【前書き】
 この話は東日本大震災を題材にしています。
 本来、私が書いて良いような題材じゃないとは思うのですが、どうしても書きたくなったので…
 もとはといえば、人気サイトのほぼ日での連載、『福島の特別な夏』(2011年)を読んだときに思いついた話です。その時はもう、毎日連載読む度にぼろぼろ泣いてました(笑、本当に素敵な連載なので、未読の方は是非!)
 あとはその直後の夏大前、新聞の地方面で見かけた記事。被災地から引っ越してきた球児が転校先で挑戦する夏の話を読んで、骨格が固まったと。
 しかしさすがに無関係の人間が書くのもなあ… と思っていたのですが、最近、震災関連の連載をまとめて本にした『できることをしよう。』を読んで、また改めて書きたくなりまして。
 分不相応だと思いつつ、やはり物語を書く人間として引けない、ぐらいに書いてみました。高慢であれなんですが…
 色々至らないところがありつつ、今でもちょっと気後れしつつ、でも後悔はしていない。(キリッ
 自分への戒めとして、証として。


 そんな気合いだけが空回りしている一編ですが、 ご一読頂ければ何よりの幸いです。































  約束の夏













 例年より少し遅れて梅雨明け宣言が出た三日後、今年の夏が終わった。


  終わっちゃったな…


 と、口の中で呟いて。
 浩輔はカラリと晴れあがった青空を見上げて、目を眇めた。








 結局、この夏はベスト16までだった。
 組合せを考えれば、公立校としては大健闘と言っていい。しかし、だからといって悔しさや寂しさが減じるわけもなく、涙する先輩達につられて浩輔も鼻水を啜った。
 ただひとしきり思い切り嘆いてしまうと、残るのはスッキリとした開放感だ。
 学校に戻って、簡単な片付けと反省会のあとは、反動というかなんというか、妙に浮ついた気分が残るもので。
 泣いたら腹が減ったとばかりに、みんなで昼飯をがっつり平らげ、じゃあこれから打ち上げだ、と全力で掃除と宴の準備が始まったのだ。
 若さというのはそういうものである。


 そんななか。
 二年生とはいえベンチ入りしたはずなのに、浩輔はこの炎天下の中、買い出しに回った。
 進んでというよりは、背番号11の三年生投手、忍さんの付き合いだ。ちなみにチームに佐藤姓が四人もいるので、先輩でも自動的に名前呼びである。
 勿論、エースは背番号1の嶌さんだが、忍さんは左なので背番号10のまっちゃんよりも出番が多く、ほとんど二枚看板と言われるようになっていた。
 夏の大会が始まる頃には。
 忍さんは今日だとて二番手としてマウンドに上がり、リリーフとして活躍したにもかかわらず、面倒そうな買い出し要員に手を挙げたのだ。ここで付き合わないのは男が廃るとばかりに、反射的に浩輔はお供を申し出た。
 正捕手の吾妻さんはキャプテンでもあるので出歩くことが多く、投球練習では一番手の控え捕手・上原さんが嶌さんと組み、浩輔は忍さんとよく組んでいたから、ついて行くのはまあ、自然な流れではあったのだが。
 出会ってからまだ三ヶ月で、もちろん毎日まいにちイヤというほど顔を合わせ、合宿だってしたけれど、忍さんと二人で歩くのはほとんど初めてだから、浩輔は少しキンチョウした。
 でもその分、わくわくしていた。




 忍さんが祖父母の家に越して来たとかで、転入して来たのは4月下旬、硬式野球部入部は五月の連休直前だった。前の野球部ではエースナンバだったという。
 普段であれば、学校の統廃合や一家族での移転以外の転入生は、規定で一年間は公式戦には出られない。
 でも忍さんの場合、特例で認められている。


