女王の城







 その朝が雨でなかったら、きっと見過ごしていた。 




 霧雨だった。
 ユキムラはいつものように家を出て、傘を差すかどうか僅かに、迷った。線を描かず、けぶるように続く雨は捉えどころが無く、傘に意味はない気がした。
 だからきっと、あの人なら濡れるままにするだろう、と。
 その瞬間、勢いよく傘を開いた自分は本当に愚かだと、笑いたいくらいに。
 ユキムラが自嘲しながら宿舎の玄関をあとにした、その時。
 植え込みの外灯側に、それを見つけた。透明に輝く水晶を連ねた、精緻な多角形の幾何学模様。植え込みの背後、高く太い鉄製の黒い柵の間に。
 きめ細かい雫を受けた蜘蛛の巣は、外灯の淡い光を弾き、儚げでありながら、しなやかに鋭く。
 その中心には、


  長い足を巣に絡ませ 微動だにせず浮かぶ 蜘蛛が


 いつの間に、と、ユキムラはついと足を止める。
 昨日はなかったはずだ。無論、それほど注意を払ってはいなかったから、断言は出来ない。しかし確か、クモは驚くほど素早く巣を張るという。ならば、それが一夜城だとて不思議はない。
 それにしても、あの大きさと完成度…見事なものだ。ユキムラは、ほう、と思わず嘆息する。
 約束された美しさだ。


 その巣の主たる蜘蛛はまるで、玉座で眠る、女王のようだった。




 結局、ユキムラが就業前に最初にしたことは、データベースからクモの情報を呼び出すことだった。
 残念ながら、彼は生物に詳しくはないし、昔からあまり関心もなかった。しかし、あれには惹かれた。雨の墨色に沈む風景の中。孤城の奥深くに座す、黒と黄色の斑模様に染め分けられた長い足、一匹の蜘蛛。
 何故、それを女王だと思ったのか。
 自身にもよく、分からなかったのだ。
 膨大なデータから、今朝見た個体と似た形態のクモを選び出す。幸い、例の特徴的な姿はすぐ見つかって、ユキムラは思わず、その名を声に出して読み上げた。
「…じょろう、ジョロウグモ?」


 ジョロウグモ
 節足動物門 クモ綱 クモ目 アシナガグモ科 Nephila clavata
 北海道を除く日本、韓国、中国、台湾に広く分布する。春から夏にかけ、最もよく見かけるクモ。秋に成熟し、木の間に馬蹄形の円網をはり、昆虫を捕食する。メスの体長は20-30mm、オスは6-10mm。黒色と黄色の長い足、黄色と灰青色の腹部、糸いぼの赤い斑紋が特徴。別名、秋の女王。


 最後の一文に、ユキムラは自然に口角を上げた。
 やはり、彼女は女王なのだ。
 また、ジョロウグモという名前の由来が目に留まる。遊女の「女郎」からという説の他、大奥の高位の女官「上臈」から来たという説もある。才媛と売春婦。随分な落差である。しかしいずれにせよ、あの美しく洗練された形態が、艶めいた女性を彷彿とさせるのだろう。 
 ただ、ユキムラには「女郎蜘蛛」に思えた。
 そちらの方がより、かの麗しさが本質的に内包する毒々しさに、近い。
 ユキムラは長い指を伸ばし、モニタに映る女王の姿をそっと撫でる。
 あの、完璧を具現化した、精巧で残酷な罠。その巣の中心で、一日の大半を塑像のように沈黙したまま、彼女たちはただ、待つ。獲物がかかった瞬間、糸が中央に鎮座する彼女たちへ震動を伝え、好機の到来を告げる。
 その刹那。
 夢のように軽やかに糸を渡り、彼女たちはその長い足を振り上げる。糸を巻き付け、鋭い顎で噛みつき、獲物を狩る。
 無論、それが彼女たちの理なのだ。


