「そうだ、セミって知ってる?」


 その人は振り向き様に問うて、長い黒髪が豊かに揺れる。
「せ、み、ですか…?」
 オウム返しに答えた彼の声は掠れていた。
 呆然と立ち竦む彼の様子に彼女は小首を傾げて、またさらさらと髪が流れる。
「そう、セミ」
「あの… 昆虫の一種ですか? 節足動物の」
「せいかい!」
 さすがにそれくらいは知ってるか、と、彼女はあははと笑う。
「卵から孵化した後、数年、種によっては十数年もの間、地中生活するやつさ」
 ずっと待ってるんだ、その時を。
「そして目が覚めたら木に登って… そ、そこにあるような木にさ。とにかく登るんだ」
 傍らに立つ木を指差しながら、柔らかく微笑んだまま語る口調はしかし、何処か酷薄だった。
 確か漢字で記せば、『蝉』だったか。
 かつて、この地上を支配していた節足動物、その中でもこの地域のホモサピエンスと縁が深かったその昆虫は、歳時記、文学作品、慣用句、様々な場面で、今なお多くの痕跡を残していた。
 そのため古くからその生態についても知られ、特に雌伏とも捉えられる幼虫時の地中生活は、変態という劇的な転換を更に華やかに彩る『羽化』と共に、永く彼らをスタアたらしめている。
 もう、その多くが失われた今であっても。
「数年ならまだしも… 17年なんて、もう世界が違ってるだろうに」
 彼は僅かに顎を引く。確かに、この十年でも環境は激変を続けている。気温、日照時間、海面水位、その変異に為す術もなく這いつくばる生物たち。もう太陽が見られる時間は三分の二になったろうか。
 彼らが地上に覇を唱えていた時代ではどうだったのだろう?
 押し黙る彼を他所に、彼女は、今度は唐突に明るい声を出した。
「そうそう、それからね、知ってるかい? 第七では昔、セミ、食べてたんだって」
 第七、とは東第七管区のことだろう。
 こんなにも貴重な生き物になってしまった今では信じられないことだけれど、と彼女が謳うように続けるのに、彼は勇気を振り絞って割り込んだ。
「セミが、」
 どうしたんですか、と彼が問う前に、
 美しい黒髪の間で彼女は、ふわりと笑って、こう、囁いた。


「目覚めた場所が見知らぬ世界でも、生きていけるかな?」


 たおやかに 儚く
 しかし切実だった その、問いは


  嗚呼、この人は




  そのとき、きっと恋をした。








  女神の午睡








「子ども、ですか」
「そうだ、子どもだ」
オウム返しに口にした単語をそのまま打ち返され、カンザキは萎えた。こういう場合、相手に説明する気がゼロであることは、短くはない人生の中で学んだことの一つだ。
 通常業務に割り込んだ上司からの呼び出しに果てしない『イヤな予感』を感じてはいたが、クリティカルヒットであれば、それはそれで気が滅入る。カンザキは密かに深い溜息を吐いた。
「正確にいえば、出生から2815日、おおよそ8年というところだろう。年少者なのは確かだ」
 いや、そういう意味ではなく。と、口を挟むタイミングを逸して、カンザキは結局、もごもごと口を動かしただけだった。
「幼児ではないし、身の回りのことは一通り出来る。指示にも従順に従う。いずれにせよ貴重なサンプルだ、丁重に扱え」
 これで充分とばかりに話をまとめにかかった上司に、これで終わられては堪らないので抗弁する。
「それだけですか」
 一気に間合いを詰める。
「その子どもを預かる理由が、それだけとは思えませんが」
「…まあ、そうだな」
 カンザキの剣呑な声に、上司も「ふむ」と一つ頷いてから手元のウィンドを開いてデータを呼び出す。
「第一の理由は本当に貴重なサンプルだということだ。渡すからあとで眺めておけ。すごいぞ、めったにお目にかかるものでもない」
 各種データの移動と保存が続くウィンドを視界の片隅で確認しながら、しかしカンザキは更に眉間の皺を深くした。
 ココは曲がりなりにも中央のラボだ。『滅多にお目にかかれないもの』の巣窟と言っていい。そんなことだけが理由になるとも思えなかった。カンザキの視線に気付いたのだろう、上司は一つ咳払いをして続けた。
「第二の理由は対象… 男児だが、彼の精神状態が非常に不安定である、ということだ」
 彼、が”発見”されてから既に28日以上経過しているという。見つかったのは第三研究部A棟の正面玄関で、かなり衰弱した状態で一人佇んでいたという報告だった。つまり…
「捨て子、ですか」
「そうなるな」
 …なんという。
 カンザキは思わず拳を握り締めた。勿論、孤児が珍しいわけでなく、むしろありふれていたけれど、このケースは確信犯としか思えない。顔を強張らせるカンザキに、それから、とやっと上司の声が改まった。
「言葉が話せない」
「…話せない?」
「話さない、という方が正確だな。失語症だろう」
 言語の理解には不自由しない、というより同年代の少年より遥かに読解力、理解力には優れているところから、恐らく精神的ショックによるものと思われる。
 報告書のままのような上司の言葉を、カンザキは遠く聞いた。