 今年は、トクベツなのだ。




「あっちいな」
 しゃべりの浩輔にとっては永遠とも思える沈黙のあと(学校前の小さなやつを数に入れて、三つ目の横断歩道まで無言だったのだ!)、忍さんはやっとそれだけを口にした。
 …息継ぎが出来た!!
 と浩輔は真剣に感じたが、とうぜん、口には出さない。
 忍さんは普段から無口で、むしろ愛想が良くない方だ。
 しかし、とてもキレイな顔をしていて、クールなイケメン左腕の名を恣にしている。一つ難を言えば、それほど背が高くないことだろうか。体格に恵まれた浩輔は185近くあるから、視線の下げ具合から170に幾らか足りないくらいと踏んでいる。(男子にとって身長の話題はとてもセンシティブなものなので、自分より低い相手には迂闊に数値は訊けない。)
 ちなみに、ジャ○ーズ系雰囲気イケメン(当人談)の同級生、サードの幸也が「俺のファンが三割減った!」と嘆いていたくらいだ。実際に幸也のファンが減ったかどうかは(そもそもいるかどうかも)謎だが、確かにクラスの女子に探りを入れられたり、投球練習場で女子の姿をちょこちょこ見かけた気はする。




 それに何より時折、ふっと過ぎる影が、たぶん皆の気を惹くのだ。


 
 そうっすねー、なんて軽く答えながら、浩輔は自転車のハンドルを持ち直す。
 買い出しだと、ちょっと離れたディスカウントストアに行くため必須の自転車だが、試合のある日は自転車で来る奴らが少なくて、二台調達できなかった。それで借り出した自転車を浩輔が引いているが、今回ばかりは厄介だと思うより、歩く速度の持つ余裕が嬉しい。
 が、相手はそうは思っていないらしい。
「このクソ暑いのに歩きとか、ありえねぇよな。ついてねー」
「あー、ま、そうっすね」
 ああめんどくさ、と言い捨てる忍さんの横顔を見ていたら、なんだか片思いみたいだと思って浩輔は、イヤそれおかしいから、と胸の内で自分に突っ込みを入れる。
「お前もお人好しだよな、わざわざ俺に付き合わなくても良かったのに」
「え、いや! おれ、買い出し好きっすよ? 自分の好きなの買えるし?」
「でも暑いだろ。今日とかアホみてーに」
「まあ暑いですけど… でもグラウンドの方が暑いッス」
「…お前、ほんとにイイ奴なー」
 呆れられてるのかもしれない。
 じゃあそれなのに、忍さんこそ何で買い出し引き受けたんですか、と。すぐに聞かない分別くらいは、浩輔にもあった。
 キャプテンはもちろん、超面倒見が良い上原さんや、なんだかんだ言いつつ人懐っこいまっちゃんのおかげで、忍さんはなんなく馴染んだように見えたけれど、やっぱり特別な人だから、




 ひょっとすると、浮つくチームの雰囲気に少し、馴染まなかったかも知れないし。




「だいたい、都会って夜まで暑くて意味わっかんねーよな」
 予想外の忍さんの言に引き戻されついでに、意味が取れずに聞き返す。
「え? どーいうことっすか?」
「夜とか、日陰の涼しさが違うんだよ」
「…へ?」
「日が当たらない時間は空気が冷えるんだよ、ふつう、土のある場所は。都会が暑いのって、アスファルトの照り返しだろ?」
「ああ、そういう…」
 理科とかでやったろ、空気と土と水の温度とか。土の温度で空気は暖まるんだよ。土が冷えたら空気も冷えるけど、アスファルトって土よりずっと熱いだろ? 蓄熱するから、日光の当たらない夜の間に温度が下がりきらないんだろうよ、とか、意外にシステマティックな解説がついてきて、どちらかというと理科は苦手な浩輔は、はあ、そういえば、とマヌケな相槌を打つしかない。
 いやこれはどうやって受ければ、と考えかんがえ、忍さんの解説がヤマを越えたところで合いの手を入れた。
「そーですね、合宿とか山とか田舎とか涼しいし」
 と笑ってみると、逆に忍さんは眉根を寄せる。
「…こーすけ、お前、東京以外に住んだことあるか?」
「ないですけど…」
「…お前なんか嫌いだ」
「えええええ、なんでですか」
 それ俺のせいじゃないです! なんだっけ、こういうの… そうだ、りふじんだ、りふじん! と心の中で不平不満を訴えていると、とにかくこっちの夏は耐えられねえよ、


