“永続シークレットガーデン”












  永続シークレットガーデン 








 このご時世、庭木がある家は減っている。
 特に地価の高い都会になればなるほど、そもそも庭の面積が狭いのだ、当たり前である。手入れの煩わしさや、虫や防犯上の問題で、殆ど絶滅の危機に瀕している。
 が。
 それでも潤沢に庭木を植え、しかも定期的な手入れが欠かせない場所がある。それは公共の庭園や施設であり、寺社仏閣だ。特に歴史的建造物となれば余程のことがなければ数十年、数百年と管理が必要になってくる。当然、植木屋の出番も尽きない。
 従って、本邦では、寺院が集中している古都には自然と植木屋も多く集まる。需要と供給、そこは資本主義の力学が働いていた。


 そんな中で、真柴遼子にとって、家業が植木屋だというのはあんがい好都合だった。
 特に勉強が好きだったわけでも得意だったこともないが、手先はそれなりに器用で体力には自信があった。事務職などのデスクワークには興味がわかず、引っ込み思案で接客は最小限にしたかったし、なにより……植物は好きだった。
 遼子としてはそれで十分、だと思っている。
 しかし、肉体労働な上、いわゆる職人の世界だ。
 女には明らかに不利であったが、親方の孫、社長の娘となれば、なんとか居場所はあった。それでも折に触れ、どうにもならない壁を感じることがあり、そこでそっとため息を呑み込むのが遼子の習い性になっていた。
 たとえば、そう、得意先である大寺院などの季節毎の手入れの際に。
 勿論、大口顧客の定期的な仕事であり、文化財を守る大切な作業でもある。店でも大事な業務として珍重されていた。ただ、広大な敷地の寺院は、観光名所でもあるので手入れの出来るタイミングが限られており、多くの職人が呼ばれることになる。遼子の店のみではなく、他店との共同になることもしばしばだ。
 そうなると、どうにも男の職人達には見えない厄介事がわいてくるのだ。
 雪吊りなどは特に力仕事で、しかも池に張り出した木の場合、池の中に入ることになる。水圧や水温を考えると、やはり遼子には分が悪い。あからさまに侮る態度を取る他所の職人もいて、そこはぐっと堪えて、高いところの作業や、手先の器用さや繊細さが求められる箇所に己が力を振り絞るだけだ。
 何より誉れの仕事である。跡取り、とは言われていないが、店屋の娘としての矜持もある。スケジュール表に件の仕事が書き込まれる時期になると、褌(はしていないが)を締め直す気持ちになる遼子だった。




 しかし、今年は勝手が違った。
 梅雨明け、本格的な夏を前に手入れが必要な時期だが、当の大型業務の直前に、親方である祖父が腰をやった。
 親方とはいえ還暦はとうに越え、そろそろ現場仕事はと父に諭されていたところだったが、今回は強制的に休業を余儀なくされた。仕上がりの確認だけでも、と押し問答する祖父と父を見ながら、遼子は現場の算段をし直さないとと考えていたのだが。
「お前には別の仕事がある」
 出し抜けに告げられ、一番驚いたのは自分だった……と思っていたが、周囲と大差はなかった。父を振り返ると、真顔でぶんぶんと首を振っている。初耳だったようだ。
 この大仕事のときに、微力とは云え別件を頼むとはどういうことか、と問い糾せば、一日だけ現場近くの個人宅に回って欲しい、という意外にも穏当な答えが返ってきた。
 そこで遼子もはっと思い出す。この現場の仕事の際は、何回かに一度、途中で親方が抜ける日があった。聞けば、近隣にある親しい友人宅の庭に寄っているという。恩人だからどうしても自分でと言って。
 そういえば……と遼子が反芻していると、祖父はぽつりと呟いたのだ。
「夏の前に、寒椿を見てやらなならん」
 と。


 そのお宅を、親方は『小林先生のお宅』と呼んだ。




 玄関前に立つと、遼子はその門構えに覚えがあることに気付く。
 確かまだ物心ついたかどうかの頃、親方と訪れたことがある。よく笑う婦人に祖父は何度も頭を下げていた。それから、背の高い紳士が庭にある梅の木に声をかけて、そして……
 と、遼子が思い出をかき回していると、
「あらあ、今年は遼子ちゃんやの?」
 まるっこい女性がドアからひょっこりと顔を出し、遼子を気安く呼ぶ。
 その人は先年、早くに亡くなった母の友人、マリさんだった。遼子が子どもの頃からの付き合いだ。
 元はといえば真柴家の近所の生まれで、母とは中学高校と同じだったという。その後、このあたりに嫁いだはずだが、母が常に名前で呼んでいたので本名は知らない。盆暮れ正月だけでなく、ちょこちょこ真柴家を訪ねて来ては、賑やかに話散らしていくので、姓以外のことはわりとよく知っている。大人しかった母とはまったく逆にお節介で出しゃばり(本人談)でずっと学級委員だったこととか、短大を出た後は某百貨店のエレベーターガールをやっていたこととか、産んだのが男ばかり三人で娘に憧れていたこととか。
 おかげで、今でも遼子に逢えば必ず「きれいになった」と真剣に言ってくれる人でもあった。正直、一般的には綺麗どころか男前と評される遼子にしては、気恥ずかしいを通り越して気まずいくらいだが、本人はいたって本気なので、そこは黙って受け取っている。
 しかし、そのマリさんが何故ここに?
 謎だった今の姓は『小林』だったろうか、と内心首を傾げつつ、遼子は事情を説明する。
「ええ、親方、祖父が先週、ぎっくり腰で」
「ああー、もう、お父さんもお年やねんから。腰は一度やるとクセになるからねえ……そんで、今回は遼子ちゃんが?」
「は、はい。たしか春先に剪定した寒椿をと」
 せやった、虫を気にしないといけない頃やね、とマリさんは振り返って庭の生垣を見遣る。
「えっと、マリさんがこちらのオーナ……」
「あはははは、違うちがう! なんやろ、家政婦?みたいなもん。あ、とりあえずこっち、入って。待っとってね」
 そう言いながら遼子を庭の方に案内し、自分は縁側から家屋に上がり込む。
「センセー、もう起きはった?」
 先生というのが、小林先生なのだろうか。遼子が唖然とするなかで、マリさんはずかずかと、それはもう我が家のように母屋に分け入っていった。いくらか物音がしていたが、すぐにやれやれといった様子でマリさんが戻ってくる。
「ちょっとねえ、センセ、朝方、大学から戻らはって。あとで挨拶してもらうから、もう始めてもらってええよ。あ、お手洗いはこっち、勝手口から入って、」
 と、とんとんと話を進めるマリさんの後を追いながら、遼子は(小林先生は大学の先生なのか?)と、またもや首を傾げる。マリさんは家政婦といっていたが……あのときの婦人や紳士とは年齢が合わないような、とまだ状況を飲み込めていない彼女に、マリさんは朗らかな笑顔で言うのだ。
「じゃ、何かあったら呼んでちょうだい。おねがいね」