  この無機質な街に棄てられた子ども


 完璧に整えられた街は酷く無情で、ただ立っていることさえ難しい。
 思い出すのは、差し込む白銀の朝日や、夕陽を映した壁面の赤さや、背中に当たる陽の温もり。更に、この手を引いていた「母」の手の柔らかさは、もう何処にもない。
 気がつけば、足下にあったはずの大地がなかった。
 真っ暗な、穴の中…




 カンザキはふうっと息を吐いた。
 そこではっと我に返る。いつの間にか見知らぬ場所に居た。
 上司の部屋を出た後、そのまま研究室に行く気も失せて、少し散歩しようと出たのは覚えている。しかし何処をどう歩いたか… いや、もちろんまったく知らないわけではないが、似たようなのっぺりとした棟が並ぶ研究施設の敷地は広大で、普段通う場所以外はほぼ迷宮である。
 第二に近いエリアか? 参ったな、とカンザキは口の中で呟きながら、少しでも見知った場所を探さねばと、少し広い道を曲がった、ところで。
「えっ」
 思わず絶句して立ち止まる。
 その視線の先は、妙に立派な…ガラス製だろうか、透明な箱があった。高さは三階分を優に超え、間口も隣のビルより広いガラスの円筒が陽の光を浴びて、きらりと輝く。
 温室、か…?
 かなりの規模の温室のようだ。中には大型の植物の影も見える。こんな大規模なものは勿論、温室自体めったに拝めないが、ココならあっても不思議ではない。というより、管区内で此処以上に相応しい場所はないだろう。今まで気付かなかったのが心底不思議だ。カンザキは無意識にふらふらと近付いていく。
 入り口は驚くべきことにセキュリティがかかっていなかった。しかも少し力を入れれば妙にレトロなドアが開いて、むわっと湿気と暖気がやってくる。
 濃密な、息が詰まるほどの濃い緑と土の匂い。
 カンザキは思わず口元に手を当てるが、別に不愉快という事ではなく…ただ、余りに濃い『生き物』の気配に、圧された。
 これが、大地か。
 その存在感に呆然と立ち竦んでいると、突然、甲高い警報が鳴った。跳び上がるほど驚いて、カンザキがきょろきょろと辺りを見回していると、「どうしたの?」
 と、鈴が転がるような声がかかって、更に驚く。
 振り返ればそこには、人形が立っていた。
 と、思うほど… カンザキは息を呑む。
 まず目に留まるのは長く伸びた黒髪。華奢というより、小作りな顔と手足は陶器のようだが…少女、か? 年の頃は、正直よく分からない。カンザキと同じくらいの背丈だろう。生成のシンプルなワンピースは裾を引くほどで、
 立体映像かと、思った。
 この圧倒的な生物の気配に染まる温室では、ひどく現実離れしているように見えて… 生物とは思えなかった。
 どうしたの? と、再び問われて、やっとカンザキは息の仕方を思い出した。
「あっ、え、い、いや、その」
「この警報、たぶん、そのドアが閉まってないからだろうね」
 ちゃんと閉めて、と促されて慌てて、カンザキは後ろのドアをきっちり閉め直した。警報が鳴り止む。思わず安堵のため息が出るが、はっと気付い向き直る。
 果たして少女は、まだ存在していた。
 カンザキと視線が合うと、ふんわりとこぼれるように微笑む。そのままくっと細い首を傾げると、それで…と口を開いて、はっきりとこう言った。


