“錯誤ピーピング・トム”












  錯誤ピーピング・トム 








「ストーカー?」
「いえ、具体的には盗聴です。自宅で盗聴器を見つけはったそうで」


 交番勤務の巡査、たしか前田と云ったか、の返答に、鷹司は思わす「あぁ?」と聞き返した。
「自分で見つけた、いうんか」
「はい、そうです」
 いやだからその情報量ゼロの返答はやめろ、と思いながら、鷹司は聴取室に向かおうとして、
「あっ、係長、違います、応接室のほうで」
「ああ……相談扱いか」
 ただの『相談』であればそうだろう。
 しかしストーカー案件かどうかに関わらず、はっきりと盗聴であるなら、先ず疑われるのは住居不法侵入である。ストーカー規制法に抵触するかどうかは状況によるが、少なくとも相談では収まらず事件になる。ただし、身内が仕掛けたものでなければ、だ。
 技術革新と情報化が進み、世の中に『市販の盗聴器』があふれかえった結果、配偶者等、パートナーの不貞の証拠を集めるために自宅に盗聴器を仕掛ける、ということも往々にしてある。
 それを思い出したのであろう前田巡査も、ああ、と首を傾げながら言う。
「でもひがい……相談者は独身で、現在はひとり暮らしやいうことですが」
「仕掛けたんが恋人、婚約者、両親、いう場合もあるやろ」
 世知辛い世の中だ。その実、圧倒的に多いのは身内のはん……所業である(不法侵入する度胸がある、もしくは無謀な人間は案外少ないのだ、ありがたいことに)。
「女のひとり暮らしなら」
 と鷹司が言いさしたところで、
「あ、いえ、男性です、相談者のかた」
「はあ?」
 それは珍しい。
 勿論、男性の被害者は皆無ではないが、盗聴といえば圧倒的に被害者には女性が多い。思い込みは自分の失点だが、そんな重要事項を最初に言わない前田巡査にも少し苛立った。
「まあええ、とりあえず本人に、」
 と言いながら、鷹司は応接室のドアを開けた。


 そして直ぐ閉めた。
「……これは、ストーカー案件一択やろ」
 他にあるわけがない。
 相談者の顔を一瞥するなり、鷹司は即断した。壁に寄り掛かり軋む眉間に指をあて、なんとか声を絞り出す。
「あんなん、近所の駅で一回すれ違っても、後をつけるヤツかて出るわ」
「イケメンさんですよねえ」
 イケメンどころか、そうそう見ない程度の美形だ。これならストーキングする女や、男もいたところでなんの不思議もない。ストーカー規制法はたしか、とマメにある署内の研修でさらった情報を呼び起こしながら、鷹司は深呼吸を一つ。改めてドアを開けた。
「失礼しました、生活安全課の鷹司です」
 会釈してIDカードをかざす。
「お世話になります」
 と軽く会釈する相談者は、山科と名乗った。天下のK大で教員をしているという。(正確に云うと違うらしいが、鷹司にはあまり違いはよく解らない。非正規雇用だということは解った。)この顔でK大のセンセイね……と、舌打ちでもしたい気分だったが、それはただの八つ当たりだった。
 気を取り直して、鷹司はひとまず書類に記入されている内容と実際の状況を確認する。警察は何度も同じことを聴く、と言われるが、事実誤認が一番大きなミスに繋がるので手は抜かない。
「改めて確認ですが、こちらは一軒家ですよね。おひとりで?」
「はい、友人が相続した空き家を借りています。管理人を兼ねて」
 ああ、と鷹司と隣の前田巡査まで頷く。30そこそこのひとり暮らしの男性(しかも研究者)に一軒家は違和感があるが、なるほどという事情ではある。しかしそうなると、
「ということは、SECO……セキュリティなどは特に掛けていない?」
「そうですね、普段は私だけですし、そもそも大学に居る時間が大半なので」
 聞けば、朝8時から夜8時、どころか帰宅が夜半になることも多いという。当然、防犯カメラなどもあるわけがなく、これはまずこの青年の周辺から洗い出すことになるかと鷹司は内心、溜息を吐いた。正確な標準語をすらすら話す美貌の物理学者に、プライベートの穴は幾つあるか。
「その、盗聴器にはいつ気付かれました?」
「たしか火曜日の夜ですね。今シーズンの出番が終わったので、ラジオを片付けようとしたときに」
「……今日は土曜日ですが? もっと早く通報しようとは思わなかったんですか?」
「ええ、平日は研究と講義がありますので。通報した場合、このように」
 事情聴取になるでしょうから、と平然と応える山科に、鷹司はちょっと絶句した。盗聴されていることが解っていながら、数日間放置できる神経が分からない。
 盗聴より仕事が大事ってか。
 なんとも砂を噛むような気持ちを味わいつつ、鷹司は努めて気持ちを切り替えた。盗聴器にはいくつか種類があるが、仕組みと値段と手に入れやすさは正確に比例する。先ほど山科がラジオと言っていたことからも、彼が見つけたのも最も簡易的なFMを使った盗聴器であろうことが分かる。たしかにラジオを聞いているとき、妙な雑音を拾って盗聴に気付くことはままある。
「なるほど、そこでハウリング、いや、リアルに聞こえる音と同じ音が流れるチャンネルがあったと?」
「ええ、ちょうど近所を救急車が通りましたので、その音が」
 間違いない。
「それで、その盗聴器はいまお持ちですか?」
 と鷹司は提出を促すように手を出す。まずメーカと指紋だ、と脳内でその後の算段を立てていると、山科は衝撃的な事実を告げた。
「あ、いえ、まだそのままです」
「は? え、ええっ、まだ付けっぱなしいうんですか?」
「あのタイプは外されたら気が付くでしょう。そうなると捜査がやりづらくなるかと思いましたので」
 それは……そうなのだが。盗聴されているのが分かっていて、尚かつそのままとは……鷹司は呆れるを通り越してすこし、薄ら寒くなった。この青年は何者だ?
 もしくは、何か心当たりがあるのか。
 そんな疑問が浮かんだが、鷹司は場を変えようと咳払いを一つ。予断は禁物だ。
「ご協力感謝します。それでは、これから現場、失礼、お宅にお邪魔しても?」
「ええ、ぜひ」
 涼しい顔で頷く山科に、また拍子抜けする。冷静で論理的で、しかし危機感は薄く他人事。妙な男だ。
「仕掛けられたのはいつ頃か、おわかりですか?」
「直近であれば先日、出張で一週間ほど留守にしましたので、その間ではないかと」
「ほう」
 とはいえ、施錠していたのでは? と当然の疑問の回答は直ぐあった。
「帰宅したら、庭に面した掃き出し窓が開いてました。まだ気候も安定している時期ですし、雨戸も面倒で。ただその時は、閉め忘れただけと思っていたのですが」
 不用心な、と当然思うが、男性のひとり暮らしだとそれほど気にはしないのかもしれない。それにしても、と眉根を寄せる鷹司に、山科はそれ以上前からだった場合はわからないが、と断りながら続ける。
「そんなに前から仕掛けたところで意味がありませんので。場所はリビングとキッチンと玄関ですから、それほど時間はかからないと思います」
「は?」
「私が見つけたのは全部で三つです。他にも有るかも知れませんが」
「みっつも!!」
 と、隣から前田巡査のほとんど叫び声が聞こえたが、まったく同感で注意する気にもならなかった。
「よく……発見されましたね」
「はあ。最初に気付いたときにざっと調べましたが、念のため探知機を作って確認しました」
「はいっ!?」
 じぶんで、つくった…? と、鷹司と前田の顔が同じコトを物語っていたのだろう、山科は真面目な顔で頷いた。
「ええ。それほど高性能なものではありませんが、工学部の連中に聞いて作りました。FM波を使うタイプ以外のものがある可能性も否定できないので、大家に……累が及ぶといけませんので」
 そういえばこの青年は物理学者だった、ということも思い出す。なんというか、鷹司としては彼の外見と語られる状況のギャップにまだ慣れない、が、
「ん? 累が及ぶ?」
 思わず気になった単語をオウム返しすると、山科は強く頷いた。
「ええ、家主が本来の被害者ですから」
「……は? あ、いや、それはつまり、盗聴する相手はそちらの大家さんいうことですか?」
「そう思います。そちらの前田さんにもお伝えしましたが、恐らく目的は私ではないです」
 鷹司がちらっと横を向くと、前田巡査が首を竦めている。そんな重要な事をなぜ最初に言わない、と腹が立ったが、この青年を被害者と決めつけたのは自分だったことも思い出す。またも間の悪さというか、噛み合わないもどかしさに足を取られ、舌打ちしたくなる。
 これではダメだ、と鷹司は密かに褌を締め直す(締めてはいないが)。このままでは二の轍を踏む。ようやく、鷹司は真っ直ぐ彼の目を見て訊ねた。
「言い切れるだけの、心当たりがおありだということでしょうか?」
「ええ、もちろん。大家は有名人ですので」
 事もなげにそう言った山科は、そこでやっと微笑んだ。