 まあ……あとでいいか。
 と、遼子は腹をくくる。もともと家庭の事情や人間関係を気にする方でもない。それより仕事だ。
 今日は薄曇りで気温も湿度も程々、ありがたかった。脚立や鋏などを下ろし、改めて小林家を見渡してみると、素朴だがずいぶんと豊かな庭だった。
 目立つ樹木は寒椿の生垣と母屋と蔵の間にある梅の木で、あとは母屋の近くに紫陽花がひと群あるが、それ以外は草花が主だ。ざっと見た限りでも……なんというか、フリーダムである。タチアオイ、竜胆や萩、菊、たぶん撫子などがそっと植わっている。
 おそらく、確固たるイメージがあったわけではなく、好みのものを気の向くままに植えているのだろうが、それぞれが主張しすぎず、奇妙なバランスで成り立っていた。
 誰が作った庭なんだろうか、と思いつつ、遼子は本日のメインである寒椿と向き合う。育てやすい庭木だが、チャドクガがつきやすいので、夏になる前に確認しておかないといけない木だ。それと、あちらの梅はだいぶベテランのようだが、伸びすぎた枝は落としておいた方が良いだろう。そう考えながら、遼子は道具袋から小振りのスケッチブックと鉛筆を取り出す。簡単な庭の見取り図と植わっている樹木と草花をメモしていく。色々試した結果、自分の手を動かして観察しながらプランを練ると仕事が進めやすいことが解った。方角、日当たりや勾配、母屋からの距離などを考えながら必要な作業や手順を整理していく。
 そうしてイメージする、こ季節毎に変わりゆくこの庭を。
 あの寒椿が咲く頃、この庭はどんな色をしているだろう?


 遼子が新しい庭に夢中になっているうちに、日が高くなっていた。
「……ちゃん、りょうこちゃん! 大丈夫? もう昼近いし、ちょっと休憩しはったら?」
「あ、はーい!」
 いつの間に、と、遼子は落とした梅の枝をまとめながら時間を確認する。たしかに正午近い。
 ひとまず定期連絡をと、スマホを取り出した遼子の耳にまたマリさんの賑やかな声が届く。
「センセ、もう大丈夫なん? あらやだ、今日はほら植木屋さんが……前から言っとったでしょう。今日ですよ! もう、顔洗って、ご飯でも食べて目ぇ覚ましてください。あッ、その前にちょっと」
 なにやら受け答えがされているようだが、相手の声はここまで聞こえてこなかった。
 大学の先生か、と考えながらスマホをタップしていると、マリさんがこちらを呼ばう。振り返ると、縁側に出て来たマリさんの後ろから続く人影が見えた。
「ほら、センセ、挨拶したって」
 マリさんに押し出されるように縁側に現れた人物を見た瞬間、遼子は”違う”と思った。
 青年よりは年上だが、中年というには些か若い……という以前に、ちょっと引くくらいのイケメンだった。中途半端に伸びて無造作になっている(本当に起き抜けのようだ)髪はアッシュグレイで、若干無精ヒゲも生えているし、メガネの向こうで眠そうに目をしばたいているが、むしろそれだけでも画になるあたりがおそろしい。
「はい、こちら、今この家の借主の山科先生」
 かりぬし?
 やましな?
 思わず男性とマリさんの顔を見比べる遼子に、ほら、センセ、とマリさんは彼の背中を叩く。彼はぺこりと頭を下げた。
「K大で助教をやってます、山科といいます」
「K大…? えっ、K大!?」
 押しも押されぬ旧帝大である。ぽかんとする遼子に、少々お待ちを、と山科はすっと身を翻して室内に戻り、程なく戻って来る。それから縁側にひょいと正座して、遼子に名刺を差し出してきた。
「あ、ありがとうございます」
 遼子も慌てて営業用の名刺を取り出し、厳かに彼と名刺を交換する。たしかにK大理学研究科、助教、物理学博士、山科楓とある。
 佳い名前だな、と反射的に思った。
 図ったような感じだが、麗しい見た目にもぴったりである。そっと相手を伺うと、彼もしみじみと遼子の名刺を眺めていたが、ふと、
「今日は、親方はどうされました?」
 と訊いてきた。祖父とは面識があるようだ。
「えっと、祖父は先日、腰を痛めまして代わりに私が」
「ああ、お孫さんでしたか。それは大変でしたね、お大事にとお伝え下さい」
「はい……」
 名前から推測されるとは云え、動揺してうかつに続柄で話してしまったことを後悔しつつ、遼子は内心首を傾げる。こんなインパクトの強いお得意様、しかもマリさんとも繋がりがある家の話を、これまでに一度も聞いたことがないのは何故なのか?
「じゃあセンセ、私もう出ますから、さっさとご飯食べてくださいね。あ、そうそう、遼子ちゃんもお昼食べてって」
「えっ、はい?」
「そうですね、お昼、ご一緒にいかがですか」
「は?」
「マリさんの豚汁、美味しいですよ」
 はあ、と。頷きかけてはっとする。それはちょっとどうか、仕事先でご馳走になることはままあるが、だいたいが飲み物やおやつ程度のものだ。近所のお寺に店の皆がいることもあって、お昼に顔を出そうかと思っていたのだが。
 しかし山科は別の誤解をした。ああ、と思いついたように言う。
「そうか、知らない男がいる部屋に上がるのはイヤですよね」
「や、いやいや、そういうわけでは!」
 慌てて手を振る。そんな考えが過ったわけではないが、確かにふつうは躊躇うシチュエーションではあるかもしれない。(遼子がひとりで、男性の一人住まいのお宅に仕事に行く機会がないものあるが。)
 そんな遼子に山科はカラリと告げる。
「最近は大学でもそのあたり、厳しいんですよ。女子学生と1対1になる場合は部屋のドアは開けること、とか当局から通知が来ます」
「えっ、そんなに厳しいんですか?」
「時代でしょうね。では、この縁側でどうですか。外はもうだいぶ暑いでしょう」
「そう、ですね……」
 確かにもうかなり蒸し暑くなって来ていた。
 何より、興味が勝った。この先生と、少し話してみたかった。




