“ばいばい、さんたまりあ”












  ばいばい、さんたまりあ (前編) 








 商店街の中ほど、ひっそりと佇む古書店のドアの前に、銀色の猫がいた。
 あとで聞いたところによるとサバトラと呼ぶそうで、縞模様もある。緑色の目はまるっきり硝子玉のようで、奇跡のような色合いをしていた。
 穂高はしばらく猫と見つめ合っていたが、ふいっと猫の方が視線を外す。ゆっくりと、典雅ともいえる動作で身を捩り、大きく伸びをした。
 あっ、と声を上げる間もなく、猫はするりとドアの中に姿を消した。全体的に飴色の店先に無造作にワゴンが置かれ、ひと山いくらの野菜のようにかつての話題作が並んでいる。ドアの上を見上げれば、いつから掛かっているものか、燻された■■古書店の看板が掲げられていた。
 穂高は寸の間、躊躇ったあと、そっと扉に手を掛けた。




 古本屋に足を踏み入れるのは、ほぼ初めてである。
 カラン、と鳴ったベルにどぎまぎしながら、穂高は敷居を跨いだ。紙の匂いがする、としか言い様がなかった。そう、図書館の匂いに似ている。
 活字を読むのが嫌いというわけではないが、そもそも穂高には読書の習慣がなかった。学校を卒業した後は、野球理論やスポーツ科学の書籍をいくらか読んだぐらいだった。ただ、彼と出会ってからさすがに色々と読むようになった。物理や力学関連の読み物を借りたり、彼と共に本屋に行って選んだこともある。(誰かと一緒に本屋に行くという経験も、ほとんど初めてではあった。)おかげでそれ以降は本屋や図書館に行くことも増えた。地図や地形図、星図は眺めるだけでも楽しい。
 だが、さすがに古本屋まではなかなか。
 地元は古都ではあるが学生街でもある。いわゆる新古書店ではない、昔ながらの古本屋もそこここに残っていて、しかも店によって得意分野というか専門が違うようで、門外漢の穂高にはまるで分からない。猫に釣られて入ったその店は、日本史や郷土史に重点を置いているのか、本棚にずらりと並んだ背表紙は奈良時代から近代に至るまで、都の成り立ちや京阪、京滋、琵琶湖疏水等の文字が見て取れた。古地図や洛中洛外図などもあるようだ。
 穂高がその時代も幅も様々な書籍の物量と、そこに詰まっているだろう情報量に圧倒されていると、足に軽い衝撃を感じる。見下ろせば、銀色の猫が首筋を穂高の足に擦りつけている。
 おっ、と少し屈んで猫に触れようとすると、彼女(正確に云うと性別は不明だが、穂高は便宜的にメスと判断した)はまたひらりと身を躱してしまう。
 穂高としてはとりわけ動物が好きということもないのだが、その猫は気になった。毛並みが彼の髪に似ていたから。
 彼の髪は年々、色素が薄くなっているような気がする。曰く、遺伝だそうなのだが、ロマンスグレーを待たず、そのうちすっかり銀髪になるのではないだろうか。きっとさぞかし似合いだろうと思ったりもする。
 そんな事を考えながら猫を眼で追いかけていると、『渋川春海』という文字列が目に留まった。どこかで見た字面のような気がして、手に取ってぱらりと捲る。長暦、渾天儀… 何と読むのだろう? 穂高は首を傾げながら更にページを捲る。渋川春海とは江戸時代の天文学者で囲碁棋士という概説から、挿絵に描かれた星図や模型図にすっかり見入っていると、ポケットでスマフォが震えた。
 慌ててチェックすれば、彼からの連絡である。
 元はといえば待合せをしていたのだ。それでなければ、穂高が市中の商店街に来ることもない。別件の用事から待合せまでの隙間に、物珍しさにつられて大学の近所をそぞろ歩いていたところ、うっかり猫に引っ掛かったのだ。
 どうやら終業に目処が付きそうとのことで、急ぎ店名を思い出しながら返信する。大体の場所を追記しようとすると、今から向かうとの返事が来た。どうやら既知のようだ。
 ほっと息を吐いて、穂高は手元の書籍に意識を戻す。旧仮名交じりの内容はほとんど古文書だが、その分、秘密が隠されているように見えて魅惑的だった。太陰暦、天動説のような知っている語句を拾っていると、ふと気配を感じて振り向けば、銀色の猫がこちらを見上げている。綺麗な緑色の瞳がなにか、言いたげにも見えて、穂高は声に出さず「どうしたん?」と訊いてみる。すると、猫も声を出さずににゃあと鳴いた。


