◇◇◇◇ 今回も、実際の人物、団体とはぜったい、まったく、本当に無関係です ◇◇◇◇
いちばん
「終わったああああ!!」
大声で宣言し、柳澤圭一郎は左手から座卓の上にシャーペンを投げ捨てた。
正直、勉強は好きでない… いや、はっきり言って圭一郎の苦手分野だが、充分に聡くはあるので、それが必要なことも無益ではないことも分かってはいる。ので、渋々、本当にしぶしぶやっていた。
あああ、と圭一郎は更に大きく息を吐くと、ごろんと畳に仰向けになった。
寮の自習室はいくつかあるが、そのうちの畳の和室だ。八畳ほどの広さで、真ん中に大きな座卓がひとつ。普通に机と椅子の部屋もあるが、圭一郎はこの部屋がお気に入りだった。寝っ転がれるのがいい。
「おー、お疲れ。どれどれ…」
ずっと地図帳を熟読していた相棒が、放り出されたレポート用紙を覗き込む。そう、圭一郎からみると既に奇異の類だが、相棒は地図帳が好きなのだ。
転がったまま頭を動かしてみると、真剣な眼差しでふむふむとレポート用紙を捲る相棒の横顔は尖っている。
少し、マウンドに居るときの貌に近い。
圭一郎は、彼に聞こえないように小さく舌打ちした。
どこかの部屋から、笑いとも悲鳴ともつかない声が聞こえた。
追い込まれると妙にテンションが上がるのはナゼだろう、と思いながら、圭一郎はごろりと向きを変えた。
今年は例年になく夏が長引いたので、夏休みの宿題&欠席した授業を補完する課題は膨大な量になり、野球部員は日々悪戦苦闘している。この化学レポートチームも、始めた頃はサードコーチャーのタケちんと四番のリョウタも参加していたが、二人は早々に書き上げて、というか諦めて?残る古典の課題に追われて部屋を移った。また監督と知恵袋を兼ねて付き合ってくれていた部内一のインテリ、ブルペンキャッチャーのエイジは地理チームに駆り出されてしまった。
で、結局、残ったのは相棒だけである。
予想に反してさっさと課題を片付けていた相棒は、まったく必要がないのに付き合っている。
居るだけで役に立たないから、と笑った本人は進んで口にしないが、恐らくそれなりに成績は好いはずだ。特に理数系は苦労していないだろう。というか、頭が良いのだ。訓練的な勉強をほぼやらないでいるから程々なだけで、本気でやればかなりのデキるのではないだろうか? と圭一郎は分析している。
そもそも、相棒はあらゆる能力が高い。
身体能力は抜群で、体力測定は学年でトップ3には入るし(スポーツで名を売るこの学校でだ! バレー部のアタッカーと垂直跳びの記録を競っていたのは横目で見た)特に長距離走が得意だから、学内のマラソン大会では毎年、陸上部の長距離選手とラグビー部のエースと上位争いをしている。それはもちろんプレイでも活きて、バッティングも良いし、実は盗塁も上手い(当たり前だがほとんどやらないけれど)。
本職の野球でももちろんシニアにいた頃から有名で、全国大会でも入賞している。高校入学時に50を超える強豪校から声がかかったというのはおそらく本当だろう。特に大阪の某高校からは、監督直々に熱心に誘われたと聞く。
無論、圭一郎だとて、中学では全国大会優勝投手だ。東日本最激戦区で一、二を争う強豪校の門を叩いたが、その看板をひっさげて当然、高校でもエースだと本人も周囲も思っていた。
しかし、意気揚々と入部してきた圭一郎が、初めて彼を見た瞬間感じたのはたぶん、敗北感だった。
身長は圭一郎とそう変わらないが、当時の彼は細かった。今でこそ筋肉がちゃんとついたけれど、二年半前はひょろっと頼りなく… しかし素晴らしい球を投げる。
今のようなえぐい変化球があったわけではない。だが、ただの速球がカミソリみたいな鋭さでミットに吸い込まれ、圭一郎は反射的に「これは打てない」と思った。
何より、ほとんど古式ゆかしいとさえ云える、ワインドアップの投球フォームが圧倒的に美しかった。
その彼に対して、自分のアドバンテージは左利きだというコトだけだ、と圭一郎は厳しく考えている。
もちろん、投手にとっては負けないことが唯一無二の価値だ。自分たちの場合、体質や指向、得手不得手もほとんど正反対で、優劣をつけられるものでもない。球速などは水ものだし、三振数も付帯情報だとわきまえてはいたが、それでも投手として気になった。エースナンバこそ一度も譲らずに来たが、いつだって相棒の存在を意識せずにはいられなかった。
それは反骨心だったのか、怯えだったのか、嫉妬だったのか。