 マリさんの豚汁は本当に美味しかった。意外にも玉ネギが合う。
 縁側に座布団を設え、お盆に豚汁の椀と握り飯とつけ合わせの皿が乗せたランチである。なんだか長閑な昼食風景だった。
「曰く、三人の息子さん達だと鍋いっぱい作っても1食分だそうですがね。まあこれだけ美味しければ、食べるでしょう」
 よく通る声でそう言う山科に、はあと頷きながら暖かい椀を見下ろして、然もありなん、と遼子も思う。
 マリさんが作ってくれたのは豚汁の他、握り飯とほうれん草のおひたし、梅干し。台所では握り飯が山になってるらしいが、さすがに、と断って三つにしてもらった。
「この梅干しはあの梅の実です。でもマリさん、おにぎりの具には使わないンですよ、謎ですね」
「そうですか……」
 やはりこの人は違う気がする。
 曖昧に頷く遼子が山科から聞いたところ、『小林先生』というのはこの家の先代、遼子の記憶にあるよく笑う婦人のことのだった。なんでも、かつては親方やマリさんの中学校の担任であったらしい。それがしばらく前に旦那さんが、そして後を追うように小林先生が亡くなって、結局、いまは貸家として山科が住んでいるという。
「当代の小林さんとは縁があって……季節労働者でしてね。オンシーズンは定住も出来ないので、まあ、管理人のようなものです」
「……マグロ漁船とか、遠洋漁業の方ですか?」
「あはははは、そうですね、近いです」
 違うらしい。
 山科の標準語があまりに自然なので、訊いてみればまごうことなきトウキョウ人で、それでも京都に住んで既に十年以上になるという。
「マリさんは家政婦のようなもの、と言うてましたけど……」
「ああ、私も自分のことは出来ますが、この広さの家になると持て余すところがありますので。掃除や、庭もありますし、折々に手伝ってもらってます。ま、マリさんも親方も、小林先生の家に変な男が入り込まないか、心配だったんでしょう」
 朗らかに言われると棘は目立たないが、家主の知り合いでK大のセンセイとは云え、若い見知らぬ男が独りで住むとなれば、確かに多少は警戒するのかも知れない。京都は閉じた土地だから、と遼子が噛みしめていると、
「タバコは、よろしいんですか?」
 不意を突かれて、うっかり椀を取り落とすところだった。
「えっ?」
「お吸いになりますよね? 親方はいつも、昼飯のあとに一服されていたので」
 たしかに遼子は喫煙者である。煙草臭かっただろうか、と少し焦る。
 この頃は風当たりも強いしので大っぴらに吸うことがないが、職人達はもともと喫煙者が多いし、なんとなく祖父のマネをしたくて吸い始めた。もちろん、客先ではそうそう吸うこともないのだが(当たり前だが文化財なら禁煙だ)、祖父はそれほどにもこのお宅に馴染んでいたと言うことだろうか。
「いえ、あの、お客さまのお宅で吸うわけには」
「なるほど。では、こうしましょう」
 言うなり、山科は立ち上がって部屋の中に入る。しばらくして戻って来ると、手に煙草とマッチの箱、灰皿代わりとおぼしき瓶の蓋を持っている。そして縁側にひらりと座ると、慣れた仕草で煙草を一本取りだした。
「これで私も共犯だ」
 そうして、山科先生はニヤリと嗤った。


 山科が煙草に火を点けると、パチパチと音がした。ゆらりと立ち上る煙は、独特な香りがする。お香のような。勢い遼子も訊ねていた。
「変わった匂いですね」
「ええ、ガラムというインドネシアの煙草です」
 ほほう、と山科の手元を覗き込むと、日本のものより確かに長い。そしてボディには点々とシミのような模様がある。
「実はだいぶ前に喫煙は辞めたんですが、春にちょっとした縁でもらい受けましてね」
 言いながら、山科は金と赤の箱から一本取り出して、遼子に差し出した。
「ひとに勧めるにだいぶ重いんですが、まあ話のタネにどうぞ」
 ありがとうございます、と遼子はおずおずと受け取っる。ひと通り眺めてから、匂いを嗅ぐとやはりほとんどお香のようだ。思い切ってフィルタを咥えると、
「あまっ」
「ですよねえ」
 びっくりするような甘さである。これは日本はもちろん、輸入物のなかでもかなりの珍品なのでは、と遼子は改めてガラムを見詰める。ただ、だからこそファンが付きそうだな、というのも解る。嗜好品とはそういうものだ。
 沈黙する遼子を促すように、山科は佳い声で歌うように言う。
「ある先生の形見分けですが、あまりに独特でなかなか、日常的に吸うにもね。ま、線香代わりです。大家も承知の煙草なので、真柴さんも遠慮なさらず」
「あ、はい」
 おっかなびっくり、改めてフィルタを口に咥え、ライターでそっと火を点けた。やはりパチパチと音を立て、エキゾチックな薫りが漂う。なんとも不思議な感じがする。
 たしか……祖父が好んでのでいるのは、ハイライトだったか。
 あれはエキゾチックとは無縁だ、と、そんなことを思った。






