再見









 まさに奇跡のように






 雨の気配に駅まで急いでいた湊は、信号の点滅に阻まれて足を止めた。
 ほっと息を吐くと、不安になって空を見上げる。厚く重い雨雲が垂れこめる狭い空から、雨粒はまだ落ちて来ないが、それも時間の問題だった。もっともカバンの中には折りたたみ傘が入っているので、それほど慌てることもないのだ。
 が、やはり雨は嬉しくない。
 駅まで保つかな、と思いながら、ミナトがふっと視線を戻した瞬間だった。


 交差点の向こう側に、彼が居た。


 見間違いで、あるはずがない。
 その長身は周囲から頭一つ抜け出て、精悍な美貌がよく見えた。テレビやネット、雑誌などでも散々見た顔だ。チームメイトだろうか、同じ制服姿の群れの端で、どこか気怠そうに立っている。もうあれから半年以上はとっくに過ぎて、だいぶん髪も伸びて、顔つきは大人びていたけれど、


 それでも、忘れる訳がなかった。






 あれは本物の夏だった。
 太陽の光度も、空の明度も、風の速度も、まるっきりの夏だった。手を差し出せばすくい取れるほどの輝きでもって、この季節は出現した。
 極度に集中したミナトの五感は、いつもの数倍は鋭く研ぎ澄まされていた。世界の全ては恐ろしく明瞭で、妥協など何処にもなかった。
 ぎらりとした陽光の刃は肌を斬り付け、密度の濃い熱波を吸い込めば肺が焼けた。吹く風に舞い上がる乾いた土煙が、腕に張りつく感触までも、生々しく覚えている。
 美しいという言葉では足りない。
 強く、激しく、容赦なく。ただ果敢に挑むような姿をして、現れた大地。
 その中心に、『彼』は凛乎として立っていた。
 対峙するミナトは、震えそうになる足を踏みしめ、力強くグリップを握る。バッターボックスに踏み入れるのは、いつも左足と決めていた。大きく息を吐いてから、彼を真っ直ぐ見据えた。
 その貌は黒い帽子の庇に隠れてよく見えない。
 ただ、こめかみから流れた汗が、頬をすすっと伝い、ついには尖った顎先からぽたり、と。落ちてゆく様さえ、見えた気がした。
 何度か首を小さく動かし、彼は漸くセットポジションにつく。
 ゆったりと言える速度で、顔を上げる。濃い影の中から鼻梁が、そして双眸が現れる。


 まるで、猛禽類の目だ。




 刹那、ミナトと彼の視線が合った。




 はっ、と、思わず顔を背ける。
 気付かれた、と一瞬焦り、ミナトは我に返ってその無意味さを嗤った。
 覚えているはずがない。
 夏の地方大会、準々決勝で敗退したチームのことなど。しかも代打で一度だけ出た、三塁コーチャーのことなど。
 一方の彼は有名人だ。夏の間はスポーツニュースで何度も取り上げられ、華やかな外見も手伝って、知名度は一般人にも拡大しているはずだ。見知らぬ人間に注視されることも、そう珍しくもないだろう。あれから三つの季節が過ぎようとしている今であっても。
 いや、そもそも存在自体が希なのだ。全く予備知識がなくとも、街ですれ違えば四割五分くらいの確率で振り返られるだろう。ありえない打率。
 天才というのは、ああいう人間を言うのだな、と。あの夏、ミナトもそう思ったのは確かだった。
 信号はまだ、赤のままだ。


 じりじりする。
 信号待ちとは違う焦燥に戸惑いながら、ミナトがそれとなく窺うと、訝しげに眉根を寄せる彼が見えた気がした。
 覚えているはずはない、が。
 そんなにガン見していただろうかと、少し気恥ずかしくなる。でもまさか、こんなところで出会うとは、夢にも思っていなかったのだ。
 何故こんなところで、というミナトの疑問も、ドラフト前に有名私大への進学を表明というニュースを思い起こせば氷解する。彼は今もまた世界の中心に立って、前を見据えているのだ。白球を握りしめて。
 それにしても、一体どんな偶然だ、とも思う。
 自分も都会の大学生の身分ではあるが、彼とは生きる世界がまるで違ってしまったのだから。