 どこか、あの人に似ていた。




「ういーっす」
 軽い声にユキムラがモニタから顔を上げると、ドアの近くに長身の人影が立っている。先日、中央から出向してきた同期のサエグサだった。
「…おはようございます」
 ユキムラは返事をしながら確認する。廊下からの入り口が開く音はしなかった。隣の資料室へのドアは開いていたか? いつから居た?
 らしくないことをした、とユキムラは内心舌打ちする。
 サエグサは、こちらの間には頓着せず、つまらなさそうに続けた。
「しけた天気だなー。こういう雨が一番、厄介なんだよな」
 ブラインドの隙間、窓の外は鈍色にぼんやりと光る。雨はまだしばらく続くようだ。
「同感です」
「おほっ、珍しく気が合うねえ」
 揶揄するような物言いに、ユキムラはしなやかに肩をすくめて見せた。珍しいのは確かだ。
 サエグサは精悍な顔を歪めてあくびをしながら、こちらに近付き、ふとモニタに目を留めると、「あれ、それ、ジョロウグモじゃねえか?」と訊いてきた。
「ええ…ご存じでしたか?」
 ココに限らず、都市部ではリアルで生物(野生種)を見るのは難しくなった。そもそも、この大地は『自然』と呼ばれるモノの多くを失って久しい。そんな異常な箱庭に適応できるフリークスは少ない。
 ユキムラの口調に気付いたのか、サエグサは唇の端を上げた。
「まあねー、お前さんと違って、俺、田舎育ちだもん」
 嫌味が自然に混じった軽口にいちいち付き合う程、暇があるわけでもないと。ユキムラは何も応えなかった。
「にしても、朝っぱらから随分、グロテスクなもん見てんのな」
 しかし相手にしても意外だったらしい。不思議そうなサエグサに、今度は答える。
「…今朝、見かけたもので。ちょっと調べてみました」
「へえ、こんなトコにもまだ、居るんだな」
「そうですね。見事な…ものでしたが」
 そこはかとなく滲んだのは、称賛か憧憬か。ユキムラのその声をふうん、と鼻先で受けたサエグサは、腕を組んで少し考えてから、再度口を開いた。声が一層、低くなる。
「…喰われるぜ」
「は?」
「ジョロウグモはな、男を喰うんだよ」
 どういうことだ、と。ユキムラが眉をひそめると、サエグサは「調べれば分かる」と一方的に話題を打ち切って、ひょいと顔を部屋の奥へ振り向ける。
「てか、ユキムラ、何でお前しかいねえの? 班長は?」
「ああ」
 ユキムラはサエグサの視線の先、奥の机…というか、物置になっているスペースを見遣る。向いたところで、あそこにいるわけでもないのだが。
「今日は朝から中央で会議ですよ。予定では昼までですが、戻りはいつか分かりません」
「なんだよ、そりゃ」
「そのまますぐ帰ってくるとは思えないので。夜まで捕まらないかもしれませんね」
 ユキムラの答えに、サエグサは幾度か瞬きした。それから6秒後、呆れたように呟く。
「…放し飼いじゃねえか。いいのかよ、監督放棄だろ、それ」
 ユキムラは切れ長の瞳だけ、彼の方へ向ける。多くを答えるつもりはなかった。
「無駄なことはしない主義です」
 そう言って、ゆったりと微笑んでみる。
「…言いやがる」
 応えたサエグサも、にやりと嗤った。
「何かご用件でも?」
「ちょっと頼まれてたデータ、集めたんだよ。急いでね、とか言ったくせに…おかげでこちとら、ろくに寝てねえのにさ」
「それはご愁傷様です」
 ユキムラは心の中でちょっと首をかしげる。あの人はサエグサに何を依頼したのか。気にはなったが、彼に訊くより本人に尋ねる方が良い。それ以上は聞かなかった。
「戻ったらすぐ、ご連絡しますよ」
 そう言ってユキムラは、オンラインスケジュールにフラグを立てた。


 不満そうなサエグサが退出した後、ユキムラはジョロウグモのデータに向き直る。
 …男を喰うと、言ったか? 
 彼の言葉に、強く興味を惹かれていた。業務開始をしばらく保留して、更にデータを漁ると、確かにすぐ調べは付いた。
 ジョロウグモのメスは、オスを食うことが、ある。
 昆虫類にもよくあることだが、メスの方が圧倒的に強力なのだ。ジョロウグモの場合、メスの体長はオスの約三倍。オスがうかうかとメスに近付けば、捕食されることもままあるとのこと。生殖行為はオスにとって命がけだ。
 そのせいもあってか、ジョロウグモはいわゆる『妖怪』の名にもなっているらしい。
 データベース上には、何百年も前の書物の画像が残っていた。ユキムラの端正な細面に、白々とした映像が反射する。長い黒髪の後ろ姿、衣から伸びる糸…齢400年を越えた蜘蛛は絶世の美女に化ける。男を喰らう女の、あやかし。その糸で張った琵琶を弾き、冷酷で賢明な…うつくしい、あでやかなおんなのすがたをした。