「君は、誰?」


 わたしはだれだ、と。
 口の中で繰り返してその質問の答えを、見失っていることに気付く。何だこれは? 暫時、狼狽えるカンザキを不思議そうに眺めながら、少女はやはり不思議そうに問うた。
「まだ子どもじゃないか。何故、こんなところに、」
「いいえ!」
 必要以上に強い声が出た。
 さっきの特命の件が尾を引いている。カンザキは内心舌打ちした。自分が焦ってどうする、そう思う。分かっている。しかし止められるものではなかった。
 気負いが過ぎて殆ど、叫ぶように、
「第三研究部、第五室の主任研究官カンザキ、32歳です」
 と、過剰な名乗りを上げるカンザキを見詰めながら、「それは失礼したね。第三の人か」と。その少女は驚くほど冷静に頷いて、そしてまた、


 柔らかく笑った。




 カンザキもまた標本だった。
 身長は現在152cm、見た目は十代半ばといったところであろう。カンザキの実年齢とその外見のギャップに、大抵の人間は驚く。不自然さに驚くのだ。大戦以前は小人症というカテゴリに分類されていたこともあるようだが、また別の疾患である。
 奇形、と言ってもいい。
 いずれも遺伝子異常に起因するが、カンザキの表現型は非常に特異だった。成長ホルモン分泌不全の一種だが、ホルモンの生成に支障があるというよりも、その挙動と活性が正常の1/5〜1/6倍であり、結果的に成長の速度が極めて遅い個体、というのが第三の出した答えだった。
 幼少の頃からその変異は一際、注目を集めていたらしい。元は地方の労働者だった母親と暮らしていたが、ある日突然、第三の研究員を名乗る男達が現れ、以来、定期的に此処に連れてこられてはありとあらゆる生体検査と試験を受けた。更に、彼が就学年齢になった時分には中央の学校に籍が用意されており、寄宿舎に移った。
 母とはそれ以来、逢っていない。
 遺伝病などそれほど掃いて捨てるほどいるが、幸運にも、と言うべきか。カンザキの知能レベルは十二分に高く、しかも『成長が遅い』=『不老』という誤解も手伝って、彼は丁重に扱われた。
 有用性があった、という話だ。
 カンザキはひとり自嘲する。彼の扱いは丁重であっても、丁寧でもなく慈愛があるわけでもない。人権さえも、無いも同然だった。
 サンプルだからだ。
 勿論、このご時世、生命の心配をしなくてもいいということ自体、非常に得難いことは確かで、しかも厄介な病を抱えた子どもをひとりで育てていくことの困難を思えば、母親の選択は正しいと言えるだろう。
 正しかったのだと、思うより無い。
 だが、彼にとってそれは。
 だから…