 二人の紫煙がゆらり、ゆらりと流れた頃だった。
「真柴さんはずっとこのお仕事を?」
 山科の質問は唐突な、と言いたいところだが、慣れたものだった。いくら親方の孫でもとにかく女は目立つ。
「はい、卒業してからはうちの社員で、あ、最近は植木屋も株式会社にしてますので」
「でしょうねえ。お好ですか?」
 ダイレクトに訊ねられて、ちょっと煙を飲んでしまった。さすがに、ここまで直球勝負はなかなかない。しかし遼子の中にはそれなりの模範回答集がある。今日もそのページをペラペラとめくった。
「剪定や庭木の手入れは、家業ですのでわりと昔から……」
「あ、ええっと、植木職人のお仕事ではなくて、庭はお好きですか?」
「にわ、ですか」
 少し意外な切り口だった。
 遼子は模範回答集のページを見失って、言葉も失う。山科はもう一本、ガラムを取り出した。
「親方がね、よくここはいい庭だと褒めていらしたので。そういえば、植木職人と庭師は違うというのは聞いたことがあります。植木職人が庭木のお手入れをする職人さんとすれば、庭師はプランナーでしょうか?」
「ああ……はい、そうですね、庭師の方が守備範囲が広いというか。はっきりとした資格はないですが、庭師が行うのは”造園”なので」
 むしろ空間デザインや建築に近く、生活の一部でありながら公共の景観の一部も担う『庭』を造るため、技術職でもあるが芸術性さえ求められる。そう語る遼子に「なるほど、真柴さんはむしろ造園のほうにご興味が?」と山科が尋ねる。
「……どうでしょう。でも植物は好きです。季節の色と温度と、匂いがわかるので」
「ほう」
 山科は感心したような声を上げる。
「でもまだまだ、力不足で。現場は好きですが、今日は親方から本来の仕事ではなくこちらへ回れと指示されました」
 口にしてから、しまった、と気付く。慌てて「こちらのお仕事も大事ですが」と言い訳しようとする遼子を他所に、山科は「ああ」と山科は顔を振って少し遠くを見遣る。
「今どきはあちらの、●●寺さんが夏前の手入れの時期でしたね。真柴さんのところも参加されるんでしょう。親方は話してくれませんが、マリさんから聞きました。あそこの手入れと合わせて来てもらってるんですよ、実は。もう30…40年近いんじゃないですかね」
 なんだって、と思わずタバコを取り落としそうになり、遼子は慌てて携帯灰皿に吸い殻を突っ込んだ。
「そ、そうだったんですか。そんなに前から……」
「ええ、小林先生がまだ先生だった時代からでしょうから。なんでも、小林先生が初めて担任を受け持ったのが、親方のクラスだったそうですよ。その縁もあって、ずっとお手入れはお願いしてると聞きました」
 祖父が中学生だった頃、となればもう確かに半世紀以上前である。なんとも息の長い話に、ちょっと眩暈がした。
 山科はそんな遼子に、親方はその部分の引き継ぎはされてないんですね、というようなことを呟いた。
「となると、親方はあちらのお寺の作業期間のなかで、都合を付けてこちらに来てくれていたということですかね」
「そうですね。父、いえ、社長以下、職人はみんなそちらに駆り出されるので……確かに期間中、親方が留守の日があったと、思います」
「なるほど、では普段は真柴さんも●●寺さんを担当されている?」
 はい、と頷く遼子に、なぜか山科はそこで考え込んだ。なんだろう?
 山科はそのまま慣れた様子で新しいガラムに火を点ける。またパチパチと音が響き、ゆったりと大陸的な薫りが漂う。
「これは親方の戦略かもしれないですね」
「は……せんりゃく?」
 遼子はとっさに、意味が取れずに聞き返す。ここで出てくる単語とは思えなかった。更にどういう意味かと問おうとして、しかし山科の妙に落ち着いた顔に、黙ったまま手にした携帯灰皿を縁側に置いた。
「親方もそろそろ、この家の担当の代替わりを考えていたはずなんです。腰のことがなくてもね」
 それは……そうかもしれない。
 引退を勧めていた父親の言葉を思い出す。遼子は新しいタバコを取り出そうとしたが、手が動かない。胸の内にざらざらとした感覚がある。小さな砂埃が入り込んだように、きしきしと音を立てる。
「今回、潮時だと思ったんでしょうね。そこで真柴さんに白羽の矢を立てて、●●寺さんではなくこちらに派遣した」
「私では大きな仕事はダメだということでしょう。一般家庭の植木の手入れなら誰にでも出来ます」
 勢い、キツイ言い方になったが、山科は遼子のその言葉にむしろニヤリとした。
「いいえ、逆ですよ」
「……逆?」
 そこで山科は「そうだ、梅ジュースもあるんですよ。マリさんが梅酒と合わせて作ってくれました。大家が下戸でしてね、飲めないもので」とまたついっと部屋に引っ込み、しばらくするとコップを二つ手に戻って来る。
「今年はたくさん穫れたんですよ。どうぞ」
 はあ、ありがとうございます。と、押されて遼子はコップを手に取る。淡い琥珀色の液体は爽やかな甘味と酸味で、少し落ち着いた。
 もうだいぶ休憩時間も長引いているが、おかげで日が出て来た。初夏の太陽に照らされて、小林家の野放図の庭は瑞々しく美しかった。
「こんなことを言っては失礼かも知れませんが、歴史的建造物の庭木の手入れは、ルーティンというか、様式美でしょう。既に完成しているお庭で、もう夢窓疎石も雪舟も居ませんし、これから改築が行われるわけではない」
 むそう……? と言葉を取り落とした遼子がぽかんとしていると、これはね、と美貌の物理学者はタバコをくゆらす。
「保守と開発の違いです。仕様が確定している仕事は誰にでも出来ます。誰でもいいんですよ」
 だれでも、いい。
 遼子は声を出さずに繰り返す。しかし山科が続けた言葉に、引っ掛かるものを感じて顔を上げる。
「そもそもこのお仕事で女性は珍しいでしょう。だからこそ、そこに意義がある」
「でもそれは……」
 山科は、わかっている、というように手を上げて遼子を押しとどめる。
「性差が能力差になるわけではないです。そんなことは自明の理ですが、いまだ偏見は根深い。男性も、もちろん女性も。その上で、どうしようもない差がある。体格差と筋力差です」
 ズバリ言い当てられて、今度こそ遼子は絶句した。
 どうにもならない差に立ち尽くすあの瞬間を、思い出すのは痛い。
「でも、見える景色が違うからこそ、気付くことがあるんです」
 なにを…? と遼子が見詰める先で、山科は美味そうにタバコを吸った。
「小林家は背が高いんですよ、全員。小林先生が一番、背が低かったようです。それで当代が継いで水回りをリフォームしたとき、キッチンの高さを上げたんですね。でもマリさんは小林先生と同じくらいの背丈で、あの台所だとちょっと高いんだそうです」
 山科は部屋の中を振り返る。その先に新調されたキッチンがあるのだろう。
「マリさん、かなりの頻度で料理してくれますからね。最初は毎回、使いづらい!って言われてたらしいんですよ。で、今どうしてると思います?」
「えっ……が、ガマンする?」
「真柴さん真面目ですねぇ」
 あはは、と山科は笑いながらタバコをもみ消した。 
「踏み台を用意する案が出たんですが、キッチンってけっこうな広さですから、そんな幅広い踏み台は無理だってことで、厚底のスリッパを用意したんですよ」
「あつぞこ?」
 最近そういうのあるんですね、いい世の中です、と真剣に頷く山科に、遼子の手のコップで氷がカラリと音を立てた。
 たしか、厚めのキッチンマットと合わせて、10cmほどかさ上げになったんですかね。山科の深い声は、庭の緑と同じ色をしていた。

「で、マリさん最初に、景色が違うって。まるで別の家みたいだって言ってましたよ」


 ああ ……
 その感覚は知っている。遼子はようやく気付く。自分にもあったではないか。脚立に上って見た国宝のお庭は、あまりに美しくて息を呑んだ。
「あの寒椿の生垣も、キッチンからの見え方が変わるんだそうです。背が低いとね、あまりちゃんと花が見られなかったみたいで。あんなにいい色だったのに気付かなかったと、驚いてましたよ」
 今ではキッチン以外でもずっと履いてますね、あのスリッパ。
 そう山科は楽しそうに笑ってから、しかし、すこし俯くと続ける。
「つまり、小林先生もきっと、キッチンからは寒椿が見られなかったんですよ」
  !
 それは、と、遼子は山科の端麗な横顔を凝視する。
「親方がね」
「……はい」
「それからいくらか工夫されて、植え替えとかもちょっとしたのかな。それであの生垣が今のかたちに」


 この家を建てた設計士さんも大工さんも、植木屋さんも、男性ばっかりだったんでしょうね。
 台所から見える庭の風景、考えてみなかったんでしょう。
 あんなに嬉しそうな顔が見られるのにね。


