言だった。宣誓といってもいい。予定や希望を口にしたのではない。明らかな意志と祈りを込めて、彼は霊峰富士と対峙していた。
 長距離ランナーが平坦道ではなく、山道を走ることがあるのだろうか? アツヒロは僅かに、首を傾げる。高地トレーニングのことだろうか。いや、この明確な決意をみれば、それが確固たる『目標』であることが解る。
 ならば富士登山競走だろうか? ついつい
「やまって…」
 どこの? と訊ねようとしたのを遮って、


「箱根」


 彼はそれだけを答えた。


  ああ、そうか、あの山だ。
  そのために彼は、毎日まいにち走っているのだ。


 富士よりはだいぶ低いかもしれないが、それは確かにランナーが目指すに相応しい山頂だった。
 アツヒロは「そっか」と頷いてただ、シュンスケと同じように富士を眺めた。微かに白い葛を被った女王は、ただ泰然とそこに佇んでいる。






「あっ!」


 唐突に、シュンスケが叫んで、アツヒロは今度こそ跳び上がって驚いた。
「な、なになに!?」
「来た」
「え、何が?」
 またどこかの部が外周を始めたか、ロードから帰ってきたかと思って当たりを見渡すが、それらしい影は見当たらない。あれ、と思ったアツヒロがシュンスケを振り返ると、彼はスマフォをポケットにしまって、シューズの紐を結び直している。
 きっ、と紐を締めて立ち上がったシュンスケは、アツヒロに顔を向けた。走っている時と同じ、真剣な貌。
「じゃあ、これで… えーっと」
 そこで「はて?」という表情を見せたので、アツヒロは思わず吹き出す。そうだ、彼は自分の名前をきっと知らない。
「長峰、ながみねあつひろ。E組」
 写真部の、というのを付け足しそびれたが、まあいいだろう。
「そっか、長峰、写真ありがとな!」
「ああ… どういたしまして」
 て、を。アツヒロが言い終わる前に、彼は大地を蹴っていた。
 刮目すべき初速だった。
 鮮やかに、この丘をたぶん三歩で駆け下りた。だがいつもの、あの整然と駆け抜ける超特急とは違って、躍動感溢れる走りだった。弾むようにグラウンドを駆けていく。
 その先に、は、


  えっ…?








「ほたか!」




 名前を呼ばれた。
 今、この学校で彼を名前で呼ぶ人間は意外に少ない。相方でさえめったに呼ばないので、ほぼ三人だ。
 一人はサッカー部MFの小林拓真、まあこれは当たり前。ちなみに、拓真はよく穂高から教科書を借りていくのだが、毎回落書きを足していくのは止めて欲しいと思っている。
 それから、前正右翼手のマサハルが呼ぶのは中学時代の名残で、近畿大会等で幾度か顔を合わせたのだが、共通の知り合いが「こばやしまさき」だったので必然的に。ただ、他のチームメイトはコバと呼ぶので、今ではほとんどそちらだ。
 で、三人目が、
「さくら?」
 と振り返ると、視界が真っ白になる。おおっと、と穂高は大慌てで飛び込んできたものを受け止めた。呼ばれてから到着までの時間が予想よりだいぶ短い。速いな、と感心すると同時に、
 軽い、と反射で呟く。
 しかも薄い。容積では恐らく相方の半分くらいしかないのではないか? と夏に決勝弾を放った相方をベンチに迎え入れ、ハグしたときのことを思い出す。相方は穂高と身長はほぼ同じだが、体重が10kgほど重いのだ。
 いや、比較している場合ではない。
「なに?! なんで??」
「や、久々だからちょっと」
 えええええ… と眉尻を下げた穂高に、いきなり抱きついてきた長距離陣のエースは、ははっと笑った。
 シュンスケとは一年で同じクラスになって知り合ったが、今は校内マラソン大会で上位を争う間柄である。後ろの、というか周囲の野球部員はもちろん、方々からの視線を感じる。
 軽いけど熱いよ、お前、と言いながら手を離すと、おう、と白いトレーニングウェアのシュンスケはふわりと降りた。
「で、なんの用?」
 改めて訊ねると、シュンスケはやはり華やかに笑う。
「今日、もうロード行った?」
「ロード? いや、まだだけど」
 というか、アップ以外で走る予定はない。近頃とにかく雑事が多く、まともな練習ができなかった穂高としては、久々にきっちり投げ込む予定なのだが。
「よっし、じゃあ今から行こうぜ」
「はっ? 今から? てか、お前と?」
「そう」
「いやいや、ないない。佐倉とロード行ったら、それで今日の練習終わるだろ」
 いくら長距離が得意な穂高でも、本職と走ったら体力を使い切る。ひらひらと手を振って断ったにも拘わらず、向こうのエースは諦めなかった。
「いいじゃん、終了で。しばらく走ってないだろ」
「よくないって… てか、俺、野球部やねんな」
 恐ろしいことに、この友人はそこを理解していない気がして、思わず念をおす。至極当たり前、というか、超今更なことを口にしたのだが、もっと予想外な反応が返ってきた。
「もういいだろ、野球。日本一になったし。今度は陸上やろう」
「はい?!」
 それは野球を辞めろということか? 穂高は返す言葉を見失う。
「わお、大胆…」
 というのは後ろから聞こえた。相方の後を継いだ田村だろう。この後輩はとても味わい深いのだが、今はそこを味わう余裕はない。えーと、と穂高が口ごもっていると、彼は実に真摯な貌でこう言うのだ。
「一緒に箱根、走ろうぜ」


  箱根…!