…憧れだったのか。
とかく才能に恵まれた相棒はまた、多くの天才がそうであるように怠けなかった。たゆまぬ努力を続け、圭一郎の怪我もあって下級生の頃から重要な試合を任されてきた。昨夏など県大会の決勝で21奪三振の新記録を打ち立ている。
27個のアウトを取る野球というゲームで、27分の21だ。
試合後、野手達が恐ろしく暇で余計に緊張した、と笑っていたのを圭一郎は覚えている。結果、一年後のドラフト候補として一躍、彼の名は全国区になった。
そして、そんな彼の経歴に、自分は傷をつけたことがある。
圭一郎は少し顔を上げた。
「なあ、地図帳ってなにが楽しいの?」
「ええっ?」
出し抜けに問えば、彼はレポート用紙に視線を落としたまま首を傾げた。
「ちょいちょい見てんじゃん。でも、基本ただの地図だろ。何度も見るくら楽しいもんなの?」
えらく傲慢な質問だ、と圭一郎でさえ思う。だがずっと知りたかったから、訊ねた。なんでもないような振りをして、どうでもいいような言い方を選んだ自分を少し、姑息だとも思った。
そんな圭一郎の意図とは真逆に、彼はけっこう真剣に悩んだ。
「そうだなあ…」
今度は逆側に首を傾け、彼は少し視線をさまよわせる。
「日本、ていうか、”ココ”が、地図帳と同じだと思ってカンドーするからかなあ」
「…は?」
「ほら、飛行機乗って窓から下、見るときとか思うだろ? 地図と同じだって」
この前、鹿児島行ったときとか、桜島が桜島の形してたじゃん。
と。なんだか間が抜けた台詞だが、彼はとても楽しそうで、圭一郎は突っ込むのを止めた。鹿児島は春の遠征先だ。
「新幹線でもさ、小田原と伊豆過ぎたら富士山で、浜名湖通って名古屋抜けて、関ヶ原過ぎたらもう琵琶湖で、そしたら京都だろ。それが地図見たら全部書いてあんじゃん。すげえなって」
思いも、しなかった答えに圭一郎は鼻白む。
「ああ、そう…」
「飛行機ッつったらあれ、ディズニーとか、上から見たらマジ、園内マップと同じだったろ?」
「み、見てない」
「飛んだらすぐ見えるだろ…?」
「寝てた…」
「…ああ、うん、そっか」
寝付きいいもんなあ、なんて相棒はあははと笑うと、タブレット貸して、と言った。
ちょうど一年前、彼に傷をつけた。
秋季関東大会準々決勝、ここで勝てばセンバツ当確の大一番で、先発を任されたのは相棒だった。相手も相応に実力のある好投手で、県大会を自責点1点台でくぐり抜けてきていた。
試合は大方の予想通り投手戦になった。
今年ほどではないが、新チームの始動が遅くなった分、うちのチームにも隙があった。とは圭一郎も思っている。しかしそれ以上に敵は強く、自分たちが弱かった。相手投手を打ち崩せず、エラーも絡んで失点、こちらは犠飛で追いつくので精一杯。1-1のまま延長戦に突入、相棒は続投し、迎えた13回裏、一死二塁。
決め球のスライダーを代打に痛打され、白球がレフトの頭上を越えたとき、彼はマウンドに蹲った。
その背に手をあて、大丈夫だ、お前のせいじゃないと、何度もなんども囁いたのは圭一郎だ。それでも彼の涙は止まらなかった。
涙で顔が上げられず、ベンチに帰ってこられなかった彼は、俺のせいだと繰り返した。
違う。
彼のせいではない。
見殺しにした自分たちのせいだ。
あの時、リリーフできていれば。
あの時、エラーさえなければ。
あの時、打てていれば。
どうしようもない悔恨は楔となって、このチームに残った。一点。たった一点を取り返すための…
夏だった。
今度こそ、彼に報いなければならない。
圭一郎は一層、練習に力を入れた。苦手な走り込みも積極的に取り組んだし、食生活にも徹底的に気を配った。
ニ失策だった遊撃手のトオルは試合後、本当に発熱して二日寝込んだ。それからの日々の努力には誰もが一目置いている。
そしてチームの全員が冬から振りこんだ結果が、夏の県大会4試合連続コールドゲームだ。決勝では長年のライバル校、東の横綱相手に二本塁打、8得点をもぎ取った。
一方、相棒は秋の大会後に腰を痛め、冬から春にはかけてはほとんど投げられなかった。春季大会から復帰、ぎりぎり夏に間に合ったが、球速も球威もベストの状態には及ばない。それでも制球を磨いて白星を重ね、圭一郎と交互に登板し、激戦の県大会を投げ抜いたのだ。
そうして、圭一郎のチームは聖地に辿り着いて、ようやく、
彼に報いる日が来た。
うだるほど暑い日だった。
