“鳥獣戯画異聞”












  鳥獣戯画異聞 








 低く、柔らかい声がする。


  遊びをせんとや生れけむ
  戯れせんとや生れけん
  遊ぶ子供の声きけば
  我が身さえこそ動がるれ


 あの、朗らかでまろい声が謡う。
 外の激しい雷雨をものともせず、いっそ楽しむように謡っている。


 天蓋の底が抜けたように降る雨と、
 手の届きそうなほどに低く垂れ込める雲から、
 青白い稲妻が天を割った。


 衝撃が、


 湿った風の中に 白檀のかおり


 嗚呼、
 彼の雲に見え隠れする、雷神が嗤った。






 ******






「鳥獣……なんだって?」


 瑞垣は半分覚醒した状態で、耳が捉えた単語を繰り返した。
「鳥獣戯画、ですよ。古くは鳥羽絵、若しくはされ絵とも記録にありますが、先年、日英博覧会に際して内務省が作成した図録で『鳥獣戯画』と正式に記載されたそうです」
 冷静な野々村の突っ込みに、ヤレヤレと瑞垣は長椅子から身を起こした。
 上海記者倶楽部のいつもの午後である。雨の日の気怠さに、瑞垣はいつものように長椅子に転がって昼寝を決め込み、そこに毎朝新聞の野々村がいつものように茶飲み話を持って来た。
「たしか……こう、蛙と兎が相撲をとる」
 と続けると、其れです、と彼は頷いた。
「しかも墨一色の白描画、詞書きも無く、絵巻物としては異例ですね」
「幾つか巻があったか、甲乙、丙……」
「丁、全四巻ですねえ、最後の丁が人物画中心だとか。一応、国宝としては紙本水墨戯画と登記されてるそうですがねえ」
 割り込んできた声に、瑞垣は顔を顰めた。
「……塩塚」
 落雷事故の取材は終わったのかい? という野々村の問いに、おかげさんで順調に、と上海日日新聞の塩塚は眼鏡を直しながらへらりと応えた。それから、
「戻る途中に月餅もらいましてね、いかがです?」
 というので、茶でもいれますかと野々村が応えて、瑞垣もようよう長椅子に座り直したのだった。




「美味いな。何処の茶や?」
「緑牡丹だそうです、村田支局長からの差入れで」
「さすが、モノがいいですねえ」
 茶で身代を潰す、というのはこの国では比喩でも何でも無い。通人なら季節ごと産地ごとに取り揃え、惜しまず金を使う。其れこそ、阿片より高価な茶葉とてある。何事も過ぎれば毒だ。のまれた幾人もの亡者が地獄の門を叩き、大英帝国はその片棒を担いでいる。
 とはいえ、そんな高級品も記者倶楽部の片隅で適当に煎れられている。座卓に広げられた資料の片隅には、ひっくり返る兎と気を吐く蛙が描かれていた。以前、帝都で鳥獣戯画の本物を見たという塩塚の落書きである。
「たしか、後白河の頃か? 絵巻物と云えば」
「正確なところはどうも……そもそも、数百年にわたって書き継がれたという説が有力らしいですよ」
 皆で顔をつきあわせ、年表や歴史書の概説をばたばたとめくり、月餅と煎った大豆と干したサンザシの実が皿から減っていく。
「元は鳥羽僧正覚猷作とも云われてましたが、結局、作者は不詳、恐らく複数人。筆遣いが違うらしいですわ」
「朝廷の御用絵師たちの合作、というのが最近の説ですね。現存する最も古い甲巻については、平安末期から鎌倉にかけて描かれたとされています。それなら後白河法皇でしょうが」
「成り立ちも記録も曖昧……あんな白描画の洒落絵が800年も残ってるんが奇跡やな」
 瑞垣の呟きに、まあそうですね、と二人は頷く。
 作者や成立の過程が不明で、落款や署名はもちろん、奥書も箱書きもない白描画の一群が、応仁の乱を始めとする京都の騒乱の中で保存されていたのは、まさに奇跡としか言い様が無い。
 ただ、朝廷でも相当に重要な宝物として扱われてはいたらしく、江戸初期に大規模な修理が行われている。徳川秀忠の五女、後水尾天皇の女御として入内した東福門院和子による。これは後水尾院と東福門院が叡覧されたあと修理の運びとなったと記録にあり、そこが近世の鳥獣戯画の出発点で、そこで現在の形に整えられたという。
「徳川には煮え湯を飲まされた後水尾帝も、女御とは仲睦まじくあらせられたようですが」
「二男五女か? 作りすぎや」
「まあまあ。ま、その女御様になんとか救ってもらって今に至ると。なんせ、国宝、ですからねえ」
「今はお国の管轄かもしれんが、元は京都の、山奥の……なんとかいう寺の所蔵なんやろ」
「高山寺ですねえ」
 あの割り印が有名でしてね、と言いながら、塩塚は落書きに『高山寺』の印を書き足した。それを横目で見ていた野々村が、
「お二人は『断簡』というのはご存じですか?」
 と問うた。
「だんかん?」
 瑞垣が復唱したあと、少し首を捻っていた塩塚が、あっと手を叩いた。
「あの、本体から抜け落ちたっていう部分絵のことですか?」
「そうです」
 野々村は塩塚の手元にあったくず紙に『断簡』の文字を書き付ける。
「巻物の形になる以前に、抜き取りや散逸があったらしいんですよ」
「本来、絵巻物の一部だったものが切り離された……ちゃうな、そもそも巻物の形になる前に分割されてしまったもの、ということか?」
「ええ。そもそも、その手の事故を防ぐための『高山寺』印だそうです」
「嗚呼」
 瑞垣と塩塚は思わず嘆息する。
 文化財は戦乱や世情の荒廃に弱い。其れこそ守り手が居なければ、あっという間に紛失や盗難に遭う。それが逆説的に、鳥獣戯画の持ち主が非常に高貴な身分であった可能性を示唆していた。それでも朝廷かその付近にあったということは、応仁の乱であれば渦中のど真ん中だ。その間に失われた、散逸した絵は幾つあるだろう。その掛け替えのなさに溜息を吐く他ない。
 残っているものの殆どは、例の蛙と兎と、彼のあたりの場面なんです、と野々村の静かな声が響く。
「あとは現存しているのは丙巻の一枚となってますが、やはり圧倒的に甲巻が多いんですね」
 確かにあれらの絵に人気が集中するのは解る。
 擬人化、というより文化の模倣そのものだろう。あの戯画は、平安時代の行事や生活、日常をモティーフとしているのに、人間ではなく蛙や兎、猿といった人で無いものが『演じて』いる錯覚をもたらす。フィクションとノンフィクションの奇跡のような融合である。其れが逆に『人ならではのこと』を鮮やかに浮かび上がらせるのだろう。
「その断簡には明らかに、今の絵巻と繋がる場面もあるようで」
「絵以外にも、紙や筆遣い……つなぎ合わせてみればわかるわけか」
「其の通り。そして、本来の姿の更なる手掛かりが『模本』です」
「もほん……写し、ということですか?」
 首を傾げる塩塚に、野々村は浅く頷く。
「これだけの歴史を経た絵巻ですから、過去の絵師たちも研究のために写した記録があります。有名なのは江戸幕府の御用絵師、住吉家に伝わる模本ですね。其れ以外にも、著名な絵師の手習いのような模本もあります。なんせ特徴的な絵ですからね、見れば其れと解る」
「元々、御用絵師の作であれば、修練の課題になるかも知れませんねえ」
「だろうな。それなら……本物が見られる機会があれば写すやろな。多少の無理をしても。もし腕に覚えがあるなら……五巻目を自分で描くくらいの野望はあるかもしらん」
 其れだけの価値はある。
 そこで、野々村が実はここからが本題です、と厳かに告げる。
「新しい、というと語弊がありますね。未発表と言うべきか……模本が出たそうなんです」
「新たに見つかった、いうことか」
 茶をすすった瑞垣の脇で、塩塚がああっ、と頓狂な声を上げる。
「ひょっとして、倫敦だか巴里だったかで見つかった、っていう……」
「其れです」
「どれだって?」
 瑞垣の茶々を野々村は軽く手を振っていなす。塩塚はとうとう三つ目の月餅を手に取った。
「鳥獣戯画が明治の終わりに巴里の万国博覧会に出展された際、欧羅巴でもずいぶんと話題になったんだそうです」
「そこで、此れなら見たことがある、みたいな話が出たんですよ、巴里の美術商か好事家かが」
 野々村のあとに塩塚が苦々しく付け加える。さもありなん、御維新からの文化財の海外流出は戦乱での散逸より質が悪い。エキゾチシズムともてはやされ、多くの文化財が国外に持ち出された。浮世絵など、本邦で保存されているものより海外にあるものの方が多いと言われる始末だ。文化の継承さえままならなくなる恐れがあるというのに、本邦はその事態に絶望的なまでに鈍感だった。
 そんな状況を思い起こせば、三人共につい溜息が出そうになる。実際にひとつ息を吐いてから、野々村は「まあそんな事情で」と二の句を継いだ。
「そこで見つかったのが、狩野永徳筆の模本だった、という噂があります。そしてつい最近、この上海に持ち込まれたというんです」
 ぽかん、と瑞垣も塩塚も絶句する。塩塚は月餅を取り落とし、瑞垣が慌てて受け止めた。
「かのう……えいとく……」
「って、あの永徳か? 信長と秀吉のお抱え絵師やないか」
 安土桃山の天才絵師、足利義輝から豊臣秀吉まで当時の天下人に仕え、豪放な作風で名を成した狩野派の巨匠だ。現存する作品は少ないが、言継卿記や信長公記に名を残す。喩え模本であっても国宝だろう。
「そんなことが有り得ますか? だって狩野永徳の作ですよ?! 安土城と一緒に燃えちゃったんじゃ」
「あまり上手い冗談やないなあ」
 首を振る二人に、真面目な顔のまま野々村は言うのだ。
「故ない話でもないです。永徳の孫の狩野探幽が描いた戯画の習作も残っています。其れは元々、土佐派の模本の写しとも言われていたのですが、実は狩野家伝来の模本が元なのではないかと」
 まことしやかな噂が。
「そして、件の模本には今の四巻には無い場面が……しかも、此れまでの断簡や模本にもない場面があるらしい、と」
 いつもは賑やかな記者倶楽部がしん、と静まり返る。誰かが生唾を飲み込む音さえ聞こえるほど。
 出所の解らない与太話や荒唐無稽な噂話には事欠かぬ記者倶楽部だが、この時ばかりはこの有り得るかも知れぬ御伽噺に呑まれた。
「永徳の頃、といえば補修の前やな」
「まだ室町に幕府があった頃ですかねえ。義輝公か…」
「それどころか、その頃ならまだ、応仁の乱の以前に存在した場面の写しが残っていた可能性もあります。若し、其れを繋ぎ合わせることが出来たとすれば」
「永徳は大胆な絵が有名ですが、洛中洛外図屏風のような細密画も得意やいう話は聞いたことがありますねえ。その技術と構想力があれば」