 愚かな男たちが巣にかかるのを やはり彼女も 待っている




 その日から、ユキムラの日課に女王への謁見が加わった。
 出勤や帰宅の際に足を止め、そっと距離を保ち、ジョロウグモの城を眺める。彼女はいつも泰然としていた。彼女の居城の一番奥、世界の中心に深く座し、ただ待っている。
 いつでも。
 その端正な姿に、ユキムラは深々と頭を垂れる。


 だから、その夜も。
 初めての邂逅の日と同じに、朝から降り続いていた雨は止んでいた。さらさらと、風がそよぐ。数滴の雫に彩られた彼女の城は外灯に青白く照らされ、威風堂々と美しく、しかし禍々しい。
 ユキムラは閉じた傘を手に、しばし彼女と巣に見とれ、やはり一つ息を吐く。そしてゆっくりと踵を返した、その瞬間、
 女王の城が、揺れた。


  あっ
 ユキムラは思わず声なく呻く。
 一瞬の隙、巣の南西の端、彼女の狩場に現れた、一点のシミ。
 小さな…虫が。蛾、だろうか。地味な虫が巣にかかって、もがいている。ぱたぱたと、必死に小さな羽を、それは、かえってその存在を、彼女に知らしめるとも知らずに、忙しなく。
 糸が、震える。
 女王が、目を覚ます。
 玉座から身を起こして。
 支配者の鷹揚さで、深淵から外界を覗くように。そこで微かに、静止した、のち。
 しゃらりと、八本の足が蠢いた。


 魅入られたように。
 ユキムラは、その舞台で繰り広げられる惨劇の予感に、固唾を呑む。身動きも出来ず、目を逸らすことさえできない。僅かに逡巡したが、ユキムラは結局そのまま、


  轟!


 突然の、音と風圧。
 予想外の疾風に、ユキムラは思わず目を閉じる。慌てて瞼をこじ開け、戻した視線の先、
 シミが、消えていた。
 先ほどの風に煽られてか、運良く、巣から逃れられたのであろう。虫は居なくなっていた。
 いなくなった。


 女王は、しくじった。


 ユキムラの視線の先で、狩りに失敗したジョロウグモは、しかし器用に足を動かし方向転換すると、また、定位置に戻っていく。端然と、何事もなかったかのように、静かに。
 一瞬の出来事だった。
 ほっと、ユキムラは詰めていた息を吐き出す。
 後に残るのは、相変わらずぼんやりと照らされる蜘蛛の巣と、その中心で眠る主と。
 その全てが、ココに足を止めた瞬間と、何一つ変わらない。
 あの、肌の粟立つような刹那の緊張感と、恐怖と、官能は。まるで幻だったといわんばかりに。何ひとつ、起こらなかったと。
 なにひとつ。


 ひどく、癪に障った。


 似ていた。
 怒りか、妬みか、畏れか。
 その時のユキムラを捕らえたモノが何だったのか、明確には解らない。いや…もう十分すぎるくらいに、解っていた。
 動揺も、無念も、未練さえ見せず、あるようにあるだけの。なにものにも媚びず、焦らず、拒まず。哀れみも、慈しみも、愛も、なにひとつ要らないと。
 心空しくあるが故に、真に自由なあの人に。


 ユキムラは、痛いほどにきつく握りしめた拳を、ほどく。
 呼吸を数える。真っ直ぐに立つ。顔を上げる。目標を確認、注意深く傘を構え、


  斬!


 勢いよく、女王の城を切り裂いた。
 ぶつりと糸を断ち切られ、城は一瞬で崩壊する。女王は堕ちていったか、うまく逃れたか。いずれにせよ、もう、跡形もなく。
 ユキムラは深く息を吸う。素早く傘を持ち直し、逃げるようにその場を後にした。