聖地の中心は殊更に暑く、ただ立っているだけでも酷く消耗した。準々決勝第三試合、先発したのは相棒だった。同じ地域の強豪校、練習試合も組んだことのある相手との相性を見込んでのことだが、それが凶と出た。
決め球の変化球を狙い打たれ、修正が効かない。猛暑と大観衆の中でのトーナメント戦は想像を絶する過酷さで、自分たちを容赦なく削り取っていた。直球の球威もキレも見る影もない。
それでも野手陣はなんとか三回に先取点を挙げたが、次の回にあっさり追いつかれる。安打はぽつぽつ出るが、なかなか得点に結びつかない。足を使った攻撃も空回り。狂った歯車は元に戻らず、とうとうバッテリーエラーで逆転を許し、彼は降板した。
そして、まさに満を持して圭一郎はマウンドに立った。
恐らく40度は超えていただろうその場所で、彼から白球を受け取った。「たのむ」と、絞り出すような声に確か、「まかせろ」と応えたはずだ。劣勢の中での継投はこの夏初めてだったが、むしろ圭一郎はチャンスが来たと思った。
彼を、否、このチームを救い、ひいては頂点を獲るチャンスだと。
野球は流れのスポーツだ。優勝候補を追い込んでいる手応えがある相手には勢いがある。それは確かな力となってこちらを押してくる。それを跳ね返すのがエースの役割だった。
調子は万全とは言いがたかったが、圭一郎自身としては恐らく、この夏一番、納得のいく投球が出来たと思う。
流れをこちらに引き戻し、暑さと緊張で相手チームに出たミスに乗じて、8回裏にキャプテン、タカヒロの犠飛でようよう追いつき、彼の黒星を消す。そして迎えた9回裏、二死一、二塁。皆の祈りが通じたトオルのタイムリー。まさに起死回生。
後攻で本当によかった、と、圭一郎はそっと冷や汗を拭ったものだ。
しかしそんなことはおくびにも出さず、同点の場面から泣き出した相棒に、今度こそ「大丈夫だったろ」と笑い飛ばした。
あの時、とうとう、
このチームは彼に借りを返したのだ。
そう、それで終わっていれば、ただの美談だったのに。
「ここさ、やっぱ電荷あってない気ィすんだけど…」
眉根を寄せて、彼が呟いた。
まだ圭一郎のレポートチェックを続けていたようだ。本人はすっかり忘れていたので、もぞもぞと頭を起こすと、彼はタブレットの電卓アプリで検算をしていた。
鋭く引き締まった顔はマウンドに居るときに似て、切れ長の目は酷薄にさえ見えた。
…相棒は、投球時に人が変わる。
普段は温和でおしゃべり好きで、多少おっちょこちょいな少年だが、ひとたびマウンドに立つとまるで別人になる。ベンチから見守る圭一郎からして、彼が味方の失策に目を眇めるのが見えると、野手陣に本気で同情した。
獰猛で、
高慢で、
残酷な。
しかし強く、美しい、エース。
おそらく、そちらが彼の本質なのだ。圭一郎は勘付いている。
ただ、普段とはまったく違うその姿が、チームを強力に牽引した。彼のワインドアップに合わせて高揚するダイヤモンドの空気に、ベンチの圭一郎でさえ心が躍った。
だからこそ、
どうしても、負けたくなかった。
夏大後、圭一郎は国際大会の選抜メンバーに選ばれた。
リョウタとトオルも一緒だ。今年は日本開催で、つい先日、アホみたいな酷暑と青空の下で投げきったマウンドに再び戻ることになった。
もちろん、甲子園は同じ場所とは思えないほど違っていた。大学野球選抜との壮行試合や、初めての国際試合に、それはびっくりするような経験を積んだ。一週間前は対戦相手だった連中ともチームメイトになり、全く違う世界が開けたような、感覚。
特に同級生のピッチャーがたくさんいるという状況が新鮮だった。なにせ圭一郎のチームには同級の投手は相棒しかいなかったから。いや、いなかったというか、投手のレギュラに残らなかったのだ。
「そりゃそうじゃね? 柳澤と小林が居て、それでもピッチャーやりたいって言えないだろ。オレも無理かも」
と、名門校のエースでキャプテンにはカラリと笑われた。
そうだったのかもしれない、と圭一郎は少し考えてみる。
自分たちは「番外」だったのかもしれない。
ただ、それくらいイレギュラだったとしても、他に有り様がなかった、とも、思った。
二週間超に及ぶ国際大会は結局、準優勝に終わる。戦果としては本当にあと一歩、個人的にはあと二十歩ほどの内容だったが、得るものは多かった。そして何より、最後の夏が終わった(国体はおまけだ)という感慨に、ようやく圭一郎はほっと息を吐いて、
古巣が懐かしくて堪らなくなった。
