続々ひだりきき・寒椿
「それで… おまえ、その教科書どうした」
問われて、穂高ははたと口を閉じ、キッチンの水栓を止める。
結局、ハサミ使用法の特訓を受けた段まで語り終えた穂高は、長い首を傾げた。ほろほろと続けた昔語りはだいぶん長く、その単語に巻き戻るまで時間がかかった。意外、と言われることも多いが、穂高はけっこうなしゃべりである。このあたりは栽培地より産地の影響によるものだろう。
「教科書って、世界史の?」
「そう、MFの小林の」
さて、どうしただろうか、と。穂高は皿洗いの手を止めたまま、記憶を反芻する。辞書ならともかく、教科書を職場の寮に持ち込んだ覚えはない。
「たぶん… ここやろな。段ボールに入れたまんまや」
高校の寮からこの家に送った荷物はその後、ほとんど触った記憶がない。物置か納戸にあるのではないだろうか。そんなことを応えると、
「中は見たか?」
と妙に鋭い声が続いて、顔を上げれば、ノンフレームの眼鏡の向こうに怜悧な瞳があった。あれ、と思いながら穂高は再び首を捻る。
「ざっと見たけど… ほぼ新品で。ほんまに拓真、一度も開いてなかったと違うかなあ」
折り目さえほとんどついてなかった、確か。
「あいつ、マジで勉強せえへんかったんかな?」
のんびりとした口調で続けた穂高に、しかし彼は何も言わなかった。そのままマグカップのコーヒーを啜る。
オフシーズンの休日、一年でそうはない貴重な日だというのに、たいへん不穏であった。
この家は京都の外れにある。
もとはといえば穂高の母方の祖父母の家で、中学時代を過ごした場所だったが、いまの住人は彼だった。しばらく前に祖父が亡くなり、一人暮らしになった祖母が両親が住む街のケアハウスに移って、空き家になった。家というのは手放すのにけっこうな手間が掛かる上に、人が住まないと急速に荒れる。家族会議の結果(というより母親の意見が通っただけだが)穂高の所有になったあと、博士課程に在籍していた彼に格安で貸したという話で、つまりいま、穂高が大家で彼が店子ということになる。
対外的には。
そして大家たる穂高は、普段は職場近くに借りたマンションで寝起きしているが(本当に文字通り寝起きしかしていない)、オフシーズンを自宅で過ごすため戻って来ている、ということになる。
…対外的には。
あ、そうだ、腰が痛くなる前に、と穂高はそのまま軽くストレッチをする。リノベーション済とは云え、やはりこのキッチン台は長身の穂高には低かった。
窓の外を見れば、生垣の寒椿が冬の陽に映えている。
匂い立つような紅色が美しかった。
それから視界を手前に戻せば、ダイニングテーブルの上にはA4に打ち出した英文が何枚か散らかっていた。ノートPCも開いてあるが、彼は打ち出しの方をチェックしてはなにやら書き込んでいる。なんとかというジャーナルへの寄稿だそうだが、曰く、校正は紙に印刷してやらないとどうしても見落とす、らしい。
野球選手というのは、24時間365日野球選手である生きものだが、研究者というのも24時間365日研究者である生きものだ、というのは彼に学んだ。というか実感した。土日平日関係なく、盆や正月さえもカレンダの記号で、通常の彼は毎日研究室に顔を出し、なんやかやしている。実験や測定が立て込むと二、三日帰宅しないこともあるし、日本各地や海外に観測や学会で数週間出掛けることも多い。更には隙あらば論文や文献をあたり、原稿や論文を書き、研究のことを考えている。それが基本だ。
つまり、同じ穴の狢だ。
いや、十把一絡げに扱うのが申し訳ないところではある。
彼はとにかく、本物の、ハイエンドのインテリだ。
一昨年、順調に某旧帝大の博士課程を修了したが、大学の教員等のポストに空きがなく、”かけんひ”というのを取得して大学で研究を続けている、そうだ。詳しい事は穂高にはまったく解らない。母校は元より、他大学の講義もいくらか担当して何とか食いつないでいる、とは本人談だ。せっかくの頭脳が充分活かされていない気がするのだが、この頃ではそんな状況のオーバードクタが多いという。大丈夫か、日本の高等教育。
ちなみに卒論のタイトルも、修論のタイトルも、D論の概要も聞いたはずだが、残念ながら穂高の守備範囲とは球場違いだった。
ともあれ、彼の話は面白いし、教え方も上手い。更にはその容姿も相まって、某女子大では無関係の学生も聴講に来るとかで、応用物理学だというのに大講義室が満員御礼になるという噂を聞いた。
そう、容姿といえば、彼はイケメンという単語が浮つくくらい端正な顔立ちをしていた。
身長こそ穂高より少し低いが、手足は長い。職業柄、いわゆる芸能人を見る機会も多い穂高だが、それでも初めて逢ったときは綺麗な人だなと思った記憶がある。カメラマンではなくモデルかと思ったくらいだ。(ちなみに、実際はカメラマンでもなく写真部の大学生だった。)
おかげで彼と一緒に居ると、たいてい穂高の方が『ツレ』扱いである。穂高自身は人間の外見にこだわる方ではない、というよりほぼ無関心であったし、立場的にもむしろ好都合だったが、彼はそれを嫌がった。難儀なことである。
はて、そもそも何の話題だったか?