「永徳筆の完全なる……模本か」


 狩野永徳にしか描けない鳥獣戯画が。
 上海は秋の終わり、緯度の割に冷え込む時分だったが、記者倶楽部の空気が少し、熱を帯びた様な気さえする。だが、そのしっとりとした沈黙を、「本日分でーす」と郵便物を届けに来た丁稚の明るい声が破った。
 はっ、と皆が日常を取り戻す。
「やあ、完本の模本とは、ずいぶんなパラドックスですねえ」
 感心したように呟いて、塩塚は月餅にかぶりついた。野々村はサンザシの実を手に取ってから、ふと思いついたように瑞垣に問う。
「瑞垣さん、大学は京都でしたよね。何かご存じないですか?」
「はあ? 知ってるわけあらへん。たかが学生に何が出来るゆうねん」
「やあ、でも街の噂とか。絵巻特売のお知らせとか」
「無茶言うな。鳥獣戯画の本物かてそうそう見られんやろ。第一、卒業してへん」
「あれ、中退でしたっけ? じゃあ記者になったのは京都ではなくて?」
「東京に出てきてぶらぶらしとったらいつの間にかな」
 うっかり冗談口が出たところで、部屋の空気はだいぶ緩んだ。気が付けばすっかり闇の色が濃くなって、倶楽部の電灯を点す頃合いになっていた。記者たちも明日の朝刊のための仕上げ作業を三々五々始めていた。
 瑞垣たちもようやっと茶飲み話に区切りを付け、片付けを始める。
 ただ、今日の噂話は各々の脳裏に鮮やかな軌跡を残す。


 平安の名残を宿す数奇な絵巻
 狩野永徳による、その、幻の模本


「嗚呼……でも、それは……」


 もし存在するならば。
 本当ならば。


「見てみたい」


 瑞垣の囁きに、誰もが思わず頷いた。








 上海は、史上稀に見る奇態な街だった。
 アヘン戦争終結後、南京条約によって列強に開かれた街には、見る間に各国の租界が形成された。租界、つまり外国人居留地には治外法権が認められ、欧米の膨大な資本が注ぎ込まれて肥大化していく。まずはアヘン戦争に勝利した英国、続いて亜米利加・仏蘭西の租界を中心に発展し、更には清国の崩壊や露西亜革命を経て、露西亜、独逸、伊太利亜、そして日本から続々と外国人が流入した。
 また西洋と東洋の文化が混じり合い、一種独特な社会が生まれる。近代的で煌びやかなビル群、南京路には路面電車、人力車が行き交い、自動車さえも珍しいものではない。一方、アヘンを始めとする麻薬は日常と化し、酒場やカジノ、妓楼も立ち並ぶ。だのに治安は比較的安定し、人々の自由は保障されており、街には人が溢れた。 
 その繁栄ぶりは「東洋の巴里」と称されていたが、僅かの間に築かれた異形の街である。何れにせよその地位は謀略と暴力によってもたらされたもので、砂上の楼閣だった。危うい足下と反比例するように、この街は隆盛を極めた。自由の気風が何より重んじられ、個人が己の才覚で生き抜く街。
 そうして、上海はある種の畏怖を込めて『魔都』と呼ばれていた。




 瑞垣がねぐらに戻ると、珍しく家主が先に帰っていた。
 外務省書記官である家主は、京都帝大時代の同窓生である。瑞垣が大学を辞めるまで、学生寮のルウムメイトでもあった。それが先頃、此の上海に派遣されてきた彼と、偶然再会した。
 因果応報とはこの事か。
 まったく、予期せぬことであった。


 そして今は、郷里に家族を残して来たため官舎を持て余した彼に乞われ、居候として居ついていた。大凡、十年ぶりの同居である。
「美味いな。何というたっけか?」
「緑牡丹や」
「りょくぼたん」
「江山でしか穫れないいうてたな。高級品や、よっく味わえ」
 記者倶楽部から分けてもらった茶を煎れて、今日仕入れた与太話を披露する。家主はチェスボードに駒を並べながら、大人しくふんふんと聞いていたが、身も蓋もない所感を述べた。
「あまり、上手い冗談ではないなぁ。選りに選って永徳とは。まあ噂語としては箔が付くか」
 自分の第一声と全く同じ内容だったことは勿論伏せ、瑞垣は混ぜっ返した。
「なんやその物言いは。じゃあ誰ならまだ自然な話になるんや」
「うーん、そうじゃなあ。平賀源内あたりのほうが、むしろ楽しいと違うか?」
「そんなん、冗談に変わりないわ」
 だろうなあ、と、家主は磊落に笑った。
 家主が設えているチェス一式は、元はといえば瑞垣が学生寮に持ち込んでそのまま置いてきたものだが、家主は其れをこんなところにまで持って来ていた。此の街で再会することなど知らなかったろうに。
「しかし完全な模本か。其れ自体は在ってもおかくないじゃろう。鎖国の頃に和蘭あたりから流出して、好事家が手に入れたというのも有り得ない話ではないな」
 右手で黒のキングを弄びながら、彼はふと真剣な面持ちになって呟いた。
「あれほど簡素な、欧羅巴人からすればスケッチのような絵となれば、本当にスケッチと思われて放置されていたかもしれない。其れが万国博覧会で正体が明らかになって市場に出た。亜細亜圏の絵画に詳しい画商が、水墨画と比較しようとこの上海に持ち込む……まんざら、御伽噺でもない」
 瑞垣は黙ったまま煙草に火を点けた。
 それは勿論、瑞垣も最初に考えた筋書きだ。作者を除けば、十分に有り得る話だった。欧羅巴の好事家は、否、古今東西すべからく収集癖のある者は貪欲なのだ。其れが如何ほどの価値なのか、どんな存在なのか、知らずには居られない。東西の文化が交わる此の街はうってつけの土地だった。
「ただ、記者倶楽部にまで話が回ってきたのは……ちいっと焦臭いな」
「何が」
 瑞垣は問うてから後悔する。彼の答えが知りたいのではなかった。自分の解の答え合わせをしたいだけだ。
 それでも、其れも疾うに分かっているだろう彼は微笑んだ。
「此の情報自体が偽装の可能性が高かろうよ。狩野永徳、とは釣り餌にしては派手じゃが、其れが鍵なのやもしれん」
「そして……引っ掛かる阿呆を待っている、か」
 彼は瑞垣から目を切って、黒のキングを盤上に置いた。それから立ち上がると窓を開ける。水路から吹く風が通って、紫煙が大きく揺らぐと掻き消えた。
「そうじゃな。ま、結論が出たところで」
 一局、と。