新幹線の中でも駆け出したくなるくらいに。
こんなにもチームメイトと、彼と、離れていたのは初めてだった。
練習の厳しい体育会系の部活動に休暇はほとんどない。更に寮生であれば生活と部活は不可分だ。圭一郎たちの硬式野球部も、365日のうち完全な休みは年末年始とチーム入替のときの数日間ほど。それは覚悟の上というか当たり前だったが、つまり相棒のいない毎日が三日以上続くのは二年半ぶりなわけで、非日常が閉じたその瞬間、圭一郎は猛烈に…「足りない」と思ったのだ。
思わずスマフォを手に通話しようとしたところで、あと数時間じゃねえかと自分で突っ込んだ。そして気の遠くなるような数時間を経て学校に戻ると、荷物を置くのもそこそこに彼を探しに行った。道々ですれ違うチームメイトたちに軽く挨拶しながら、圭一郎はなんでもないような顔で投手陣の居場所を確認する。逸る心をなだめすかし、走らないでいるのにもけっこうな努力が必要だったことも、見ない振りをした。
なのに、トレーニングルームにいた彼の名を呼んだとき、思いもしなかったことが起こった。
「おかえり」
その声を聞いた時、圭一郎は衝撃に息が詰まった。振り返った彼の貌は柔らかく、すっきりとしたいつもの顔だったのだけれど、ただ… 言葉が違った。
相棒は西の出身だから本来、あちらの言葉を喋る。ただ圭一郎達のチームはあまり関西出身者が多くないし、監督の方針という訳ではないが、どこの出身であっても基本的には皆、標準語を使う。だから、彼の関西弁もめったに聞くことはないが、たまの帰省のあとやあちらに遠征するときに「戻る」。もちろんすぐに解けてしまうけれど。
だから今回もなんの不思議もないことで、僅かなゆらぎのはずだったのだが、
圭一郎はそれが、嫌でたまらなかった。
何故か?
そこで唐突に、圭一郎は気がついた。
三年の夏が終わったということは、もう「部活」が終わったということだ。
圭一郎他二人の選抜メンバー以外はまとまったオフになったから、相棒やマサハル、エイジなどは長めに帰省しただろうし、少しは夏休みらしい休みになったはずだ。寮生でも、通える距離に自宅があるメンバーは退寮する場合もある。
夏大終了から優勝報告会、選抜チームの結成式など分刻みで進む過密スケジュールの中、「じゃあ行ってくっから」と慌ただしく旅立ってきたから失念していたが、今回ばかりは違う。
そう、そこに至ってようやく、圭一郎は気付いたのだ。
次の試合はもう、ない。
ふたり、ブルペンに並んで肩をつくることも、
攻守交代の合間に彼に、水のカップを渡すことも、
マウンドで彼から白球を受け取ることも、
ハイタッチを交わして、グラウンドの中央に整列することも、
隣に並んで校歌を歌うことも、
試合後に二人、ダウンのキャッチボールをすることも、
もう、二度と無いのだ。
夏大のあと、インタヴュで彼は「今度は柳澤と対戦したい」と繰り返した。
留守中、彼からLINEが来た。「三年間ありがとう」と言ってきた。
そのときは不思議にも不安にも感じなかった。まあそうだろうな、とか、自分としてもやぶさかではない、ぐらいの気持で「そうだな」と笑って頷くくらいだったのだが、それは単に圭一郎が気付いていなかったからなのだ。
彼はそれを、知っていた。
じぶんはしらなかった。
気付かなかった。
その差は歴然として遠くて、とおくて。彼に何を言えばいいか、何をしたかったのかも思い出せず、ただ、彼の笑顔に曖昧に頷いて… 圭一郎はまるまる三日間、相棒と喋ることが出来なくなった。
さて、ここで想像してもらいたい。
二年半、部活でも寮でもほぼずっと一緒で、小さい諍いひとつしたことがなかったダブルエースが、ひと言も喋らず三日経った場合、どういうことになるか。
チームは、静かに恐慌をきたした。
もちろん本来、チームは代替わりしており、ほとんど引退した選手がどうなろうと蚊帳の外なはずなのだが、国体も残っていたし、そもそも二人の存在はあまりに大きすぎた。
最初に音を上げたのは当然、新エースを含む投手陣で(一番被害が大きい)、泣きつかれた現主将の上條が監督に勘付かれる前にと訴えたのか、タカヒロと女房役のオカちゃんが圭一郎に説教しに来た。「何があったのかわっかんねーけど、コバのせいじゃねーだろ、たぶん。さっさとフォローしとけよ」とはオカちゃんの談である。