  地元はド田舎だったからさ、


 と。
 忍さんはぽつんとそれだけを、呟いた。


 近所の小学校に差し掛かって、通り過ぎて。
 確か外野控えの西村がココの卒業生で、中学も一つ向こうの通り沿いだから、学校はずっと自宅から半径700m以内だとかって言ってたっけ、と。そんなことを浩輔が思い出した瞬間、
 ぐわん、とセミが鳴き出した。




 今かな、と思った。
 訊くなら今しかないと、浩輔は思った。




「あの、忍さん」
「ああ?」
 気怠そうに(本当に暑いのが苦手なのかも知れない)振り返った忍さんに、浩輔は一息に告げる。
「ひとつ、訊いても良いですか。あっ、一回しか訊かないんで」
「は?」
 白皙の細面に訝しげな色が浮かんだが、浩輔の真摯な面持ちに悟るものがあったのか、先輩は微かに顎を引いた。
「なに?」
 少し深めに息を吸って、浩輔はやっとそれを問うた。


「忍さんの地元って、どんなトコですか?」


 一瞬、忍さんは虚を突かれた貌になった。
 それから、幾らか浩輔の顔を眺めてから「ああ」と小さく頷いた。
「お前なら訊くか、そういうこと」
「え?」
 いや、なんでもねえよ、と手を顔の前でひらひらさせて、忍さんは微かに笑った。
「おまえはほんと、向いてるよな」
 そうして忍さんは前を向いたまま、歌うように語り始めた。




「だから、ド田舎、ほんっとに何もなくてさ」




  小学校は普通に歩いて通ってたけど、中学は自転車な、学校から家までの距離が2km以上だと自転車なの。
  ヘルメット被らないといけんくて、雨降ったら、傘はダメでカッパなのな。
  お前には想像つかねえかもしんねえけど、うちから最寄りの駅って徒歩30分だし、電車だって一時間に三本くらいでさ。
  ああ、JR以外の鉄道はないからな、言っとくけど!
  バスだって似たようなもんで…
  しかも高えの、使うのって高校生かじいさんばあさんばっかだしな。
  遊びに行くったって、選べるほど選択肢ないし。
  大きな街まで出かける金もねえしで、どっか行くと、大抵知り合いに会ってた。
  ま、休みの日だって、ほとんど練習しかしてなかったから別にいいけど…
  郵便局、徒歩10分のところに出来たのも二年くらい前だし、コンビニだって車で行くようなトコだった。




 洪水の、ようだった。
 どくどくと溢れる言葉と、その色彩とリズムの豊かさ!




  だいたいが田んぼでさ、ずーっと続いてる田んぼと畑と林で…
  雑木林って見たことあるか?
  木が生えてるだけでほっとかれてる、って場所だってあるんだよ、世の中には!
  たまにはタヌキとかイノシシとかも出てさ。
  ええっ? どうぶつえん?! タヌキは東京にだって居るだろ? いんだよ!
  あとあるのは、山とか川とか沼とか、高速道路と…
  空が広くてひろくて 青くて 見上げたら全部空なんだよ。
  こっちの空は、狭いよな、たまに息苦しくなる…
  ああ、川は好きだ、あっちのA川とかさ、ちょっと似てるし。
  その先は海で、
  ほんとなんもなくて、


「遠くに発電所が見えた」


 あんなことになるんて、思ってもみなかった。




  きっと誰もがそうだった
  あの日
  世界が変わってしまったのだ




「ほんと、遠くから見たらなんも、何にも変わってないのにさ」


  なのに余りに遠く、とおく、美しいまま棄てられた街


「もう、戻れないんだ」




 嗚呼、と思った。
 思ったが、何一つ言葉が出てこなかった。浩輔は口を開けてはまた、閉じる。ぱくぱくと、人影を見つけた池の鯉みたいに、空気だけを口に入れたり出したりを繰り返した。
 暑さなど、全く思い出さなかった。ただ足を交互に出して、右、左、右、左、右、ひだり、みぎ…
 そうして気付けば、ディスカウントストアの看板がすぐそこだった。
「着いたな」
 忍さんはそう言って、振り返る。