「そもそもメンバ構成の性別を限るというのはね、その業界にとって不幸なことなんです。世界の半分を占める才能の宝庫をドブに捨てている。成長に必要なのは多様性だというのにバカな話です」
「たよう、せい……?」
 また聞き慣れない単語につまずくうち、山科の話は自在に動く。
「研究分野でもそうです。うちの研究室にも後輩に有能な女性研究者がいます。私よりもむしろ優秀なくらいなのに、なかなか就職先が決まりませんで」
「えっ、K大の学生さんでもですか?」
 K大の学生だからかえって、というのはあるんですが、と山科先生は痛そうに笑った。
「しばらくポスドクで頑張ってたんですが……そのうち、逆に先輩にあたる先生が運良く他所に教授として採用されましてね。玉突きで、ようやく彼女にポストが回って来ました」
 よかった、とまず思ったが、オチはそこではあるまい。
「私が関わっている分野のある基礎実験では、まず予備的な観測が要るんです。24時間、定時的に観測したデータを処理した上で、結果の検算も必要です。ま、だいたいは若手がやるんですが、しばらく前に、その彼女がプログラムを開発して、検証までまるっと自動化されました。途中でコケても、やり直しを記録できるようにもなってます」
 一日中張り込んで観測者の体力と根気に頼るより、ずっと建設的だし、正確で速い。それなのに、それまでは改善しようという声はどこからも出なかった。
「彼女曰く、低血圧で朝は苦手だそうで。自分が楽をするためです、と言ってましたが、それが創意工夫だし、誰にでも出来るようにするのが文明です。やり方を踏襲するのは簡単だけれど、拡張性がなければ限界が来るのも早い。画一的な環境は他の方法を編み出すチャンスを逃してしまう」
 山科の言いたいことは、なんとなく解る気がした。
 そういえば、と遼子も思い起こす。京都は国際観光都市だ。おかげで、いちはやく英語や仏語だけではなく韓国語や中国語の看板も増えた。公衆Wi-Fiも都心より速く普及したという。古都とは云え、いやだからこそ、新しい試みが必要だったのか。
「そういう機会をね、体力のある若手にやらせて放置してる場合じゃないんです。ま、学生実習ではまだ、学生さんたちに自力でやってもらいますけどね」
「な、なんでですか」
「それは、学生にとっては体験の方が重要だからですよ」
 なんだか騙されたような気がする。
 腑に落ちないふうの遼子に、山科はくつくつと笑う。そうして「とにかく」と言いながらガラムとマッチをポケットにしまった。
「小林先生との縁以上に、ここの家は非常に……デリケートなんです。なにより信用出来る職人でないとダメだ。親方は慎重に引き継ぎ相手を探したと思いますよ。やはり身内がいいという判断もあるとは思いますがね、真柴さんが最適だった」
 最適、ですか、と。
 遼子が口の中で呟くと「ええ」と山科は声に出して頷いた。
「なので、持ってるものを卑下する必要はありません」
 そこに至って遼子はようやく、やたら遠回しだが恐らく励まされている、と気付いたのだった。




 さて、と山科は姿勢を変えた。
「ずいぶんとお引き留めしてしまいました。あ、この時間も勤務時間に入れてもらっていいので」
「いえ! さすがにそれは!」
 と、あたふたと食器を片しつつ、自身の道具を整える。空いたペットボトルを取り出そうと、道具袋を探っていると、山科が遼子のスケッチブックに注視していた。
「あ、すみません、これは怪しいあれではなくて、作業の記録に」
「いや、そうではなく……真柴さん、ひょっとして植物にお詳しいですか?」
 記録ついでに、庭に生えている草花をいくらかメモしていた。遼子が曖昧に「はあ、すこし」と頷くと、
「じゃあ、この庭の野草とかもある程度わかりますか? や、私、植物にはまったく明るくなくて。雑草と間違えて抜いてしまいそうで、なかなか草取りができないんですよ」
「ああ、特に野草はシーズン過ぎると、慣れないと分からないですよね」
 花が付いてる時期ならともかく、そうでなければあっという間に雑草に紛れる。
 あのへんのオミナエシやナデシコなんかすごく危険だ、などと考えながら遼子が庭を見渡していると、なにやら気付いた様子の山科が「ちょっとお待ち下さい」と部屋の中に引っ込んで、今度はタブレットを持って現れた。
「今の大家もまったく詳しくはないんですが、どうも小林先生や娘さんが好きだったようで。うっかり抜いたら間違いなく命が危ない」
「ええっ?!」
「そのスケッチに、分かる範囲で名前を追記してもらえると嬉しいです。あとでコピーさせてもらっていいですか。で、このタブレットで写真が撮れるので、その番号を生えてる位置に書き込んでもらって……写真に植物の名前をラベリングしてくれてもいいです。あとで電子ファイル化してマッピングしますので」
 タブレットの操作方法を簡単に説明しながら、山科は立て板に水と頼み事をしてくる。なんというか、わりと強引だなと思いつつも、その真剣さがなんだか可笑しくて、遼子は笑うのを堪えた。
「あっ、もちろんこの分の日当は出しますので」
 さらりと言われて、また、えっと声が出た。遼子は顔の前で手を振って断る。
「や、ええですよ! そんなん、たいしたことないです」
「いいえ、よくないです。知識とスキルには価値があるんですよ」
 そう真顔で頷く山科に、先生も真面目ですねとうっかり突っ込むところだった。やっぱり可笑しい。
 仕方なく、それではお言葉に甘えてと返しながら、この分では秋にも一度来ないと網羅できないだろうなと思ったりもする。恐らく来年の春になってようやく、答え合わせが出来るのではないだろうか。
 遼子が少々、遠大な?計画を立てつつ庭を眺めていると、山科がぽつりと、


「そうか、親方はこれも見越してたんですかね」


 とだけ。








 冬の植木屋もそれほど暇ではない。
 この時期しか出来ないことも多いし、観光客が減るタイミングを見計らって行う手入れもある。そんな中、小林家の寒椿は前シーズンに剪定したので今年は要らないだろう、というのが遼子と親方との共通見解だ。その代わり、肥料はいれようか、紫陽花と梅の様子も確認しておこうということで、マリさんとスケジュール調整の結果、小林家への訪問は年明けの諸々が落ち着いた1月下旬に決まった。ちなみに、10月には庭の秋の草花をマッピングもしている。
 結局、親方はその後、ゆっくりと引退しつつある。腰は寛解したが、やはり療養期間中の衰えが響く年だ。小林家以外にも、親方だけの繋がりで請け負っている仕事はあって、それぞれの引き継ぎを算段しているうちに年も暮れた。幸いなことにいずれも順調で、今年の夏が来るころにはおおよそ片が付くだろう。祖父も覚悟していたのか、山科先生の予想が当たっていたようだ。
 やはり賢い人なんだろう、と遼子は妙なところに感心した。


 それにしても、今回は特に他の職人には秘密裏の小林家訪問だった。
 父にさえも三日前に告げたところだ。さすがにどうかと思ったのだが、親方は頑なに「特に冬は気をつけなならん。絶対言うな」と主張した。山科の「この家はデリケート」という言も思い出し、念のため、遼子もそっと会社を出たのだが。
 冬にはなにがあるのだろう?
 なお三度訪れた小林家では、三度マリさんに歓待された。
「この冬はいきなり寒うなったでしょう。秋口までえろう暑かったのに、衣替えが間に合わんかってん。そのくせ、霜が降りるのも早うて、もうちょいと上手いこと切り替えて欲しいねえ」
 などなど、マリさんの機関銃トークを神妙に聞きつつ庭に回ると、梅の木の方に人が居た。一瞬、山科先生かと思ったが、もっと背が高い。白いトレーニングウェアを着た男性、は…?
「あら、たかちゃん、お帰り。早かったねえ」
「ただいま。うん、今日は植木屋さんが来はるいうてたから、短い方のコースにした」
 振り返ったその人は、山科よりはまだ若い、けれど、