まあ、今回に限っては十割、圭一郎のせいなのでそれも当然かもしれないが、本人としても不可抗力だったのだ。ただ、一番どうにかしたかったのは圭一郎自身だったし、どうしても話さなければならないこともあったから、三日目の夕食後にようやっと彼を誘い出した。(なお、周りが明らかにほっとしたのが分かって大変気まずかった。)
最初は、大会の話をぽつぽつと。
チームメイトになったかつての対戦相手のことや、監督やコーチのこと。試合では見えなかった各人のキャラクタは多彩で、初めて見る相手チームの様子やプレイは、お国柄が出て面白かったこととか。出来るだけ相棒の興味を惹くように話した。代表チームの監督と某国の監督とどちらの腹回りが大きいか、まで。彼はよく笑って、三日間が嘘のように間合いが近付いた、ところで。
圭一郎は自らの怪我のことを打ち明けた。左肘の炎症。夏大後から調子があがらず、壮行試合でも代表戦でも満足のいく投球が出来なかったのはそのせいだった。おまけとはいえ、最後の大会である国体が残っているが、しばらくはノースロー調整が必要になる。監督とも話し合った結果、国体では投げないことが決まった。
こちらは、出来るだけ何でもないように話した。
原因は明らかに夏のオーバーワークだ。完治するはずだが、今のこの時期に大事な部分を故障することが、如何にセンシティヴなのことか、彼には嫌というほど分かるだろう。それ以上に、無理を通すのが禁忌だということも。
それから、彼の性分からしてきっと思ったに違いないのだ。「おれのせいだ」と。
地方大会から甲子園決勝までの激戦が圭一郎の身を削ったのは確かだが、それは彼も同じだ。だがそれでも、彼が自らの不調を責めるだろうことは、容易に想像がついた。
じっと黙ったまま話を聞き終わった相棒は、圭一郎の左手を暫し眺めた。そうして、わかった、と低く応えると顔を上げ、圭一郎の目を見つめながら、
「大丈夫だ」
と、頷いた。
それからの彼の活躍は周知の通りだ。
エースの圭一郎を欠いたチームは、それでも国体を制して二冠を達成する。彼は4試合中3試合完投、初戦ではセンバツ王者を三安打完封などというチートな成績を残した。エースの故障というまったく予期せぬ事態に、うっかり打撃投手のダイスケが7回を1失点の快投だったりで(まあそれも本当にすごいことだったが)ほとんど投手は彼一人だったから、とにかく投げて投げて四日間で400球以上。彼にしてはありえないほど失点したが、夏大ベスト16が揃った大会で、とうとう優勝投手になった。
決勝の相手は四国の超名門校、0-3でリードされつつも8回、国際大会中にデッドボールで戦線離脱したリョウタが代打で放ったヒットから一気に逆転。その後、両チームやりたい放題で結果的には8-6、相棒も自ら決勝打を放って、ようやく本当に夏が終わった。
胴上げ投手のはずなのに、試合終了直後にマウンドの中心には居なかったり(ファーストゴロだから仕方ないが、それにしても間が悪い)、記念撮影では一番端っこにいたりして、彼は相変わらず彼だったけれど。
最後の夏は負けずに終わったのだけれど。
二冠を分け合った?
相方の分も奮闘した?
そうじゃない。
彼は評価軸をひとつしか持たない。「野球」にどれだけ近いか、それが世界のモノサシになる。自分と競る投手であればこそ、彼がなにより圭一郎を尊重することは解っていた。
圭一郎がエースであるかぎり、彼はそうするだろう。
だから、圭一郎だけが知っている。自分が余計な枷を掛けて、彼に無理をさせたのだ。それこそ今後のことなど一辺も顧みずに。
そうやって彼に傷をつけて、彼には自分に傷をつけたと思わせて。
順列の一位に自分を置くよう、彼に強要したのだ。
それくらい、どうしようもなく必要だった。
彼が、居なければ、
世界と野球と自分と昨日と明日の区別がつかなかった。
圭一郎は、そっと長く息を吐いた。
「やっぱ、そうだ」
そんな圭一郎の葛藤はまったく知らない相棒は、そう言って顎を引く。捲っていた参考書から顔を上げず、薄い唇が開いて、
けいいちろう、
と、呼ばれる前に。
彼に名前を呼ばれるのは、よくない。
「ほたか!」
逆に彼を呼ぶ。
出鼻をくじかれつつ、律儀に「うん?」とこちらを向いた彼に、何か言わなければと急いた挙げ句、出て来たのは、
「俺のこと好き?!」
「うん、好きだよ。なんで?」
間髪入れずとはまさにこのこと、くらいの反射速度だった。しかもそう言い放った相棒は、そのまま二の句を継ぐ。
「でな、ここ、OHが足りない」
…は?