 彼はニコリと笑った。


 此処で瑞垣に拒否権はない。
 眉根を寄せたまま、瑞垣はまだ長い煙草をもみ消した。






 ******






 家主の、そして瑞垣の予想はやはり、ある程度当たっていた。


 件の鳥獣戯画を界隈で話題に出すと、一通り知っているだけでなく瑞垣たちのように背景や来歴まで考察をする勢と、まるで知らない勢と真っ二つに割れた。そして詳しい連中をそれとなく並べてみれば、くっきりと解ることがある。
 模本を『本物』として扱うもの、だけが。
 もし其れが存在するとして、そして実物を目の前にしたとして、きっちりと見極めようと努める者……少なくとも希有な珍品として軽んじるようなことがない連中によく知られていた。まるで選ばれているかのように。だから夢物語のような噂話は密かに伝わる、酷く丁重に、隠微に。
「……つまり、益々胡散臭いな」
「其れも穿った見方な気がしますが」
 野々村は呆れたように言うが、瑞垣からしてみれば明らかに作為的なルートだった。そうなると、此の話の出処を探る以外に手は無い。記者倶楽部で捕まえた野々村に経緯を尋ねれば、余りはかばかしい発見はなかった。先年の日英博覧会に関わった貿易商から聞いたという。
 殆ど私物化している長椅子に身を投げ出す瑞垣の向かいで、野々村はせっせと鳥獣戯画の噂話のまとめを書き付けていた。
「そのご主人も記憶が曖昧で、香港か台湾で耳にしたという話でしたが。船員の皆さんはそもそも鳥獣戯画を知りませんし」
「まあ、そうだろうな」
 古典の絵巻物の話など、そこそこのインテリゲンチャでなければ認知もなかろう。そこも話の間口を絞っている要因だな、と瑞垣が考えて居ると、野々村が思いついたように訊いてきた。
「瑞垣さんこそ、ご友人の……外務省からの線はないんですか?」
 探るような質問に、瑞垣は片方の眉を上げる。
「さっぱりや。そもそも、此の話がフェイクだいうとこは同意見でな」
「その外交官のお友だちって、どんな人なんすか?」
 と、唐突に問われて、瑞垣はギョッと声の方を振り返る。そこには貞吉少年がいた。記者倶楽部の丁稚のようなもので、細々とした雑事を言いつけている。今は誰からか駄賃代わりにもらったのか、切った瓜を頬張っていた。その隙間から、きらきらと目を輝かせて訊いてくる。
「一緒に住んでるんでしょう?」
「生意気な口利いてからに……」
 貞吉は日本租界にある薬問屋の一粒種のはずだが、ブン屋の素質は十分らしかった。要らないところに目を付ける。
 上海記者倶楽部きっての風来坊である瑞垣が、元同窓生とはいえ役人の家に居候するとはかつてないニュースであったのだ。学生時代の不始末のせいか借金のカタかと、記者連中の噂になっているのは本人も知っていた。
 野々村も気にはしていたのだろう、遠慮がちに続ける。
「帝大の同窓生で外交官なら瑞垣さんとほぼ同い年ですよね。ご家族は日本に残してらしたんですか?」
 三十過ぎの男子が、しかも官吏で独り身というのはまずない。軍人とは違って、外交官は家族を伴っての赴任が主流であった。瑞垣はひとつ息を吐く。
「細君と娘がいたがな、産後の肥立ちが悪くて細君の方は昨年、のうなった。乳飲み子抱えて外地へ赴任の辞令が出て、男やもめにどうにか出来るもんでもなし、娘は郷里の姉夫婦に預けとるらしい。それに英語はともかく漢語はあんまり云うんで、半分ぐらいは通事か案内役(ガイド)みたいなもんや」
 あっさりとした口調だったが、その内容が内容なだけにてきめん、二人に効いた。
「……それは、たいへん不躾を」
「ご、ごめんなさい」
 野々村は生真面目に眉根を寄せ、貞吉などすっかり萎れている。いいから、と瑞垣は手を振った。
「外務省が用意したのが家族用の家でな、いらん部屋がぎょうさんあるんや。こっちも宿代が助かるし、情報も手に入りやすい。持ちつ持たれつや」
 実際、家主にしても渡りに船だったのだろう。外交官は機密事項を扱うこともあり、内地から連れてくるのでなければ、使用人を雇うにも細々と気を遣う。ひとり暮らしの不自由も、二人居ればある程度のことは片付くし、互いにあまり家に寄りつかないのを良いことに、近所の婆さんに掃除を頼むくらいで済ませていた。
 瑞垣は「よっ」と身を起こすと、ちみちみと瓜を囓る貞吉に長椅子の端に座らせる。
「ま、あいつかてこっちに来てまだ半年足らずや。仕事以外の、それこそ美術工芸品の流通やら細かいことはよう知らんやろ」
「それもそうですね……」
「むしろ、塩塚の方が得意やないか、此の手の話は」
 あいつ如何した? と瑞垣が室内を見渡していると(彼なら居るのに話に加わらないなど有り得ないが)野々村が曰く、
「ああ、彼は落雷事故の件で讀賣の倉辻さんと一緒に租界の西側に」
 落雷した建物からの延焼で路面電車の架線が燃えて、場所が良くないのか復旧作業が難航しているとのことだが、瑞垣は違和感を口に出した。
「うん? 落雷って、こないだ片付いた言うてなかったか?」
「今日のは前のと別件ですよ」
 別件? どういうこっちゃ、と瑞垣が眉間に皺を寄せると、「瑞垣さん知らないんですか?」と貞吉が目を丸くする。
「最近、落雷事故が続いてるんですよう」
「そうなんですよ、今月に入って三件目です」
「は?」
 今回は怪我人も出て大騒ぎで、と野々村と貞吉が口々に語るうち、当の塩塚が戻ってきた。




「やあ、えらい目に遭いましたわ」
 開口一番、塩塚は濡れた頭を手拭いで拭きながら嘆く。
 落雷があったというのは昼過ぎのことだったらしいが、その後、もう一度降られたという。靴の中まで濡れたと云って、下駄をつっかけて濡れた上着や靴下を倶楽部の隅に干している。
 明日の朝刊の準備が進む倶楽部は、全体的に慌ただしくなりつつあった。電話が三々五々鳴り、人の出入りが激しくなっていく。
 締め切り間近の原稿を回収するとかで野々村が倶楽部を出て行き、瓜を食い終わった貞吉少年は別の用事を言いつかって、そのまま家に帰っていった。瑞垣は記事のゲラに赤入れをしながら、上着代わりに羽織をひっかけた塩塚から落雷事故の概要を聴取した。
「そうです、今日で今月は三件目になりますねえ」
「今月? もっと前からなんか?」
「ええ、恐らくは。尤も、これは僕の当て推量ですがね」
 どういうことだ、と瑞垣が訊く前に、準備よく塩塚は地図を持ち出してきた。
「雷はわりとところ構わず落ちるんですねえ。海面にも落ちるらしいですし、街中にも落ちる。ただ人が居ない場所への落雷だと、そもそも落雷が原因だと気付かれない場合もある」
 その言には頷ける。たとえば山林での落雷から山火事になった例もあるだろうが、雷を見た者が居なければ山火事という結果しか残らない。瑞垣は手を止めて、塩塚が広げる地図と資料に視線を移した。
「これが小火だと思われてたんですわ、当初」
 そう言って塩塚は地図の端にぐりっと赤鉛筆で丸を入れ、写真を並べた。港の倉庫のような場所で、黒ずんだ壁と焦げた木箱が幾つか詰まれている。
「にしては延焼もなく、そもそも火の気が無いところで、付け火のセンまで出たそうなんですが……今日の現場とそっくりだと云う話を消防で聞きまして、資料室を漁ったら確かに似ている」
 嗚呼、此れは路面電車の車庫でしてね、と塩塚は写真を追加する。
「間の悪いことに今回はちょうど人がいましてね、大火傷を」
「こんなとこにか」
「貨物の上げ下ろしをしてたんだそうです。なんでも骨董屋の店主で、舶来物の貴重品、大事な商売道具だから自分でと」
「……骨董屋」
 そう、と意味深に頷きながら、塩塚はもう一カ所、今度は街の外れの方に丸印を付ける。
「あともう一件がこちら。租界の切れ目、外は畑と雑木林になっていますがね、境にある屋敷の蔵でやはり火が出た。最初は使用人の煙草の不始末やもという話が、こちらもね、近所の農家に聞き込んでみれば雷だったそうなんですよ。此れが先月の中頃」
 瑞垣は強く眉根を寄せる。
 否、有り得ない話ではない。ただ……考え込む瑞垣を横目に、塩塚は鼻歌をうたう勢いで地図に更に三つ、四つと印を付けていく。
「其れらを数えれば都合五件、落雷事故が起きていることになるわけです」
「付け火の方がナンボか信憑性があるな」
 不自然だ、明らかに。
「ですよねえ。しかもね、」
 塩塚は、いつものようにへらりと嗤った。
「このお宅、元は薩摩の出かな? まあまあお大尽なんですが、ご主人の趣味が高じて美術品を集め始めて、今は画家のパトロンまでやってるそうで」
「……パトロン?」
「ええ。何でもお好きなんだそうですよ、土佐絵が」
「土佐絵……? 御用絵師やないか、歌舞伎なんかの大看板の絵は土佐派のもんやろ」
「ええ、御用絵師の二大看板、狩野派の好敵手ですねえ」
 は、と、瑞垣は息を呑む。ここで。
「そうなんですよ。おかげでひとくさりご主人のご高説を伺ったんですが、面白いネタが混じってまして。お聞きになりますか?」
 否と応えられるはずもなく。
 瑞垣は原稿のゲラを放り出し、塩塚に新しい茶を淹れてやることにした。






 土佐派といえば十一世紀から続く絵師のお家ですが、やはり戦乱に巻き込まれて一時は直系が途絶えまして、と塩塚は切り出した。
「中興の祖といわれる土佐光起、この人は江戸初期の生まれで、宮中絵所預となって土佐家を復興、京都御所の造営に関わったとか。それこそほら、後水尾天皇、あの方の覚えがめでたかったそうですよ。非常に勉強熱心で、ライバルの狩野派の作品も学んでたそうなんです。大凡、狩野探幽のひと世代下ですか。二条城の襖絵や大徳寺の障壁画は見たかもしれないですねえ」
 瑞垣は地図の上に年表を出し、年代と歴史上の標石を追う。
「その光起の何代前になるんですかねえ? 室町から戦国時代に活躍して、光起と共に土佐派三筆とされる絵師に、土佐光信がいます。土佐派を確立させた天才絵師と云われていますが、この人が北野天神縁起絵巻を描いている。瑞垣さん、北野天神は」
「阿呆か。天神さんを知らん帝大生がおるかい。菅公の、あの絵巻か」
「ですよねえ。失礼しました」
 あはは、と顔は笑っているのに目が笑っていない塩塚を尻目に、瑞垣は手元のくず紙に人物相関図を書き付ける。土佐光起と光信、狩野探幽、激動の時代の絵師たち。
「北野天神縁起絵巻で最も有名なのが『承久本』と呼ばれるものです。鎌倉時代の承久年間の作といわれていますが」
 北野天神といえば、藤原時平の讒言によって太宰府に左遷された菅原道真公を祭る神社である。その縁起絵巻の承久本は日本史のみならず美術史でも有名で、特に巻六、清涼殿における落雷の場面が名高く、内裏にかかる黒雲と雷神の構図が特徴的だ。
「実は、土佐光起も北野天神縁起絵巻は描いている。勉強熱心というなら、まあ自派の作品が見られるなら見るでしょうし、土佐派伝来の資料なんかも残っていかもしれません。勿論、機会があれば、いやどうやっても機会を作って見たでしょうよ、承久本も。御用絵師ですからね。そこで、光起が手を尽くして集めた資料の中にあったらしいんですよ」
 其処で塩塚はニヤリとした。


