鳥獣戯画異聞
……
塩塚の眼鏡の奥の目は、意外にも結構な真面目さで、其れをして却って瑞垣を落胆させた。
「買い被りだったか」
今度こそ本当に与太話か、と突っ伏した瑞垣に、塩塚は違いますよう、そうじゃないです、と意味の解らない事を言う。
「絵巻から抜け出した雷神が原因だ、みたいな噂が出てるらしいんですが、そんな、此の上海には時平もいませんしねえ、物の喩えで」
「そんな怪談じみた話に、喩えも何もあったもんやない」
いやいや、ですから、と塩塚は顔の前でひらひらと手を振る。其れから卓上の地図を改めて示しながら云うことには、
「落雷現場の何れも、例の永徳の鳥獣戯画の持ち主、若しくは探し手と噂がある人物に関係する場所でした。然も順序が逆なんですよ」
「逆……?」
話の発端の租界の外れに屋敷を持つ豪商、大火傷をしたという骨董屋。港の倉庫は美術品も扱う貿易商の物だった。その他の現場も、何れも本邦の美術品、とりわけ大和絵を取り扱う商人や蒐集者という。
そして、各所の関係者が口々に言うのは、永徳の鳥獣戯画の話はガセ、というより勘違いだと。塩塚は「此処が肝です」と手にした鉛筆をピッと瑞垣の方に向けた。
「……勘違い?」
「ええ、此れが不思議なところでしてね。皆、鳥獣戯画の話は落雷の後に知ったそうです。先に承久本の話を耳にして、各々が四方八方に手を回し始めていた。だから『永徳筆の幻の模本』は鳥獣戯画ではない、承久本のことだと、皆さん口を揃えて仰る」
噂話の混線、か…
何れも眉唾物の珍品、ふたつ揃えば尚怪しい。しかし、片方が本物の秘宝のために”造られた”噂であれば、後から出た話がフェイクだ、というのが塩塚の読みなのだろう。最も際物のセンであろうが、其処に張る価値があるとすれば。
「何が狙いや」
瑞垣が目を眇めると、塩塚もふと真顔になって受ける。
「次の”落雷現場”の候補があります」
「はあ? 次だ?」
「狩野派の作品を収集してる御仁が居るんですよ。海軍の元少将さんですけどね」
「……は、かいぐん?」
関係者の皆さん、異口同音に話の出所は彼処じゃないかと仰るんですよ、と塩塚は目を細めた。
「上海ではコレクタとして有名だそうです。もう退役されて何年か……日露戦争では秋山参謀の配下だったそうですがねえ」
「日本海海戦の英雄か? 眉唾もんやな」
「いやいや、本物ですよ。ちゃんと勲章も出てますから」
まあ、確かに少将というなら偽装もできまい。そもそも海軍は面子も限られている、調べればすぐに分かるだろうし、記者相手に無駄な嘘を吐く必要もない。瑞垣は改めて身を起こした。
で、あるなら、最初に抱く疑問は一つだ。
「其処まで解っとって、何で自分で行かへんのや」
それがですねえ、と困ったような顔で塩塚は頭を掻く。演技であれば名演であろう。
「僕、あのお家のご主人にえらい嫌われてまして。こんな御伽噺、持ち込む余地がないんですわ」
「嫌われてるて……なんや、胡散臭いからか」
「ご名答です」
海軍と仲が悪いと云えば、陸軍と内閣府かと考え乍ら、瑞垣は改めて広げられた地図に目を落とし、落雷現場の位置を目で追う。何処をどう切り取っても夢物語の与太話だ。しかしその中で湧いた手掛かりなら、藁より儚くとも縋り付くほかない。
瑞垣は腹を決めた。
「で、何処のお屋敷だって?」
******
北野天神縁起絵巻、か。
菅原道真、という男が瑞垣は余り好きではない。当たり前だが逢ったことはないし、専門的に学んだわけではない。
だが、圧倒的な才覚に余りに真っ当で正直な政治姿勢、それ故の哀れな末路と、苛烈な復讐劇(伝奇だが)の落差にひたすら腹が立つのだ。とりわけ、荒魂を慰撫する為に神として祭られるあたりがいけない。無論、只の八つ当たりである。
「左遷されて怨霊に成ってりゃ世話ねえな」
口を開くと、乾いた風に乗った黄砂が口の中に飛び込んで来て、瑞垣は顔を顰めた。更に気が滅入る。
しかし此の先に行くしかない。瑞垣は溜息を吐くと、角を曲がって緩やかな坂を上り始めた。中心街から離れ、租界でも閑静な地区に入っている。富裕層の屋敷も建ち並ぶ。一つひとつの家の敷地が広くなっていくのが解る。
「<東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな> か」
梅なんぞに恨み言か、未練がましいオッサンや。
今度は口の中で毒づいて、塩塚が描いた地図に目を落とした瑞垣に影が差した。
「菅公ですね」
は、と、低い声に振り返れば、
「おや、貴方はたしか」
長身の、真っ黒な男が立っていた。
否、白皙の美丈夫、と云っていい。はっとするほど端正な貌の男がすらりと佇んでいる。漆黒の背広は簡素だが良い仕立てだ。ただ、しっとりとした黒い瞳が冷え冷えと感じられる。
透き通って底が見えぬ沼のように。
絶句する瑞垣に、黒衣の男は首を傾げる。
「お忘れですか? 以前、烏屋敷で」
「いえ、はい、覚えております。その節はどうも」
目も眩むような夏に、凄惨な連続殺人事件があった。取材中に事件に巻き込まれた瑞垣は後日、現場となった館でこの男と顔を合わせた。その時は此の男の連れ、というより主人のような男とも軽く言葉を交わしたのだ。
ただ、彼の時の黒衣の男からは何処か不吉な匂いがしたが、今は落ち着いた……しかしひやりとした……寂しさ、か?