「それから、特定の属性の人間を非常に警戒する」
 先程の上司の声が甦る。
 更に続いた報告に、彼はどうしようもなく暗澹たる気持になった。
「特に成人男性と、20〜40代の女性を極度に恐れ、酷いときにはショック状態に陥る」
 その属性が示す明らかな傾向に、カンザキの腹は一気に冷えた。
 遺棄と失語症の件も踏まえれば、その子が、精神的、肉体的な虐待を受けたで結果であろうことは容易に想像がついた。カンザキが握った拳、爪が手のひらに食い込むが、その痛みなど痛みのうちに入らない。
 ただ徹頭徹尾、淡々と続く上司の報告はようやっと意味を持った。
「ある程度高齢の女性、もしくは少年であれば、おおよそ問題なく応対できることは確認されている」
 そこまで聞いて漸く、カンザキは一つ頷いた。自分に白羽の矢が立った理由に、最初からそいつを言えよ、と腹の中で上司に毒づく。少し緩んだ気配と負い目に相手も若干、無駄口を叩く気になったのだろう。
「第三の理由… これは俺個人の推測だがな」
 そんな風に嘯く。
「おそらく上層部、しかも相応な所からのテコ入れだ。恩を売っておいて損はない。お前にしか出来ない案件だからな、推してみたのさ」
 にやりと嗤った上司に、なんだよ、結局はそこか、と彼は更にげんなりとする。が、気が楽にはなった。俗物は嫌いじゃない。しかしこいつの出世もココ止まりだろうと思ったりもする。
 結局、妙な案件を押しつけられたカンザキは、そのまま退室した。


 その… 少年が。
 余りに哀れでならなかった。




「カンちゃん、ココは初めて?」
 声を掛けられて、カンザキは慌てて頭を上げる。
 記憶を反芻する間に揺らぐこともなく、人形のような少女は、まだ笑みを含んだ貌のまま立っていた。
 『カンちゃん』というのは、どうやら自分のことらしい、と理解するのに5秒。問いの内容を咀嚼して2秒。がくがくと首を縦に振るカンザキを「こっちへ」と促すと、少女は滑るように歩を進めた。この温室には慣れているのだろう、迷いのない足運びで、奔放に伸びる植物の間をすり抜けていく。
 どういう構造なのか、温室内は実際の日照より遥に明るい光を取り込み、また暖かかった。鼻孔を抜ける生き物の匂いに、本来の大地は、こういうものだったのかも知れないと、カンザキはそっと葉の一つに触れてみる。
 その感触は、驚くほどの弾力とみずみずしさを持って、カンザキはびくりとする。
 いのち、という単語が浮かんで、その生々しさに愕然とした。こんなにも確かなものだったのか、と、密かに焦りながらカンザキは少女の後を追う。
 幾らか歩くと、突如、開けた場所に出た。
 きらきらと光る水面が見える。池、だ。
「まあ、良くできてるよね」
 空調の風なのか、僅かに揺れる水面を見遣りながら少女は頷く。研究室ふたつ分くらいのサイズの池と、その畔にはこんもりと広がる木や細い枝と小さな葉をもつ低木が点在する。池の一角には、皿のような形の葉を広げた植物が顔を出し、硬く閉じた蕾らしいものも窺える。カンザキは唖然と四方を見渡す。
 一体、此処は何だ?
 何処に所属する施設なのか。天然の生物に関係するなら無論、第三研究部の管轄下なのであろうが、こんな温室の存在など二十年以上ここを知るカンザキでさえまったく記憶にない。非常に贅沢で、しかも相当に高い技術で造られていることは分かる。にもかかわらず、まるで隠されているかのような…
 少女は池の側に立つ、一本の木の前で止まった。
「特に面白くもない街だけど、ココだけは好きなんだ」
 応える言葉もなく、カンザキは少女と池を見比べる。
 そんな彼を満足そうに眺めながら、彼女はまたひょいと問いを発する。
「そこの、植物はなんだか分かる?」
「えっ」
 池の中から顔を出す、皿のような葉を改めて見詰めてみるが、答えが書いてあるはずもない。「すみません、無知で」と恥ずかしげに答えるカンザキに、そうでもないんじゃない、と彼女は笑った。
「ハス、という」
 この東第八管区のみならず、旧アジア大陸では古くから珍重されてきた植物、でね。と、流れるような少女の解説が続いた。
 原産が東第二管区、旧インドなんだけど、そこから広く伝わったとされる。地下茎が発達してね、食用でもあるんだよ。レンコン、と呼ばれていたか…茎も、種子も食用になるんだ。
 けど、この植物はそれ以上の意味がある。
 仏教… は知ってるね? 他にもヒンドゥー教、密教と、特に東地区の宗教では徹底的に神聖視されたんだ。ああやって泥から生えるのに、美しい花を咲かせるから、というのが定説かな。
 ただそれ以上に、大戦前はなかでも「古代ハス」と呼ばれるものが非常に注目されてた。なんせ珍重される植物だから、古代からの種々の遺跡に残ってるんだよ。数百年前の遺跡や遺構から採取された種子を栽培する実験も何度か行われていたらしい。人為的な発芽実験が有名だけど、その後、工事の際に偶然出土した種子がそのまま自然発芽した例も報告されてね。3000年前の種子からでも成功したという記録もあるくらいだから。
 とにかくね、苦難の道を歩んで成就する、というイメージなんだよ。