「狩野永徳の、北野天神縁起絵巻承久本の模本が」


 かのう、えいとくの、
 と、口の中で呟く。それから、はあああああ、と瑞垣は大きな溜息を吐いた。決定打だ。
「あかん、全部ガセや。最悪や」
「え、ええっ、瑞垣さん!?」
「当たり前やろ、こんなとこで同時に二度も永徳の名が出て、本物なわけがあるかい。どっちもフェイクや、阿呆らしい」
 資料の写真も赤鉛筆も投げ出して、瑞垣は長椅子に転がった。ネタの出処が何れにせよ、踊らされた徒労感は拭えない。一瞬でも完全な模本の夢を見た馬鹿馬鹿しさに弛緩した瑞垣に、塩塚は必死に言を継いだ。
「否、瑞垣さん、其処は思案のし処ですよ! 逆にこうは考えられませんか?」
「あ?」
「わざわざ永徳の名が二つも出た。有り得なくはないが類を見ない珍品だ。通り一遍なら明らかにデマゴギー、でも、片方は本物を隠すためのフェイクという可能性ですよ、木を隠すなら森へと言いますでしょ?」
「……用法が正しくない気ィするなあ」
 瑞垣がのったりと顔だけを上げると、卓に広がった地図が目に入った。不自然に頻発する落雷事故、と、狩野永徳筆のはどう関連する? 瑞垣がジロリと睨め付けると、塩塚は相変わらずヘラヘラと笑っている。
 それに塩塚がこうも粘るとなると、少々気になった。
 この後輩は記者らしい抜け目なさと分析力に優れるだけでなく、実はあらゆる能力が高い。平素の軽薄な言動に紛れているが、殆ど異能と呼べるほどに。ただの新聞記者ではあるまい、というのが瑞垣の見立てだが、この手のことに深入りして良いことはない。どこかの諜報員だとして、有益であれば付き合うだけと放っておいた。
 その、不穏な記者が持って来た情報の真意は何だ。
「なんや、塩塚、心当たり……当てがあるんか」
「ええ。其の狩野永徳筆の北野天神縁起絵巻の模本が、落雷事故の原因じゃないかと」
「は?」
「頻発する落雷事故は、北野天神縁起絵巻の雷神が起こしている、という話なんですよ」

 ……
 塩塚の眼鏡の奥の目は、意外にも結構な真面目さで、其れをして却って瑞垣を落胆させた。
「買い被りだったか」
 今度こそ本当に与太話か、と突っ伏した瑞垣に、塩塚は違いますよう、そうじゃないです、と意味の解らない事を言う。
「絵巻から抜け出した雷神が原因だ、みたいな噂が出てるらしいんですが、そんな、此の上海には時平もいませんしねえ、物の喩えで」
「そんな怪談じみた話に、喩えも何もあったもんやない」
 いやいや、ですから、と塩塚は顔の前でひらひらと手を振る。其れから卓上の地図を改めて示しながら云うことには、
「落雷現場の何れも、例の永徳の鳥獣戯画の持ち主、若しくは探し手と噂がある人物に関係する場所でした。然も順序が逆なんですよ」
「逆……?」
 話の発端の租界の外れに屋敷を持つ豪商、大火傷をしたという骨董屋。港の倉庫は美術品も扱う貿易商の物だった。その他の現場も、何れも本邦の美術品、とりわけ大和絵を取り扱う商人や蒐集者という。
 そして、各所の関係者が口々に言うのは、永徳の鳥獣戯画の話はガセ、というより勘違いだと。塩塚は「此処が肝です」と手にした鉛筆をピッと瑞垣の方に向けた。
「……勘違い?」
「ええ、此れが不思議なところでしてね。皆、鳥獣戯画の話は落雷の後に知ったそうです。先に承久本の話を耳にして、各々が四方八方に手を回し始めていた。だから『永徳筆の幻の模本』は鳥獣戯画ではない、承久本のことだと、皆さん口を揃えて仰る」
 噂話の混線、か…
 何れも眉唾物の珍品、ふたつ揃えば尚怪しい。しかし、片方が本物の秘宝のために”造られた”噂であれば、後から出た話がフェイクだ、というのが塩塚の読みなのだろう。最も際物のセンであろうが、其処に張る価値があるとすれば。
「何が狙いや」
 瑞垣が目を眇めると、塩塚もふと真顔になって受ける。
「次の”落雷現場”の候補があります」
「はあ? 次だ?」
「狩野派の作品を収集してる御仁が居るんですよ。海軍の元少将さんですけどね」
「……は、かいぐん?」
 関係者の皆さん、異口同音に話の出所は彼処じゃないかと仰るんですよ、と塩塚は目を細めた。
「上海ではコレクタとして有名だそうです。もう退役されて何年か……日露戦争では秋山参謀の配下だったそうですがねえ」
「日本海海戦の英雄か? 眉唾もんやな」
「いやいや、本物ですよ。ちゃんと勲章も出てますから」
 まあ、確かに少将というなら偽装もできまい。そもそも海軍は面子も限られている、調べればすぐに分かるだろうし、記者相手に無駄な嘘を吐く必要もない。瑞垣は改めて身を起こした。
 で、あるなら、最初に抱く疑問は一つだ。
「其処まで解っとって、何で自分で行かへんのや」
 それがですねえ、と困ったような顔で塩塚は頭を掻く。演技であれば名演であろう。
「僕、あのお家のご主人にえらい嫌われてまして。こんな御伽噺、持ち込む余地がないんですわ」
「嫌われてるて……なんや、胡散臭いからか」
「ご名答です」
 海軍と仲が悪いと云えば、陸軍と内閣府かと考え乍ら、瑞垣は改めて広げられた地図に目を落とし、落雷現場の位置を目で追う。何処をどう切り取っても夢物語の与太話だ。しかしその中で湧いた手掛かりなら、藁より儚くとも縋り付くほかない。
 瑞垣は腹を決めた。


「で、何処のお屋敷だって?」






 ******






 北野天神縁起絵巻、か。


 菅原道真、という男が瑞垣は余り好きではない。当たり前だが逢ったことはないし、専門的に学んだわけではない。
 だが、圧倒的な才覚に余りに真っ当で正直な政治姿勢、それ故の哀れな末路と、苛烈な復讐劇(伝奇だが)の落差にひたすら腹が立つのだ。とりわけ、荒魂を慰撫する為に神として祭られるあたりがいけない。無論、只の八つ当たりである。
「左遷されて怨霊に成ってりゃ世話ねえな」
 口を開くと、乾いた風に乗った黄砂が口の中に飛び込んで来て、瑞垣は顔を顰めた。更に気が滅入る。
 しかし此の先に行くしかない。瑞垣は溜息を吐くと、角を曲がって緩やかな坂を上り始めた。中心街から離れ、租界でも閑静な地区に入っている。富裕層の屋敷も建ち並ぶ。一つひとつの家の敷地が広くなっていくのが解る。
「<東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな> か」
 梅なんぞに恨み言か、未練がましいオッサンや。
 今度は口の中で毒づいて、塩塚が描いた地図に目を落とした瑞垣に影が差した。
「菅公ですね」
 は、と、低い声に振り返れば、
「おや、貴方はたしか」


 長身の、真っ黒な男が立っていた。


 否、白皙の美丈夫、と云っていい。はっとするほど端正な貌の男がすらりと佇んでいる。漆黒の背広は簡素だが良い仕立てだ。ただ、しっとりとした黒い瞳が冷え冷えと感じられる。
 透き通って底が見えぬ沼のように。
 絶句する瑞垣に、黒衣の男は首を傾げる。
「お忘れですか? 以前、烏屋敷で」
「いえ、はい、覚えております。その節はどうも」
 目も眩むような夏に、凄惨な連続殺人事件があった。取材中に事件に巻き込まれた瑞垣は後日、現場となった館でこの男と顔を合わせた。その時は此の男の連れ、というより主人のような男とも軽く言葉を交わしたのだ。
 ただ、彼の時の黒衣の男からは何処か不吉な匂いがしたが、今は落ち着いた……しかしひやりとした……寂しさ、か?
 それこそ晩秋のような気配に瑞垣が眉根を寄せていると、男は何故かふっと微笑んだ。
「ひょっとして、当家に御用でしょうか?」
「はっ?」
「新聞記者の方でしたでょう、であれば」
 と、男は其処で振り返る。
 彼の背にある瀟洒な洋館こそ、瑞垣が探していた小張邸であった。




 黒衣の男は小張家の使用人で、日向と名乗った。
「そろそろどなたかおいでになると思っていました。そう、たとえば上海日日新聞の塩塚君あたりが」
 見抜かれている。
 瑞垣は通された部屋のソファで縮こまった。彼の野郎、と腹の中で舌打ちする。
「私はその、塩塚の……代理のようなもので」
「おや」
 と日向は目を細め、瑞垣の前に茶器を並べた。
 庭に面した小綺麗な部屋に通され、恐縮しきりである。主が海軍の元少将、旧華族の小張家ともなれば、場末の新聞記者など客扱いしないようなものだが、日向は来訪者の扱いを独断で決める裁量を持っているようだ。
 見かけは自分と大して変わらぬ年かと思ったが、もっと年嵩なのやもしれぬ。それに若し、瑞垣が烏屋敷で見かけた男が小張元少将であれば、日向は使用人というより更に主人に近しい間柄であろう。
 家令か、其れこそ懐刀と呼ばれるような。
 そう思った。
 瑞垣がそれとなく室内を伺ううちに、「どうぞ」と出されたのは所謂日本茶で、日向が手ずから淹れたものだ。茶碗からは懐かしい祖国の香りがした。
「美味しいですね」
 思わず零した瑞垣に、日向は今度こそ白い歯を見せる。
「茶としては大陸のものの方が美味とは存知ますが、主がどうしてもと云うので取り寄せましてね」
「それは……そんな高級品を」
「いいえ、粗茶でございますよ。日本の方にはお出しすることにしています」
 そんな訳も有るまいし、鷹揚に過ぎるとは思ったが、瑞垣は大人しく茶を啜った。
 日向は自分の茶も用意した上で、ゆったりと腰掛けた。既に風格が使用人の其れでない。何れ軍人だったのだろうが、隙のない身のこなしも優雅な所作も堂に入っている。
「それで、わざわざおいでになった要件は、やはり狩野永徳の模本ですか?」
 日向の口から、ずばり、というよりそのものの名が出て、危うく瑞垣は茶を吹くところだった。此の男は予備動作なしで間合いを詰めてくる。
「ご存じでしたか、その、模本というのは、」
 北野天神縁起絵巻か、鳥獣戯画か。
 瑞垣が幽かに身を乗り出すと、日向は押し止めるようにすっと立ち上がった。それから隣の部屋に続くドアを開け、瑞垣を手招いた。
 其の部屋はどうやらコレクションルウムのようだ。
 薄暗い部屋にずらりと並ぶ影がゆらゆらと揺れる。
 おそるおそる部屋を覗き込んだ瑞垣が暗がりに目を凝らすと、書や屏風、掛け軸だけでなく、西洋のタペストリーや航海図、中華風の甲冑や景徳鎮の壺、戸棚の上にはチェスボードや渾天儀がある。見事なコレクション、と云いたいところだが、余りに雑多でよく解らない。
「旦那様は作者や来歴、真贋さえ気になさらず、ご自分の目に留まった好きなモノだけお求めになる。コレクタとしては一番贅沢な有り様かもしれませんね」
 昔からそうでしたが、と……
 日向はそう云いながら部屋の中に進むと、此れも見事な細工の引出を開け、油紙の包みを取り出した。それから瑞垣に戻るように促す。
 元のテーブルに着くと、日向は無駄のない動作で油紙を開いて、中のものを披露した。
「こちらが永徳殿の洛中洛外図屏風用の習作です。否、最早、下書きというべきなのかも知れませんが」
「は?」
 滑るような筆使いで描かれた人物と建物、橋、川や山林。荒削りの粗書きに当たるものであっても、絵の中の街は浮き立つような賑わいを見せている。日向が広げる和紙は、相応の年を経た日焼けや虫食いが見られた。無論、其れだけで古いと決めつけることは出来ぬ。しかし、
 真逆、と。
 口に出す寸前で、しかし目の前にある紙から立ち上る薫りに、瑞垣は言葉を飲み込んだ。