 ただ、それでもあの時、




 そのことに気付いたのは、いつだったか。いや、誰だったか。
 4回か、5回か… ミナトの記憶では自分ではなかった気がする。攻守交代中のベンチで、記録員の陽平か、主将の邦明か、とにかく誰かが呟いたのだ。「これ… ノーヒット・ノーランペースじゃね?」と。
 それに皆がはっ、としたのが解った。
 四死球での出塁はあったから、そんなに深刻には受け止めていなかった。しかし確かに、ヒットは単打であれ、まだ一本も出ていない。
 相手は優勝候補の強豪校だ。しかもエースは全国区の注目株、打ちあぐねるのは必定。むしろウチの二年生エースが粘って、失点を3に抑えているのが奇跡のようだったから、ナインの誰もが気付かなかった。
 だが既に試合は中盤、相手投手は尻上がりに調子を上げて、制球も、球の切れも良くなっている。


  すぱーん


 相手捕手のミットを叩くいい音が響く。コーチャーボックスに入ったミナトはスコアボードを見上げたとき、そっと、しかし本気で思ったのを覚えている。
 まずいかもしれない、と。


 そのまま回は進んだ。
 苛立ちは最早、誤魔化しようもないほど重く、ベンチを支配していた。
 ノーヒット・ノーラン、達成するのは間違いなく快感だろうし、聞いている方は偉業に感嘆こそすれ、された方はたまったものではない。しかも高校最後の試合でとなれば、その悔しさは並大抵ではないだろう。
 曲がりなりにも、ここまで勝ち進んできた自負心だってある。
 そんなことはあってはならないと、誰もが口には出さずに焦っていた。
 チャンスは来るはずだと思いながらも、7回の最後の打者が三振に倒れた瞬間、誰かが生唾を飲み込んだ。






  ぽつん、




 小さな衝撃に、再びミナトは今に戻る。
 雨だ。
 とうとう堪えきれず、空の両手から雫がこぼれ始める。見上げれば、まばらに、しかしぴしっと直線を描いて、雨粒が落ちてくるのが見えた。
 降り出した雨に、周囲がざわつく。いそいそと傘を取り出す人、物陰に身を寄せる人、進路を変える人の動きが、万華鏡のようだ。
 ミナトもカバンから傘を出そうとして、思い立って視線を真っ直ぐに戻すと、向こう岸にはまだ彼が居た。雨を気にする風もなく、チームメイトと何事か話している。


 …傘を差したら、彼が見えなくなるな、と。
 ミナトはそんなことを考えた。






 果たして、チャンスは来た。


 8回無死に四球で出た走者は神の恵みか、魔物の気まぐれか。
 今更、それはどちらでも良かった。ただミナト達は全力で縋り付くしかない。万感を込めた宏幸のバントは成功、得点圏にランナーを送ったところで、監督は賭に出た。
 代打に指名され、一番驚いたのは当の本人だったろうと、ミナト自身は思っている。
 ミナトは春季大会直後に左手首を傷めていた。これで終わったと、その時は涙を流したりもした。しかし、ぎりぎりで間に合った夏の予選、経験値とコーチャーの適性を買われてベンチ入り、背番号が二桁でも十分だった。
 大逆転だと、皆と大騒ぎしたのも覚えている。
 だが、まさかこんなところでこんな出番が回ってくるとは、万が一にも思わない。この夏、公式戦での初打席がコレかよ、と、口には出さずに突っ込んでみたが、落ち着けるものでもない。
 三塁コーチャーをバトンタッチし、バッティンググローヴをはめる。政彦がバットとヘルメットを持ってきてくれるが、ちっともグローヴがはめられない。監督に何かを言われ、受け答えした気もするが、記憶には残っていない。
 メットを適当に被せられ、なんとかバットを握ったところで、ばしんと背中を強く叩かれて一歩を踏み出した。
 気を抜けば、全身がかたかたと音を立てて震えそうだった。
 何度か素振りをしてみるが、全く力が入らない。これでは話にならない。ミナトはユニフォームの胸の辺りを掴んで、大きく息を吸う。空を仰ぐ。
 息を吐いた。
 グリップを握り直し、バットを捧げ持つ。落ち着け、自分に静かに言い聞かせる。
 ミナトは、プレイにおける自分の長所をよく知っていた。常に冷静であること、それが彼の唯一かつ最大の武器だった。それを期待されてのレギュラで、この代打起用であろう。
 心を静める。
 早朝のグラウンドをイメージする。
 できる、俺には出来る。
 三度、繰り返して再び深呼吸。
 そうして立った打席で、ミナトはその瞳と出会った。