「なるほど、プロ野球選手、ね」
「このあいだのCS第二ステージでも投げてたでしょう、小林穂高」
 あの時は□□□の四番をワンポイントリリーフで三振に切って取った、などと楽しそうに語る前田巡査だが、要するに、物理学者とその大家が所轄の担当地域ではそこそこ知られているという話だった。
 シーズン終了でラジオを仕舞う、なるほど、と鷹司にもようやく合点がいった。
「俺はフットボール派でな」
 サッカーとラグビーなら見るが、と言う鷹司に「それは残念です……」と前田が眉尻を下げている。
 この所轄には古都にありがちな寺院以外に、某野球強豪校のグラウンドがあり、現場である山科青年の住まう小林家はその近所にあった。それなりの敷地に豪勢ではないが端正な家屋があるが、たしかに監視カメラ等は見受けられない。周囲もごく平凡な住宅街で人通りも少ない。これは目撃証言も期待薄だな、と鷹司がまた溜息を吐いたところで、目的地に到着した。
 なお、小林家には正しく盗聴器が三つ仕掛けてあった。外して直ぐ検証する手もあるが、ここまで山科が温存してくれていたことを利用し、そのまま捜査を開始することにした。捜査を恐れた容疑者に雲隠れされてはまず見つからない。素早く外堀を埋めてあぶり出す、と鷹司は改めて拳を握り締めた。




 そこで次に訪れたのは、小林家近くにある、由緒ありげ、というか明らかに地主のお宅だった。
「ま、そうよね、まず私が容疑者になるわねえ」
「いや、よ、そういうわけでは」
 聴取の相手は、小林家の合い鍵を渡しているという近所の住人、齋藤真里氏である。聞けば、小林家の本来の相続人である小林投手の母親の友人で、かつ某大寺院の檀家総代に嫁いできた主婦だ。
 彼女は気さくを通り越して突き抜けた人物で、「さあさあこっちに」と案内されたのは『本物のお客さん用』という客間ではなく居間の縁側で、そのまま聴取となった。
「でも、マリさんなら盗聴器仕掛けるより、うちにレコーダを置いた方が確実でしょう」
 冷静に答えるのはもちろん山科青年で、そのあけすけさにまたもや鷹司が気を揉んでいると、
「ああー、そうかあ、その手があった」
「……止めて下さいね?」
「まあ、たかちゃんと先生の話を盗聴してまでいうのも……ほら、授業みたいな話のこと多いし、どうせなら隠しカメラ? の方がいいことない? たかちゃんの長い足も先生の綺麗な顔も見られるし」
「いや、講義の練習は別にやってますよ。ああ、違うな、仕掛けるのが格段に大変なんですよ、カメラは」
 と、先生と呼ばれているらしい山科が適当に応えている。多分に論点はそこではない。
 更に聞けば、オンシーズンはほぼ不在な小林投手やその家族、住んでは居るが学生に毛が生えたような山科の代わりに、家の掃除やメンテの手配などを担っているのが”マリさん”なのだという。元はといえば、小林家のオーナーで教師だった小林投手の祖母の教え子ということだ。
「では、山科さんが出張や長期の留守の間は、齋藤さんが偶に訪問していらっしゃる?」
「長閑な街ではありますが、界隈では大家も知られてはいますし、ご両親のご要望もあって。私も、他大学の集中講義や海外出張では月単位で不在にする場合もありますので」
 山科の答えにそうそうと頷くまるっこい女性は、旧家を切り盛りしているだけあって頭と口の回転が早い。
「でも先々週の出張のときは、一度も小林先生のお宅に行けてへんの。ほら、この時期はお墓参りの人も多いし、紅葉の観光客もようけ来はるから。ちゃんと行けとったら窓も閉められたんよ。ごめんなさいねえ」
「いや、もし侵入者と鉢合わせしてたらシャレにならないです、良かったですよ、本当に」
 と真剣に心配する山科に、それなりに普通の感覚もあったのかと少しほっとする。
 しかし、話を聞けば聞くほど、山科青年及び小林投手と親しく、ほとんど母親のように世話を焼いているマリさんであるが、やはり捜査に絶対はない。
「それで、最後に齋藤さんが小林家を訪問されたのはいつですか」
「先生が出張に行かはる前の週? 冬の前に植木屋さんに来てもらわな、いうて、その話やった?」 
「そうですね、ひと月近く前、○日になりますね。たしか栗をいただいて、翌日、研究室に持って行ったので間違いないです」
 さすが、真新しいスマホでスケジュール管理をしているらしい山科が画面をタップしている。「せやった、栗ご飯は冷凍できるかいう話したねえ」と言うマリさんに、頷き返す鷹司だったが、内心落胆していた。そのタイムラグでは、たとえば近所のコンビニ等の防犯カメラも期待は持てない。だいたい数週間で上書きされるからだ。植木屋に裏を取るとして、この婦人がその後、小林家を訪れていないという証拠は別に必要である。
「でもその盗聴器? ほんまにたかちゃんが目的なん?」
「は?」
 いやね、と湯飲みを各人の前に置きながら、マリさんは小首を傾げる。
「先生が目当て、いうことはないの?」
 え? と眉根を寄せる山科の一方、「やっぱりそう思いますよね?!」と鷹司と前田巡査の声が揃ったところで、山科は整った顔を更に顰めた。
「だって、たかちゃん……特にそういう、なんていうかスキャンダル?みたいな、聞かないやないの。週刊誌とかに記事かて出たことないし」
 もうちょいそういうのあってもいいと思うにゃけど、という不謹慎なマリさんの談に、しぶしぶという態で山科が答える。
「……いつかあったじゃないですか、▲▲▲の女子アナだかレポータだかと」
「あれ、祐輔君のファンやった子でしょう。なんかこう、私の方ががっかりしたわ」
 それは言いがかりでは、と呟く前田巡査は無視して、マリさんの疑念の根拠を聞き出そうとした鷹司だったが、なかなか二人の会話には口を挟む隙がない。
「そういうキャラやないし、スクープいう感じもないし、たかちゃんより先生のストーカーの方がありそうやない?」
「でも逆に激レアです。マニアは何処にでも居るので、あの家を盗聴するなら穂高目当ての方がメリットが多いです」
 あまりにあけすけなマリさんの言い様に、全然フォローになってない山科のやり取りが既にコントだった。
「私が目的なら研究室に仕掛けるか、車にGPSを仕掛けた方が得策でしょうね。それより、スマホにソレ用のアプリを仕込んだ方が効率的かも知れません」
「えっ、そんなんあるの?」
「あるんですよ」
 最近、急速に普及しつつあるスマートフォンの弱点は情報セキュリティの脆弱性である。確かに山科の言うとおり、他人のスマホに勝手に盗聴・追跡アプリを入れる、という事件もまま起きていた。
「ほんなら、たかちゃんはそっちの方が危ないことない? 隙が多い子やから」
「ああ、あいつまだケータイなんで大丈夫じゃないですかね」
「え、まだ?」
 金持ちだろうに……と、声に出さずに付け足した鷹司だが、スポーツ選手には新しい物好きが多いというのもまた思い込みであろう。むしろスポーツエリートとして世間知らずのまま成長し、IT機器が苦手な輩も多いのかもしれない。
 とにかく、ターゲットが絞れないことには捜査もままならない。鷹司は出来るかぎり論理的な話し方を心がけ、山科に尋ねる。インテリは本当に厄介で、油断すると論破されてしまう。
「山科さんの生活の基盤が大学なのは分かりましたが、やはり盗聴の目的はプレイバシーですので、ご自宅が標的になったと考えるべきです」
「ですが、あの家にこのタイミングで仕掛けるなら、やはり大家が目的と考えた方が妥当でしょう。私の部屋は離れですし」
 なお、山科は小林家の母屋ではなく蔵を改装した離れで寝起きしているというが、本当に寝起きしかしていないらしい。
「でも普段はあのお宅に小林投手はいらっしゃらないんですよね? なら、タイミングはたまたま山科さんの出張があったからであって、ペナントレースとは無関係な可能性もあります」
 む、と山科が考える風情になったのを契機に、更に外堀を埋めるべく、鷹司は質問を重ねた。
「とにかく、今回の盗聴器の件は小林投手もご存じなんですよね?」
 ……
 ぽかりと空いた間に、さすがに三人は声を上げる。
「えっ、まさか、」
「うそやん、まだ言うてないの?!」
「それはマズいんやないですか?」
 まさか当事者に知らせていないとは。そのあたりの矛盾に鷹司も少し引っ掛かったが、山科は決まり悪そうに「まだはっきりしたことは何もないですし」とかなんとか言っている。
「秋季キャンプとはいえ大事な時期ですので、動揺させても。いずれ知るわけで……」
「いやいや、いやいやそれは」
「そんなん後でわかったら、たかちゃんすっごく怒るで? ありえへんわ、それ」
「そうですよ! お友だちにそんなこと秘密にされたら、穂高さん、泣くかもしれへん」
「店子としても信用を失いますよ、いくらなんでも」
 非難囂々、というより集中砲火を受け、山科の端麗な顔が険しくなっている。何を隠したがっているのか知らないが、そもそも重要な危険性を見落としているのだ、この物理学者は。鷹司は溜息を一つついてから、それを指摘した。
「ともかく、小林投手のご自宅、シーズン中はそちらなんですよね? にも、盗聴器が仕掛けられている可能性もあります」
 そこで全員が「あ!」という顔になる。
「あ、それは……ただ、それなりにセキュリティのしっかりしたマンションですが」
「たかちゃんが球場の近くやゆうてた?」
「ええ。新しい分譲マンションで、もちろんオートロックですし」
「民間の集合住宅のオートロックはそれほど信用性が高うないです。いくらでも抜け道はありますから。場所は? 大阪の……」
 現在は本人が他方に滞在中とはいえ、よく考えればそもそも最優先事項だった。鷹司は必要事項をメモし、前田巡査に所轄に連絡するように指示する。
 場合によっては大阪府警に連絡を取り、手配をせねばならない。その前に京都府警にも話を通す必要がある。一行は一旦、署に戻ることを決め、齋藤家を辞去したのだった。