 本物が持つ力が有るとして。
 確かに残る気配が有るとして。


「近衛家に所縁のあるお家に伝わっていたそうですが、残っていたのは奇跡でしょう。うちの旦那様が永徳殿の作を殊の外好んでいるのは本当で、こうしたものも自然と集まります」
 おかげで今回の件も方々から引き合いがありましてね、と、まるで朝市での取引を語るような気軽な日向の口調に、思わず貴重な文化財より目の前の男を注視してしまう。
 此の男は、知っているのだ。
 其れは間違いない。瑞垣はひりつく喉をこじ開けて、ようよう問うた。
「では、ほんとうに」
「ございますよ」
 にこりと、日向は笑った。


「狩野永徳筆の鳥獣戯画模本は実在します」


 何とも呆気なく、その、答えは。






「徳川様が江戸に幕府を開かれ、大坂の陣が終わったあとですから、1620年頃でしょうか」
 彼の当時の京はまだ乱世の終焉を信じられず、そぞろ疑心暗鬼の中にいた。
 禁中並公家諸法度が公布された後、応仁の乱からの長きにわたる戦乱で疲弊し、崩壊しかかった朝廷と公家社会を立て直す必要があった。しかし、やはりいつの時代でも旧勢力と新勢力の衝突は起こり、方々で火種がくすぶっていた。
「幕府の矢面に立っていたのは後水尾帝ですが、朝廷内でも色々といざこざがありました。江戸幕府派、旧豊臣派、若しくは滅びたはずの室町幕府に近しい者、有力なお山と繋がる者……内裏は昔から魑魅魍魎の跋扈する場所です」
 後水尾の名に、またお前かと一瞬思った瑞垣だったが、日向の話はまた意外な方面へ進んだ。
「その頃、後水尾帝の信厚く、江戸幕府との連絡役を担っていたのが烏丸光広卿です。歌人、能書家であり、細川幽斎様に古今伝授を受けた文化人でいらっしゃいましたが、一時期、或る絵師と都中を回っておられた」
「絵師?」
「ええ。当時は絵屋と申しておりましたか……所謂、工房ですね。扇や屏風等の装飾を担っていましたが、その俵屋の主は絵師としても大層な腕前で、後水尾帝から屏風を所望されたとか。確か、通称は宗達」
「俵屋……俵屋宗達ですか!?」
 はい、と日向は頷く。
 此れはまた意外な名が出た。こちらも江戸初期の巨匠だが、何故か明治期までは評価が低かった。しかし近年行われた記念展を契機に再評価され、建仁寺の風神雷神図屏風が国宝に指定された筈だ。そのあたりは瑞垣も覚えがある。
 風神雷神図屏風……
 彼のたらし込みと呼ばれる手法と、大胆な構図と独創性が際立つ傑作だ。
「其の烏丸光広卿と俵屋さんが仁和寺にいらしたのです。当時、鳥獣戯画は後水尾帝の叡覧の為、高山寺から仁和寺に移されておりましてね、其処で俵屋さんが写しを描くことになりました」
 仁和寺?
 余りの情報過多に追いつかぬ。瑞垣が其の経緯を問い直そうと腰を浮かしたところで、


「まるで見て来たようだな」


 すこし甲高いような、金属的な響きに、瑞垣がはっと振り返る。
 庭から来たのか、人影がひとつ現れている。其れに僅かに憂うような貌になった日向が、機敏に立ち上がって人影に近付いた。影は杖を突き、幽かに左足を引き摺るように進む。日向が手を貸そうとするが、煩そうに断った。
 そうこうするうち其の影が光の当たる場所に足を踏み入れ、艶やかな姿が現れた。深い翡翠色の長着を無造作に着付け、羽織を引っ掛けているが、其れが些かも崩れた印象を与えない。
 嗚呼……
 人影は予想通り、この屋敷の主である小張元少将だった。


 小張少将は相変わらず雛人形か役者のように整った顔の男だったが、以前、烏屋敷で見かけた頃より覇気がない。元より色白ではあったが、更に白く、やはり頬の当たりも窶れたように見える。何処か身体に不調でも、と瑞垣は内心首を傾げた。
 少将はゆっくり時間をかけて歩を進め、ベランダにある安楽椅子に身を投げ出すように座る。そして、ずい、と少将が無造作に突き出した杖を受け取った日向は、彼に膝掛け掻い巻きを大袈裟なくらいに羽織らせていった。少将は面倒くさそうに眉を顰めていたが、わざわざ引き剥がすようなことはしなかった。
 つと、日向が少将の髪を整えてやる。
 少将は為すがままだ。
 そして、その少将が無言で手を差し出すと日向が煙管を渡す。続いて煙草盆が差し出され、少将が典雅とも言える動作で吸い付ける。それは決まり切ったルーティンのように淀みなく進んだ。
 男の一挙手一投足は其の意図も判断も過たず相手に伝わり、男は相手の望みに過不足無く絶妙の間で応えていた。
 言葉以外の何もかもが雄弁だった。
 呑まれたように呆然とする瑞垣に、日向がふっと振り返る。
「茶を煎れ直しましょう。少々お待ちを」
 そこで瑞垣はようやく茶の存在を思い出し、一気に茶碗をあおった。今さら礼儀などどうでも良い。カラカラだった喉が少し潤い、ふう、と思わず息を吐いた。
 それを見て、日向はまたふふっと笑った。




「貴様、確か記者だったろう、烏屋敷で逢うたな」
「は、帝都新聞の瑞垣です」
 直立して応える瑞垣に、わかった、というように小張少将は手を振った。それから、「そこは遠い、もう少し寄れ」と命じた。他人に命令し慣れた、しかも一切有無を言わさぬ圧力の或る声だった。
 瑞垣は諾々と従い、ベランダ側の椅子におそるおそる腰掛けた。
「あのときの……なんといったか、球根はどうなった? 持って帰ったのだろう?」
 烏屋敷から引き受けたラナンキュラスの球根は、家主が丁寧に手入れをした上で保管され、つい先頃、植え付けたところだ。そう応えると、少将は意外にも柔らかく微笑んだ。
 カツン、と煙管から灰を落とし、更に瑞垣に問い掛ける。
「それは何よりだ。咲くのはいつ頃だ?」
「確か、春……3、4月頃という話でしたが」
 そう応えると、一瞬、少将は片眉を跳ね上げる。が、もう一度、今度は寂しそうに笑う。
「来年か……それは、遠いな」
 と。


 改めて間近に見ると、小張少将は異様に若い。
 麗しい容貌も相まって三十路ほどにしか見えぬ。
 だが日本海海戦時に将校であったなら、疾うに四十も半ばは過ぎているであろう。第一次世界大戦にも従軍し、その時の怪我が元で長時間の乗船が出来なくなり退役したというのは塩塚の情報だ。
「甲板に立っていられない水兵は用無しだ」
 というのが退役に当たっての弁だという。
 確かに海軍はそも少数精鋭、喩え将校であっても、乗船すれば水兵の一人としての働きが求められることもあろう。彼の足の瑕であれば退役も止むなしかも知れないが……それ以上に、瑞垣は此の御仁の衰えが気になった。
 儚い、と云っていい。
 艶やかな黒髪は伸びるに任せているようで軍人らしさからはほど遠い。恐らくは殆ど人前には出ていない証左だろう。長い睫毛が痩せた頬に影を落とす。
 元々は親王のひとりとご学友だったという話だが、海軍兵学校で頭角を現した。ハンモックナンバーは3位以内、現役当時からその才覚は群を抜き、そのまま軍属であれば次期参謀長候補だったという。端麗な顔に似ず鬼神のような用兵から、剃刀とまで呼ばれた将校の面影はなかった。