それこそ晩秋のような気配に瑞垣が眉根を寄せていると、男は何故かふっと微笑んだ。
「ひょっとして、当家に御用でしょうか?」
「はっ?」
「新聞記者の方でしたでょう、であれば」
と、男は其処で振り返る。
彼の背にある瀟洒な洋館こそ、瑞垣が探していた小張邸であった。
黒衣の男は小張家の使用人で、日向と名乗った。
「そろそろどなたかおいでになると思っていました。そう、たとえば上海日日新聞の塩塚君あたりが」
見抜かれている。
瑞垣は通された部屋のソファで縮こまった。彼の野郎、と腹の中で舌打ちする。
「私はその、塩塚の……代理のようなもので」
「おや」
と日向は目を細め、瑞垣の前に茶器を並べた。
庭に面した小綺麗な部屋に通され、恐縮しきりである。主が海軍の元少将、旧華族の小張家ともなれば、場末の新聞記者など客扱いしないようなものだが、日向は来訪者の扱いを独断で決める裁量を持っているようだ。
見かけは自分と大して変わらぬ年かと思ったが、もっと年嵩なのやもしれぬ。それに若し、瑞垣が烏屋敷で見かけた男が小張元少将であれば、日向は使用人というより更に主人に近しい間柄であろう。
家令か、其れこそ懐刀と呼ばれるような。
そう思った。
瑞垣がそれとなく室内を伺ううちに、「どうぞ」と出されたのは所謂日本茶で、日向が手ずから淹れたものだ。茶碗からは懐かしい祖国の香りがした。
「美味しいですね」
思わず零した瑞垣に、日向は今度こそ白い歯を見せる。
「茶としては大陸のものの方が美味とは存知ますが、主がどうしてもと云うので取り寄せましてね」
「それは……そんな高級品を」
「いいえ、粗茶でございますよ。日本の方にはお出しすることにしています」
そんな訳も有るまいし、鷹揚に過ぎるとは思ったが、瑞垣は大人しく茶を啜った。
日向は自分の茶も用意した上で、ゆったりと腰掛けた。既に風格が使用人の其れでない。何れ軍人だったのだろうが、隙のない身のこなしも優雅な所作も堂に入っている。
「それで、わざわざおいでになった要件は、やはり狩野永徳の模本ですか?」
日向の口から、ずばり、というよりそのものの名が出て、危うく瑞垣は茶を吹くところだった。此の男は予備動作なしで間合いを詰めてくる。
「ご存じでしたか、その、模本というのは、」
北野天神縁起絵巻か、鳥獣戯画か。
瑞垣が幽かに身を乗り出すと、日向は押し止めるようにすっと立ち上がった。それから隣の部屋に続くドアを開け、瑞垣を手招いた。
其の部屋はどうやらコレクションルウムのようだ。
薄暗い部屋にずらりと並ぶ影がゆらゆらと揺れる。
おそるおそる部屋を覗き込んだ瑞垣が暗がりに目を凝らすと、書や屏風、掛け軸だけでなく、西洋のタペストリーや航海図、中華風の甲冑や景徳鎮の壺、戸棚の上にはチェスボードや渾天儀がある。見事なコレクション、と云いたいところだが、余りに雑多でよく解らない。
「旦那様は作者や来歴、真贋さえ気になさらず、ご自分の目に留まった好きなモノだけお求めになる。コレクタとしては一番贅沢な有り様かもしれませんね」
昔からそうでしたが、と……
日向はそう云いながら部屋の中に進むと、此れも見事な細工の引出を開け、油紙の包みを取り出した。それから瑞垣に戻るように促す。
元のテーブルに着くと、日向は無駄のない動作で油紙を開いて、中のものを披露した。
「こちらが永徳殿の洛中洛外図屏風用の習作です。否、最早、下書きというべきなのかも知れませんが」
「は?」
滑るような筆使いで描かれた人物と建物、橋、川や山林。荒削りの粗書きに当たるものであっても、絵の中の街は浮き立つような賑わいを見せている。日向が広げる和紙は、相応の年を経た日焼けや虫食いが見られた。無論、其れだけで古いと決めつけることは出来ぬ。しかし、
真逆、と。
口に出す寸前で、しかし目の前にある紙から立ち上る薫りに、瑞垣は言葉を飲み込んだ。
本物が持つ力が有るとして。
確かに残る気配が有るとして。
「近衛家に所縁のあるお家に伝わっていたそうですが、残っていたのは奇跡でしょう。うちの旦那様が永徳殿の作を殊の外好んでいるのは本当で、こうしたものも自然と集まります」
おかげで今回の件も方々から引き合いがありましてね、と、まるで朝市での取引を語るような気軽な日向の口調に、思わず貴重な文化財より目の前の男を注視してしまう。
此の男は、知っているのだ。
其れは間違いない。瑞垣はひりつく喉をこじ開けて、ようよう問うた。
「では、ほんとうに」
「ございますよ」
にこりと、日向は笑った。
「狩野永徳筆の鳥獣戯画模本は実在します」
何とも呆気なく、その、答えは。
「徳川様が江戸に幕府を開かれ、大坂の陣が終わったあとですから、1620年頃でしょうか」
彼の当時の京はまだ乱世の終焉を信じられず、そぞろ疑心暗鬼の中にいた。
禁中並公家諸法度が公布された後、応仁の乱からの長きにわたる戦乱で疲弊し、崩壊しかかった朝廷と公家社会を立て直す必要があった。しかし、やはりいつの時代でも旧勢力と新勢力の衝突は起こり、方々で火種がくすぶっていた。
「幕府の矢面に立っていたのは後水尾帝ですが、朝廷内でも色々といざこざがありました。江戸幕府派、旧豊臣派、若しくは滅びたはずの室町幕府に近しい者、有力なお山と繋がる者……内裏は昔から魑魅魍魎の跋扈する場所です」
後水尾の名に、またお前かと一瞬思った瑞垣だったが、日向の話はまた意外な方面へ進んだ。
「その頃、後水尾帝の信厚く、江戸幕府との連絡役を担っていたのが烏丸光広卿です。歌人、能書家であり、細川幽斎様に古今伝授を受けた文化人でいらっしゃいましたが、一時期、或る絵師と都中を回っておられた」
「絵師?」
「ええ。当時は絵屋と申しておりましたか……所謂、工房ですね。扇や屏風等の装飾を担っていましたが、その俵屋の主は絵師としても大層な腕前で、後水尾帝から屏風を所望されたとか。確か、通称は宗達」
「俵屋……俵屋宗達ですか!?」
はい、と日向は頷く。
此れはまた意外な名が出た。こちらも江戸初期の巨匠だが、何故か明治期までは評価が低かった。しかし近年行われた記念展を契機に再評価され、建仁寺の風神雷神図屏風が国宝に指定された筈だ。そのあたりは瑞垣も覚えがある。
風神雷神図屏風……
彼のたらし込みと呼ばれる手法と、大胆な構図と独創性が際立つ傑作だ。
「其の烏丸光広卿と俵屋さんが仁和寺にいらしたのです。当時、鳥獣戯画は後水尾帝の叡覧の為、高山寺から仁和寺に移されておりましてね、其処で俵屋さんが写しを描くことになりました」
仁和寺?