 暑に戻り、一同で諸々の算段をはじめる。
 更には、山科の周囲にも聴取の必要があるが、もう夕刻だった。状況からしても捜査を急ぐ必要があるが、日曜日の大学にどれだけ人が居るのか、と危ぶんでいたところ、当の山科曰く、
「研究室のメンバなら、明日でも問題ないと思いますよ。ほとんど住んでいるようなものなので。私も普段、毎日行きます」
 研究は365日24時間営業なのだという。最近話題のワーク・ライフ・バランスとは無縁らしい。
 であれば、と翌日に山科の関係者に事情聴取を行うとして、時間や場所を調整してようやく今日の見切りを付けた。しかし、このまま山科は盗聴器が仕掛けられたままの家に戻るのか、と思うと、鷹司としてもなんとも言えない気持ちになる。せめて自宅まで送ります、いやそれは、と問答していると、足音が近付いてきた。しかもカツカツと高く忙しない音で、
「あれ、せんぱい…? 山科さんですよね?」
 明瞭な声には聞き覚えがあり、鷹司は思わず舌打ちしたい気分になる。よくない癖だ。しかし、それ以上にその声が山科を呼んだ衝撃で、思わず「はっ?」と声が出ていた。そして、それは物理学者にとっても同じだったようだ。二人は同時に振り返る。
「あやの…?」
「お久しぶりです! てか、こんなところで何してるんですか、えっ、まさかとうとう捕まったんですか?」
 いきなり物騒なことを言ったのは、年若い(比較的という意味だ)ダークスーツの美女だ。警察官とは違う、しかし堂々とした明度の高い存在感は署内では異彩を放つ。彼女のことは鷹司も知っている、数少ない女性検事として府警でも有名な綾野検事だった。
 知り合いだったのか? と、と二人を見比べる鷹司と前田を他所に、二人はそのまま会話を続ける。
「なんでいきなり容疑者側なんだよ、なに想定だ」
「あー、そうですねえ、宇宙開発について調べてたらアメリカ軍のサーバに侵入しちゃったとか。もしくは、結婚詐欺師として訴えられりするかも、とは思ってました」
「結婚詐欺って。なんでそんなピンポイントなんだ?」
「やー、山科さんなら、一方的に勘違いして騒ぐ輩がいてもおかしくないかなって」
 脇が甘いんですよね、わりと、とショートボブの頭を振ってカラカラと笑う彼女の一方で、山科は綺麗な顔を顰めていた。見てる分には眩しいくらいの美男美女なのに、なぜか雰囲気は雑駁というか殺伐というか……
「あの、お二人は」
「ああっ、鷹司さん、こちらに異動されたんですね!」
 綾野の朗らかな挨拶にまた舌打ちしそうになって、寸前で踏み止まる。鷹司はひとつ息を吸い、なけなしの矜持を持ってにっこり笑ってやった。
「ええ、ご挨拶もせず失礼しました。で、お話中に申し訳ないですが、綾野検事は山科さんのお知り合いなんですか?」
 すると彼女は当然のように微笑み返した。まったく嫌味なく、自然に。
「あ、はい、こちらこそ失礼しました。えっとですね、山科さんは大学の部活の先輩です」
「だいがく?」
「ぶかつ?」
「ええ、バドミントン部で……彼女は2学年下で、私と親しい同期と同じゼミだったので」
 山科が更に補足して、前田は「へえ、バドミントン」などと感心している。
 たしか綾野検事はT大卒だ。となれば、山科も元はT大生なのであろう。またずいぶんな偶然ではあるが、世間は狭いという話か。腹立たしい、と思うのはやはりただの八つ当たりだった。
「それで、山科先輩はなぜ警察なんかに?」
 改めて、その当然と云えば当然の質問に山科を伺えば、目顔で「どうぞ」と言っている。仕方なく鷹司が語った概要を聞き終わった彼女は、
「ほんとに脇が甘いですねえ、山科先輩」
 と言い放ち、更には思いもかけない提案をした。
「明日の聴取、私もお付き合いしましょうか」
「えっ、なんでだよ?」
「だってそれ、まだ秘匿してるんでしょう? 鷹司さんたちみたいないかにも事案な人たちが行くより、大学時代の後輩ってことで、私が研究室に伺ったほうがカモフラージュになるじゃないですか」
 的確な提案にぐうの音も出ない。前田などは「さすが検事」などと素直に感心しているが、鷹司の眉間のシワはマリアナ海溝並みの深さになっていた。山科も呆れたように、いや実際に呆れた声を出す。
「激務の検事としては物好きにも程がないか?」
「物好き……否定はしませんが、こっちに異動してから山科先輩にご挨拶するチャンスもなかったし、ちょうど良いですよ」
「ちょうどって。ワーカホリックかよ、日曜だぞ」
「先輩に言われる筋合いはないですねえ。第一、既に今日も土曜日ですよ」
 それはまったくその通りであるが、物理学者には響かなかった。怪訝そうに眉根を寄せている。
「とりあえず、まず今のケー番とメルアド教えて下さい。あと住所と、勤務先も」
 相手の困惑にはかまわず、検事はガツガツと遠慮なく個人情報取得を始める。パワフル、という以外にない綾野の仕切りであっという間に新しいスケジュールが組まれ、細かい打合せをする鷹司と綾野を振り切るように、山科はそれではと帰っていった。


 そして嵐のように綾野が去った後、鷹司は、ふと前田の馴染みぶりを思い返して訊ねた。綾野が話題に出した”異動”の単語を消し去りたかっただけだったが、多分にそれは自意識過剰だった。
「前田巡査は、小林投手とは知り合いなんか?」
 聞かれた若者は「いやいや」と顔の前で手を振りながら笑った。照れ隠しらしい。
「もう巡廻の時に挨拶するくらいです。実はボーイズチームの先輩で。あ、世代はかぶってないですけど、あちらも覚えてくれはるので」
「ああそう……」
「テレビで見るより、実物はずーーっとかっこいいんですよう」
 アイドルのことを語るような前田に、ああそう、と適当に繰り返しながら、鷹司は脳内のスポーツニュースを反芻するが、件の投手の顔はまったく思い当たらなかった