「神と、仏の花だ」


 とはいえ、どちらかというと、貪欲な生き物だと思うけどねえ。
 成ってから何千年も経った後に、また咲こうなんてさ。


 そう、最後に囁くように付け足してから、カンザキの方を振り向いて微笑む。
「とはいえ、綺麗だよ。咲く頃にはまた、見に来るといい。早朝に開花するけど、その時に微かな音がする」
 ぽん、だったか、ぽっ、だったか、とまた首を傾げつつ、擬音を繰り返すその姿は、本当にほとんど人形のような愛らしさなのに、その物腰も物言いも、妙に老成していた。そのアンバランスが、カンザキの心にひっかき傷をつける。
「ま、僕も聞いたことはないけどね」
 あははと快活に笑う少女に、彼は頷くことしかできなかった。
 そして、その後に彼女はまた、踊るように身を翻すと、傍らの木を見上げて、カンザキに問うたのだ。


「そうだ、セミって知ってる?」と。






 じゃあ、またね。
 最後に微笑んだ彼女の姿は、既に霞んでいる。
 議論ではない問答は目が眩むようで、言葉と景色の断片が脳内に散乱している。カンザキはほうほうの体で研究室に戻ったが、結局その後は仕事にならなかった。
 目の前に揺れる、深く豊かな黒髪と、軽やかに転がる少女の声と。むせ返るほど濃密な緑と土の香が、カンザキの心を捕らえて放さなかった。
 夜になってようやく、件の虫について確認しようとデータベースを開いた。


  セミ 蝉
  節足動物門 カメムシ目(半翅目)・頸吻亜目・セミ上科


 太古からこの惑星で覇をとなえた節足動物の最大勢力、昆虫の一種である。
 この極東地域、東第八管区では殊の外愛でられていたようだ。有史以降も当時の環境・気候区分でいう「夏」を表す存在として方々の記録に残っているが、その姿はもう画像データと立体映像でしか見られない。
 彼らは幼虫から成虫になる間に、変態と呼ばれるドラスティックな形態変化を見せる種であった。卵から孵化した後、幼虫として数回の脱皮を行いつつ長い期間を地中で過ごす。成熟すると土から這い出し、羽化を経てようやく生殖可能な成虫となる。
 この「幼虫」という形態時に地中生活をする期間は、正確には分かっていない。7年というのが一時期通説であったようだが、それも特定の種の話で、1,2年で羽化する種や個体も居たようだ。一方では、他の地域、大陸では13年や17年の地中生活を送る種もいたと言われている。
 が、いずれももう、多くの種が失われたた今では確かめようはない。
 卵から成虫になるまでに地中生活を送らねばならない生物には、今の環境は苛烈に過ぎた。まるで音の洪水のようだと記録に残るその鳴き声を、実際に味わうこともないだろう。
 「夏」とて、おそらくもう二度と来ない。
 データベースに残され映像を幾度か繰り返し見てみる。その、奇跡のような生まれ変わり。
 飴色の殻を破り、現れる乳白色の生きものは、いつか見た女神の像にも似て、