余りの情報過多に追いつかぬ。瑞垣が其の経緯を問い直そうと腰を浮かしたところで、
「まるで見て来たようだな」
すこし甲高いような、金属的な響きに、瑞垣がはっと振り返る。
庭から来たのか、人影がひとつ現れている。其れに僅かに憂うような貌になった日向が、機敏に立ち上がって人影に近付いた。影は杖を突き、幽かに左足を引き摺るように進む。日向が手を貸そうとするが、煩そうに断った。
そうこうするうち其の影が光の当たる場所に足を踏み入れ、艶やかな姿が現れた。深い翡翠色の長着を無造作に着付け、羽織を引っ掛けているが、其れが些かも崩れた印象を与えない。
嗚呼……
人影は予想通り、この屋敷の主である小張元少将だった。
小張少将は相変わらず雛人形か役者のように整った顔の男だったが、以前、烏屋敷で見かけた頃より覇気がない。元より色白ではあったが、更に白く、やはり頬の当たりも窶れたように見える。何処か身体に不調でも、と瑞垣は内心首を傾げた。
少将はゆっくり時間をかけて歩を進め、ベランダにある安楽椅子に身を投げ出すように座る。そして、ずい、と少将が無造作に突き出した杖を受け取った日向は、彼に膝掛け掻い巻きを大袈裟なくらいに羽織らせていった。少将は面倒くさそうに眉を顰めていたが、わざわざ引き剥がすようなことはしなかった。
つと、日向が少将の髪を整えてやる。
少将は為すがままだ。
そして、その少将が無言で手を差し出すと日向が煙管を渡す。続いて煙草盆が差し出され、少将が典雅とも言える動作で吸い付ける。それは決まり切ったルーティンのように淀みなく進んだ。
男の一挙手一投足は其の意図も判断も過たず相手に伝わり、男は相手の望みに過不足無く絶妙の間で応えていた。
言葉以外の何もかもが雄弁だった。
呑まれたように呆然とする瑞垣に、日向がふっと振り返る。
「茶を煎れ直しましょう。少々お待ちを」
そこで瑞垣はようやく茶の存在を思い出し、一気に茶碗をあおった。今さら礼儀などどうでも良い。カラカラだった喉が少し潤い、ふう、と思わず息を吐いた。
それを見て、日向はまたふふっと笑った。
「貴様、確か記者だったろう、烏屋敷で逢うたな」
「は、帝都新聞の瑞垣です」
直立して応える瑞垣に、わかった、というように小張少将は手を振った。それから、「そこは遠い、もう少し寄れ」と命じた。他人に命令し慣れた、しかも一切有無を言わさぬ圧力の或る声だった。
瑞垣は諾々と従い、ベランダ側の椅子におそるおそる腰掛けた。
「あのときの……なんといったか、球根はどうなった? 持って帰ったのだろう?」
烏屋敷から引き受けたラナンキュラスの球根は、家主が丁寧に手入れをした上で保管され、つい先頃、植え付けたところだ。そう応えると、少将は意外にも柔らかく微笑んだ。
カツン、と煙管から灰を落とし、更に瑞垣に問い掛ける。
「それは何よりだ。咲くのはいつ頃だ?」
「確か、春……3、4月頃という話でしたが」
そう応えると、一瞬、少将は片眉を跳ね上げる。が、もう一度、今度は寂しそうに笑う。
「来年か……それは、遠いな」
と。
改めて間近に見ると、小張少将は異様に若い。
麗しい容貌も相まって三十路ほどにしか見えぬ。
だが日本海海戦時に将校であったなら、疾うに四十も半ばは過ぎているであろう。第一次世界大戦にも従軍し、その時の怪我が元で長時間の乗船が出来なくなり退役したというのは塩塚の情報だ。
「甲板に立っていられない水兵は用無しだ」
というのが退役に当たっての弁だという。
確かに海軍はそも少数精鋭、喩え将校であっても、乗船すれば水兵の一人としての働きが求められることもあろう。彼の足の瑕であれば退役も止むなしかも知れないが……それ以上に、瑞垣は此の御仁の衰えが気になった。
儚い、と云っていい。
艶やかな黒髪は伸びるに任せているようで軍人らしさからはほど遠い。恐らくは殆ど人前には出ていない証左だろう。長い睫毛が痩せた頬に影を落とす。
元々は親王のひとりとご学友だったという話だが、海軍兵学校で頭角を現した。ハンモックナンバーは3位以内、現役当時からその才覚は群を抜き、そのまま軍属であれば次期参謀長候補だったという。端麗な顔に似ず鬼神のような用兵から、剃刀とまで呼ばれた将校の面影はなかった。
ただ、それでも、酷く美しいひとだった。
瑞垣が継ぐ言葉を探すうち、日向が戻ってきた。
「金平糖もありますがいかがですか」
「は、はあ」
古式ゆかしい砂糖菓子の瓶と共に、先程より濃い茶が出される。見れば、少将は小さな金平糖の粒を摘まんで、陽に透かしたりしている。
なんだか微笑ましい。
本来の目的を忘れ、其の様子をぼうっと眺めていた瑞垣に、日向の深い声が降りかかった。
「それで、仁和寺のお話でしたか」
瑞垣は「はい」と応えて慌てて座り直す。
「私は以前、仁和寺に居りましてね、永徳殿の鳥獣戯画模本の話は、僧たちの間でまことしやかに語り継がれておりました」
えっ、と思わず口に出していた。日向は僧籍にあったということか。彼の整った顔を見返して、慌てて「海軍の方だとばかり」とぼそぼそと言い訳を重ねる瑞垣に、日向はまた淡く笑んだ。
「ずいぶん昔の話でございますよ。それに正式な日記や縁起であればともかく、僧坊で耳にした、あくまで噂話、昔話……公になることはございません」
仁和寺、といえば真言宗御室派の総本山である。
天皇家や朝廷との関係が深く、皇子や皇族が別当を務め、御室御所とも呼ばれていた。また徒然草の『仁和寺にある法師』の話はあまりに有名である。広大な伽藍と豊富な文化財を有し、其の歴史からすれば先程、日向が語ったような出来事は自然な話ではある。
そもそも、鳥獣戯画が保管されている高山寺は真言宗御室派であり、戯画が作成されたのは仁和寺ではないかとの説もあるのだ。