 翌、日曜日。

 果たして、山科が在籍しているK大の研究室に、盗聴器は仕掛けられていなかった。
「なかったですねえ」
「当然だろ」
「でも、日常生活実況としては需要もあるのでは」
「実況??」
 京都に異動になった後輩が挨拶に来た設定で、綾野が山科の研究室を訪問している間に検索したがひとつも見当たらず(もちろん警察の探索機を使用した)、やはり標的は小林投手なのか、と再度検討しているところである。
 今は大学近く、というほどでもない微妙な位置にある古ぼけ……クラシックな喫茶店である。どうやら山科の行きつけのようだが、尚かつ、知らない人間が来ればすぐ分かるということだった。どういう意味かと思っていると、来るのがほぼ男女比9:1のしかもひとり客で、明らかに常連ばかりだ。連れ立ってJDが入るような店構えでもなく(恐らく元はシガーバーだったのではないか)慣れない人間がいれば一発で分かるだろう。こちらも声を潜めないといけないが、今回の場合、却って都合が良かった。これは良い店だ、と、鷹司はこっそり脳内にメモしてた。
 このご時世、すっかり肩身が狭い喫煙だが、警察官、特に刑事には喫煙者が多い。例に漏れず鷹司もヘヴィスモーカだったが、異動を機に本数を減らしていた。今、無償に吸いたくなっているが、何とか堪えた。
 山科の口利きで、店の奥にある唯一のボックス席に陣取って事情聴取を続けている。なお綾野が研究室を訪問している間、鷹司達は大学に監視カメラの映像提出を依頼したり、研究室のメンバに簡単に事情聴取を始めていた。が、皆、異口同音に、
「山科先輩のストーカー? ないんじゃないですかね、それは」
 と言い切ったのだ。
 ちなみに今、鷹司と綾野の向かい側でその台詞を吐いたのは、院生の中でも一番の古株という博士課程2年の桃園だった。上司である津川助教授を除けば、一番、山科との付き合いも長いという。
「ずいぶんキッパリ言いますねえ」
「山科さん、顔はともかく、中身はただの物理オタクですから、盗聴したところでメリットがないです。盗撮ならともかく」
「桃園君、もうちょっとこう、気遣いとか比喩とかないのかな?」
「気遣い? 必要ですか?」
 また当然、山科本人も同席中なのだが、その本人への遠慮や忖度の心配はまったくない物言いであった。
 桃園の刈り上げたベリーショートと白シャツとジーンズという装い、しっかりした肩幅から、鷹司などは一瞬、男性かと思ったが、間近に見れば確かに女性だった。化粧っ気もなく、もちろん愛想も愛嬌もなかった。
 旧帝大の物理学の院生となればそういうものなのか、と呟けば「鷹司さん、それセクハラと偏見です」と綾野に小声でクギを刺された。
「それだと、まるで俺……私には顔以外に取り柄がないように聞こえるんだが」
「ええっ、いや、研究に取り組む姿勢と成果はさすがと思いますが、それ部外者には分からないですし」
「……どうもありがとう」
 真顔で答える桃園にひっそりとダメージを受ける山科を他所に、綾野はとても楽しそうに(としか言い様がない)聴取を続ける。
「ということは、桃園さんもこの件の目的は山科先輩のお家の方だと?」
「ええ、大家さん……小林投手の方やと思いますけど」
 さも当然というふうな桃園に、綾野はうんうんと頷きながら手元で素早くメモをしている。もちろん鷹司もメモを取っているし、許可を得て録音もしているが、やはり生で聞いたときに残る印象というのは大事で、録音を聞いて分かるものとは確実に異なる。
「それははやり、著名人だからということでしょうか。桃園さんは小林さんと面識が?」
「はい、折々にご挨拶と、何度か試合にもご招待頂いて」
「あ、野球お好きですか?」
「そうですね、わりと」
 聞けば、桃園は高校までソフトボールの選手だったという。そういえば、日本代表のU選手に雰囲気が似ている。と綾野が言うと、「いえいえそんな」と身を縮めて謙遜した。そのあたりは年相応の女性らしく見えたが、それを言えばまたセクハラ案件になるだろう、と鷹司は我慢強く口を閉ざした。
「小林投手はとてもいい方ですし、スライダーが特にいいんです」
 ……一般人には分かりづらい良さでは? というツッコミは綾野も鷹司も控えた。が、
「桃園君、そこは大家の人間性とは無関係だな」
「ええっ! あんな縦スラなかなかないですよ?」
 野球は”わりと好き”どころではないのではないか、と思いつつ、鷹司としては盗聴の目的を小林投手と決めつけるのも危ういという感触だけが残った。すると隣から、
「なるほど、それは一部の人には魅力的かもしれませんが、盗聴するとなると……やはり山科先輩がターゲット、という可能性も捨てきれないですねえ」
 冷静な綾野の声が割り込んで、山科はまた眉間に皺を寄せる。援護にはならないかもしれないが、鷹司も強く頷くと、うーん、と山科は無造作に髪をかき上げながら(その様子がまた図ったように絵になるが)不本意そうな声を出した。
「とはいえ、私の私生活が目的だとして……だいたい、リビングと台所と玄関を盗聴したところで、」
「えっ、ええ?! ちょっと待って下さい!」
 勢いよく綾野が制止して、なんだ? と山科ばかりか桃園も、鷹司までも彼女に注目する。なんならカウンターの客たちもこちらを向いたので、綾野は慌てて声を潜めた。
「盗聴器が三つ、とは聞きましたが、リビングと台所と玄関なんですか?」
 今度は綾野がきっとこちらを見る。綾野ばかりか全員からの視線がこちらに移り、鷹司は少し身を引いた。
「あ、ええ……確かにその三カ所です。私自身も確認してます」
「なんでそんなところに仕掛けられてるんです? ストーカー案件なのに?」
「は…? え?」
 なんで、とは……と今度は鷹司と山科が顔を見合わせ、じれったそうに綾野は続ける。
「だって、ふつう盗聴器を仕掛けるならもっとこう、あるでしょう。ありますよね? 桃園さん!」
「ええっ、あー、まあそうですね、ふつうは……バスルームとか……トイレとか」
「ですよねえ」
 カメラじゃないのでバスルームはどうか、という鷹司に「衣擦れの音って知らないんですか?」と、いやトイレってなんでだよ、という山科には「変態の行為の理由は考えちゃダメです」とシャットアウトし、綾野は断言した。
「それ以上に、ベッドルーム、寝室がないのは変です。リビングは情報量が多いのでありです、キッチン、も、まあ無いとは言い切れませんが、そこで寝室がなくて玄関があるのは変です。玄関だけの情報って宅急便受け取りの回数くらいじゃないですか」
「……まあそうですね」
「訪問者はリビングが台所で判る、か」
 寝室が見つけられなかったのでは? という桃園の疑問は、それほど複雑でも広大でもないので玄関と大差ないという山科と鷹司の証言で消える。ということは、
「ストーカー案件ではない…?」
 いまや綾野の眉間にも深い皺がある。
 とはいえ、その範囲では宅急便の頻度と夕食のメニューぐらいしか分からないという結論に、「あっ」と山科が声を上げた。
「ひょっとして、ターゲットはマリさん、齋藤さんなのでは?」
「は? え、ええっ」
「あ、ああ、そういう線も……ありますね」
 驚きすぎて二の句が継げない鷹司の一方、桃園は既に納得顔になっている。綾野は「えーと」と言いながらばらばらと資料を捲っている。
「たまに家事をお願いしているという、●●寺の檀家の方ですか?」
「ええ、そうです。うちにある程度頻繁に訪問して、立ち入る場所が玄関・台所・リビングなので、拾える音とマッチします」
 冷静な山科の分析だが、しかしと鷹司は反論する。
「確かにその通りですが、齋藤さんが目的として、リスクを冒して小林家に盗聴器を仕掛けるというのが、どうも納得がいきません。齋藤さんのお宅であれば、むしろ●●寺周辺のほうが確実なのでは? 観光客や訪問客も多いのでよそ者が目立たない」
 それもそうですね、と頷く山科と桃園だったが、今度は綾野が異を唱える。
「でもそれだと、プライベートの情報は少ないでしょう。檀家の奥様の個人情報となると、個人宅のほうが……んー、でもなんというか、今度は本当に範囲が狭まりますよ。齋藤さんと小林家の関係を知っていて、来訪のスケジュールも把握している、となると、お身内の方ぐらいしか」
 言い辛そうだが綾野の推論はまったくその通りなので、ぞわり、と鷹司の背筋が冷えた。これはまさか檀家の方を当たらないといけないか、と鷹司が段取りを考え始めたところで、桃園が意外なことを言い出した。
「でも小林家の来客といえば、もうすぐおいでになるんじゃないですか? チームの皆さんが」
「は?」
「えっ?」
「なんだって?」
 また全員が桃園を注視するが、彼女はかえって困惑した顔のまま、山科に聞き返す。
「いや、あの、たしか山科さんから……オフシーズンに入ると、赤谷投手とかが挨拶に行くからその帰りに……」
「あ、ああ、あれか」
「どれですか!」
 また声が大きくなる綾野を制して、鷹司は山科を促した。
 聞けば、小林家と齋藤家の近所、例の野球強豪校のグラウンドが始点だ。小林投手の同僚、というか幼馴染みにその野球部OBがおり(なんでも赤谷紳士服の御曹司だそうだ)、シーズンオフには恩師に挨拶しにグラウンドに来るという。
「それで、その帰りは大抵、うちに寄りますので」
「飲むんですね?」
「阿呆ほど飲むな」
 赤谷の御曹司以外にもチームメイト、タイミングが合えば他のOBが来る事もあるという。立地的にも条件的にも申し分なく、有名人たちが素でのんびり出来る場所として重宝されているらしい。
「あのあたりだと、歩いてても気付かれますからね。赤谷の実家でもいいんでしょうけど、それはそれで、お坊ちゃん扱いで嫌なんだそうですよ」
「……赤谷会長のお宅、祇園のど真ん中にあるお屋敷ですよね。見たことはあります、どこかの塔頭かと思う大きさの」
 上期まで府警にいた鷹司でも知っている。文化財に馴染む旧家で、若者が宅飲みするのは気が引けよう。既に宅飲みという単語が似合わない。綾野検事は、へええと感心していたが、はっと気付いたように山科に問う。
「つまり毎年、ってことですよね。時期としてはいつぐらいですか?」
「そうだな、ポストシーズンの成績なんかにもよるが、今年はファン感(=ファン感謝デーのイベント)が今月、下旬か。そのあとすぐぐらいかな、と桃園君とも話題にしました」
 最後の方は鷹司に説明する口調になる。鷹司も頷いて、山科と桃園の両方に問うた。
「その話はいつごろ、どこでされましたか?」
「学会行く前ってことだよな?」
「あ、はい、出発前に研究会用のサンプルとかを積み込んだときですね」
 その際に桃園の車で大学から一緒に帰宅したという。出張先は九州の某大学で、教職員は当然、新幹線を手配するのだが(学生は夜行バスだそうだ)荷物がかさんだ山科は、万が一の事態に備えて、宅配便ではなく自力で運ぶことを考えたという(それなりに貴重な資料や機器を含むとのこと)。
「でも、桃園君が車で行くというので、車に積んでらったんです」
「北九州が地元なので、帰省も兼ねて。そうすると通うにも車の方が便利なものですから」
 へえ、そうなんですかー、と久々に綾野の声が明るくなるが、それでは盗聴器は桃園の車内にもあるのでは?という可能性が浮上して、反射で鷹司と綾野が腰を浮かすと、いやいやと桃園が否定する。
「その話は、山科先生のおうち近くの居酒屋さんで」
「そうか、あのときか」
 荷運びのお礼にご飯でもということで、二人で近所の店に入った。当然、そこは山科と小林投手も常連のお店なわけで、ごく自然に店主に会話に割り込まれたという。
「なんなら赤谷投手もそのとき連れて来て、って言われてましたよね?」
「毎回言われるな。いや実際、だいたい二回に一回は連れて行ってるぞ、全員でサイン書くし、写真撮るし」
「つまり、そこで小林家の来客のメンバーや時期が話題に出て、もしかして山科先輩が出張でしばらく不在になる、という話も?」
「……した。したな、ガッツリした」
 近いし美味いし安いし、あんないい店の関係者が盗聴に関わっていると?と山科は眉間にシワを寄せる。横で桃園が「あー、美味しかったですね、だし巻き」などとフォローにならない呟きで追い打ちをかけている。
「いや、まだお店のかたが関わっているというわけでも」
 と言いながらも、鷹司もこれは限りなくグレイと思わざるを得ない。そして、そうなるとまずやることは、と、綾野がすっと身を引いた。
「とりあえず行ってみましょう、その居酒屋」
 まあそれしかない。
 鷹司も頷いて席を立ち、山科も腰を浮かせたところで桃園が「付き合います」と手を上げた。
「いや、そこまで面倒をかけるのも」
「乗りかかった船です。何か気付くかも知れないですし」
「いいんですか!? 素敵!」
 ぱっと笑顔になった綾野が、そうだ、桃園さんの連絡先も、と言いながらいそいそとスマホを取り出すと、山科は少し呆れたふうな顔で口を開いた。
「いちおう言っておくが、桃園君、既婚者だから」
「えっ!」
 うっかり鷹司も同じように声が出た。いや、驚きの事実ではあるが、しかし今その情報は要るんだろうかと内心、首を捻る。桃園も中腰のまま不思議そうな顔になっていたが、しかし綾野と山科は自然にその話題を続けている。
「はやっ、だってまだ学生さんですよね!?」
「学生同士だと、片方の学費が免除されるんだよ。だから先に入籍だけでもって」
「おおう……」
「俺達には金がないんだ」
 ものすごく切実なひと言だったが、そういう問題ではない気はする。一方、そのあたりで桃園は平然とどこかに電話を掛けていた。漏れ聞こえる声からすると、研究室のメンバーに不在にする旨を連絡しているようだ。判断が的確でマメな学生だ、と鷹司は密かに感心した。
「なぜ佳い女はもう人妻なのか」
「いい女だからだろ」
 いい女といい男から売れていく市場である、と云う山科に、綾野は恨めしげに口答えする。
「じゃあ、なんで山科先輩は独り身なんですか」
「そりゃ、わるい男だからだろ」
「……なるほど」
 そこに至って、ひょっとしてただの雑談だな?と気付く。結局、この二人の関係性は学生時代の延長線上にあるのだ。
「じゃあ、行きましょうか!」
 と、キリリと表情を改めた綾野に率いられて、一同は件の居酒屋に向かったのだった。