 ただ、それでも、酷く美しいひとだった。
 
 瑞垣が継ぐ言葉を探すうち、日向が戻ってきた。 
「金平糖もありますがいかがですか」
「は、はあ」
 古式ゆかしい砂糖菓子の瓶と共に、先程より濃い茶が出される。見れば、少将は小さな金平糖の粒を摘まんで、陽に透かしたりしている。
 なんだか微笑ましい。
 本来の目的を忘れ、其の様子をぼうっと眺めていた瑞垣に、日向の深い声が降りかかった。
「それで、仁和寺のお話でしたか」
 瑞垣は「はい」と応えて慌てて座り直す。
「私は以前、仁和寺に居りましてね、永徳殿の鳥獣戯画模本の話は、僧たちの間でまことしやかに語り継がれておりました」
 えっ、と思わず口に出していた。日向は僧籍にあったということか。彼の整った顔を見返して、慌てて「海軍の方だとばかり」とぼそぼそと言い訳を重ねる瑞垣に、日向はまた淡く笑んだ。
「ずいぶん昔の話でございますよ。それに正式な日記や縁起であればともかく、僧坊で耳にした、あくまで噂話、昔話……公になることはございません」
 仁和寺、といえば真言宗御室派の総本山である。
 天皇家や朝廷との関係が深く、皇子や皇族が別当を務め、御室御所とも呼ばれていた。また徒然草の『仁和寺にある法師』の話はあまりに有名である。広大な伽藍と豊富な文化財を有し、其の歴史からすれば先程、日向が語ったような出来事は自然な話ではある。
 そもそも、鳥獣戯画が保管されている高山寺は真言宗御室派であり、戯画が作成されたのは仁和寺ではないかとの説もあるのだ。
「其の昔話に依れば、俵屋さんが鳥獣戯画を写すことになった丁度その頃、仁和寺を訪れた方がありました。狩野孝信殿、永徳殿の次男で、探幽殿の御父上です」
「は……かのう、たかのぶ」
 瑞垣は摘まんだ金平糖もそのままに、オウム返しをする他ない。
 其の横で、茶飲み話の延長のように小張少将は言う。
「永徳の息子なら光信だろう。余り似てはおらなんだが、花鳥図を好く描いた」
「孝信殿は光信殿の弟御ですよ。光信殿も早くお亡くなりになりましたので」
 兄の死後、実質的に狩野派を統率することになった孝信は、江戸には狩野派宗家の貞信と息子の探幽を遣わし、自身は本拠地の京都に居た。そして其の孝信が鳥獣戯画が暫し仁和寺に止め置かれるとの噂を聞きつけ、或る物を携えて訪ねてきたという。


「孝信殿がお持ちだったのです、お父上の永徳殿がお描きになった鳥獣戯画の模本を」


 そういう……仕掛けか。
 瑞垣は息を呑む。
 丸っきりのお伽話、と、話を聞いた当初は形を取らなかったものが、今、まさに可能性を持って姿を現す。
「ほう、永徳もいつの間にそのようなものを描いたのか。そうさな……さき様、近衛前久様の伝手か?」
「いいえ、恐らく義輝様でしょう」
 小さく首を振った日向に、少将はむっと鼻白むような様子だった。
 義輝、とは室町幕府第十三代将軍足利義輝であろう。永徳の洛中洛外図屏風は義輝の発注であったというし、その頃の永徳は将軍家御用達の絵師であり、当代一の絵師だったのだ。鳥獣戯画閲覧も許されていたかも知れない。で、
 あるならば。
 今度こそ瑞垣は腰を浮かした。
「それでは、もしや」
「ええ、室町幕府滅亡の際に失われてしまった断簡も含め、室町の頃の戯画を写した模本であったと」


 本当に、存在したのか。
 狩野永徳による完全なる模本、は……


「そこで、俵屋さんは永徳殿の模本も合わせて写したいと孝信殿に申し出た。孝信殿も否とは申されません。ただ、」
 逆に、狩野孝信は俵屋宗達に条件を出した。
「その頃の俵屋さんは、北野天神縁起絵巻承久本の写しをお持ちだったのです。承久本の模本と、其れを元にした、新たに手掛けることになった風神雷神図屏風の習作を。孝信殿はその事をご存じだった」
 此処で『北野天神縁起絵巻』が……
 瑞垣の脳髄が痺れた。
 鳥獣戯画も北野天神縁起絵巻も『或る処』にしかない。見られる人間も時期も限られている。写しでさえ貴重であり、しかも描き手は都で評判の絵屋の棟梁……狩野派を支える孝信としては、是非とも見たかったに違いない。
 そして取引を持ちかけた。
 小張少将は鋭く顔を上げる。
「……交換したのか!」
「はい」
 きっぱりと頷く日向の姿は既に掻き消え、しんと静まり返る部屋に、巻物が広げられる音や墨を摺る音が聞こえるようだった。


 永徳の鳥獣戯画と、
 俵屋宗達の北野天神縁起絵巻が入れ替わる。


「本物であれば色々と制約もございましょうが、模本であれば自ずから当人たちの勝手になります。孝信殿も俵屋さんも、随分と楽しそうに各々の模本を見比べ、技量や技法について語り合った……そういう、昔話です」


 むかしばなしは物語る。
 遙かな時を超え、幾度の危機を潜り抜け、受け継がれた絵巻たち。
 そして絵師たちは踊る。
 ようやく訪れた太平の世の為に、新たに描くものを、夢を、大志を。


 狩野探幽は祖父、永徳の鳥獣戯画模本を元に鍛錬した。其れが今も残る探幽の鳥獣戯画習作である。
「また恐らく、孝信殿の持ち帰られた俵屋さんの承久本もお写しになった……合わせて、風神雷神図もお描きになったやも知れませんね」
 天才絵師たちの作品は交錯する。
 然うして、宗達の北野天神縁起絵巻の模本は狩野派の保持するところとなり、永徳の鳥獣戯画の模本は烏丸光広が預かったという。
「その後、永徳殿の鳥獣戯画は細川家に受け継がれました」
「ほそかわ? 何故だ」
「細川忠興様の御息女が光広卿の御嫡男にお輿入れした縁かと思いますが、細川家は御内証も豊かですので」
 江戸時代、というより武家の支配が続く時代、公家は余程の家格であっても財政は苦しかった。十三名家の烏丸家としても例外ではない。貧して貴重な文化財を手放す前に、名家細川に引き取られたのは僥倖と云うほかなかろう。
 しかし、暫し眉根を寄せていた少将はぼそりと呟いた。
「……日向、お前、娘婿を脅したな?」
「真逆、人聞きの悪い。お願いしただけですよ」
 涼しい顔の日向は、また流れるような所作で茶を注ぎ、煙草盆を整えながらまた、淀みなく物語る。
「一方の北野天神縁起絵巻の方は孝信殿に預けられたのち、狩野派の『誰か』の筆となっておりましょう。土佐光起殿がご覧になった模本やもしれませんが、其れもまた良しとせねば成りますまい。そして、風神雷神図屏風の習作は行方が判らなくなっていたのですが……」
 其処でようやく、彼は瑞垣を真正面から見据えた。


「探しておられるのですよ」


 えっ、と。
 彼の黒く、澄んだ、深い泉のような瞳が。
 ぞわりと、瑞垣は総毛立ち、茶碗を手にしたまま固まる。頭の中を直に覗き見られているような、気配。


 嗚呼、やはり此の男は不吉だ。


 しかし、日向はまた柔らかく笑むのだ。
「俵屋さんの風神雷神図は……瑞垣さんがお持ちでしょう?」






「だれが」


 はっ、と。
 少将の声に、瑞垣は我に返る。一瞬で呑まれていたことに気付く。
 ふっと部屋の空気が解けるのが分かった。
「誰が探している? 其の風神雷神図とやらを」
 強い声音に日向は肩をすくめる。
 冷静な少将の問いだのに、しかし昔話は更に奇妙な捻れを見せる。
「俵屋さんですよ」
「あ……? 描いた絵屋か。何故、自分の物を探す? 散逸したとしても気配を辿るのは容易かろう」
「其処が難しいところなのです」


 何を、云っているのか……
 此の男たちは何を話している?


「モノ、というのは縁がなければ存在し得ない」
 諭すように主に言い切ってから、日向は再び瑞垣に視線を戻す。
「生きものであれば魂があればいい。しかし魂のないモノは縁を辿るしかない。モノは、誰かの目に留まって其の手で触れられて、初めて姿を得るのです」
 日向は手の中にある青磁の茶碗に目を落とし、ただ語る。
 この茶碗も、見る者、使う者が居なければ元の土塊と同じ。
 ヒトとの縁を取り戻してはじめてモノは理を得、此岸に在ることが出来るのだと。
 天才絵師の風神雷神も、まさにお蔵入り、其の存在自体を忘れられてしまえば、手に入れるのは難しい。
「ならば、まず縁を復すところから始めねばなりません。藤孝様からご相談があったときは随分難しいお話だと思いましたが、どうやら不思議な理で、雷神が逃げたと俵屋さんが仰る」
 まるで解らないことを云う日向は、ふと、手元の茶碗を捧げ持つ。
 と、ぱきりと割れた。
 目を見張る瑞垣の一方で、少将はなにと云うことも無く「無体なことをする」などと呟く。
「こんなふうに……本来、別たれる筈のないモノが別たれたのです」
 一対の風神と雷神が、何故か片割れだけ『外』に出た。
 ただ、残された風神は、未だ結界の力が強く手が出せぬ。
「京の都であれば何らかの手も打てたでしょうが、どうも東京に移ったようで……彼処は難しいのですよ。将門様の首などよく思いついたものです」
「なにを他人事のように。お前が唆したようなものだろうが」
「……何れにせよ、風神雷神が歪な形で在るには訳がありましょう」
 モノとヒトをつなぐのが縁なら、持ち主が手放す、不慮の事故で所有権を失う、そういった理由では一対のモノが別たれる様な事は起こらない。
「ならば持ち主の方にも、一対の魂が別れるような事があったかと当たりを付けておりましたが……そのうち、俵屋さんがようよう此の上海で雷神を見つけましてね。しかも、」


 春頃から、雷神がそぞろ現れる。


「もしや相方に何かあったかと思い、承久本の噂を流してみましたが、いまひとつ届かない」
 上海も広うございますからね、と。
 長閑とさえ言える口調で、在るはずの無い物語を語る男は。
「そこで、永徳殿の鳥獣戯画をお借りして少し囲いを広げてみたのです。やはり永徳殿のお名前は大きい。おかげで少々話が錯綜してしまいましたが……余りにぼやぼやしていては、雷神が痺れをきらして外灘を焼き払うかも知れませんので、止む無く」
 清涼殿に落ちた雷では数多の死傷者が出たことですし、と、困ったような顔をする小張家の使用人は。
 鳥獣戯画、狩野永徳、承久本、そして落雷事故。
 若し、宗達の風神雷神と縁がある者があれば自ずから此処に赴くよう、日向は布石を打ったのだ。