「其の昔話に依れば、俵屋さんが鳥獣戯画を写すことになった丁度その頃、仁和寺を訪れた方がありました。狩野孝信殿、永徳殿の次男で、探幽殿の御父上です」
「は……かのう、たかのぶ」
瑞垣は摘まんだ金平糖もそのままに、オウム返しをする他ない。
其の横で、茶飲み話の延長のように小張少将は言う。
「永徳の息子なら光信だろう。余り似てはおらなんだが、花鳥図を好く描いた」
「孝信殿は光信殿の弟御ですよ。光信殿も早くお亡くなりになりましたので」
兄の死後、実質的に狩野派を統率することになった孝信は、江戸には狩野派宗家の貞信と息子の探幽を遣わし、自身は本拠地の京都に居た。そして其の孝信が鳥獣戯画が暫し仁和寺に止め置かれるとの噂を聞きつけ、或る物を携えて訪ねてきたという。
「孝信殿がお持ちだったのです、お父上の永徳殿がお描きになった鳥獣戯画の模本を」
そういう……仕掛けか。
瑞垣は息を呑む。
丸っきりのお伽話、と、話を聞いた当初は形を取らなかったものが、今、まさに可能性を持って姿を現す。
「ほう、永徳もいつの間にそのようなものを描いたのか。そうさな……さき様、近衛前久様の伝手か?」
「いいえ、恐らく義輝様でしょう」
小さく首を振った日向に、少将はむっと鼻白むような様子だった。
義輝、とは室町幕府第十三代将軍足利義輝であろう。永徳の洛中洛外図屏風は義輝の発注であったというし、その頃の永徳は将軍家御用達の絵師であり、当代一の絵師だったのだ。鳥獣戯画閲覧も許されていたかも知れない。で、
あるならば。
今度こそ瑞垣は腰を浮かした。
「それでは、もしや」
「ええ、室町幕府滅亡の際に失われてしまった断簡も含め、室町の頃の戯画を写した模本であったと」
本当に、存在したのか。
狩野永徳による完全なる模本、は……
「そこで、俵屋さんは永徳殿の模本も合わせて写したいと孝信殿に申し出た。孝信殿も否とは申されません。ただ、」
逆に、狩野孝信は俵屋宗達に条件を出した。
「その頃の俵屋さんは、北野天神縁起絵巻承久本の写しをお持ちだったのです。承久本の模本と、其れを元にした、新たに手掛けることになった風神雷神図屏風の習作を。孝信殿はその事をご存じだった」
此処で『北野天神縁起絵巻』が……
瑞垣の脳髄が痺れた。
鳥獣戯画も北野天神縁起絵巻も『或る処』にしかない。見られる人間も時期も限られている。写しでさえ貴重であり、しかも描き手は都で評判の絵屋の棟梁……狩野派を支える孝信としては、是非とも見たかったに違いない。
そして取引を持ちかけた。
小張少将は鋭く顔を上げる。
「……交換したのか!」
「はい」
きっぱりと頷く日向の姿は既に掻き消え、しんと静まり返る部屋に、巻物が広げられる音や墨を摺る音が聞こえるようだった。
永徳の鳥獣戯画と、
俵屋宗達の北野天神縁起絵巻が入れ替わる。
「本物であれば色々と制約もございましょうが、模本であれば自ずから当人たちの勝手になります。孝信殿も俵屋さんも、随分と楽しそうに各々の模本を見比べ、技量や技法について語り合った……そういう、昔話です」
むかしばなしは物語る。
遙かな時を超え、幾度の危機を潜り抜け、受け継がれた絵巻たち。
そして絵師たちは踊る。
ようやく訪れた太平の世の為に、新たに描くものを、夢を、大志を。
狩野探幽は祖父、永徳の鳥獣戯画模本を元に鍛錬した。其れが今も残る探幽の鳥獣戯画習作である。
「また恐らく、孝信殿の持ち帰られた俵屋さんの承久本もお写しになった……合わせて、風神雷神図もお描きになったやも知れませんね」
天才絵師たちの作品は交錯する。
然うして、宗達の北野天神縁起絵巻の模本は狩野派の保持するところとなり、永徳の鳥獣戯画の模本は烏丸光広が預かったという。
「その後、永徳殿の鳥獣戯画は細川家に受け継がれました」
「ほそかわ? 何故だ」
「細川忠興様の御息女が光広卿の御嫡男にお輿入れした縁かと思いますが、細川家は御内証も豊かですので」
江戸時代、というより武家の支配が続く時代、公家は余程の家格であっても財政は苦しかった。十三名家の烏丸家としても例外ではない。貧して貴重な文化財を手放す前に、名家細川に引き取られたのは僥倖と云うほかなかろう。
しかし、暫し眉根を寄せていた少将はぼそりと呟いた。
「……日向、お前、娘婿を脅したな?」
「真逆、人聞きの悪い。お願いしただけですよ」
涼しい顔の日向は、また流れるような所作で茶を注ぎ、煙草盆を整えながらまた、淀みなく物語る。
「一方の北野天神縁起絵巻の方は孝信殿に預けられたのち、狩野派の『誰か』の筆となっておりましょう。土佐光起殿がご覧になった模本やもしれませんが、其れもまた良しとせねば成りますまい。そして、風神雷神図屏風の習作は行方が判らなくなっていたのですが……」
其処でようやく、彼は瑞垣を真正面から見据えた。
「探しておられるのですよ」
えっ、と。
彼の黒く、澄んだ、深い泉のような瞳が。
ぞわりと、瑞垣は総毛立ち、茶碗を手にしたまま固まる。頭の中を直に覗き見られているような、気配。
嗚呼、やはり此の男は不吉だ。
しかし、日向はまた柔らかく笑むのだ。
「俵屋さんの風神雷神図は……瑞垣さんがお持ちでしょう?」
「だれが」
はっ、と。
少将の声に、瑞垣は我に返る。一瞬で呑まれていたことに気付く。
ふっと部屋の空気が解けるのが分かった。
「誰が探している? 其の風神雷神図とやらを」
強い声音に日向は肩をすくめる。
冷静な少将の問いだのに、しかし昔話は更に奇妙な捻れを見せる。
「俵屋さんですよ」
「あ……? 描いた絵屋か。何故、自分の物を探す? 散逸したとしても気配を辿るのは容易かろう」
「其処が難しいところなのです」
何を、云っているのか……
此の男たちは何を話している?