 やはり、なにか、いいたいことが


「どうし」と、今度こそ声に出したところで、


 カラン、


 とベルが鳴った。
 はっと振り返れば、目に馴染んだ姿がドアをくぐってきたところだった。これから本格的な冬に向かうというのに短く切った髪は本当に銀色にも見えて、かえってその美貌を引き立たせていた。ちなみに本人の希望ではなく馴染みの美容師さんの仕業で、寝ていたらそうなっていた(原文ママ)とのことである。
 しかし何れにせよ、


 ああ、


 猫ではないな、と思った。美しくて気高い生きものとしても、猫ではなかった。彼を見て穂高はひとり得心する。なんだろう、ネコ科ではなくて……と、渋川春海関連書籍を手にしたまま考えていると、
「どうした?」
 彼が眉根を寄せる。
「……いや、なんでも」
 ない、と首を振ったところで、彼はこちらの手元を注視していた。「またずいぶんコアなもんを」と言いながら、いや、と急に思いついたように首を傾げる。
「ああ、映画化したな、そういや」
「え? なにが?」
「それ、渋川春海が主人公の小説が出ただろ」
 本屋大賞だったか、直木賞は外れたかも、と言いながら、彼はポケットからスマフォを出してちょいちょいとタップする。
「やっぱそうだ、それがちょっと前に映画になった」
 覗き込めば、その小説を原作とした映画のニュースが載っている。ポスターに見覚えがあり、ああそれでか、と穂高も腑に落ちた。
「こよみ? 江戸時代……時代劇?」
「関孝和が出てくんだよな、確か」
 え、誰? と聞けば、日本でおそらく最初の数学者、と返ってきた。
 なるほど、そういうつながり……とまた穂高は心の内で頷く。彼の専門は物理だが、学問の歴史もだいたいは把握している。聞けば「学校で習ったろ」とは言われるのだが、そういう情報がすらすら出てくるのは、やはりインテリならではだろう。(穂高自身は学校生活は部活の割合が多すぎて、授業の記憶が相対的に少ない。)
 そんな事を考えながら、手にした本を棚に戻したところで、視界の端で銀色の影が動いた。そういえば先程、問いそびれたなと猫を目で追うと、彼女はレジカウンタにひらりと飛び乗る。
 レジの隣は作業机なのか平台になっていたが、今は書籍の山がひとつ出来ていた。買い取ったばかりのものか、とりあえず積んであるという風情だ。穂高の視線を追って、彼もそちらを眺めやる。
 と、少し訝るような顔になった。
「なに?」
 今度は穂高が問うと、や、ちょっと、と彼はそちらに近付いていく。穂高もあとに続いた。
 彼は積まれた本の背表紙をいくらか確かめ、そのうち手に取って捲ったりしている。あまりの気安さに大丈夫かな、と穂高が内心どぎまぎしていると、
「あら、山科センセ」
 と店の奥から声が掛かった。ベージュの洒落たメガネとエプロンをした老婦人が現れて、彼は彼女に向かって優雅に微笑んだ。
「こんにちは。先日はどうも」
「いいえ〜、こちらこそおおきに。師匠のお役に立てたかしら」
「ええ、江戸時代の京阪の資料は少ないので、とても助かったと仰ってました」
「あら嬉しい」
 そのやり取りに穂高は目を丸くする。そうか、既知どころか店員(というかこの様子では店主か)と顔見知りだったのか。しかし、師匠…? 彼の上司である教授とは幾度か顔を合わせたが、落ち着いた大学教授の見本のような紳士ではあったが、師匠という呼称とは馴染まないような……彼も「先生」と呼んでいたし。
 穂高の疑問を他所に、二人の会話は本題に入ったようだ。
「これ、最近の買取ですか?」
「あ、それねえ。なんでも蔵書を丸ごとゆう話でね。うちに関係ありそうなのを回して貰ったら、ちょっと違うんのも混じっとって」
「ですよね、このあたりは地理というより地学でしょう。もう△△堂さんあたりのでは」
「やっぱり? 相談せんといけんね。あとで△△堂さんにも連絡せな」
 と店主が軽く息を吐いたところで、電話が鳴った。もう生で聞くのは珍しい黒電話だ。「あらあら、ごめんなさいね」と店主は身を翻し、カウンタの奥に引っ込む。
 彼はまた買い取られたばかりという本達を見つめていた。
「なんか……気になるん?」
「かなり新しいのも混じってるからな。宇宙関係なんか半年前だ」
 つまり、つい最近まで手に取っていたということだ。曰く、それ以外にも、たとえば大学の一般教養でも使う教科書的なものから専門課程のものもあり、しかも年代にかなり幅があるという。それこそ学生ひとりの持ち物では有り得ない。
 となればやはり教官等、研究者のものだろう。
「それをこうも惜しげもなく手放すとなると……」
 眉根を寄せる彼に、退職した先生が新しい人生というか、気分一新したかったのでは、と穂高が口に出してみると逆に問われた。