「あの日、は、たしか土曜? 日曜でしたかねえ」
 うちは月曜休みにゃから、と首を傾げる店主は壁のカレンダーを見上げる。
 小林家と齋藤家のある町内の、居酒屋というよりいわゆる『定食屋』と『小料理屋』の間に位置しそうな店だった。店名は『ごだい』だそうだ。おそらく以前は定食屋だったのが、夜も営業するようになってこの形に落ち着いた、というところか。近所に一軒あれば独身男性としては非常に心強い店である。鷹司はまた胸の内にメモした。
 今は昼営業と夜営業の谷間で、運良く客の姿はなかった。そして、もれなく常連である山科自身は当たり前のように店主によく記憶されていた。
「センセイ、今期は水曜に来てくれはるのに、違ったいう感じが」
「日曜ですね、あと岸本が先発でした」
「そうそう、それからお連れさんがまた男前にゃから、珍しいなあて」
 満面の笑みの店主はお世辞を言ったつもりだろうが、盛大に地雷を踏んでいる。
(ちょっとこれは、ひとこと…!)
(いやいいです、慣れてます。事情聴取が先です。)
(悪気はなくても悪いンだよな…)
 というやり取りが、綾野と桃園と山科の間で無言で交わされている。
 ちなみに、盗聴との関連を疑っていることが伝わってはアウトなので、目的はぼかして伝えている。山科の出張中に空き巣未遂が、という話に、店主もおかみさんも不安がりつつも心配してくれた。もちろん小林投手を。
「祐輔君とたかちゃんの登板の日やないなら、わりとお客も落ち着いてたと思うけどなあ」
「せやかて、あんた、日曜はいろんな人が来てくれはるから難しいことない?」
 と、店主の奥さんらしきエプロン姿の女性が言うのももっともだ。飲食店というのはウィークデーとウィークエンドでは、顧客の構成がまるで違うのだ。鷹司はそれを聞きながら防犯カメラの位置をチェックするが、そもそもが映像の保存期間が3週間とかでアウトだった。近所の防犯カメラを当たるか、と、鷹司は一先ず暑と前田巡査に連絡する。
 一方、綾野による店主夫妻の聴取は続いている。
「あの日、誰が来てくれはったかな?」
「ひょっとして、帳簿見たらなんやわかることない?」
「帳簿? ああ、せやった」
 おかみさんの助言に店主はようよう腰を上げる。この店の売上げの管理がどう行われているかは予想しにくいが、お客のテーブル単価でも残っていれば儲けものだ。鷹司は祈るような気持ちで店の奥に消える店主の背中を見送る。
 他方、残ったおかみさんも協力的な提案をしてくれる。小林家さまさまである。
「そうですねえ、あとは、ジュンイチを呼んだらええですかねえ?」
「え、誰ですか?」
「ああ、うちの息子で、ここの板前やってます。近所に夫婦で住んどって」
「それはぜひ、都合がつくなら、今すぐにでも」
 綾野の間髪入れぬ反応に、やや気圧されながら、じゃあ電話をとおかみさんが受話器(個人商店だ、ちゃんと有線の、しかもFAX付きが存在する)を?んだ。そして、奥から帳簿(こちらもPCではなく古式ゆかしい大学ノートだ)を手に戻って来た店主は、
「最近の刑事さんはこんな別嬪さんもいてはるんですねえ」
 と言う。こちらもお世辞のつもりだろう。刑事と検事の違いを説明するのに飽きている綾野は笑って誤魔化している。笑顔でノートを捲る店主を他所に、山科が物言いたげな目をしているのを綾野が牽制した。
「大丈夫です、慣れてます」
「ブルータスよ、おまえもか」
 店主に気取られないように大きく溜息を吐き、綾野は「おかしいなあ」とどうしようもない愚痴をこぼす。
「弁護士じゃなく検事なら、女とか男とか関係なくガツガツ仕事が出来ると思ったんですけど」
「そりゃ、ちょっと無理だろう。残念だが、ひとは見た目が九割なんだよ、おまえのせいじゃないけどな」
 率直だが真っ当な山科のツッコミに、また山科と綾野の関係について認識を改める鷹司だった。そして力強く頷く桃園を見れば、恐らくこの三人は見た目で相応に苦労してきたのだろうという気はした。
 神様からのギフトで誰もが幸せになるとは限らない。
「私をお嬢ちゃん扱いしないの、府警じゃ鷹司さんくらいですよ。こんちくしょう」
「……府警?」
「ふけい?」
 首を傾げた山科ときっと漢字変換が出来ていない桃園に、鷹司は口を挟むことにした。そんな気持ちになったこと自体、自分でも驚きだったが。
「ああ、こちらの署には9月からで……それまでは京都府警にいました」
 思ったよりするりと言葉が出た。言ってしまえば何のこともない。綾野も(最初からだが)屈託なく補足する。
「捜査二課にいらしたので、色々お世話になったんですよ。私も4月に来たばかりだったんで」
「そうさにか?」
「二課って、詐欺とか横領とかやるところやないですか? むかし、右京さんが居た」
 某国民的人気ドラマのキャラクタのおかげで、一般人にも一課以外の役割は広まったのは喜ぶべきことなのか。
「ええまあ、そうです」
「有能なんですよ、表の帳簿から裏帳簿見つけるの、鷹司さんが府警で一番早いと思いますね」
 綾野の褒め言葉はフォローにはならず、ではその警察官がなぜ所轄の生活安全課へ?ということになるものなのだが、研究者二人はまったくそのあたりに無関心だった。
「横領……できるくらい金が余ってるなら、うちの講座に寄付して欲しいな」
「そろそろ○○○○買い替えたいですよね。N先生みたいに、うちのボスにマラソン出てもらいますか?」
「うーん、津川先生だと準備運動中に倒れそうだなァ。でも、琵琶湖マラソンいつだったっけか」
「小林さんに出てもらうとかどうですか」
 ただのおしゃべりになったところに、
「あっ、あった、XX月XX日でええやんな?」
 という店主の声に遮られた。
「そうです!!」
 三人の声が唱和した瞬間、ガラガラと音とを立てて店の入り口が開いた。