「モノ、というのは縁がなければ存在し得ない」
諭すように主に言い切ってから、日向は再び瑞垣に視線を戻す。
「生きものであれば魂があればいい。しかし魂のないモノは縁を辿るしかない。モノは、誰かの目に留まって其の手で触れられて、初めて姿を得るのです」
日向は手の中にある青磁の茶碗に目を落とし、ただ語る。
この茶碗も、見る者、使う者が居なければ元の土塊と同じ。
ヒトとの縁を取り戻してはじめてモノは理を得、此岸に在ることが出来るのだと。
天才絵師の風神雷神も、まさにお蔵入り、其の存在自体を忘れられてしまえば、手に入れるのは難しい。
「ならば、まず縁を復すところから始めねばなりません。藤孝様からご相談があったときは随分難しいお話だと思いましたが、どうやら不思議な理で、雷神が逃げたと俵屋さんが仰る」
まるで解らないことを云う日向は、ふと、手元の茶碗を捧げ持つ。
と、ぱきりと割れた。
目を見張る瑞垣の一方で、少将はなにと云うことも無く「無体なことをする」などと呟く。
「こんなふうに……本来、別たれる筈のないモノが別たれたのです」
一対の風神と雷神が、何故か片割れだけ『外』に出た。
ただ、残された風神は、未だ結界の力が強く手が出せぬ。
「京の都であれば何らかの手も打てたでしょうが、どうも東京に移ったようで……彼処は難しいのですよ。将門様の首などよく思いついたものです」
「なにを他人事のように。お前が唆したようなものだろうが」
「……何れにせよ、風神雷神が歪な形で在るには訳がありましょう」
モノとヒトをつなぐのが縁なら、持ち主が手放す、不慮の事故で所有権を失う、そういった理由では一対のモノが別たれる様な事は起こらない。
「ならば持ち主の方にも、一対の魂が別れるような事があったかと当たりを付けておりましたが……そのうち、俵屋さんがようよう此の上海で雷神を見つけましてね。しかも、」
春頃から、雷神がそぞろ現れる。
「もしや相方に何かあったかと思い、承久本の噂を流してみましたが、いまひとつ届かない」
上海も広うございますからね、と。
長閑とさえ言える口調で、在るはずの無い物語を語る男は。
「そこで、永徳殿の鳥獣戯画をお借りして少し囲いを広げてみたのです。やはり永徳殿のお名前は大きい。おかげで少々話が錯綜してしまいましたが……余りにぼやぼやしていては、雷神が痺れをきらして外灘を焼き払うかも知れませんので、止む無く」
清涼殿に落ちた雷では数多の死傷者が出たことですし、と、困ったような顔をする小張家の使用人は。
鳥獣戯画、狩野永徳、承久本、そして落雷事故。
若し、宗達の風神雷神と縁がある者があれば自ずから此処に赴くよう、日向は布石を打ったのだ。
そうして、飛んで火に入る夏の虫の如く、瑞垣は罠に掛かった。
「縁を復せば、対の神々も戻りましょう」
日向はそう云って嗤うと、また割った茶碗の割れ目を合わせ……すっ、と、青磁の器は元の姿を取り戻す。
そうか、此の男は終わりを決める男だ。
「藤孝の頼みか。面倒な事をよくも引き受けたものだな」
呆れたように一つ息を吐いた少将は、ふっと其の美貌を瑞垣に向ける。
「それで貴様、心当たりはあるか」
そう……
少将に問われて、瑞垣は漸くこれが自らの物語であることを悟った。
******
瑞垣は重い足取りで家路を辿っている。
『絵巻特売のお知らせとか』
何時ぞやの塩塚の軽口が蘇る。
……そう、あったのだ、絵の投げ売りは。
否、若しかするとあれも何かの符牒だったのか。錦市場から一本裏道に入った目立たぬ辻に、まるで百年も前からあるような古びた古道具屋。帝大生だった瑞垣は、ひょんな事で行き逢った其の店を冷やかした。
年老いた風にも若いようにも見えた得体の知れない店主は、あれを「宗達の風神雷神図屏風のレプリカントだ」と言ったのだ。其れはそうだ、模写ならともかく、習作とは云え真筆があんな処にあろう筈もない。はずもないが。
あったのだ。
たしかに、不思議な絵ではあった。嵐の日によく騒ぐ。
「俵屋宗達は本物の風神と雷神を彼の屏風に閉じ込めたー云いますねん。今でも、建仁寺の住持の目を盗んでは嵐の夜に抜け出すいう噂どす」
薄笑いを浮かべる店主の声を思い出す。
瑞垣とて信じたわけではない。そんなのは与太話にもならぬ戯れ言だ。確か梅の花咲く時分の、佳い日和に出会った珍品をひとつ贖ってみただけだ。本当に、只の気紛れであった。
だからその、戯れ言を、徒に……当時のルウムメイトに仕掛けたのだ。
この風神と雷神は嵐の夜に偶に抜け出す、と。
それくらい、
ルウムメイトは……彼とは、当時とても親しい間柄だったのだ。
迚も。
だのに、瑞垣は京都を去るとき彼に何も告げずに大学を辞めた。殆ど出奔のように。多くのモノを遺し、縁を切り捨て、様々な不義理をして飛び出した。彼の絵もチェスボードも、二人で過ごした部屋に置き去りのまま。
だから彼は、恐らく、
此の魔都に彼の絵を持って来ている。
「では、言い訳を聞こうか」
瑞垣が語る顛末を一通り聞いたあと、彼は開口一番そう云った。
其の貌を見て、瑞垣は自分のしてきたことを激しく悔いた。過去の行いは無論だが、此の街で彼と再会したとき自分が先ず何を為べきだったのか、思い知らされた。
瑞垣は、彼がずっと腹を立てているのだと思っていた。が、