 そしてその綺麗な顔で、笑った。








 店内にさっさと入った忍さんは、すっかり初期化されたようだった。
 のたくたとカートを押す浩輔を尻目に、頼まれた物を次々とカゴに入れていく。偶に「これでいいのか」とか、「どっちにする」と短く問うて、浩輔は反射的に答えた。
 そして最後に通りかかった冷凍もののコーナーで、忍さんは足を止めた。
 何事? と思って浩輔が身を乗り出すと、忍さんは氷菓を指差して命令口調で告げた。
「選べよ、どれでもいいから」
「え?」
 浩輔はしばらく冷凍庫と忍さんの顔を見比べて、学校までの距離と暑さと、チームメイトの顔(の数)も思い浮かべた。そしておそるおそる訊いてみる。
「ガッコ着くまでに融けますよ?」
 言わずもがなのことを口にした浩輔に、一瞬、忍さんは呆れた顔をして、ちげーよ、と言う。
「一個だけだよ、奢ってやる」
 そうして、とてもとても小さな声で呟いた。


  感謝、な。


 何への謝辞なのかは、よく分からなかったけれど。ちょっと気恥ずかしくて、浩輔は慌てて視線を外し、ケースの中を見渡す。
「じゃあこれ」
 と、ハーゲンダッツのクリスピーサンドを手に取ろうとした浩輔を、ばしっとひっぱたく。
「ばか、エンリョぐらいしろ」
「…すんません」
「ま、パピコか、せめてジャイアントコーンまでだな」
「…じゃあガリガリ君でいいっす… あっ、梨がない!」
「ほんとだ」
「困る…! ていうか、チョコがあるのに梨がないとかなんで!?」
「いや、まあなんでっていうか…」
「こんだけ暑いとチョコ食べる気しないっす!」
「そだな… あ、でも嶌とか、チョコチップ好きだろ」
「ええええ?! 嶌さんがチョコ?! ソーダだと思ってました!」
「だよなぁ。似合わねえのな」
「あ、でも嶌さん、あれで甘党ですもんねー。ていうか、辛いのと酸っぱいのもダメですよね。せめて梅干しくらい食べて欲しい…」
「まじで?! 差し入れのおにぎりとか、弁当のときとか困らねえの?」
「キレイに残すんですよ、梅干しおにぎりの真ん中だけ」
「なんだそれ、あいつもガキだな〜」
 と。歯を見せた忍さんの貌が今日一番の明るさだったから、思わず浩輔の口が滑った。
「意外っす」
「なにが?」
「忍さん、嶌さんと仲良いんですね」
 本当に意外だった。
 勿論、浩輔としてもギスギスしているとは思わないが、元々のエースと転入してきたエース候補。しかも両名ともに親しみやすいタイプでもないから、ビミョーな距離があるのだと、ずっと思い込んでいた。話しているところも見たことがない。
 しかしそこで、忍さんは戸惑うような素振りを見せた。何か言いかけて、一度辞めて。
 そして、とりあえず、と告げた。