 名前さえ、聞きそびれたのに。


 と、声もなく呟いて、カンザキはそこでウィンドを閉じた。






 数日後、引き合わされた子どもは、本当にうつくしい子どもだった。
 一瞬、息が詰まる、ほど。
 造作の一つひとつに無駄も誤謬もない。年齢や発育環境からしても、希有なほどの完成度だ。だが、そのあまりに整った容姿は、少年が置かれた状況を鑑みるに悲惨としか言い様がない。カンザキは腹の底から落胆し、更にその五倍の怒りを感じた。
 こんなことは、あってはならないのに。
 そして、その美しい子どもは、本当にただのひと言も発しなかった。
 これまでの生育環境に難があった分、標準よりは発育がやや劣るが、知能、運動能力は標準を軽く超え、また五感、反射を含め神経系に異常はない。異常はないのに、何の反応を示さない。形は完璧だが、ぽっかりと開いた深く暗い、黒い穴のような目。それこそビスクドールのように精緻な顔と身体… 精緻なヒューマロイドと言われても、疑わないほど。
 まるで、いのちの匂いがしなかった。
 あの、温室の少女の方が、よほど生きていたな、と。カンザキはふっと思う。
 少年はすこし大きな声や物音にも反応し、肩より少しでも高く手を挙げれば、硬直するほど怯えた。そこで泣きわめくならまだいい。声を出さず、ただ歯を食いしばり小刻みに震える。過呼吸を起こして倒れることさえあった。
 そしていつになっても、
 黒く澄んだ瞳は、何も映さない硝子玉。
 ひたすらにその子どもがいたわしく、カンザキはどうにもやり切れなかった。
 そして現実問題として、意思の疎通ができているのかどうかが分からない、というのは非常に困った。
 確かにこちらの指示には従うので、聴覚と言語の理解力に問題はないようだが、言葉を交わせない、表情も読み取れない、では、まったくコミュニケーションの取りようがないのだ。と、カンザキは改めて知らされた。
 この硝子玉に映っているのは何だろうな、と思ったとき、不意に例の温室の光景を思い出した。
 あの、圧倒的な「いのち」の存在感。


  試してみるのもありかも知れない。


 そう考えながら、彼は。
 ひょっとしたら彼女と再会できるかも知れないと、思っていたのも確かだったが、そんな自分は見ない振りをした。




 おいで、と言ったきり、特に説明しなかったが、少年は従順だった。
 おぼろげな記憶を辿りながら、カンザキはしかし前のめり気味に歩を進めた。偶に振り返ると、少年はきちんとついて来ていたが僅かに息が上がっている。そこで彼もさすがに反省して歩を緩めるが、また気がつけば早くなっていた。
 そうして、ようやっとガラスの箱が見えた瞬間、思わず拳を握り締めていた。
 光を反射する温室の前でふたり、しばし佇む。そもそも温室自体、そうそう見られるものでもない。もちろん少年には初めての経験であろう。さすがに目を見開く美少年に、少しカンザキもほっとした。
 入ろうか、と、促してドアをくぐる。
 そして全身を包む、あのむせ返るような生き物のにおいとおんど。その中を、そろそろと先日と同じ道を辿る。どんどんと濃くなる緑と、驚くほど高鳴る鼓動に、カンザキはただ感じる。