「おまえ、今期で引退したとして、明日、グラヴとスパイク捨てるか?」


 ああなるほど、と穂高は頷いた。
 彼を見ていればよくわかるが、研究者というのは職業ではない。生き方のひとつだ。野球選手がそうであるように。いずれ辞めなければいけない日は来るが、それでも、そう易々と切り捨てられるものでもない。書籍に記された情報は財産なのだ。
 そうなると、こうも思い切りよく手放された事情を類推して、彼の顔が尖った理由が分かった気がした。
「まだ気分一新ならいいがな……」
 釣られてつい穂高の眉尻も下がる。
 と、またふと空気が動く。ホモサピエンスの感傷を無視して、銀色の猫はとんとんとその本の山を渡る。穂高が注視していると、最後、少し離して一冊だけ置いてある本に前足を掛けて、なぁと鳴いた。
「どうしたん……その本?」
 穂高が話しかけると、彼の方が驚いてこちらを見る。「いつから猫と話せるようになった?」と訊く彼を他所に、穂高は彼女とその本に近付いた。
 見ればだいぶん年季の入った、箱入りの単行本だ。猫に目を向けると、彼女はすっと身を起こす。許可を得て本を手に取ると、深い紺色の表紙は薄紙のカバーが掛かっていた。(あとでパラフィン紙だと教えてもらった。)背表紙を見ると半透明の紙の向こう側に、
「みやざわけんじぜんしゅう、2……?」
「宮沢賢治? 銀河鉄道の夜の?」
 彼もどれどれと覗き込んでくる。おそるおそる箱から出して見ると、題字や著者名が銀糸で縫い取られた、シンプルな装丁のしっかりした本だ。年代を感じさせるが、紙の日焼けも折り目もなく、ずいぶん綺麗だなと穂高は首を傾げる。童話なら子どもに何度も読まれそうなものだが……が、全集となれば保存用なのかもしれないと思い直す。ただ、第2集だけあるというのも、と逆方向に首を捻ったところで、「やあね、年寄りは話が長くって」とコロコロと笑いながら店主が戻ってきた。
「この宮沢賢治もこれの一部ですか?」
 彼の問いに、ああそうなのよ、と店主は頷く。
「紛れてもうたんやね。でも、こういう全集も懐かしいねえ」
「最近ではもうほとんど……文庫か、電子書籍も増えましたからね」
「私なんかは、やっぱり紙やないとと思うけどねえ。ご時世かしら」
「宮沢賢治なら、ふつうに紙派も多そうですが」
 二人の声を聞きながら、穂高の繊細な指先はふと違和感を摘まんだ。本の間に、何かが挟まっている。あれ、と思った瞬間に声が出ていた。
「これ、僕が買うてもかまいませんか?」
「は?」
 彼が驚いた声を上げ、あら、と店主は微笑む。
「どういう風の吹き回しだ?」
「や、読んだことなかったから。古本屋入るのも初めてやってん、せっかくやし」
 初めて!? マジか! あらまあ、と二人に驚かれながら、先生のところの院生さん? シュッとしてはるわ。いや違いますよ、赤谷の御曹司の同僚です。えっ、ほんなら……等と、穂高本人の許可を得ない個人情報の開示が行われている。
 毎度のことだが、彼が自分の同僚かつ幼馴染みの祐輔と、いつの間にやら違う世界で繋がりを広げている場面に出くわすと置いてけぼりをくらう。喜ばしい話なのだが。
 そうして穂高が身の置き所を探している間に、話が無事まとまったようだ。
「それはもう縁やね。これを逃すと二度と会えへんようになるから、どうぞ買うて下さい」
「また大袈裟な。宮沢賢治ですよ、教科書に載ってる」
「なに言うてるの、山科センセ、逃した魚は大きいゆうでしょ」
「……そういうもんですかね」
 彼は訝しそうな顔のまま、ま、カツオの初競りみたいなもんかと頷いて、店主に尋ねる。
「で、お幾らですか?」


 その宮沢賢治全集第2集の値段は500円だった。




 基本的にシーズンオフの穂高は実家暮らし、ということになっている。
 まあ、確かに自宅で過ごしてはいるのだが、最早、元の持ち主の祖父母も他界し、相変わらず定住しない両親やまだ学生の弟たちが居る訳でもない。ただ、間貸ししているK大のセンセイと、冬の間は同居することになるだけである。
 そういうことになっている。
 この生活も10年ほどになって、もう誰も、何も言わなくなった。
 ありがたい話である。
 シーズン中は全てが明々白々、それこそ超特急のような毎日で、打って変わったこの静謐で隠微な生活が穂高にはどうしようもなく必要だった。
 恐らく、彼にも。