違った。
彼は、哀しんでいたのだ。
そして待っていたのだ。ずっと。
卓を挟んで向かい合う彼は、酷く静かな面持ちで此方を見ている。
「悪かった」
頭を垂れる以外に出来ることなどない。
然し其れは己が為であろう。瑞垣は臍を噛む。勝手に退学したことも、逃げる様に京都を去ったのも、詰まらない嘘を吐いたことも、それはそれは酷いことだったのだけれど。
本当は、許しを請う前に、先ず自分は再会を喜ぶべきだったのだ。
そして自分も確かに待っていたのだと、彼に伝えねばならなかったのだ。それから、
それから
頭を下げる瑞垣を暫し眺めた彼は、ひとつ、大きな溜息を吐いた。
「ヒトとモノの縁、か……」
がたり、と家主は腰を上げる。
「俵屋宗達の本物の風神雷神図であれば、どんな曰くがあってもおかしくはなかろうよ。況してやお前が戯れに呪を掛けた、そういう話じゃろう」
それから部屋の一角、彼の失われた家族の写真が立ててある棚に向かう。瑞垣が罪悪感から余り触れていない場所だった。引出を開け、古びた文箱を取り出す。件の古道具屋で贖ったままの黒塗りの、何の変哲もない文箱だ。
彼が卓の上に其れを置くと、カタリ、と乾いた音を立てた。
二人、暫し其れを眺めた。
「お前がいなくなってからは開けとらん。その御伽噺とやらが真であれば、今、此の中には風神だけが居ることになるな」
「……せやな」
開けて、見るつもりはなかった。
日向の言を借りれば、縁を繋げば一対のモノは元に戻るという。
瑞垣が京を離れた時にこの中から雷神が抜け出たとして、こうして海を越えて来た風神が揃ったならば。
此の魔都で、自分と彼が再び出会ったならば。
そうして再び結ばれた縁に、続く怪異の決着を見るか。
漸く、瑞垣は家主の手を取った。
初めてそうするように、其の手の甲に口づける。
「本当に、待たせて悪かった……それから、」
<梅の花 紅の花にも 似たるかな 阿呼がほほにも つけたくぞある>
小張家に貞吉少年を使いを出すと、諾と返事が返ってきた。
いつでも良いと。
せめて穏やかな小春日和を選んで、瑞垣はようよう腰を上げた。
瑞垣は件の文箱を携えて、緩やかな坂を登る。
空の青は淡く、吹く風は薄い。先日の訪問から幾らも日が経っていないが、また季節が一段進んでいる気がした。あと十日もすれば冬に足を踏み入れるだろう。
小張邸の門に近付くと、長身の影が見ゆる。近付けば案の定、黒衣の日向だった。今日は満州服だ。
「よくおいで下さいました」
小張家の秀麗な家令は、相も変わらずゆったりと笑う。
訪問の時間を知らせた覚えはないが、何れ此の男も人外の範疇だ。であれば、雷神からの前触れでもあったのだろう。瑞垣は黒衣の男に黙礼した。
日向はそのまま瑞垣を庭に案内した。
「この屋敷にも梅がございますので、そちらへ」
旦那様は桜がお嫌いなのですよ、と云う。桜が嫌いという軍人は稀だ。はあ、と瑞垣が目をしばたいていると、広い庭に確かに好い枝振りの梅が植わっている。そして、庭の中程には椅子と卓が設えてあり、小張元少将が待って居た。
「遅いぞ」
そう云って笑う少将は、今日は洋装だ。薄鼠の三つ揃いを洒脱に着こなし、髪も丁寧に撫で付けている。先日より随分と血色も良いようだ。
瑞垣が挨拶しようとすると、煩そうに手を振って「さっさと座れ」と云う。こちらへ、と日向に促され、瑞垣も腰を下ろした。先日と同様に日向手ずから茶を煎れてくれる。
「今日は三河の干し柿が手に入りましたので」
どうやら、この屋敷の主は甘党らしい。
瑞垣が懐かしい駄菓子を眺めていると、小張少将は至極残念そうに溜息を吐いた。
「しかし貴様、五体満足だな。殴られるか刺されるかぐらいするかと思うたが」
少将や日向に、絵巻を手放した経緯を話した訳では無い。しかし、此の男たちにそんな尋常な道理が通じるとは思われなかった。別れた妻が自分を追って上海に渡って来た、くらいには思われているだろうか。
「も、申し訳ございません……?」
反射的に謝る瑞垣を他所に、「旦那様、若者を揶揄うものではありません」と日向が主人を窘めている。
と、ふっと日向が顔を上げた。
「お出でになったようです」
えっ、と瑞垣が聞き返す前に。
カッ、と
浅葱色の青天に、俄に紫電が閃いた。
落ちる、と思わず腕を上げた瑞垣だが、その後に来るべく衝撃はなかった。
ただ、雷を受けたように見えた庭の梅の周囲の空気が、ゆらり、と震える。陽炎のように木が歪んだかと思うと、揺らぎが結晶化するように、ぽつんと人影が現れた。
この事態に微動だにしなかった日向が、滑るように其の影に歩み寄った。
「お待たせ致しました、俵屋さん」
「……いいえ、此方こそ、日向守様には本当にお世話になりました」
人影はゆっくりと首を振る。
そして見る見るうちに徐々にヒトの形を為してきた。
顔立ちは整ってはいるが、何処か浮世離れした風情のある男である。町人髷の出で立ちは商家の若旦那というよりは確かに職人のような。俵屋と呼ばれた男は柔和な笑みを浮かべ、庭を見渡した。
「あちらは……右府様でございますか。お騒がせして申し訳ないことです」
「此の手の話はお好きなのですよ、お気になさらず。それから、彼方が今の持ち主のかたです」
「そうですか、わざわざご足労頂いて」