「帰んぞ」




 荷物を自転車に載せてから、ふたり並んで、ガリガリ君を囓る。
 融ける前に急がなきゃ、と誰にともなく言い訳して浩輔は、文字通りガリガリと咀嚼する。何となく押し黙ったままで、それでもそれは、窒息するようなそれでなく。
 何故かこの暑い駐輪場で黙々と、アイスを食うなんて可笑しいと、浩輔も後になって気付いたけど。冷房の効いた室内でゆったりなど、考えもしなかった。
 だってそんなことは、ワルイことのような気がして。
 忍さんは、妙に真剣な面持ちの浩輔をしばし眺めてていたが、おまえの前に、と不意に口火を切った。
「前に、同じコトを訊いてきた奴がいる」
「え?」
 心底驚いて、浩輔は勢いよく顔を振り向ける。
 どんなチームで、どんな街だったかって、俺に訊いた奴が居る。そう告げる忍さんの声はとても落ち着いていて、だから浩輔の変な気負いはすぐ消える。
 ふたりはガリガリ君を食べきった。
 そうしてハズレの棒をしげしげと見詰めていた忍さんは、ふっと尋ねてくる。
「誰か、分かるか?」
 悪戯っぽくニヤリと嗤って、そんな表情がよく似合っていた。ひょっとすると本来は、こういう人なのかも知れないと、浩輔はぼんやりと思う。
 それから、ふむ、と考えかんがえ言葉を紡いだ。
「キャプテン…じゃないっすね。吾妻さんなら、待つかなあ」
 小柄でよく動いて察しのいい吾妻さんは、でもそういうときは、相手が話すのを静かに待つ人だった。忍さんは頷く。だな、吾妻は待てるもんな。あいつはホント、キャッチャーだよなぁ。
 そう受ける忍さんの顔を窺いつつ、浩輔は変化球を要求してみる。
「上原さんでもないですよね」
「うん。すっげー訊きたそうな顔はするんだよな。そーゆーの、隠せないからあいつ、正捕手になれねえんだ」
 ズバリと核心を突く言葉に、怯んだのはむしろ浩輔だったが、それくらいはさすがに、解っていた。
「健二っすか? あいつならずけずけ訊きそう」
 一年でたった独り、背番号を勝ち取った生意気盛りの下級生の名前を出したら、やはり忍さんは首を振る。ああ、あいつの肝の太さならアリかもだけど、さすがになかったな、と。
 うむむ、と眉間の皺を深くした浩輔に、忍さんは正答を明かした。
「嶌だよ」
「…えっ!」
「嶌にさ、連休の最終日だったかな、訊かれた」
 それまで誰にも… じいちゃんもばあちゃんも先生たちも、もちろん監督にも訊かれたことなかったから。しかも、入部したばっかの時に訊かれるとは思ってなくて。ぜんぜん、全然思ってなくて。
 しばらく、なんも話せなかった。話せるコトなんて、ないと思ってたんだ。何を話せばいいかわっかんねえし。
「でもあいつは、一つひとつ、小さいことから訊いてきて、得意な球種とかコースとか、レギュラの構成とか練習メニュとか、秋の大会のこととか、授業のこととか、友達のこととか、家のこととか…」
 気付いたら、後からあとから、言葉と記憶は溢れてきた。




  さっき溢れたような、思い出の断片がもっと、きっと、
  とりとめもなく、まとまりもなく。
  それでも、止めることなど出来なかった。




 話しちゃいけないんだ、と、思ってたんだ。忍さんは囁く。
「話す資格なんてないから」
 ぽつり、と。こぼれた単語は余りに予想外で、浩輔は思わず聞き返す。
「えっ、しかく?」
 困惑する浩輔に、忍さんはやはり小さく笑う。
 それは温度差と言うより、距離感と言うより、こころの深度と呼べるようなものが。


 だって生きてるし


「俺、生きてるし」
 大きく深呼吸してから。
「家族も親戚も生きてるし」
 津波が来たところは、ほんとにもっとヒドイから。
 そっちの方に親戚とかがいた奴も、岩手の方から引っ越してきた奴とか… 友達があっち学校に行った奴だっていたし。まだばあちゃんが見つからないって…いうのも…あったから。
 家とか学校とかグラウンドとか、なんもなくなっちゃっただろ、実際にさ。