 そうして、飛んで火に入る夏の虫の如く、瑞垣は罠に掛かった。


「縁を復せば、対の神々も戻りましょう」
 日向はそう云って嗤うと、また割った茶碗の割れ目を合わせ……すっ、と、青磁の器は元の姿を取り戻す。


 そうか、此の男は終わりを決める男だ。


「藤孝の頼みか。面倒な事をよくも引き受けたものだな」
 呆れたように一つ息を吐いた少将は、ふっと其の美貌を瑞垣に向ける。


「それで貴様、心当たりはあるか」


 そう……
 少将に問われて、瑞垣は漸くこれが自らの物語であることを悟った。






 ******






 瑞垣は重い足取りで家路を辿っている。


 『絵巻特売のお知らせとか』


 何時ぞやの塩塚の軽口が蘇る。
 ……そう、あったのだ、絵の投げ売りは。
 否、若しかするとあれも何かの符牒だったのか。錦市場から一本裏道に入った目立たぬ辻に、まるで百年も前からあるような古びた古道具屋。帝大生だった瑞垣は、ひょんな事で行き逢った其の店を冷やかした。
 年老いた風にも若いようにも見えた得体の知れない店主は、あれを「宗達の風神雷神図屏風のレプリカントだ」と言ったのだ。其れはそうだ、模写ならともかく、習作とは云え真筆があんな処にあろう筈もない。はずもないが。
 あったのだ。
 たしかに、不思議な絵ではあった。嵐の日によく騒ぐ。
「俵屋宗達は本物の風神と雷神を彼の屏風に閉じ込めたー云いますねん。今でも、建仁寺の住持の目を盗んでは嵐の夜に抜け出すいう噂どす」
 薄笑いを浮かべる店主の声を思い出す。
 瑞垣とて信じたわけではない。そんなのは与太話にもならぬ戯れ言だ。確か梅の花咲く時分の、佳い日和に出会った珍品をひとつ贖ってみただけだ。本当に、只の気紛れであった。
 だからその、戯れ言を、徒に……当時のルウムメイトに仕掛けたのだ。
 この風神と雷神は嵐の夜に偶に抜け出す、と。


 それくらい、
 ルウムメイトは……彼とは、当時とても親しい間柄だったのだ。
 迚も。


 だのに、瑞垣は京都を去るとき彼に何も告げずに大学を辞めた。殆ど出奔のように。多くのモノを遺し、縁を切り捨て、様々な不義理をして飛び出した。彼の絵もチェスボードも、二人で過ごした部屋に置き去りのまま。
 だから彼は、恐らく、
 此の魔都に彼の絵を持って来ている。




「では、言い訳を聞こうか」
 瑞垣が語る顛末を一通り聞いたあと、彼は開口一番そう云った。
 其の貌を見て、瑞垣は自分のしてきたことを激しく悔いた。過去の行いは無論だが、此の街で彼と再会したとき自分が先ず何を為べきだったのか、思い知らされた。
 瑞垣は、彼がずっと腹を立てているのだと思っていた。が、
 違った。


 彼は、哀しんでいたのだ。
 そして待っていたのだ。ずっと。


 卓を挟んで向かい合う彼は、酷く静かな面持ちで此方を見ている。
「悪かった」
 頭を垂れる以外に出来ることなどない。
 然し其れは己が為であろう。瑞垣は臍を噛む。勝手に退学したことも、逃げる様に京都を去ったのも、詰まらない嘘を吐いたことも、それはそれは酷いことだったのだけれど。
 本当は、許しを請う前に、先ず自分は再会を喜ぶべきだったのだ。
 そして自分も確かに待っていたのだと、彼に伝えねばならなかったのだ。それから、


 それから


 頭を下げる瑞垣を暫し眺めた彼は、ひとつ、大きな溜息を吐いた。
「ヒトとモノの縁、か……」
 がたり、と家主は腰を上げる。
「俵屋宗達の本物の風神雷神図であれば、どんな曰くがあってもおかしくはなかろうよ。況してやお前が戯れに呪を掛けた、そういう話じゃろう」
 それから部屋の一角、彼の失われた家族の写真が立ててある棚に向かう。瑞垣が罪悪感から余り触れていない場所だった。引出を開け、古びた文箱を取り出す。件の古道具屋で贖ったままの黒塗りの、何の変哲もない文箱だ。
 彼が卓の上に其れを置くと、カタリ、と乾いた音を立てた。
 二人、暫し其れを眺めた。
「お前がいなくなってからは開けとらん。その御伽噺とやらが真であれば、今、此の中には風神だけが居ることになるな」
「……せやな」
 開けて、見るつもりはなかった。
 日向の言を借りれば、縁を繋げば一対のモノは元に戻るという。
 瑞垣が京を離れた時にこの中から雷神が抜け出たとして、こうして海を越えて来た風神が揃ったならば。
 此の魔都で、自分と彼が再び出会ったならば。


 そうして再び結ばれた縁に、続く怪異の決着を見るか。


 漸く、瑞垣は家主の手を取った。
 初めてそうするように、其の手の甲に口づける。
「本当に、待たせて悪かった……それから、」




 <梅の花 紅の花にも 似たるかな 阿呼がほほにも つけたくぞある>








 小張家に貞吉少年を使いを出すと、諾と返事が返ってきた。
 いつでも良いと。
 せめて穏やかな小春日和を選んで、瑞垣はようよう腰を上げた。


 瑞垣は件の文箱を携えて、緩やかな坂を登る。
 空の青は淡く、吹く風は薄い。先日の訪問から幾らも日が経っていないが、また季節が一段進んでいる気がした。あと十日もすれば冬に足を踏み入れるだろう。
 小張邸の門に近付くと、長身の影が見ゆる。近付けば案の定、黒衣の日向だった。今日は満州服だ。
「よくおいで下さいました」
 小張家の秀麗な家令は、相も変わらずゆったりと笑う。
 訪問の時間を知らせた覚えはないが、何れ此の男も人外の範疇だ。であれば、雷神からの前触れでもあったのだろう。瑞垣は黒衣の男に黙礼した。




 日向はそのまま瑞垣を庭に案内した。
「この屋敷にも梅がございますので、そちらへ」
 旦那様は桜がお嫌いなのですよ、と云う。桜が嫌いという軍人は稀だ。はあ、と瑞垣が目をしばたいていると、広い庭に確かに好い枝振りの梅が植わっている。そして、庭の中程には椅子と卓が設えてあり、小張元少将が待って居た。
「遅いぞ」
 そう云って笑う少将は、今日は洋装だ。薄鼠の三つ揃いを洒脱に着こなし、髪も丁寧に撫で付けている。先日より随分と血色も良いようだ。
 瑞垣が挨拶しようとすると、煩そうに手を振って「さっさと座れ」と云う。こちらへ、と日向に促され、瑞垣も腰を下ろした。先日と同様に日向手ずから茶を煎れてくれる。
「今日は三河の干し柿が手に入りましたので」
 どうやら、この屋敷の主は甘党らしい。
 瑞垣が懐かしい駄菓子を眺めていると、小張少将は至極残念そうに溜息を吐いた。
「しかし貴様、五体満足だな。殴られるか刺されるかぐらいするかと思うたが」
 少将や日向に、絵巻を手放した経緯を話した訳では無い。しかし、此の男たちにそんな尋常な道理が通じるとは思われなかった。別れた妻が自分を追って上海に渡って来た、くらいには思われているだろうか。
「も、申し訳ございません……?」
 反射的に謝る瑞垣を他所に、「旦那様、若者を揶揄うものではありません」と日向が主人を窘めている。
 と、ふっと日向が顔を上げた。


「お出でになったようです」


 えっ、と瑞垣が聞き返す前に。


 カッ、と
 浅葱色の青天に、俄に紫電が閃いた。


 落ちる、と思わず腕を上げた瑞垣だが、その後に来るべく衝撃はなかった。
 ただ、雷を受けたように見えた庭の梅の周囲の空気が、ゆらり、と震える。陽炎のように木が歪んだかと思うと、揺らぎが結晶化するように、ぽつんと人影が現れた。
 この事態に微動だにしなかった日向が、滑るように其の影に歩み寄った。
「お待たせ致しました、俵屋さん」
「……いいえ、此方こそ、日向守様には本当にお世話になりました」
 人影はゆっくりと首を振る。
 そして見る見るうちに徐々にヒトの形を為してきた。
 顔立ちは整ってはいるが、何処か浮世離れした風情のある男である。町人髷の出で立ちは商家の若旦那というよりは確かに職人のような。俵屋と呼ばれた男は柔和な笑みを浮かべ、庭を見渡した。
「あちらは……右府様でございますか。お騒がせして申し訳ないことです」
「此の手の話はお好きなのですよ、お気になさらず。それから、彼方が今の持ち主のかたです」
「そうですか、わざわざご足労頂いて」
 男は……宗達は、瑞垣に腰を折るように頭を下げた。
 その横で日向が投げかけてくる視線に、少将は浅く頷いた。それから瑞垣に顎先で示す。
「渡してやれ」
 否応など在るはずも無く、瑞垣は慌てて文箱を手に立ち上がった。
 自分が震えていないのが不思議でさえあった。


 近付けば、宗達は確かに此岸のものではなかった。ゆらゆらと輪郭が揺らいでいる。
 文箱は瑞垣から日向に手渡され、日向が宗達の前に掲げると、絵師はふわりと微笑んだ。
「よう……お帰り」
「建仁寺の屏風では、足りませんでしたか」
 日向の問いに、宗達は小さく首を振った。
「いいえ、そういう訳では。此方を……先に描きました。光広さまとのお約束でしたので」
「烏丸様と?」
「はい。承久本の写しをした際に、私の……雷神が見たいと、仰せでしたので」
 宗達のはにかむような笑みに、日向は柔らかく目を細めると「成る程」と頷いた。
 すると、宗達の声に呼応するように文箱がかたりと音を立て、刹那、小さなつむじ風と火花が。
「揃いましたね」
 そうして日向は文箱を納め、宗達は改めて深々と一礼する。
「この度はお手数をおかけ致しました。改めまして厚く御礼申し上げます」
「いいえ、何ほどのものでも。烏丸様にもくれぐれもよろしくお伝えください」
 そう、日向が言い終えるやいなや。