男は……宗達は、瑞垣に腰を折るように頭を下げた。
その横で日向が投げかけてくる視線に、少将は浅く頷いた。それから瑞垣に顎先で示す。
「渡してやれ」
否応など在るはずも無く、瑞垣は慌てて文箱を手に立ち上がった。
自分が震えていないのが不思議でさえあった。
近付けば、宗達は確かに此岸のものではなかった。ゆらゆらと輪郭が揺らいでいる。
文箱は瑞垣から日向に手渡され、日向が宗達の前に掲げると、絵師はふわりと微笑んだ。
「よう……お帰り」
「建仁寺の屏風では、足りませんでしたか」
日向の問いに、宗達は小さく首を振った。
「いいえ、そういう訳では。此方を……先に描きました。光広さまとのお約束でしたので」
「烏丸様と?」
「はい。承久本の写しをした際に、私の……雷神が見たいと、仰せでしたので」
宗達のはにかむような笑みに、日向は柔らかく目を細めると「成る程」と頷いた。
すると、宗達の声に呼応するように文箱がかたりと音を立て、刹那、小さなつむじ風と火花が。
「揃いましたね」
そうして日向は文箱を納め、宗達は改めて深々と一礼する。
「この度はお手数をおかけ致しました。改めまして厚く御礼申し上げます」
「いいえ、何ほどのものでも。烏丸様にもくれぐれもよろしくお伝えください」
そう、日向が言い終えるやいなや。
現れたときと同じく唐突に、
今度は、
轟!
と鳴った突風に、思わず瑞垣は目を閉じる。
はっと瞼を開いたときには、既に其処には何も。
ただ、ほど近い枝に一輪、梅が咲いていた。
紅梅だった。
瑞垣がしばらく紅梅を見つめている横で、日向が、ふうとひと息吐いた。
此の男でも相応に力を入れていたのか、と思うと、なんだか笑えてきた。瑞垣も大きく息をする。庭を包む気に、幽かに梅の香が混じっているような。
「さて、これで絵巻は元通りに……此方には永徳殿の鳥獣戯画が戻りました」
「えっ?」
この文箱に、と改めて日向は手の中のものを掲げた。瑞垣が持参した風神雷神図が『元通り』に成ったというなら、宗達が借り受けた狩野永徳の鳥獣戯画の模本が戻って来た事になる。が、
「瑞垣さん、お持ちになりますか」
「い、否、それは……」
そんな、文字通り国宝級の文化遺産を手元に置く気にはならなかった。中身には……多少、興味はあるが、それはどうも、
後には引けぬような。
今ならまだ夢物語で済む話が、
見たら最後……戻る道は屹度、何処にもない。
磁場を持つような文箱から半歩身を引き、瑞垣は丁重に断った。
「私には過ぎた物ですので……」
「欲の無いことだな」
声の主を振り返れば、鷹揚に構える少将だったが何処か詰まらなさそうに見ゆる。続けて日向に問うた。
「何者だ、烏丸光広というのは」
手の中の文箱を見つめていた日向は、すこし笑った。
「あの御仁は帝の……正親町院の遺した鵺でございます」
ぬえ?
鵺とは顔は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇の伝説上の生きものである。夜に不気味な声で啼く化け物として平家物語等に描かれており、転じて得体の知れない人物を指すようになったが、正親町天皇の鵺、とは……?
瑞垣がまたもや困惑するのを他所に、少将は何かを得心したのか呆れたような顔になる。
「なんだ、藤孝の頼みではなく、帝の御為か」
「……徳川様の鵺でもございますよ。恩は売るものです」
ふん、と鼻を鳴らした少将は、次は瑞垣の方を向くと言い放った。
「痴話喧嘩の延長で上海租界を焼け野原にするところだったぞ。たわけが」
「はっ?」
まあ良い、と頷いた少将は目顔で日向を呼び寄せた。黒衣の家令はまた滑らかな足取りで戻っていく。
日向は卓上に件の文箱を置き、主を促したが、少将は首を振って中を改めようとはしなかった。
恐らく、写すこと自体が喜びだったであろう。
本邦の絵師であるならば……
其れが安土桃山時代の巨匠、狩野永徳であっても。
然うして描かれた絵巻は、果たして
少将はひととき、紅梅を見遣った後、
「永徳の鳥獣戯画は預かろう。そのうち細川に戻すか、宮城の連中に渡してやれ」
前半は瑞垣に、後半は日向に向けて促してから、つと手を伸ばす。間髪入れず、日向が其の手を取った。
「瑞垣とやら、わざわざご苦労だったな。代わりに我が家の蒐集物をくれてやろう。好きな物を持っていけ」
「えっ」
彼の部屋のコレクションを、ということだろうか。問いを重ねる前に、少将は腰を上げて日向に寄り掛かる。と、日向は軽々と其の身体を抱え上げた。黒衣の男は首に縋り付く主に「もう宜しいのですか」と問い、主は「よい。あとは好きにしろ」と家令の耳に囁く。
そして、
「お前も片割れにはよくよく詫びておくんだな」
と、家令の肩越しに少将は美しく嗤った。
日向は「暫しお待ち下さい」と瑞垣に言い残すと、主を抱えたまま母屋の方に向かった。
そう云えば杖がなかったな、と……
瑞垣はそのまま、庭の中にぼんやりと佇む。視線を上げれば、たった一輪だけ咲いた紅梅の向こう、西の空の底からじわりと紅色が滲んでくるところだった。
嗚呼……
秋が終わる。
瑞垣が随分と冷えた空気の中でひと息吐くと、軽やかな足取りで日向が戻ってくる。
「いつまで経っても、我が儘なひとで」