  鷹の目だ


 そう思った。
 本物の鷹を間近に観たことなどない。でもそう思った。その圧倒的な迫力と切実さに、


  呑まれたら、お終いだ


 胸の内で呟いて、ミナトはぐっと奥歯を食いしばり、ゆっくりと構えた。






「ボゥル!」
 球審の声に、心の底から安堵して、ミナトは息を吐いた。
 内角低めを見送って、ミナトは引いていた体を元に戻す。これでカウントいっぱい。次の投球がどうなろうと、セカンドランナーの剛はスタートを切る。
 最初から一貫して、ミナトに出ているサインは”バント”。彼との力量差は測るまでもなく、ミナトの打球が内野を超える可能性は、飛球であっても限りなく低い。最悪の併殺を避け、一塁線ぎりぎりへ。夏の公式戦初打席のミナトに求められるのはそれ以上でもそれ以外でもなく、それが最適だった。
 一球で成功させる精度がないミナトにとって、あとは出来るだけ粘るのがノルマだ。
 数を放らせればチャンスが生まれる。だが当然、相手も最大の警戒態勢を布いている。相手バッテリーは初球、外してきた。変化球主体の組み立てで、何とかバットに当てたがファールになる。そして投球の度、サードとファーストが猛然とダッシュしてプレッシャーを掛けてくる。
 それを繰り返しつつ、ミナトは釣り球に細心の注意を払い、スリーバント覚悟であることを印象づけた。
 一方、悔しさを腹の奥に沈めたキャッチャーは、返球しながらエースに明るい声を掛けている。しかし、全身が次の一球への緊張で強張るのは隠せない。


  そう、勝負は次だ。


 ちらりとベンチを確認すると、監督が頷くのが見えた。サインに変更はなし。相手も、欲を出すか、アウトを増やすことを優先するか迷うところか。状況と今後を考えれば、無理をしない確率の方が高いとミナトはみていた。
 重要なのは度胸だ。
 ミナトはくっきりと口を結び、余分な力を抜いて構えた。
 彼の長身に力が漲る。左足が上がる。野手とツヨシの腰が落ちる。グラウンド全体の意識が集中する。彼が右腕を振り下ろし、ミナトがバントの姿勢に入った瞬間、


  押せ!


 ミナトの中で、別の自分の声が弾けた。考える間もなく反応する。力強い直球を捉えて、押した。
 白球は、「あっ」と驚愕の表情を浮かべるファーストの横を飛び越え、ワンテンポ遅れたセカンドのグラヴをかいくぐり、内野を抜ける。それを目で追いながら、ミナトは全力疾走する。
 迷うなよ、と祈りながら。
「ツヨシ、GO!」
「突っ込めーッ!!」
 チームメイトの絶叫に拳を握りしめる。球に追いついたライトがバックホーム体勢に入るのが見えた。予想より早い。
 間に合うか? ミナトは思い切りよりくファーストベースを蹴って体を返し、ホームを振り向いた。その時初めて、


 「神様」と、呟いたと思う。






 ミナトは一度、瞳を閉じた。
 ようやく、信号が変わろうとしている。周りの人々が、またそぞろに振動するのが解る。あの夏と同じに深く呼吸し、そろそろと瞼を開けた。
 人影や所々に開いた傘の花は、それでもミナトの視線を邪魔しなかった。彼もこちらに向き直るのが見える。街や群衆はまばらに降る雨に色彩を喪っていたけれど。
 まさに奇跡のように。


 濃密な雨の匂いとモノクロームの景色の中、そこだけが、艶やかな薫りと色に切り取られていた。


 傘は要らない。
 真っ直ぐ前を向いていよう、あの時のように。
 そう決めて、ミナトは瞼の裏に甦った彼の眼差しを思う。あの夏はとっくに終わったけれど、これから先、何度夏が来ても、死ぬまで忘れないだろう、と、想う。






 まるで、素手で心臓を掴まれたような、あの瞬間の『怖さ』だけは。






 ミナトは顔を正面に向け、信号が青に変わるのを待った。
 車の往来が終わり、一拍の空白の後に、人々が歩き出す。
 ざわめきの中で、ミナトは横断歩道に一歩を踏み出す。濡れ始めたアスファルトをしっかりと踏みしめる。彼も人波にあわせて動き出すのが見える。少しずつ、近付く。
 ゆったりと進むミナトの横を、幾人かが追い越していく。
 雨が、すこし強くなった。
 対岸の先頭と、此岸の先頭の人影が交差していく。
 彼がこちらを見た。




 あと、5メートル。























 実際の出来事とは、1オングストロームも関係がありません。
 これは『背番号13』編です。「彼」の名前を思いついたら、『背番号1』編を書くかも…?
2010.10.2



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