そこでようやく、圭一郎はまず自分が口走ったことを自覚して、更に、
「え、ええっ、ちょっ、ちょっと待て」
がばり、と身を起こす。彼は不思議そうに圭一郎を見遣る。
「うん」
「今なんつった?!」
「OHが足りない」
「じゃなくて! その、」
まえ、と、言いかけて圭一郎は押し黙った。もう一回言われたら、どうしたらいいか、わからない。というか、そもそも自分が何故、そんなことを問うたのか…
何故といっても、それは、ただ、
ファーボールが三つ続いたってこんなに慌てたことはない、というくらい、圭一郎は焦った。座卓にへばりつき、眼前で手を振って続ける。
「や、違う、そういうんじゃなくて」
「うん」
「ちがうんだ! す…、いや、そうじゃなくて、ただ、ほら、あれだ、ちょ、長所!ウリっていうか! 俺のいいところって、どこかなって」
「…はあ」
ぼんやりと相槌を打つ相棒に、だから、と考える隙を与えずに(むしろ自分にだろう)圭一郎は叫ぶように再度問う。
「俺のどこがいいと思う!?」
あまりフォローになってないし、自分の明らかな動揺と謎な言い分を彼がどう捉えたのか、瞬きを繰り返す顔からは解らない。ただその質問に、そうだなあ、とまた少し首を傾げて曰く、
「ストレートだろうな」
「ああ、そう! そうだな! うん、それは知ってた!!」
そうだろうとも、と思わず切って捨てる。
圭一郎はこめかみに指を当てて、そうじゃなくて、と言葉を重ねる。
「違って、球種とかじゃなくて! できれば野球から離れて!」
野球しか評価軸がないといったのはどの口か、と圭一郎はそっと唇を噛む。しかしきっと、このままピッチング話を一周している場合ではない、気がした。聞きたかったのは、
他ねえ… と、また参考書に、というか机に視線を落としつつ、彼はそれでもたいして考えずに答える。
「真面目なところかなあ」
「は?」
「我慢したろ、ずいぶん。走るのキライなのに、ほんとよく走ったよなあ。あと食べものとか、唐揚げもシュークリームも大好きなのに節制してたし…」
それは、そうなのだが。圭一郎は頬杖をして視線をずらす。頬が熱い。それはプレイヤとしては当然の、と、口を挟むこともできずに。
「あとこのレポートだって、適当にやろうと思えば出来るだろ。誰かの写したっていいわけだし。でも、お前はちゃんと自分でやるからさ、出来はともかく…」
いや待て、出来は大事だ。というのも言いそびれた。
「お前は、そういうズルはしない」
そういうとこ、偉いよな、と。言って微笑む相棒の貌を、結局見ていられずにまた、ごろりと畳に突っ伏した。
「ああそうか、今度、シュークリーム奢ってやるよ。そろそろ一個くらいいいだろ」
とか、きっと優しく笑う彼は。
そうだった、自分はたぶん、単純に、
かれの「いちばん」でありたかったのだ。
「で、やる気が出ないのは解るんだけど」
ここ、ベンゼン環にくっつくの、COOHだけじゃだめだろ。二重結合だとして… と、相棒は補足をメモ用紙に書きながら解説する。
相棒がこう急かすのは珍しい。カリカリと淀みなく続く音に、なんとか圭一郎も顔を上げた。
「たぶんこう直せば大丈夫だから… このレポート、さっさと片付けた方が良いと思う」
と、言い終わると、彼はそっと音を立てず腰を上げた。身振りで圭一郎を押しとどめると、ゆっくりと出入り口の襖に近付いて、ほっ、と一気に開いた。
「あっ」
「おおう」
「ああっ?!」
廊下に蹲る人影から、短い声が上がった。思わず絶句する圭一郎に、相棒はぐるりと廊下を見回して言う。
「タカヒロ、エイジにトオル… ハルもか。ゴメン、待ってた? てか、トオル、息してる?」
「いや、特に待ってない。トオルはほっとけ」
と冷静に答えたのはタカヒロだ。セカンドの守備と同じで、常に沈着な我らがキャプテン。その足下に突っ伏しているのはトオルで、恐らく笑っているに違いない。
「何してんの?!!」
圭一郎としてはとにかく言わずには居られなかった。質問ではない、ほぼクレームだ。
やあ、とエイジがなんともいえない笑顔で言う。
「二人でだいじょうぶかなー、とか… 気になって」
「ああー、もう、ぜんぜんダイジョブじゃん、なんなの。心配して損した。てか、なんかのプレイ?」