囁くようにそう言って苦笑する日向に、瑞垣は尋ねてみようと思った。
「あの、少将さま……小張様のお体の具合は」
どうなのでしょう、と、慎重に切り出した瑞垣に、ああ、と彼はひとつ頷く。
「ひと頃より大分よくなったのですよ。此の件に随分とご興味をお持ちで、今日も楽しみにしておられましたのですが……訳を聞いたら聞いたで、」
烏丸様が羨ましくなったのでしょう、と、不思議なことを云った。
この庭で目にしたもの、耳にしたことの大半が信じられない話ばかりで、瑞垣は其れを問い糾す気にはなれなかった。何れ……御伽噺のうちに還るのだから。
さて、と日向は卓上を片付けつつ、立て板に水と語る。
「お好きなものをお持ち下さい。永徳殿の作であれば、先日の洛中洛外図屏風の習作以外にも何点かございますが、茶器も幾らか。土蜘蛛はございませんが、曜変天目茶碗ならひとつございます。あの茶碗は旦那様のお気に入りでしたが、験が悪いといってもう、お使いになりません」
ご覧になりますか等と、何故か楽しそうに語る日向に、はあと気の抜けた返事をする。
「ああ、金平糖もお持ち下さい。沢山ございますので」
云いながら、改めて大事そうに文箱を取り上げた日向の方に、瑞垣は一歩、進み出た。
「それでは、あの、」
「それで、これが、」
と、家主は卓に置かれた其れを見詰め、暫し口を噤んだ。
本件では三回目の瑞垣の語りだが、今回は明らかに尋常ならざる出来事ではあった。然し、やはり彼は疑義を呈する事も無く、黙って瑞垣の話を聞いていた。
夜になって風が出来た。
カタカタと鳴る窓の方を一瞥し、彼は「梅か」と呟く。それから、
「随分と欲のないことじゃな」
少将と同じ感想を口にして、それでも瑞垣が持ち帰ったもの……チェスボードを手に取った。開けば洒落た駒が並んでいる。海軍時代の物だそうで、各駒が船や港のものに見立てられた細工になっていた。
少将は将棋とチェスの名手だそうだが、陸に上がってからはまったく使う事も無くなったという。対局する相手はもう居ないと。瑞垣がそう伝えると家主は、
「そうか」
とだけ頷いた。
其の横顔はいつも通りに静穏で、その内側は窺えぬ。
家主の様子を横目に、瑞垣は新しい茶を煎れる。彼が持ってきたチェスボードは記者倶楽部かその近くのカフェーにでも持っていこう、と決めた。ヒトとモノの縁があると云うのなら、一度縁が切れたモノを使うのは験が悪い。
黙ったまま茶碗を彼の前に並べ、合わせて持たされた金平糖を幾らか皿に出した。
彼は砂糖菓子の粒をひとつ摘まむと、ほろりと呟く。
「……狩野永徳は、新しい鳥獣戯画を描くつもりがあっただろうか」
「は?」
数百年の時を超えて受け継がれた絵巻を写す、男が。
天下人に乞われて絵を描く、時代の寵児だった男は。
其れこそ、甲乙丙丁の四巻に続く新しい絵物語の構想を練りながら、筆を運んでいたのやも知れぬ。
「そうさな……宗達も承久本の雷神に触発されて、新しい風神雷神図を描いた」
本人の言を借りれば烏丸光広の求めに応じて、と云う。
過去の傑作と出会い、触れて、新しい絵を描きたくなるのは絵師の本能であろう。其の筆の趣くまま、誰も見たことの無い世界を。
「絵巻を写すうちに、続く新しい絵を描くつもりが……覚悟は、出来たかもしれんな」
瑞垣の脳裏に、金平糖を光に透かす少将の顔が蘇る。
詞書きも着色もない、
然しだからこそ、雄弁に物語る絵の中の生きものたち。
描くことで過去と未来と夢と現と対話し、新たな物語を紡ぐ喜びを!
そして、新しい絵を待つひとが居る幸せと。
「ヒトとモノを繋ぐ縁、か」
彼はそう云うと、金平糖を口に放り込み、「甘いな」と笑った。
それからチェスボードから駒を取り出し、茶碗を片手にきりきりと盤に駒を並べ始める。瑞垣はそんな家主を眺めながら、ひしゃげた煙草に火を点けた。
ゆらり、と紫煙が立ち上る。
其処で六つほどゆっくりと数えると、彼は立ち上って窓辺に近寄る。と、事もなげに窓を開け、振り返る。
瑞垣を見る。
「まァ、何にせよ、決着がついたところで」
一局、と。
彼はニコリと笑った。
此処でも、やはり瑞垣に拒否権はないのだ。
瑞垣は大仰に溜息を吐いてから、まだ長い煙草をもみ消した。
そう言えば、春になったら……
瑞垣は思い出す。
「またいずれお越し下さい。次の春、ラナンキュラスが咲く頃には屹度」
旦那様が楽しみにされておりましたので、と。
小張邸からの去り際に、黒衣の男はそう云って何故か、淋しそうに笑った。
つぎの、はるには……
彼の庭の紅梅も美しく薫るのだろう。
まさか、こんなところで自分が10年くらい前にふったネタを回収することになるとは、と…
あ、キャラの名前があれなのはご勘弁を!いやだって!!
もともとは鳥獣戯画のすべて展で四巻まるっと見たときに、これ、どこかに完全な模本があったら…? という妄想から発展したネタですが、バテリやらジョカゲやら風神雷神やら、いろんなところで生じたネタの集大成というか、伏線回収回なんですよ。そしてなにより、うちの光秀とノッブが書けて良かった。ちょっとこの時代の二人も終盤なんですがね。
このお話の前に『夜の烏』という連続殺人事件ネタがありますが、こちらも塩塚くん出して書き直す野望があります。GWまでに出来るかな。