 現れたときと同じく唐突に、
 今度は、


 轟!
 と鳴った突風に、思わず瑞垣は目を閉じる。


 はっと瞼を開いたときには、既に其処には何も。
 ただ、ほど近い枝に一輪、梅が咲いていた。


 紅梅だった。






 瑞垣がしばらく紅梅を見つめている横で、日向が、ふうとひと息吐いた。
 此の男でも相応に力を入れていたのか、と思うと、なんだか笑えてきた。瑞垣も大きく息をする。庭を包む気に、幽かに梅の香が混じっているような。
「さて、これで絵巻は元通りに……此方には永徳殿の鳥獣戯画が戻りました」
「えっ?」
 この文箱に、と改めて日向は手の中のものを掲げた。瑞垣が持参した風神雷神図が『元通り』に成ったというなら、宗達が借り受けた狩野永徳の鳥獣戯画の模本が戻って来た事になる。が、
「瑞垣さん、お持ちになりますか」
「い、否、それは……」
 そんな、文字通り国宝級の文化遺産を手元に置く気にはならなかった。中身には……多少、興味はあるが、それはどうも、


 後には引けぬような。
 今ならまだ夢物語で済む話が、
 見たら最後……戻る道は屹度、何処にもない。


 磁場を持つような文箱から半歩身を引き、瑞垣は丁重に断った。
「私には過ぎた物ですので……」
「欲の無いことだな」
 声の主を振り返れば、鷹揚に構える少将だったが何処か詰まらなさそうに見ゆる。続けて日向に問うた。
「何者だ、烏丸光広というのは」
 手の中の文箱を見つめていた日向は、すこし笑った。
「あの御仁は帝の……正親町院の遺した鵺でございます」


 ぬえ?


 鵺とは顔は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇の伝説上の生きものである。夜に不気味な声で啼く化け物として平家物語等に描かれており、転じて得体の知れない人物を指すようになったが、正親町天皇の鵺、とは……?
 瑞垣がまたもや困惑するのを他所に、少将は何かを得心したのか呆れたような顔になる。
「なんだ、藤孝の頼みではなく、帝の御為か」
「……徳川様の鵺でもございますよ。恩は売るものです」
 ふん、と鼻を鳴らした少将は、次は瑞垣の方を向くと言い放った。
「痴話喧嘩の延長で上海租界を焼け野原にするところだったぞ。たわけが」
「はっ?」
 まあ良い、と頷いた少将は目顔で日向を呼び寄せた。黒衣の家令はまた滑らかな足取りで戻っていく。
 日向は卓上に件の文箱を置き、主を促したが、少将は首を振って中を改めようとはしなかった。


 恐らく、写すこと自体が喜びだったであろう。
 本邦の絵師であるならば……
 其れが安土桃山時代の巨匠、狩野永徳であっても。




 然うして描かれた絵巻は、果たして




 少将はひととき、紅梅を見遣った後、
「永徳の鳥獣戯画は預かろう。そのうち細川に戻すか、宮城の連中に渡してやれ」
 前半は瑞垣に、後半は日向に向けて促してから、つと手を伸ばす。間髪入れず、日向が其の手を取った。
「瑞垣とやら、わざわざご苦労だったな。代わりに我が家の蒐集物をくれてやろう。好きな物を持っていけ」
「えっ」
 彼の部屋のコレクションを、ということだろうか。問いを重ねる前に、少将は腰を上げて日向に寄り掛かる。と、日向は軽々と其の身体を抱え上げた。黒衣の男は首に縋り付く主に「もう宜しいのですか」と問い、主は「よい。あとは好きにしろ」と家令の耳に囁く。
 そして、
「お前も片割れにはよくよく詫びておくんだな」
 と、家令の肩越しに少将は美しく嗤った。
 日向は「暫しお待ち下さい」と瑞垣に言い残すと、主を抱えたまま母屋の方に向かった。
 そう云えば杖がなかったな、と……
 瑞垣はそのまま、庭の中にぼんやりと佇む。視線を上げれば、たった一輪だけ咲いた紅梅の向こう、西の空の底からじわりと紅色が滲んでくるところだった。


 嗚呼……
 秋が終わる。


 瑞垣が随分と冷えた空気の中でひと息吐くと、軽やかな足取りで日向が戻ってくる。
「いつまで経っても、我が儘なひとで」
 囁くようにそう言って苦笑する日向に、瑞垣は尋ねてみようと思った。
「あの、少将さま……小張様のお体の具合は」
 どうなのでしょう、と、慎重に切り出した瑞垣に、ああ、と彼はひとつ頷く。
「ひと頃より大分よくなったのですよ。此の件に随分とご興味をお持ちで、今日も楽しみにしておられましたのですが……訳を聞いたら聞いたで、」
 烏丸様が羨ましくなったのでしょう、と、不思議なことを云った。
 この庭で目にしたもの、耳にしたことの大半が信じられない話ばかりで、瑞垣は其れを問い糾す気にはなれなかった。何れ……御伽噺のうちに還るのだから。
 さて、と日向は卓上を片付けつつ、立て板に水と語る。
「お好きなものをお持ち下さい。永徳殿の作であれば、先日の洛中洛外図屏風の習作以外にも何点かございますが、茶器も幾らか。土蜘蛛はございませんが、曜変天目茶碗ならひとつございます。あの茶碗は旦那様のお気に入りでしたが、験が悪いといってもう、お使いになりません」
 ご覧になりますか等と、何故か楽しそうに語る日向に、はあと気の抜けた返事をする。
「ああ、金平糖もお持ち下さい。沢山ございますので」
 云いながら、改めて大事そうに文箱を取り上げた日向の方に、瑞垣は一歩、進み出た。
「それでは、あの、」








「それで、これが、」
 と、家主は卓に置かれた其れを見詰め、暫し口を噤んだ。
 本件では三回目の瑞垣の語りだが、今回は明らかに尋常ならざる出来事ではあった。然し、やはり彼は疑義を呈する事も無く、黙って瑞垣の話を聞いていた。
 夜になって風が出来た。
 カタカタと鳴る窓の方を一瞥し、彼は「梅か」と呟く。それから、
「随分と欲のないことじゃな」
 少将と同じ感想を口にして、それでも瑞垣が持ち帰ったもの……チェスボードを手に取った。開けば洒落た駒が並んでいる。海軍時代の物だそうで、各駒が船や港のものに見立てられた細工になっていた。
 少将は将棋とチェスの名手だそうだが、陸に上がってからはまったく使う事も無くなったという。対局する相手はもう居ないと。瑞垣がそう伝えると家主は、
「そうか」
 とだけ頷いた。
 其の横顔はいつも通りに静穏で、その内側は窺えぬ。
 家主の様子を横目に、瑞垣は新しい茶を煎れる。彼が持ってきたチェスボードは記者倶楽部かその近くのカフェーにでも持っていこう、と決めた。ヒトとモノの縁があると云うのなら、一度縁が切れたモノを使うのは験が悪い。
 黙ったまま茶碗を彼の前に並べ、合わせて持たされた金平糖を幾らか皿に出した。
 彼は砂糖菓子の粒をひとつ摘まむと、ほろりと呟く。
「……狩野永徳は、新しい鳥獣戯画を描くつもりがあっただろうか」
「は?」


 数百年の時を超えて受け継がれた絵巻を写す、男が。
 天下人に乞われて絵を描く、時代の寵児だった男は。


 其れこそ、甲乙丙丁の四巻に続く新しい絵物語の構想を練りながら、筆を運んでいたのやも知れぬ。
「そうさな……宗達も承久本の雷神に触発されて、新しい風神雷神図を描いた」
 本人の言を借りれば烏丸光広の求めに応じて、と云う。
 過去の傑作と出会い、触れて、新しい絵を描きたくなるのは絵師の本能であろう。其の筆の趣くまま、誰も見たことの無い世界を。
「絵巻を写すうちに、続く新しい絵を描くつもりが……覚悟は、出来たかもしれんな」
 瑞垣の脳裏に、金平糖を光に透かす少将の顔が蘇る。


 詞書きも着色もない、
 然しだからこそ、雄弁に物語る絵の中の生きものたち。
 描くことで過去と未来と夢と現と対話し、新たな物語を紡ぐ喜びを!


 そして、新しい絵を待つひとが居る幸せと。


「ヒトとモノを繋ぐ縁、か」
 彼はそう云うと、金平糖を口に放り込み、「甘いな」と笑った。
 それからチェスボードから駒を取り出し、茶碗を片手にきりきりと盤に駒を並べ始める。瑞垣はそんな家主を眺めながら、ひしゃげた煙草に火を点けた。
 ゆらり、と紫煙が立ち上る。
 其処で六つほどゆっくりと数えると、彼は立ち上って窓辺に近寄る。と、事もなげに窓を開け、振り返る。
 瑞垣を見る。
「まァ、何にせよ、決着がついたところで」
 一局、と。


 彼はニコリと笑った。


 此処でも、やはり瑞垣に拒否権はないのだ。
 瑞垣は大仰に溜息を吐いてから、まだ長い煙草をもみ消した。








 そう言えば、春になったら……
 瑞垣は思い出す。
「またいずれお越し下さい。次の春、ラナンキュラスが咲く頃には屹度」
 旦那様が楽しみにされておりましたので、と。
 小張邸からの去り際に、黒衣の男はそう云って何故か、淋しそうに笑った。


 つぎの、はるには……
 彼の庭の紅梅も美しく薫るのだろう。










































 まさか、こんなところで自分が10年くらい前にふったネタを回収することになるとは、と…
 あ、キャラの名前があれなのはご勘弁を!いやだって!!
 もともとは鳥獣戯画のすべて展で四巻まるっと見たときに、これ、どこかに完全な模本があったら…? という妄想から発展したネタですが、バテリやらジョカゲやら風神雷神やら、いろんなところで生じたネタの集大成というか、伏線回収回なんですよ。そしてなにより、うちの光秀とノッブが書けて良かった。ちょっとこの時代の二人も終盤なんですがね。
 このお話の前に『夜の烏』という連続殺人事件ネタがありますが、こちらも塩塚くん出して書き直す野望があります。GWまでに出来るかな。

2022.01.30収録



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