フォローしようとするエイジの言を遮って、トオルは寝っ転がったまま嘆く。
「末永く爆発しろ、だな。俺の心労と時間を返せ」
「いや、トオルもタカヒロも、それはちょっと、かわいそうだよ…」
「ざけんな、お前も同じだろうが。笑ってんじゃねえ、エイジ」
「だから心配ないっつったろ」
「ええー、でもマサハルだって止めんかったろ?」
「だって面白そうだったし」
いつから、と口にしてから声にならなかったことに気付き、圭一郎はとうとう叫ぶ。
「いつから居た?!」
エイジがまた、うーん、と少し考える振りをしながら言うには、
「ストレートのあたり?」
「ぜんぶじゃねえか!」
「うん、まあ、ご馳走さま? みたいな?」
「もう腹いっぱい。俺もう寝る。疲れた、ていうか腹筋痛い」
「黙れ!」
とライトとショートを罵倒してから、はっと圭一郎は我に返る。それから急いで相棒のメモを頼りに、出来る限りの速度でレポートを直しにかかった。
一方、右腕と前主将は妙に落ち着いている。
「他のとこは終わったんかな?」
「英語と数学はもうちょっとかかるな。まあれは来週だから」
「そっか」
「でも地味に面倒なのは書道と美術じゃねえかな」
「かもなー。来週やっつけないとなあ」
「あれ、コバは書道だっけ」
クソッ、と口の中で毒づきつつ、圭一郎は自らの直球に劣らない素晴らしいスピードでレポートを完成させると、クリアファイルに入れて立ち上がる。
「マサハル!」
「んー?」
半笑いのイケメン右翼手に三歩半で近付くと、その腕をとる。
「化学室まで、付き合え」
「ええっ、俺!? てか今?」
綺麗な二重まぶたの目を見開くマサハルに、エイジも助け船を出す。
「や、明日の朝でもよくない?」
「締め切り、今日だから!」
圭一郎は頑固に言い切って、マサハルを引きずるように玄関に向かう。寮と学校は同じブロックなので走ればものの2、3分だが、その間にやることがあった。
それと、そうするうちになんとか、相棒の顔が見られる程度に落ち着かなければならなかった。
賑やかに去って行く左腕たちを他所に、小林穂高は前主将に向き直った。
「で、紅白戦のオーダ、決まった?」
「ああ、各ポジションに振り分けたから、あとは一人ずつ別れて…」
いそいそと、レポート用紙を取り出すタカヒロと、左腕と右翼手の背中を見送っていたエイジも促して自習室に入る。まだ廊下に転がっていたトオルはそのまま水平線移動で畳に寝そべった。
座卓の上に広げられたレポート用紙を覗き込むと、同級生達の名前がポジション別に並んでいる。足りない部分には少しだけ、後輩達の名前もある。
「最後に、俺たちが入ればいいわけだ。あ、ハルは俺とやりたいって言ってたから、居ない方か…」
ふんふんと頷く穂高に、タカヒロは少し言い淀む。
「あー、それがな、ちょっと頼みが…」
「ほらポジションもちょっとずれたりしてるし、そこを考えるとさ」
エイジも慌てて言い募るのに、穂高は「うん?」と首を傾げた。
「もちろん9回全部じゃなくていいから!」
「そうそう、二巡ぐらいでもいいんだけど」
特にタカヒロにしては珍しい歯切れの悪さに、そこで漸く穂高も勘付く。
「ああ、ダブルヘッタ」
「そそそ、ミニゲームで良いから!」
五回くらいで二試合、どうかな? とちょっと必死に言う二人に、思わず穂高は白い歯を見せた。野手の身になればそれはまあ、そうだろう。自分と相方、両方と対戦してみたいというのは打者の本能だ。
「いいよ、やろうか。たぶん、嫌とは言わないだろうし」
誰が、とは言わなくても通じる。ほっとするタカヒロとエイジに首肯しながら、再度メンバーを一瞥した。
「でもウチのメンバー全員とやるのか、うわー、厳しい…」
投手に注目が集まりがちだったが、地方大会では4試合連続コールドゲーム、甲子園では一試合最多二塁打タイ記録、大会最多三塁打にもあと一本、夏大と国体の二冠を達成した打線だ。敵に回せばこれ以上恐ろしいチームはない。ベンチ内外問わず、実力は折り紙付きだ。それを一通り相手にするとなると…
ぞわりとする感触に、しかし思わず穂高は微笑んでいた。
そんな右腕を見ながら、エイジはほっと嘆息する。
「楽しそうだなア…」
「だな。この顔、撮っとこう」
おもむろにスマフォを取り出すタカヒロに、穂高はえええ、と眉を下げる。