 ……この人、だ。


 初夏の光と、翠と黒の、梅の枝がヒトガタになったような、少年が。
 ようやく、この梅の木の記憶にカチリとはまる姿に、遼子は危うく道具を取り落とすところだった。
 取るものも取りあえず荷物を降ろし、名刺を取り出そうとするが、緊張と焦りのあまり上手くいかない。ほとんど狼狽えていると、色黒で背の高い男性がこちらに歩み寄ってくれた。
「こんにちは。真柴さんですよね、親方のお孫さんと伺ってます」
「あっ、は、はい、あの」
 気が急いて、遼子はまとまらないまま話出す。声がカスカスになっているが、どうしても今、確かめたい。
「じつは私、子どもの頃、祖父と一緒にこちらにうかがった、ことが、あって。その梅の木に登っていた子に、年配の男性が声を」
 えっと、何が言いたいかというと、と、もだもだしていると、彼が「ああ」と声を上げる。
「そうか、そうかも! それ、登ってたの僕ですねえ」
 は、と声というより息が出た。よかった、幻じゃなかったと、ひどく安心して、遼子は膝の力が抜けそうになるのをなんとか堪えた。
 二人の様子を興味深げに眺めていたマリさんが、そこでようやく「あら」と声を上げた。
「昔はたかちゃんがやっとったの? 中学のころ?」
「うん、ここに住むまえからにゃから、小五か六くらいからと思うけど。僕が実を採って、じっちゃんがきれいに洗うて、ばあちゃんが漬けて」
「なるほどねえ。たかちゃんなら脚立なしで出来たんやね」
「そういえば、いつか、植木屋のおいちゃんが男の子を連れてき、あっ……あ、ああ、ご、ごめんなさい」
 そこに至って、彼はようやく自分の記憶の誤りに気付いたようだ。ひどく申し訳なさそうに眉尻を下げる青年に、遼子は慌てていやいやと手を振る。
「あ、や、大丈夫です、っていうか無理もないです。当時は私、髪も短くて、よく男の子に間違われてたんで」
 しおれる青年は、再度ごめんなさいと言うと、丁寧に頭を下げた。
「もうほんと、親方にはずうっとお世話になって……また、真柴さんにお願いできるなら、こちらもありがたいです。僕らはほとんどここにいてられへんので、お任せしっぱなしで」
 頷きながらそう話すこの青年が小林先生の孫、ということは、と遼子はまず確認する。
「小林さん、は今の家主さんの息子さん、いうことですか…?」
「ああ、いや、僕が家主です。ゆうても、名義はおかんと半分ずつですけど」
「……は? じゃあ、山科先生が言ってた『大家』って」
 いうのは、と、遼子が言い終わる前に、青年は察したようだった。
「ああ、それも僕ですねえ。先生、何も言うてなかったですか?」
「いえ何も……あ、大家、さんは季節労働者と」
「……かえで、根に持ってるなあ」
 まあ、そう言うたの僕やねんけど、と、彼は仕方なさそうに笑った。
 この小林青年と山科先生は知り合い、というより友人なのであろう。小林青年は大学関係者や山科の同級生には見えないが、どうもとても親しい間柄であるような。
 いずれにせよ本来、真柴植木店の雇い主はこの青年なのだ、と確認しようとしたところで、マリさんに先を越された。
「そういえばセンセ、今日はどうしたん? 冬場の土曜日はいつも居てはるのに」
「センター試験の手伝いやねんて。会場案内とか、最近はカンニング対策とかあるて」
 へええ、そうなん、と一度頷いたマリさんだが、ふと思いついたように首を傾けた。
「それ、山科センセみたいなイケメンおいといたら入学希望者が増えるーいうことやないの?」
「うーん、もうセンターにゃからちょっと遅いんちゃうかなあ」
「せやかてほら、T志望の子がK大に変えるくらいは」
 あはははは、と笑う二人を眺めていると、遼子は小林青年の姿が別の記憶に引っ掛かることに気付いた。フィギュアのようにスタイルがいい好青年だが、たしか、こちらの記憶はわりと新しいもので、


「あれ……小林さんって、小林穂高ですか?」


 口にしてから、いきなり呼び捨てはどうか、と気付いたが遅かった。そして、それ以上に二人が一斉にわいた。
「まっ、たかちゃん、よかったやないの、気付いてもらえて!」
「や、最近は前より気付かれるようになったて!」
「昔なんか、商店街ふつうに歩いても誰も気づかんかったのにねえ」
「マリさんひどい……」
 などというやり取りを聞きながら、遼子はようやく理解した、デリケートの意味を。
 そうか、小林家の当代はプロ野球選手か…!
 これは確かに、ちょっと……いや、相応に気をつけなければなるまい。遼子自身はほとんど興味がないし、父もそうでもないが、職人や出入りの業者には野球好きもいる。人気球団のエースという訳ではないが(失礼)、小林穂高といえば地元出身のプロ野球選手として知られてはいるし、何より、
「あ、でも真柴さんなら、商店街のカレンダー、ご覧になりました?」
 と訊いてきた。マリさんが首をかしげる。
「カレンダー?」
 そうそう、と今度は遼子と穂高が頷いた。
「はい、昨年末、商店街の会長さんが挨拶ついでに持ってきてくれはって。うちのお店にも家にも貼ってあって、毎日見てるので……どっかで見たことあるなあって」
「うーん、いちおう宣伝にはなってるんですねえ。あれ、祐輔さん、というか赤谷さんとこが販促用に作って、商店街に配らはったんです。京都出身の選手集めて、あそこのスーツ着た写真使うて」
「相変わらず遣り手やねえ、赤谷三姉妹」
 穂高の言葉通り、そのカレンダーはスーツ姿の写真で作られていた。赤谷紳士服の末っ子長男は穂高のチームのエース格だが、この近所にグラウンドがある野球強豪校のOBで、近隣の商店街も野球部を後援している。その縁で真柴植木店にもカレンダーが配られたのだが、ガタイのいい青年たちのスーツ姿に、最近のプロスポーツはファンサービスに熱心だなとちょっとだけ呆れていたのだが(恐らくそれなりに需要はあるのだろう)、赤谷紳士服の戦略だったのかと遼子も妙に納得した。
「でもあれ、業務用の限定品いうて、かえってプレミアついてネットに出されてしもうて」
「あらら、最近はなんでもそうやねえ、抜け目ないいうか」
「ねえ。祐輔さんとか、ユキちゃんは固定ファンも多いから。赤谷のお姉さんら、一般発売すればよかったー言うて」
「……そこでそういう発想なんがさすがですね」
 遼子の正直な感想に、うんうん、と穂高とマリさんが赤べこになっている。
 すっかり世間話になっていたのだが、ようやくそこでマリさんが「しもうた、もうそろそろお豆を煮ないと」と言い出した。
「まめ?」
「ああ、●●寺の檀家さんから小豆を頂いて。マリさんがおぜんざいにしてくれるいうんで、真柴さんもあとでどうぞ」
「そうそう、なんなら鍋ごと持ってって」
 そこですぐにキッパリ断るべきだったのかもしれないが、既にそんな雰囲気ではなかった。遼子は諾々と、ではあとで頂きますと頭を下げていた。マリさんも山科も、そして穂高も、地味にいいだけ強引な人たちである。
 そんな遼子の葛藤にはちっとも気付かないふうで、穂高はのんびりと首を傾げながら、呟くように続けた。
「ばあちゃんのレシピなんです。うちのおかん、料理がぜんっぜんダメで、もうマリさんしか再現できひんので」
「そうなんよ、もう、りょうこちゃん……あ、こっちの遼子ちゃんやのうて、小林の涼子ちゃん、ぶきっちょでねえ」
「は? りょうこ?」
 思わずマヌケな声が出た。
「ああ、うちのおかんも涼子なんです」
 それはまた……妙な偶然があるものだ、と軽く驚いていた遼子だが、続くマリさんの言葉に本日一番の衝撃を受けた。
「それがねえ、みよちゃん、こっちの遼子ちゃんのお母さんにゃけど、みよちゃんがね、小林の涼子ちゃんのこと大好きで、いつか娘ができたら名前もらお、とか言うてたの、ほんとになるとはねえ」
「え、ええええっ?! うちのおかんと、こちらの、え、えっと、お知り合いなんですか?」
「涼子ちゃん、うちの高校の王子様やってん。女子校でね」
「王子?!」
「まあ、うちで一番、女子にモテるのおかんにゃから」
 まさかを通り越して、開いた口がふさがらない。この小林家とそんな縁があったとは……誰か教えておいてよ!と遼子は心の中で抗議したが、もちろんその相手はいない。