「おかん、もう夕方のお客はんいれてええねんな?」
「ああ、ジュンイチ、ご苦労さん」
 息子さんらしき若者がドアを潜り、暖簾を手にしたおかみさんが奥から出てくる。それを横目で見ながら、一同は店主が広げた大学ノートを覗き込んだ。
「たしか、このへんはいつものお客さんで、ここらは週末に来はるご夫婦、あ、ここがセンセイたち」
 店主が自ら記入しているのだろう帳簿は、残念ながらミミズがのたくったような文字で(達筆すぎるのも困りものだ)解読の難易度が極めて高い。鷹司がこれはと身を乗り出し、山科ははなから諦めたように腰を落とす。
「すみませんねえ、ちょっとまだ散らかっとって」
 と、入り口からは、おかみさんがお客さんに謝っているらしき声もする。いえこちらこそ、とかなんとか、細い声は早めのお客であろう。四人と店主が集うテーブルとは別方向の席に案内されているようだ。
「そうそう、たしかあの日、センセイらが帰らはったあと、お客はんに声かけられましてね」
「ほう?」
 綾野の目が猫のように光る。
「秋頃からここらの担当になったーいうて、うちにも寄ってくれはるようになったお客はんで。あのイケメンのお兄さんはどこの先生なのか、って」
「えっ?」
「俺?」
「そうそう、たまに見かけるけどって。まあ、センセイ、目立ってはるから」
 この秋から、クリーニングの配達ゆうてたかな? 酒屋かも? 覚えることが多いって言うてました、と朗らかに話す店主だが、一方で四人は絶句した。それは、非常に重要な情報なのではないか。
「つまり、山科さんが小林家に下宿してて、勤務先がK大で、小林投手と友だちで、近々、小林投手のチームメイトがココに来るって話もしましたか?」
 矢継ぎ早に訊く綾野の剣幕は勿論、鷹司他、四人の勢いに店主はおののいたように身を引く。
「ええ、まあ、その日かどうかは、ちょっと……でも、うちに通うてくれれば、お客はんの誰かが話すもんですから」
 ちらっと鷹司は店を見渡す。当然店の壁には、某球団のポスターが貼られ、小林投手や赤谷の御曹司たちの写真やサインが飾られている。この店ではたびたび、どころか頻繁に話題に上るであろうことは容易に想像がついた。
 まず山科の基本情報が手に入り、ここに何度か通えば、壁の写真とその日の話題が結び付く。この街の配達業者であれば、他でも情報は手に入るかもしれない。何より、住所が……分かるのだ。山科は目立つ。そして配達車は街に紛れる。
 そいつは、と一番速かったのは山科か綾野か。
「誰ですか!?」
 全員の声が重なったところで、

「騒がしくてすみませんねえ。すぐ準備出来ますから」

 先ほどの客をもてなすおかみさんの声が割り込んだ。
 厨房から、ジュンイチが「おとん、もうそろそろええか」と店主を呼ぶ声がする。「もうちょう待っとって」と言いながら顔を上げた店主は、一瞬、硬直した。
「え、あれ」
 店主が一度、逆側のテーブル席を見てから、こちらを向く。
 四人は店主の視線を追う。
 奥のテーブル席の客が動いたのが見えた。
 店主が口を開く。
「あ、あの日、先生のことを聞いてきたのは、あちらの」


 ガタン、と大きな音がした。


 続いて斜め横の山科が動いた。
「待て!!」
 そう言ったところで待つわけがないのだが、言わない選択肢はないのだ。鷹司は椅子を蹴った。
 おしぼりとお冷やを持ったおかみさんを押しのけて、その客が店のドアを乱暴に開ける。ガラスが割れる音がする。鷹司は舌打ちをしつつ、振り返らずに走った。後ろで綾野が「大丈夫ですか」と声を掛けている。隣りに気配があるが、どうやら桃園のような。その後ろに山科が続く。
 まだ若そうな、しかしそれほど大きくない男の背中が前を走る。住宅街の狭い道だ、しかもあちらには土地勘がある、追跡する方が分が悪い。もっと真剣に地図を頭に叩き込んでおくべきだったと、胸の内で舌打ちし、それでも全速力で後を追う。と、隣の桃園が前に出た。足が速い! だが車も通る道だ、事故が起きたら目も当てられないし、一般市民を巻き込む訳には、と彼女を止めようとした瞬間、逃亡者の目の前の十字路に、人影がひとつ現れた。
 背の高い、スーツケースを引いた、

「穂高、気を付けろ!」

 山科のよく通る声が、
「えっ」
 という鷹司の疑問符は声になったか。
「あっ」
 という桃園の声は聞いた気がする。
 長身の人影は戸惑ったように揺れたが、ひょっ、と、自分のほうに向かってくる男の真正面に立つ。ほとんどステップを踏むような軽さで。逃亡者は予想外の出来事に一度振り返るが、こちらの方が多勢なことに気付いて前を向く。障害物を避けようと身体の向きを変えたが、そこにまた長身が現れる。たたらを踏んだ逃亡者の背中を、影が「ぽん」と叩くと、膝から崩れ落ちた。
「動くな!」
 十字路の逆側から自転車の前田巡査が現れ、自転車を放り出すと逃亡者に組み付いた。その時点で既に桃園は現場に到着している。若さか、鍛え方が違うのか。
「怪我はないですか!?」
 と訊ねる桃園の、息を切らしてないのが恐ろしい。それで逃げた男は、と見れば、無事に前田巡査に取り押さえられ、同行の警察官が手錠を取り出したところだった。「公務執行妨害、時間取れ」と鷹司はなけなしの気力で声を出した。
 そして、図ったように現れた長身の人影は、件の小林投手だった。
 長い手足に小さな頭、よく日に焼けた顔は精悍な造りだが、今は穏やかにこの騒ぎを眺めている。これが、と膝に手をつき呼吸を整えながら、鷹司は改めてその青年を見上げた。隣には同じく息の上がった山科が居るが、こちらは苦しい息のなかでも「危ねえだろ、止めるなよ」とかなんとか無茶を言っている。
 小林投手はちょっと首を傾げて、ふわりと笑った。
「なんや、挟殺プレイみたいでええかなって」
「平和な感想もらしてんじゃねえ……」
「危ないですよ、ほんと」
 小林さんが怪我をしたら球界の損失です、いやそれほどでも、と本当に平和な会話が続いて、なんだか拍子抜けである。鷹司は、交番の二人に無線で署に連絡を入れるように指示しつつ、自分もケータイを取り出して、さて課長になんと報告するかと考えた。
 考えながらも、鷹司はようやくこの街でやっていけるような気が少し、した。
「……鷹司さんも、大丈夫ですか」
 汗を拭いながら訊ねてきた山科に、ええなんとか、と答えながら、