 息が止まる。
 箱根駅伝。年明け、二日間にわたり行われる超長距離の駅伝大会。関西出身の穂高にするとあまり馴染みがなかったのだが、こちらに来てその注目度を思い知らされた。系列大学が常連なせいもあるが、その単語は特別な響きを持っている。学生が陸上で長距離をやるならやはり、そこが頂点なのだろう。
 自分たちが甲子園を目指すのと同じに。
 呑まれたように硬直する穂高の肩を、前正捕手のオカが掴んだ。
「感心してんじゃねえよ、コバ。さっさとキャッチボールはじめんぞ」
「…あ、ああ」
「ちょっと待てって」
 なおも食い下がるシュンスケに、止める声が割って入る。
「シュンスケ!」
 ちっ、と、今度はシュンスケが舌打ちした。彼がしぶしぶ振り返ると、向こうから陸上部の主将が走ってくるところだった。こちらも速い。トラックが専門の彼も、このまま系列の大学に進んで陸上を続けるはずだ。
 向こうのキャプテンも、自らのエースの腕をとって引き戻す。
「おまえなー、アップもしねえでなにやってんだ。堂々とサボんなよ」
「いや、ちょっとリクルートしてんだ」
 なんじゃそら、相手考えろ、と呆れるキャプテンにシュンスケも言い返す。
「だって、穂高と走るとタイム出るし!」
 それも事実だった。
 やはり練習と試合は違う。チームメイト以外と走ると、やはりタイムが上がるのだ。試合で打者と対峙したときに一番、球速が出るのと似ている。
「…それは解らないでもない」
 と囁いた穂高に、わかってんじゃねー! というオカの突っ込みが入ったところで、見かねた?新キャプテンの上條が割って入った。
「佐倉さん、うちの右腕をペースメーカーにしないでもらえますか」
「けちけちすんなよ。減らないだろ」
 悪びれず言い切るシュンスケに、上條は大仰なため息を吐いた。この二人、なんでも中学が一緒だとか。上條はキッパリと言い渡す。
「減ります。あととりあえず、いま邪魔です」
 さすが主将、とオカと田村がこっそり拍手している。
 うざい、と顔に書いてあるシュンスケが口を開く前に、穂高は妥協案を出した。
「今度、またこんど、一緒に走るから! 今日じゃなくて」
「ほんとか!? いつ?!」
 眼をきらきらと輝かせるランナーに、右腕は考えかんがえ答える。年が明けるとすぐ就職先に赴いて自主トレが始まるので、もうそれほど時間はない。ただ、これからはつかの間、落ち着くはずだった。
「えーと、あー、次のオフならいい、かな…」
「まじで!! やった!」
 おいおい、という雰囲気の野球部員を他所に、それはもう嬉しそうにシュンスケは破顔する。陸上部のキャプテンは、何故か上條に「悪いなあ」と謝っている。
「何日?!」
「うーん、カレンダー見ないと… あとでLINEする」
「おう、ゼッタイだかんな!」
 そうして騒動は決着を見、万歳三唱する勢いのシュンスケをキャプテンがやれやれと引っぱっていく。




 走るのは嫌いじゃない。
 穂高がすこし振り返ると、キャプテンに引きずられるように遠ざかるシュンスケが見えた。
 ただひたすらに風を切って走っていると、色々と余計なモノが落ちて、純粋な『じぶん』だけが残る気がする。野球が一等好きだが、たまにプレートを外したくなる事もある。
 『小林穂高』であっても。
 だから… 走るのは好きだった。






「やぁ、びっくりしたー」
 新エースは、ようやくアップを始めたバッテリーと遠ざかっていく陸上部の二人を眺めて、ひと言。
「あの小林穂高に、野球やめろって言う人間が居るんだなァ…」
 しみじみと呟く田村に、再度、嘆息しつつ上條が答えた。
「二人目はいないだろうな。よぉっく拝んどけ」
「だねえ」
 そうのんびりと受けた田村は、「でも」と首を傾げながら続けた。
「これ、揉めると思うなあ」
 ○○○さんが知ったら。
 と、後半は小声になった。その言に上條が、苦虫をかみつぶしたような、という表現の見本みたいな顔になる。
「黙っとけよ」
 という新キャプテンに、
「努力目標で」
 と、新エースはにこりと嗤って応えた。
 その様子を不安げに見ていた上條だが、表情を改めると、部員を呼び集める。珍客が乱入した分、チームのペースが乱れていた。自分たちには、余計なことにかかずらっている時間はないから、一秒だって無駄には出来ない。冬が勝負だ。
 残された機会はもう、あと一度しかない。




 ひゅっと風の吹きすぎて、空気がぴん、と音がしそうなほど張り詰める。
 冬が、来ようとしていた。

















































 こう、特別じゃない少年っていいですよね…(遠い目)
 学校の話なんかはもちろん、まったくの捏造ですが、野球だけじゃない高校生活の話を書いたの初めてじゃ?!と思ってどきどきしてます(笑)
 ものすごく青春モノの王道を書いた気がします、よ…!!


2016.4.2収録



Up

*Close*