 母と、そういう昔話をした記憶はない。
 大人しい、優しいひとではあったけれど。
 彼女は、どのような高校時代を、植木屋の娘として、どんなふうに、今更ながら。


 そして小林涼子さんとは、どんな人なんだろうか……と困惑したまま、ふと穂高を見上げると、彼はないないと手を振った。
「僕はあんまり、いうか、全然似とらんので。弟たちのがけっこう似てますねえ。せやった、たぶんお正月の、箱根の写真とかネットにあるんで、参考までにご覧になったらええですよ」
「え、え? おとうと?」
「小林兄弟、駅伝、でググるとわかる思います」
「はあ……」
 はこねえきでん?
 柔らかく笑う穂高には申し訳ないが、あまりの情報過多に、どうしていいか分からない。
 呆然とする遼子だったが、なんとか気を取り直して本来の仕事に取りかかり、穂高とマリさんの二人も母屋に戻っていったのだった。




 結局、今度は穂高とマリさんの三人で、ぜんざいまで頂く長めの昼休憩までしっかり取り、やっと最後の紫陽花にかかっていた頃合いだった。
「すみません真柴さん、ちょっと」
 と穂高が縁側から庭に降りてきた。山科先生のタブレットとタッチペンを手にしている。
「マッピングの続きですね?」
「お手数かけます。僕も植物はほんまによう分からんので……昔、セリを引っこ抜いてじっちゃんに怒られましたし」
「あぁ、アレはちょっと難しい思いますよ」
 おかげで次の年は七草粥が六草になりました、としょんぼりする穂高からタブレットを受け取る。トレーニングウェアからセーターにジーンズという格好になった穂高は、確かにそのあたりに居そうな青年ではある(抜群のスタイルはともかく)。
 遼子が秋の時点のファイルを確認していると、そういえば、と穂高が切り出した。
「この庭に新しく紅葉を植えたい思うんですけど、どうですかね?」
「もみじ、ですか……うーん、そうですね。庭木なら1本だけ入れると佳いかもしれません。形も色も華やかですし」
 遼子の言に、穂高は興味深そうにふんふんと頷く。寺社にはもちろん紅葉が多く様々な種類があるが、和風にも洋風にも合い、姿がいい紅葉は一般家庭の庭木としてもあんがい重宝する。
「丈夫で育てやすいんですが、寒暖差がないと色づかないので、植えるなら道路に面していない側ですね。あと形を決める剪定が少し難しい思いますので、最初のうちは見させてもろうたほうが」
「なるほど。あの蔵の近くとかどうでしょう?」
「ああ、そうですね、日中影にならない位置ならちょうどええですね」
 元々庭木の少ない庭だ、一本立ちの紅葉なら野草を引き立てるような気がする、と遼子が胸の内で算段していると、「おかんにはこれから相談するんですけど」と、彼は、囁くように、


「先生の名前なので、毎日見られたらええかな思うて」


 そう言って微笑む穂高を見た瞬間、ようやく遼子は気付いた。
 冬のこの家が『デリケート』な理由を。


 祖父もマリさんも、この秘密を守るためにこの家に出入りしているのだ。おそらく。
 遼子はそっとタッチペンを握り直す。
「でもきっと先生、紅葉なんか食えないぞ、とか言うんですよ」
 ふふっ、とまた笑う青年が眩しくて、「はは、そうですねえ」と応えながら遼子は俯く。何と言えばいいのだろう、自分の鼓動がやけに大きくはやく感じる。ひりひりするような、胃の裏側を摘ままれるような。


 ああ、それでも、この人は、きっと……




「たかちゃーん、センセ、帰ってきはったでー」
 マリさんの声に、遼子ははっと顔を上げる。
 少し日が延びたとは云え、これからぐっと冷え込む時間帯になっていた。早くしないと日が暮れるな、と本分に立ち戻る。
「寒い!」
「お帰り。おつかれ」
 講堂の貧弱な暖房設備に予算が回らないのは何故か、とひとしきり愚痴を言いながら山科が庭に回って来た。相変わらず、ほとんど銀色に見える髪を適当に伸ばしっぱなしにしている。今や肩に届くくらいの長さで、今日は項の辺りで括っていた。それが日本人離れした美貌と馴染む。たしかに、これなら入学希望者が増えるかも知れない、と遼子は胸の内で突っ込んだ。もちろん、そんなことは知らない山科先生は遼子に律儀に頭を下げた。
「本日は寒い中、ありがとうございます。いつもすみません」
「あ、はい、お世話様です」
 会釈を交わす遼子達をのんびり眺めていた穂高が、そこで気付いたように口を開いた。
「そうや、俺、真柴さんとむかし逢うてた。親方と一緒に来てくれてたん」
「いつ?」
「小学生くらいのころ」
 それならもう20年以上前か、そうそう、と受け答えする二人が揃うと周囲の彩度が上がった気がする。イケメン効果すごい、とうっかり呟く遼子だった。
 それはともかく仕事だ、と、遼子はそれとなく二人の様子を窺いつつ野草マップの更新を行う。邪魔をするのは気が引けた、というより、偶然入ったレストランで隣の席に知り合いのカップルが案内されてきたような感じである。気になるが気にしてはいけない、と遼子は自分に言い聞かせる。
 しかし上手くいくはずもなく、穂高から紅葉を植えるプランを聞き終えた山科が、
「もみじ……食えねえだろ。栗とか柚子のがいいんじゃねえか」
 言い終わる前に、ぷっ、と思わず吹き出してしまった。台無しである。もちろんすぐに口元を押さえたが、とうぜん遅すぎたし、さらに穂高がくるりとこちらを向いて言うのだ。
「ね? 言うたでしょう?」
「は、はい」
 もうどうしようもなく可笑しくて、結局、二人で笑ってしまった。山科が怪訝そうな顔になる。
「先生ならそう言う思うてました」
 神妙に山科に告げる穂高の姿がまた可笑しい。「でも、もうちょい捻りが欲しかった」と嘆く穂高に、納得いかないふうの山科が言うには、
「なんだそりゃ。どうせ植えるなら食える実のほうが有益だろ」
「家庭菜園始めたいんと違うて」
「でも収穫できた方が面白いじゃねえか。真柴さん、桃栗三年柿八年っていいますけど、栗ってほんとに三年でいいものですか?」
 あ、こっちに振られた、と笑いを引っ込めて向き直るが、あまり上手くはいっていないだろう。遼子は笑いをかみ殺し、それでもこのやり取りに参加できることに心は浮き立つ。
「うーん、そうですね、やっぱり三年では食べられる実、収穫できないです。柑橘類も難しい思いますねえ……それより、キウイなら育てやすいしすぐに食べられる実が出来ますよ」
「へえ、いいですね、キウイ。栄養価高いし」
「や、だからちゃうねん! 紅葉がええの!!」
「広葉樹は掃除も面倒だろ」
「お洒落は我慢やいうし、どうせ掃き掃除するの俺やろ」
 他愛もなく言い合う二人があまりにまばゆく、おそらく祖父やマリさんはこの二人の幸せを願わずに居られなかったのだと、遼子はそんなふうに思った。