「とりあえず、煙草は辞めよう思います」

 と思わず笑っていた。
 後ろから、綾野のヒールの音が近付いて来るのが聞こえた。






「出来心?」
「花色木綿ですねえ」

 山科にそう綾野が突っ込んだが、これは難度が高い。というか面倒くさい。
「検事、それはちょっとどうかと」
 いちおう窘めながら、鷹司は運ばれてきた三つの珈琲を、各々の前に配膳する。こういうことも自然と出来るようになった。
「えっ、なんだって?」
「落語ですよ、知らないんですか? ま、山科さん、帰国子女ですもんね」
 日本育ちでも難しいですよ、と再度たしなめてから、鷹司は「この度はご協力ありがとうございました」と、山科に頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ本当にお世話になりました」
 と慌てる山科とも、こうしてゆったりと会うのは久々だった。
 場所は例のレトロな喫茶店である。
 あの事件から数週間経っていた。直後の事情聴取・裏付け調査などで山科とは何度か顔を合わせたが、当然、細かい話はしていない(捜査上の機密事項も多く、そうそう話せることもなかったのだ)。
「小林さんは落ち着かれましたか?」
 鷹司がそう訊ねると、いやあ、と山科は何故か形の良い眉を潜めた。
「最初から落ち着いてましたがね。いまは大阪に戻っていて、球だ……会社に経過を報告するようです」
「ああ、そうですよね。そもそも同僚の方にも関係しますもんね」
 受けたのは綾野だ。ちなみに彼女は担当検事ではない。被害者と個人的な繋がりがあるから当然だが、それを非常に不満がって、ちょくちょく鷹司に捜査状況を問い合わせてきた。当事者である山科にしても同様だ。マスコミに嗅ぎつけられないように注意しているのもあって、報道で知りうる事はあまりないし、そもそも日本の警察は被害者に捜査状況を知らせることなどない。
 それでこうして、一挙に情報交換というか現状報告に集まることになったのだ。本来は……推奨されないことではある。そこは勿論見ないフリをして、鷹司も何食わぬ顔で二人の話を聞いていた。
「あちらの会社でも対応がされているんですか?」
「ひととおりは報告はしているらしいが、今後はどうなるか。幸い、実際の被害は出ていないし」
 いや、被害といえば山科のプライベートはしばらく盗聴されていたのでは?と思ったが、肝心の本人も綾野もそこは平然とスルーする。
「まあそうでしょうけど……あ、弁護士とかは? 村井さんには連絡しました?」
「話はしたが、あいつの得意分野とも違うだろ。大家の方でも選手会に相談するらしいし、あとは赤谷の会社の方でも調べてくれるそうだ」
 村井弁護士はバドミントン部の共通の友人だそうだが、プロスポーツ選手のプライバシィや個人情報は一般人よりデリケートな問題だろうし、赤谷紳士服のような会社もそのあたりのノウハウはあるのかもしれない。確かにプロに任せた方が良さそうだ。
 私の方でもその方面に詳しい人には当たっておきます、と頷いた綾野だが、そういえばと眉を跳ね上げた。
「出てきた調書読んだんですが、なんつーか、ふざけてるんですよ!」
 机を叩きそうな勢いだが、その気持ちも分からないでもない。盗聴犯の供述は、実に……残念なものだった。


 庶民に娯楽を提供すべきだと思った。


 のだという。
「有名税? みたいな? とかなんだそれはと。野球選手だって勝手にプロになったわけじゃないし、山科先輩だって好きでイケメンやってるわけじゃないのに! その人の努力、全部無視かよ!」
 落ち着いて、と二人で綾野をなだめる。お冷やのお代わりを頼みつつ、鷹司は実際に耳にした男の言葉を思い出しつつ口を開いた。
「富の再配分、的なことを言ってましたね」
 さいはいぶん、と山科が口の中で繰り返す。
 それは、元々はたしかに凡夫の言い訳であったかもしれない。否、凡夫などと言ったら不遜だろう、その男も相応のインテリゲンチャであったのだから。
 盗聴犯はほとんどこの若者達と同世代で、某関西有名私大卒の男だった。ただ卒業の年に世界的な恐慌に巻き込まれ、就職に失敗した。不本意な職場にはいつまでも馴染めず、幾つもの職を転々とした。そんな中でたどり着いたのがあの地域で、たまたま山科を見かけたのだ。
「非の打ち所がない容姿の、自分と変わらない年の男が旧帝大の先生で、しかもプロスポーツ選手と友だちで、近所の飲み屋でも輪の中心で……”ちょっとぐらい寄越せ”と思ったんだそうです」
 街で小耳に挟んだ話をつなぎ合わせ、某チームのメンバーのプロフィールを検索した。公式発表だけではない、少しネットに潜ればプライバシィも調べられる時代なのだ。小林投手の出自から、山科の動向に注視すれば自宅はあっという間に突き止められたという。


 あの青年の粗探しを、著名人たちのプライベートを、何か瑕疵を、どこかに裏の顔が。
 ないモノを探して、小さな街と広大なネットの海を彷徨った。


「そこで直接、山科先輩に接触するような度胸がないあたりがダメなんですよ……」
 綾野の言う通りだが、そう言える彼女のような強さがないからこそ、こうなっているのだ。鷹司は意識してゆっくり珈琲をひとくち飲んだ。
「それで、盗聴することを思いついたんだそうです。もちろん、最初は家の中ではなく、窓のすぐ外なら少しでも聞こえるんやないかとか、そしたらプロ野球選手のバカ話が拾えるかもしれないとか、その程度の”出来心”だったそうですが」
 たまたま、山科が出張中の小林家の窓が開いていた。
「それで欲が出た?」
「そうです」
 出来心、か……という山科の合いの手に鷹司は苦々しく頷いた。
「盗聴器もネットで手に入る時代です。所持しているだけでは犯罪にはなりませんし、気軽に”ポチった”そうですよ。そして、いざ山科先生の留守中に敷地内に忍び込んでみたら、窓が開いていた。しかも住人はしばらく帰ってこない。”やるなら今だ”と」
「その勇気、違うところに使えよ」
 綾野の声も本当に毒を吐くような色だった。「すみません、ブレンドのお替わりを」と言う山科に「三つ」と続け、頷くマスターを見届けてから、鷹司は若者二人を順に見る。
 おっさんなりの、なけなしの誇りを持って口を開いた。
「”復讐”したかったと、彼は言っていました。自分に理不尽に不幸を押しつけた時代と世間に。生まれ持った能力、容姿、タイミング……そんな自分にはどうにもならないもののせいで、自分は不幸にならざるを得なかった。一方で、才能があるというだけで、全て手にして、当たり前のような貌をしている奴らがいる。そいつらから徴収して何が悪いんだと……そう言いやがりました」
 危うく私でも殴りつけたくなりましたよ、と、正直に言った。鷹司はカップに残った珈琲を飲み干す。
「そんなん悪いに決まっとるやろ。自分が不運だったからいうて、無関係で無辜の他人の人生、邪魔していいわけない。だいたい、才能なんてもんは誰にでもあって誰にもない。才能だけで大学教授やプロ野球選手になれるとでも思っとんのか。五体満足に生まれて、自分の才能をドブに捨てたヤツに、不幸を嘆く資格は無い。そんなん、再配分やのうて単なる窃盗で、下世話な盗み聞きや」
 低い声で、鷹司が言い切ったあと、絶妙のタイミングでマスターが新しいブレンドを運んで来た。古いカップとソーサを寄せ、新しいものと交換する。山科はしばらく、新しい珈琲から立ち上る湯気を目で追ってから、カップに手を伸ばした。
「……旧帝大の先生、じゃなくて非正規雇用ですけどね」
「いずれなるでしょう、本物の先生に」
 怒ったように応える綾野に、どうだろうなあ、などと言いながら、山科はようやく少し笑った。
 せっかくの美貌だ、やはり屈託なく笑うほうが似合う。
 鷹司も新しいカップを手に取った。綾野はまだむくれている。
「不法侵入とはいえ、初犯で実害がないとすると執行猶予……反省できるかなあ」
「前科はつきます。この街には二度と戻れないでしょうし、犯罪は割に合わないってことは学習したでしょう」
 あとは、本人の心根に期待するしかない。そこは何とも心許ないが、それ以上を疑ってもあまり良いことはないのだ。山科や小林投手がさっさと忘れてくれることを祈りつつ、鷹司はカップで両手を温めた。
 しかし、怒りの収まらないらしい綾野は唸る。
「それにしたって自分勝手な……そもそも山科先輩のイケメンなんて無益じゃないですか」
「無益はちょっと」
「単にdisられてる気がするな」 
 真剣に先輩のために怒っているのか、横暴な犯罪者に腹を立てているのか。両方だと思いたいが、後者が主であるのが綾野らしいといえばらしい。それはむしろ安心材料のような気もして、鷹司は思わず山科と顔を見合わせて笑った。