「でも俺は、ぜんぜん、フコウじゃないし」




 ああきっと、それは
 彼があの日から 幾度となく 繰り返して夜ごと
 ずっと言い聞かせてきた言葉なのだ


「今日だって、最後まで野球やれたしな」


  嬉しくて うれしくて
  でも 喜んだらいけないような気がして


  いけないようなきがして


 笑うことだって憚られた。
 幸せだと感じることが、痛くて堪らなかった。
 誰も聞いてくれなかったから、行き場をなくして重く厚く堆積していた想い。
 気付かれちゃいけない、労られちゃいけない、気を遣わせたらいけない、と。
 必死に隠していた、生々しく、どうしようもなく疼く痛み。こぼれてしまえば、お終いだと思っていたのに。 
 おしまいだとおもっていたのに。
 忍さんは、とても柔らかく笑った。
「本当は、そうじゃなくて」
 笑ったのだ。
「ほんとうは、誰かに聞いて欲しかったんだ」






 嶌は、最後まで聞いてくれてさ、と。
 そこで忍さんは改めて、浩輔の顔を覗き込んだ。
「それで、最後に何って言ったと思う?」
「え…」
 またニヤリとする忍さんに、浩輔は戸惑う。しかし、今度は試されているわけではないらしく、忍さんはすぐに歌の続きを口にする。
「本気でやれよ、って言ったんだぜ」
 俺は手加減、しねえから、だってさ。あいつアホだよな、ほんと。
 なんて、何でもないようにくさす声が、すこし震えていたのには気付かないふりをした。
 うちのエースは、そういう人だったのだ。そして、




  本気でエースナンバを取りに来い、と言った嶌さんに、忍さんはなんて答えたんだろう。




 浩輔は、自分の疑問に自分で答える。
 きっと忍さんは「わかった」って一言、頷いたんだろう。一言だけ。ただ真摯に、深く。
「本気でやったんだけどな、これでも」
 俺だって、エースだからさ、と。
「負けたくなかったけど」
 悔しそうにはとても見えない静けさで、それでも確かにマウンドを背負った人間の言葉が、心が。
 どうしょうもなくこみ上げるものに耐えきれず、「ちょ、ちょっといいですか!」と遮って、
「10秒だけ待ってください!!」
 浩輔は叫ぶように宣言して、空を見上げた。






  その空は、本当に碧くて、あおくて
  嗚呼 なんて美しい






 たっぷり、5分くらいは掛かったと思うけれど。10分くらいかかったかもしれない。
 忍さんは静かに待っていてくれた。
 そして、漸く浩輔の瞼が落ち着いた頃、おもむろに二人は歩き出した。帰るのだ、学校に。


 帰るのだ。


 自転車を押しながら、浩輔は生まれて初めて、「帰る」という単語の意味を噛みしめる。それでもあと一つだけどうしても聞きたくて、忍さんの背中に声を掛けた。
「あの… いつか、戻れるんですか、おうちには…」
「わっかんねえなあ」
 その答えにまた怯むが、一方、忍さんは意外な力強さで続けた。
 でも、と。
 力を入れて、祈りを込めて。
「確かにいまは、戻れねえけど。まだ家とか畑とか学校あるし。きっとグラヴもバットもユニフォームもまだあるし」
 なくなったりはしないから。
「帰れるだろ、いつか」
 希望と言うより、多分決意なのだ、それは。
「そうですね」
 だから、自分も表明せねばならないのだ、決意を。
 浩輔は熱い空気を大きく吸い込んで、腹に力を込めて、宣誓する。
「そしたら、野球やりましょう、忍さんのガッコで」
「え?」
 忍さんが振り返る。
「やりましょうね、野球」
 まるでミットを構えるときと同じ顔で、浩輔は真っ直ぐに投手を見詰めた。
 忍さんはマウンドに立っているときと同じ顔で、微かに顎を引き。少しの間、浩輔の視線を受け止めた後、


 そうだな、と、頷いて。


 忍さんは笑った。
 


「急ぐぞ」
「はい!!」








 いつかきっと行こう、
 今は近くて遠い、あなたが生まれ育った場所へ。
 そして野球をしよう。


 遡れない時を取り戻すのでなく、挑むに相応しいその季節に。


 あの空も 風も 海も 川も 森も
 きっと変わらずにあるから


 その世界のど真ん中で きっと野球をしよう



























 ガリガリ君が好きなのは私です。
 でも体育会系男子の基本だと思ってます。ので、登板回数が多いのは仕様です…
2012.11.25



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