 翌朝。
 ユキムラは自分の稚気にうんざりしながら、それでも普段通りに家を出た。そして、もうその必要もなくなって、謁見の間の前を素通り、
  …!
 思わず、立ち止まる。確かめる。
 やられた、そう思った。ユキムラは瞬きを繰り返す。
 何度見ても、そこには。
「…ははっ」
 こみ上げた笑いが、溢れた。そう、確かに可笑しいのに、何故か、泣きたいような気もした。
 そこにあるのは、実に見事な。それはそれは流麗な、女王の居城。昨夜、ユキムラが打ち壊したモノより更に大きく美しい、完全な巣が。
 嗚呼、と。
 瞼を閉じ、ユキムラはゆっくりと深呼吸する。朝の清々しく薄く冷えた空気と、寂しさと愛おしさが、息苦しいほどに満ちていく。


  ただ 永遠に その足下に額ずいていたい


 どうやっても、自分の負けだ、と。ユキムラは圧倒的な敗北感を噛みしめてから、目を開ける。そして身を翻すと今度こそ、二度と振り返らなかった。
 わかっていた。
 そうあるべきだった。
 強かで賢く、冷徹な女王は今日も、明日も明後日もずっと。ただ独り、待つのだろう。待ち続けるのだ。
 
 それが彼女の、理なのだから。




「おはよーさん」
 ドアの中に一歩踏み込んだ瞬間、部屋の奥からかかった声に、ユキムラは我知らず息を呑む。
「…いらしてたんですか」
 挨拶を返す前に、そんな言葉がこぼれた。実際、希有な事態だ。いつもは始業直前に滑り込んでくるのに。
 たまにはね、という眠そうな声に、ユキムラは気を取り直して端末を立ち上げ、部屋を見渡す。その惨状になるほどと小さく頷いた。
「徹夜ですか?」
「いや、寝たよ、多少は」
 どうせその辺のソファで、でしょう、と。口の中で呟いて、ユキムラは散らかった作業机の整頓を開始した。
「今度は何です?」
「うーん、ちょっとねー」
 この人の『ちょっと』は当てにならない。また何か見つけたのだろう。これは早めに把握しておくべきだ、とユキムラは脳内HDDの優先順位の高い部分に書き込んでおく。
 そして、資料の傾向を記憶しつつ手早く片づけを終え、ユキムラが今日のスケジュールと貯まった案件を眺めていると、
「なんか良いこと、あった?」
 不意に発せられた問いに目を上げれば、資料や機材で出来た山の向こうから、小さな顔がこちらを伺っている。夜色の瞳がくるりと動く。
 ユキムラは問いには答えずに、聞き返した。
「…どうして、ですか?」
「やぁ、だって…ユキちゃん、すごく嬉しそうなカオ、してるから」
 そう言って、にっと笑う。
 顔に出したつもりは、なかったが。所詮、巣にかかった羽虫だということか。ユキムラはなるたけ素っ気なく応じた。
「そうですね…ちょっと」
「へぇ」
 自分と同じ答えを返されて、その人は実に楽しそうな貌をする。ここで止めると後が怖いのは十二分に承知しているので、ユキムラは奇策を打った。
「あなたが、絶世の美女じゃなくて良かったな、と思って」
「は、はあ?? なにそれ?!」
 策は思いの外、有効だったようだ。頓狂な声が返ってくる。ついでにがらくたがひと山、大きく動いて絶妙な均衡が危うくなる。ユキムラは形の良い唇をすいと引き、相手に背を向けたまま続けた。
「それから、そろそろ整理整頓の習慣を身につけて下さい。もういい年なんだし」
「な、い、いい年ってゆーなっ! なんだよ、今日は朝から失礼だなっ」
「はいはい、そうですね。でも事実ですから。散らかしてるとまた、パス、無くしますよ。気をつけて下さいね、四度目の再申請はさすがに恥ずかしいので」
 振り返りもせず、淡々と畳みかけながらユキムラは、後ろでばたばたと物が崩れ落ちる音を楽しく聞く。
「くっ…と、年寄りは労れ!」
「ええ、それは勿論、愛してますよ」
 嘯いて、ユキムラが横顔で微笑んでみせると、あの人の、実に口惜しそうな顔が見えた。




  ええ もちろん
  親愛なる女王陛下
  すべてはあなたのために
   だから
  あなたの虜囚に 最期まで ご慈悲と快楽を























 同じモチーフで、同じことが起こるのに、全く違う結末で、でもテーマは同じなんですね。たぶん。
 ユキムラはSっぽいですね…たぶんそうなんじゃないですか… 女王陛下は、実はそんなに陛下っぽくもないんですけどね…(なんだそれは。)
2007.11.3



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