「しかし、こんなに簡単に一線を越えられるものか、とも思いますが、実はそんなに意外でもないです」
 最近の学生を見てて思うんですが、と断って、山科は珈琲をすする。
「他者との境界線がなんだか曖昧です」
「は?」
 思わず綾野が聞き返し、「いやな」と山科が言うことには。
「ここまで急速にインターネットが発達した結果、個人が拡大、というか拡散している気がする。いわゆる会いに行けるアイドル、どころか、となりに居るアイドルになっただろう?」
 爆発的に普及したSNSで、簡単にアイドルとつながったり、著名人に声を掛けることが出来るようになった。それこそ、以前はファンレターなりメールなりのほぼ一方通行な交流しか出来なかった存在が、自分と同じ“空間”に現れる。こちらからアクションに直接、返信があったりもする。ずっと遠い存在だった相手に、ダイレクトに関われるようになったのだ。
 それだけではない。
 これまで学校や職場など、実際に移動し、接触して初めて関係性が生じていた”他人”と、実際の接触を伴わずとも言葉を交わし、関係を深めることが出来るようになった。顔も声も知らない他人と意気投合し、無二の親友になったりもする。
 そうして、リアルの世界にある空間的な距離が消え失せ、自分と見たこともない他人との距離と関係性のゼロとイチが限りなく近付く。
「そんな関係がありふれたものになった結果、きちんと自分と他者の区別が付いてない……誰をも自分の延長みたいに思うようになったクラスタが存在するんじゃないか」
 自分の『世界』がネットと同じ大きさになった感覚。
 ただそれは自分が認識している『世界』でしかない。
 本来、人間関係というのは、それぞれが関わっていく中でお互いの認識のすり合わせをするものだ。そして、自分の世界は世間の大きさでしかないことを学ぶ。それが相互理解というものだが、ネットではその経験が圧倒的に足りない。
「もちろん、きちんと弁えた、距離が測れる人間が大半だが、そうでない場合……ずっとオンラインの中で過ごした挙げ句、自分の世界と、現実の世界が違っていること耐えられない連中がいる。ような気がする」
 これから、そういう自己認識に起因する”なにか”が増えるんじゃないか、と、物理学者はぽつりと呟いた。
「自意識、というより、自己の肥大化か。含蓄深いですね……最近の若者を身近にみてる先輩ならではでしょうか。なるほど、そういうレポートとか論文もありそうですね」
 調べてみようかな、と綾野がメモしているのを見ながら、一方の山科が首を捻っている。
「がんち、なんだって?」
「がんちくぶかい、ですよ。意味はググって下さい」
 ええええ、と言いながら、帰国子女の物理学者は真面目にスマホに文字列を入力したりしている。二人ともさすがの勤勉さだ。こういうところが、あの盗聴犯には……足りなかったのではないか。
 鷹司はゆっくりと珈琲の苦味を味わった。


「それにしても、さすがというか、肝が据わってましたね、小林投手。同学年のはずなんだけどなあ」
 メモや資料を整頓しながら、しみじみと綾野が言う。たしかにそれには頷ける。綾野と違い刑事事件とは無縁だろうに、犯罪に巻き込まれ、容疑者確保の現場に居合わせたとうのに、慌てたところが見えなかった。捜査にも快く応じてくれた上、「たいしたことはなかったから」と『ごだい』の店主を擁護してもいた。
「あれでも高校の頃から数万人の前でマウンドに上がってるからな。鍛え方が違うだろ」
「ニュースで見るよりかっこいいですよね。あれ、大阪のほうもひとり暮らしなんですか? 野球選手って結婚早い気がするんですけど、まだ独身なんですね」
 確かにその通りで、晩婚化が進む世間に比べると珍しい業界だ。そういえば、齋藤さんが浮いた話がないことを嘆いていたな、と鷹司が思い出していると、
「そうだな。同期の連中はケントも柳澤も早かったし、松延も去年だったし……でも、あいつは最後まで残る」
「ずいぶんはっきり言い切りますね。なにか理由が?」
「そりゃ、俺のだからだよ」
「……なるほど」
 衝撃のひと言を、たったそれだけで飲み込んだ綾野を今日ばかりは尊敬した。鷹司は精一杯、自然に見えるよう珈琲を飲み下す。しかしなるほど、山科が自分の被害には無関心に見えて、容疑者確保に非常に積極的だった理由もわかる。
 確実に盗聴犯を捕まえたかった理由は、彼らにこそあったのだ。
「じゃあ、さっさとSECOMでも導入して下さい」
「そうしよう」
「てか、そもそも、なんで山科先輩がプロ野球選手と知り合ったのかとか、そこから聞くべきでしたよね。今度ゆっくり事情聴取するんで」
「それは……まあいいけど、それなら黒板と関数電卓用意しておけ」
「はい??」
 落ち着いた二人のやり取りを聞くにつけ、動揺している自分の方が未熟に思えて、密かに姿勢を正す鷹司だった。時代は動いているのだろう、間違いなく。
「あ、あと小林投手のご家族は北海道でしたっけ? この件、どうお伝えしてるんですか?」
 スピード解決したおかげで盗聴の被害者にはならなかった小林家だが、勿論、本来の所有者である。鷹司達が事情聴取に赴くことはなかったが、家族会議ぐらいは行われているのだろうか。しかし、山科は渋い顔でカップを置く。
「それが、ご両親は今、海外に居てな」
「おおっと」
「細かいことは帰国してから、と。それから弟たちは高校の寮だから……」
 ほほう、と軽く頷いた綾野と鷹司だが、続く山科の言葉に勢い同時に突っ込んだ。
「まだ伝えてないらしい」
「嘘でしょ」
「それはない」
 事件発覚当初、山科が小林投手に黙っていたのも有り得ないが、更に時間の尺も状況も違う。「意味が解らない」「どうかしてる」と口々に非難する二人に、山科も困惑しながら曰く、
「それが、もう都大路が近いからって」
 あっ、と今度は鷹司が絶句した。
「みやこおおじ?」
「……高校駅伝ですよ、もうあと二週間ぐらいです。警備計画出てます。というか、駅伝の小林兄弟って、小林投手の弟さんなんですか?」
 まさかそんな繋がりがあるとは思わず、つい質問してしまった。山科はひどく不思議そうにこちらを見返す。
「あ、はい。鷹司さん、あの兄弟をご存じですか?」
「ああ……妻が、別れた妻が、白バイの先導をやっていたので、駅伝のニュースは幾らか」
 知っています、と言い切る前に。
「先導の白バイ警官…! 楽しそうですね」
「かっこいい! えっ、いつの大会ですか? 映像探します」
 そこかよ、と一瞬思わないでもないが、もうそんなこともどうでもよかった。世の中、誰もが予想通りの行動を取るわけでもない。そんな当たり前のことを今更、実感したりしている。本当に……自分は未熟だったのだろう。鷹司はむしろ清々しい気持ちで二人を適当にいなしながら、起訴までのスケジュールや当日のコースなどを思い返す。
 大会当日はどうか晴れると良い、と思いながら。


 そうして、今日はようやく散会になった。
 綾野が厳かに宣言する。
「では、小林投手がお戻りになったら、改めて打ち上げしましょう」
「そうだな、それならぜひ『ごだい』で」
 承知、と三人で頷いて、それぞれ席を立つ。
「あっ、桃園さんも呼んで下さいね?」
「いいけど、何度も言うが、」
「いいんですよ、人妻でも! 癒し枠です」
 癒し…? とこっそり首を傾げた鷹司に、山科が「じゃあそれまで」と声を掛ける。
「禁煙は続けてくださいね」
「あ、はい、もちろん」
 返事をしてから、おやっと思った。禁煙は確かに続けていたのだが、気付かれていた、というか覚えられていたのが意外だった。それが顔に出たのだろう、山科はどこか嬉しそうに続けた。
「あいつら、煙草苦手なんですよ」
「……はい」
「俺もね、昔は喫煙者だったんです」
 そう言って美しく笑う物理学者は。
 なんとなく、山科と小林投手の秘密に触れた気がした。

「頑張りますよ」

 そう応えて、これは意地でも禁煙を続けなければいけないな、と。
 鷹司は、署に戻ったらまず机の中のライターと携帯灰皿を処分しよう、と決めた。















































 まだ楓がドクタの頃ですね。捜査を進めてくれる人が必要で登場してもらった鷹司さんですが、思いの外、というかすごくいいキャラクタだなあ、と自画自賛中です。おかげで続編にも登板してもらったという。
 昨今、事件化することも多いストーカーですが、どちらかというと「ネットの海で距離感を見失うこと」がテーマだった気がします。あとかっこいい桃園さんと常にイケメンの無駄遣い扱いされる楓が見所。たぶん。

2023.02.05収録



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