「なんで?!」
「お前は知らねえだろうけどな、投げてるときと同じ顔してんぞ」
「だねえ。自分じゃ見えないだろうけど、トオルなんか、投げてるときのコバはゼッタイSだって、」
あれ、そういやトオルは? と皆で寝っ転がるショートに視線をやると、既に寝息を立てていた。
「あ、ホントに寝てる」
「実際、心配してたんだよ、トオル。ほら、この前、ちょっとお前らビミョーだったからさ」
苦笑いするエイジに、穂高はまた少し首を傾けた。
そういえば相方が国際大会から帰って来たあと、三日ほどおかしくなった。ふさぎ込んで、というよりは明らかに挙動不審だったので、何かと思っていたら例の怪我だ。それで穂高としてはすっかり記憶の彼方だったのだが、確かにかつてないほどチームメイトには心配されていた気もする。
「あれは… 柳澤も怪我とかあったし…」
「いやー、あれは90%、ヤナギのせいだろ。エース様はワガママだかんな」
「まあね。コバが悪いとは思わないけど。ってか、むしろその残りの10%がなにか気になる」
「それはコバが鈍いせい」
「ああ、確かに!」
「え、ええっ?」
「お前が甘やかすからだろ」
「ヤナギもコバには”言わなくてもわかれ”ぐらいに思ってるからね」
「…そうかなあ」
相方を、甘やかしているつもりは、ないのだが。
それから紅白戦のチーム分けと打順について真剣に話し始めたタカヒロとエイジを眺めながら、穂高はぽりぽりと頭を掻く。
相方はまごう事なきカリスマだった。
絶大な信頼のもとに彼がマウンドに上がれば、ダイヤモンドの空気はひと息で収束する。しん、と澄みわたるグラウンドの空気に、ベンチにいる穂高でさえ胸が震えた。
しかし本人が完璧主義者でストイックすぎるきらいがあり、正当な自己評価を下せないのが欠点だろう、と穂高は思う。
もう少し、認められていいはずなのだ。誰より自分自身に。
そして、その彼が語ったことで唯一、気になることがあった。
いつも試合は楽しくなかった、と、相方は言った。
ただ決勝は少し、楽しかったと。
二年半でそれだけ?
一緒にやってた二年半でそれだけ、だったとしたら。
「まあいいや、続きは明日、ポジション分けのときな」
打順についての見解が割れていたらしい二人は、実に真剣な面持ちで立ち上がった。
「うん、じゃあオカにはゆっておく」
「頼んだ」
そこで、そういえば、とようやっとエイジが思い出した。
「あの二人、遅いね。すぐ戻って来ると思ってたけど」
「どっかで道草とかしてんじゃね? コンビニとか」
「かも。じゃ、先戻ってるからって伝えて」
エイジと相方は同室だ。わかった、と答えながら、穂高ものんびりと自習室を片付けにかかり、こちらもようやく気付く。
「あれ、トオルはどうすんの?」
「自分で何とかするだろ。ほっとけ」
「うん、ヤナギ達が戻っても起きなかったら放置でいいよ」
けっこう雑な扱いに、ちょっとトオルが気の毒になりつつ、穂高は出て行く二人に手を振った。
ぴし、と襖が閉まると、急速に夜が静寂で満ちるのが解った。
ふと思いついて、穂高は手近にあった誰かのパーカーをトオルに掛けてやる。
静かになった部屋に、虫の音が届いていたことに穂高は気付いた。リリ、リリリ、とガラスのような音は心地良く響く。トオルの寝息も平和の象徴のようだった。
もう、最後の夏は終わったから。
穂高が相方を特別扱いをしているのは、事実だった。
「…でも、柳澤圭一郎だから」
まったく答えにならない呟きは、きっと誰にも聞こえない。
彼しかいなかったのだ。
これまで出会ったなかで、同じ風景が見える場所に立てる人間は、彼しか居なかったのだ。
かれだけだったのだ。
「紅白戦、楽しみだな…」
まず誰よりも、自分が楽しみにしていることは間違いなく、それでも、彼も楽しみにしてくれれば良いのに、と願う。
彼が、楽しんで投げられたなら。
あと一回くらい、彼が楽しいと思える試合があれば。
いい試合になればいいな、と。
穂高は切実に、祈った。
本当に、まったく、ぜったい、ちっとも、実際の人物、団体とは無関係です…!(毎度)
しかし野球部分はけっこう事実ママだったりします… いやほんと… チートなチームだったよなあ。ねえ… ありがとう、ほんと。
2016.1.17収録