 古本屋を出て、彼と夕食をすませてから帰宅した穂高は、リビングに落ち着いた。
 祖父母から譲り受けたあと、水回りのリフォーム以外はあまり手を入れてはいないが、さすがにこの家に住んでいた中学生の頃とは様変わりしている。むしろ一年中暮らしている彼の家のようなもので、穂高としてはちっとも嫌ではないのだが、休み入りの頃はしばらくソワソワする。
 きっと彼の匂いが濃いからだろう。
 その彼は少し仕事が残っているとかで、元は蔵だった彼の部屋に籠もっている。穂高は、今年も農学部から届いたという柚子で作った柚子茶を手に、例の『宮沢賢治』を取り出した。
 もう、あの古い紙のにおいがしない。
 穂高はそろそろとページを捲る。ほとんど触った形跡のない新品同様に見えるその本の中程、確かに、


「あ」


 あった。
 現れたのは、写真が一枚。


 綺麗な人だった。


 どこか、学校…の室内、だろうか。
 雑然とした書架や机が並ぶ中、生成のシャツの上に白衣を着た、ほっそりとした人の上半身が写っていたいた。手には資料やファイルを抱えている。その背後で翻る濃いベージュのカーテンも、学校の匂いがした。
 現像されてからだいぶ時間が経っているようだ。少し変色している。フィルム撮影なのだろう、デジタル撮影とはニュアンスがまるで違って、モノの輪郭がふんわりしているように見えた。
 しかし、その人の印象は鮮烈だった。
 肩の辺りまで伸びた黒髪を無造作にまとめて、というか適当にクリップで留めている。細面も、白衣からのぞく華奢な腕も白磁のようだ。こちらを見ている瞳は凛として、眉間に力が入っている。
 不意に掛けられた声に顔を上げたような。
「なに?」
 と、今にも口走りそうな表情が。穂高はしばらくその写真に見入った。というよりも、目が逸らせず、ただその人を見ていた。
 どれくらい見入っていただろうか。


「ほたか! 風呂どうする?」


 はっと視界が戻って来る。
 すぐ入るか、という彼の問いに、穂高はああとかうんとか応えた。気を取り直し、そっと写真を別ページに挟む。そして写真が挟まっていたページを改めて開くと、
「おつ……オツベルと象……?」
 象、は動物のゾウだろうが、オツベル、というのは聞き覚えがないが、どうやら登場人物の名前のようだ。童話らしく短い一編だったから、穂高でもあっと言う間に読み終わる。
 それは余りに、
 あまりにあっさりとしているから、どうしていいか解らなかった。




 鶯みたいないい声で
 のんのんのんのんのんのんと


 ずうっとこっちに居たらどうだい。
 居てもいいよ。


 ブリキでこさえた大きな時計 と鎖
 赤い張子の大きな靴 と分銅


 赤い竜の眼をして


 さよなら サンタマリア


 からっきし意気地のないやつだなあ
 仲間に手紙を書いたらいいや
 月はわらって斯う云った


 白象はさびしくわらってそう云った。




「どうして」


 どうして、
 どうして


「どうしたって?」
 はっ、と。
 顔を上げると彼の真剣な眼差しとぶつかった。グレイが掛かった瞳が酷く揺れている、のは自分か。
 穂高は思わず、彼の腕を捕まえた。
「ま、まっ……て」
「どうした?」
「ちがう」
「なにが?」
 彼の声が遠い。すぐ目の前に居るのに。


 違うのだ、そんなつもりは、
 そうではなくて、だってただ、
 彼が、かれに、かれを どうして


「かえで」
 その腕をしっかりと?む。
 いや、縋り付く。
「どうした?」
 彼の声に、穂高は首を振るしかできない。
 どうもしない。
 どうにもならない。
 だから、彼に、彼だけが、
「……楓、好きや」
 すこし、戸惑うような間があったが、すぐに息も止まるほど抱き締められる。
「そうか。おれもだ」
 その深い声に穂高は何度も頷く。
 耳に掛かる吐息の熱さと、響く彼の鼓動と、彼と触れあう部分に縋らなければ、此方側に留まっていられない。
 淡い色の瞳を覗き込んで唇をねだる。すぐにいつもの感触が、そのまま、その甘さと熱に飲み込まれて、夜に、


 月など見ずに。


 どうしても
 強く、どうか、どこにも


 違うんです、サンタマリア、そんなつもりは、
 そんなつもりは















































 後半は拙著『共振ルーズベルトゲーム』でお楽しみ下さい…!
 いや、よく書けたと思うんだ!!(自画自賛) バテリのころ、同じテーマ・題名で書きましたが、あの話と同等か、それ以上によく書けたと思う。というのは、たぶん日向先生のバック固まったからだなあとは。
 これで右腕がもやもやとしちゃうのは、彼なりに罪悪感があるんでしょうね。

2022.01.30収録



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