 さて。
 庭の改革については家族の議題にしてもらうとして、日暮れ前に庭の植生について穂高と山科にレクチャーする。今は姿を隠しているものもあるので、気をつけるポイントはファイルに書き込む。どうやらこの庭は、偶に帰ってくる穂高の母親が無断で?種を撒いていくらしく、時が来て初めて判明するものもあるらしい。たとえば夏場は目立っていたタチアオイだが、数年前から植えっぱなしとのことで、今年は芽が出るだろうかと話していると、あっ、と気付いたように山科が振り向く。
「タチアオイって、フランスでも育ちますかね?」
「フランス?」
 また一気に話が動く、とは思ったが、今日の情報量からすると大したことはない気もした。さすがに海外のことは守備範囲外だが、ここは職人としての意地で、えっと、と遼子は脳内の情報を検索しつつ言葉を紡ぐ。
「ちょっと調べないとはっきりとは……いずれにせよ、苗や鉢植えの持ち出しは検疫に引っ掛かるので難しい思います」
「ああ、そうか、土はダメでしたね」
 なんで? と素朴な疑問を口にする穂高に、素早く土中バクテリアの話をする山科先生はさすがだ、と学生のように感心する遼子だった。
 しかし二人のやり取りを聞けば聞くほど、いったいどういう繋がりなのかと思わざるを得ない。
「だから、ほら、まだ沖縄がアメリカに占領されてた頃、甲子園の土を持って帰れなかった、って高校野球トリビアにあるだろ」
「え、なんて? アメリカ領? なんの話?!」
「だから第二次世界大戦直後の話で……春夏の甲子園中継で、試合のインターバルにやってる豆知識的な番組のネタにあるだろ」
「楓、そんなん見てるの?」
「? 中継見てれば目に入るだろ?」
 入っても覚えないふつう、みたいな抗弁をするかつての甲子園優勝投手を他所に、遼子はいつものスケッチブックにタチアオイ・フランスとメモし、山科はタブレットで世界地図とフランスの気候情報を呼び出す。
「フランスでもパリに近いところなので、ここより寒いですね。あと乾燥しているはずです」
「うーん、やっぱり調べないとですね。種から育てられる思いますけど、それでも検査対象かも」
「なるほど。でもそれなら種の方がいいですね」
「お庭の環境にもよりますけど、品種も多いので種まきからやってみると楽しいかもしれません」
 そこそこ丈夫な草花だったとは思うが、土地と植物は不可分だ。一年草なら大丈夫だろうかと思いつつ、タチアオイになにか思い入れが?と山科に尋ねると予想外の答えが返ってきた。
「うちの姉の名前が『葵』なんですよ。それで去年、ここのタチアオイの写真を送ったんですが、せっかくなら甥っ子と姪っ子に本物をと思って」
 その答えに、遼子もなるほどと頷いてはみたが、あれ、
「ということは、フランスに」
 ご家族が、と続ける前に察しがいい山科は説明してくれる。
「はい、姉の留学先だったんですが、そのままあちらの研究所に就職して、ドイツ人と結婚しましてね」
 お姉さんも研究者か、しかも国際結婚、なんだけど超納得、と遼子の大脳も忙しなく活動しつつ、やはり気になるのは……とうっかり穂高の方を向いてしまう。そして現在のプロ野球選手はしっかり察しがよかった。
「お姉さん、先生とほぼ同じ顔ですねえ」
「それはすごい美人なのでは」
「すっごい美人なんですよ」
 モデルさんかと思いますよあれ、いや先生もほとんどそんな感じですよね、とJKのように盛り上がる遼子と穂高を、若干、引き気味に山科が見ている。おそらく、このやり取りはマリさんともしたんだろうな、と遼子は思う。
 一方で、祖父はこの二人とどんな話をしたのだろうとも、思う。
「あ、ということは、甥御さんと姪御さんもすっごい可愛いのでは?」
「はい、あれ、なんとかっていう有名な絵描きさんの天使の壁画まんまみたいで」
 今度は情報量が少なすぎるのに伝わる謎で、遼子はなるほどあんな感じ、と頷きながら、植木屋が見るのはその家の庭木だけではないのだと、改めて思う。
 昨夏に初めて仕事に来た日、山科から聞いた話を思い出す。
 きっと昔はキッチンから見えなかったという寒椿。


 だが、小林先生には見えなかった寒椿は、きっと、その旦那さんには見えていたのだ。


 そうであれば、あの紳士はそのままにしていただろうか。
 寒椿が咲いたと妻に告げ、二人で見に庭に出たかも知れないし、その切り花を活けることもあったかもしれない。そういう楽しみ方も……あるのだ。家族の数だけ、無数に。
 遼子はふっと振り返り、梅の木を見上げた。
 笑顔の似合う婦人は、梅の木の側に佇む夫と樹上にある孫に、何と声を掛けていただろう。振り返った紳士はなにかを応え、少年は羽のように軽く枝を移動して、緑の葉と翠の実が庭に影を作った。
 もいだ梅の実を三人で部屋に運び、丁寧に洗って、漬けて……初夏の味を、三人で。
 そんな季節がこの庭にあった。




 家の『庭』は、そこに住む人間によって変わり続ける。
 そこに植えられた植物や建てられた家屋の寿命、住人の趣味によって姿形を変えるのは勿論、持ち主が代わり、住む人間が変わるたび、少しずつ変わってゆく。成長であれ、衰退であれ……まるで生きもののように。
 永遠に完成しない場所だ。
 それでも、住人が変わっても受け継がれるものもある。梅ジュースの味、ぜんざいのレシピ、名前の由来になった花を届けたいという心ばえや、毎日を共に過ごしたいというその、純な想いも。


 心のカタチが庭のカタチになる、日が。


 それを見届けられる幸いを、遼子は初めて誇りに思った。















































 やっぱり改題しました!!こっちのがシリーズ的にしっくりくる。
 家業を継いだ女性のお仕事話というわけでもなかったんですが、そんな感じでしたね…当初は二人が住んでいる家とかオフシーズンの生活の話を、というつもりだったんですが。(回り道過ぎる…)
 更には家族の話になってちょっと自分でも意外でした。でもおかげで、小林家と山科家の基本情報が出て来てよかったと思います(笑)

2022.10.11収録



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