穂高はようよう皿洗いの続きに取りかかる。確か、ちょうど天王山の高校サッカーの話題から、最後の冬に国立に辿り着いた同窓の小林拓真の話になり、圭一郎の話になって、左利きのハサミについて話した。教科書のことなど、本人でさえきれいさっぱり忘れていたのに。
「本体は落書きの方か?」
ほとんど囁くように、彼はそう呟いた。視線を向ければ薄い刃物のような顔が見える。
これはこれは、ずいぶんと。
いったい何が起こったのか?
彼と知り合って、インテリというのは「考える」コトを厭わないことを知った。記憶力が良いとか、頭の回転が速いとか、物知りだとか、それももちろんなのだろうが、とにかく彼らはまず考える。思考する事自体がほぼ反射というか、生理現象なのだろう。職場にも頭の良い同僚はたくさんいるが(聖さんとかケントとか)、そもそも、なんというかベースラインが違うというか。
とにかくむやみにハイスペックなCPUは、穂高の話からいったいどんな解を導いたのか。語った当人にはさっぱり見当もつかない。そして彼は不機嫌な貌のまま、髪をかき上げた。
「そのMFの小林、いまどうしてる?」
「え… たしか、大学で選手は引退して、卒業後はどっかのチームのスタッフになったって…」
更に問われて、穂高は記憶を呼び起こしながら応える。誰かの結婚式のとき逢ったきりだ、と続けると、ふうん、とさして興味のなさそうな相槌が返ってきた。
「まあ、無類の不器用がちゃんとネクタイが結べて、正確にハサミが使える理由が分かって良かったか」
「…なんや」
事実とは云え、あまりの言われ様に抗弁しようとしたところ、彼は飲み終えたマグカップを手に立ち上がった。そしてキッチンカウンタに置くのではなく、そのままシンクに回ってきた。
マグを受け取って洗おうとしたところで、背後から彼の気配が消えないことに気付く。微かに体温を感じるぐらいの、ほとんど触れそうで、触れない、半歩分の距離。
ちりちりと、項に彼の熱を感じながら、穂高はゆっくり、ゆっくりとマグカップを洗った。
ふっ、と空気が動いて、彼の手が穂高の腰を抱えるように伸びる。首筋に彼の唇が触れるのが解る。穂高はくっと息を詰めた。マグを取り落とさないようにしながら、洗剤を洗い流す。水の音だけが響く。
このまま、振り返らずに居られる勇気が穂高にはなかった。
マグカップを水切りカゴに伏せる。ゴム手袋を外す。
そっと、身じろぎをするように振り向けば、そのままキスを強奪された。彼の唇は朱くて、柔らかくて、甘い。幾度も重ねながら深くなっていく口づけに、籠もった声が漏れた。
「ん…」
息を継ごうと少し顎を上げると、彼は穂高の唇の端、小さなホクロを舐めた。身体が震える。
「寒椿、が」
「うん?」
咲いてる、と彼の耳朶に声に出さずに囁けば、彼は顔を上げ、窓の方を見た。
「…嗚呼、綺麗だな。佳い色だ」
あの赤は雪に映える、と。そう言って彼は穂高を柔らかく抱きしめたまま少し、黙った。
未だに高鳴る鼓動は如何ともしがたく、瞼の裏に閃く花弁の紅色と、葉の深緑と、それを包む雪の白さと。
「出掛けるか」
「は?」
雪を見に行こう、と。
そう言って彼はするりと身を離す。またも突然の展開に、穂高は呆然とするほかない。
「いまからなら、福井か、岐阜か。何処がいい?」
「え、ええっ?」
「急がないと暗くなるぞ」
さて、休日を味わおうではないか、と。
彼はゆったりと美しく笑った。
ネタとしては優勝旗返還より前にあったやつですね。ハサミってあれだけ大事な道具なのに、左利き用が稀だというのをきいていたのでついつい… 左利きって憧れだったなぁ。
愛憎半ばというか、複雑だったよね、お互い… でも唯一無二だったね、という二枚看板でした。
しかし、思いついた当初はこんなことになるとは思っていなかった最後のオマケ。単にあまりに物理屋さんが哀れだったので、ちょっとフォローしてみました。色っぽい話強化活動の一環…?
2017.5.5収録