  ああ、いきている。


 声なく吐き出して低木をかき分けると、ちらちらと輝くあの池と、その畔に立つ人影が、見えた。
 あっ、と。
 今度はちゃんと声になって、カンザキの足が止まる。続く少年も慌てて蹈鞴を踏んだ。
 池の側に茂る樹木の名を、カンザキは知らない。しかし後ろに続く少年の胴体程の太さの幹と、柔らかな緑色の葉が印象的だ。高さは3,4mだろうか。まだ伸びるかも知れない。
 そしてその木と対峙するように佇む、黒い人影。
 カンザキは声をかけそうになって、止める。その人影が、予想したものとはまるで違っていたからだ。身長はやはり自分と同じくらいだが、それは。
 髪が、短い。真っ白なうなじも耳も露わなベリーショート。そして細い首を隠すような詰め襟の、どこか怜悧な黒い衣は…間違いなく軍服だった。見慣れた警備兵のものではなく、光を吸い込むほどの黒さとシンプルかつ隙のないデザイン。階級章は付いていないが、少なくとも仕官であることは容易に見て取れた。
 そして何より、そこに漂う威圧感と… 狂気。
 無意識に生唾を呑み込んで、カンザキは立ち竦んだ。
 ところが、ぱちり、と乾いた枝を踏みつけた音が響いた。少年が身じろぎしたのだろう、カンザキが勢いよく振り向くと、びくりと顔を強張らせた。
 と、同時に、聞き覚えのある声がした。だから前を向かざるを得なかった。
「やあ、カンちゃんか。良かった。また逢えて」
 そう言ってその人は笑った。
 美しく笑った。


 …嗚呼、やはり、
 と。それ以外の可能性が低くとも、あって欲しくなかったことだが、その黒く鋭利な刃物のような人は、彼女だった。カンザキは少年にひとつ頷いてから、恐る恐る歩を進めた。
 しかし、ここまでだと思って足を止めた位置は、先日の距離より余程遠い。
「直接、アクセスしようかとも思ったンだけどね。そんなに大ごとでもないからさ… 逢えて良かったよ」
 もう一度繰り返したその人は、やはり彼女だ、と、カンザキは噛みしめる。
 確かにその陶器のような端正な顔も、細い四肢も、さらさら光る髪もあの少女と同じなのに。儚くたおやかな気配は跡形もなく、冷え冷えとした空気と、触れてはならぬものがまとう危うさが。
 その美しささえ、凛とした力をもっていた。
 神々しく、冷徹で、不吉な…女神のような力、を。


 羽化したのだ。


「その子は?」
 出しに抜けに問われて、カンザキははっと我に返る。
 再び少年の方を振り向けば、こちらの後ろに隠れるように縮こまっている。しかし、普段の”アウトの範囲”の人間と対するときの反応とは違う。怯えてはいるが、それ以上に今まで見たこともないような反応… 積極的な、少なくとも何らかの感情の動きが。
 芽吹いた植物をみる思いで沈黙するカンザキに、彼女は幽かに眉間に力を込めながら問うた。
「またずいぶんと面白いのを… カンちゃん、関係者?」
 おもしろい、のところでしかし、彼女の貌が更に鋭くなり、黒い瞳は更に冷えた。そんな彼女と少年の対照的な反応に戸惑うカンザキは、それがそのまま出た声で慌てて答える。
「あ、いや、孤児です。ちょっと、しばらく預かっていて…」
 そう、と。細く息を吐くように頷いた彼女は、暫く少年を見詰めていたが、
「名前は?」
 訊かれて一瞬、返答に困った。
 実はそこがまた難題だったのだ。本人が何も言えない以上、本来の名前は分からない。当初引き受けたチームでも色々試したようだが、何一つそれらしい情報は得られなかった。カンザキも一度、筆談を促したが、答えは返ってこなかった。
 むしろ、言わないだけであるならいいとだけ、思っていた。最初から存在しないよりは。
「…あ、いや、それが」
 仕方なく、普段は”きみ”と呼んでいるのだが、まさかそう言えるはずもない。
 狼狽えるカンザキに、彼女は眉根を寄せて訊ねる。
「呼び名もないの? まさかIDナンバで呼んでないよね?」
「それはさすがに!」
「だよね、そうだよね」
 とほっと息を吐いた彼女は、僅かに考え込んだ。そして、そうか、じゃあ新しいのをつけていいのか、等と呟くと、実に朗らかに笑ってこう宣言した。
「じゃあ、ユキムラだ!」
「はっ?」
 君の名前は、ユキムラだ。
 そう、彼女は少年に笑いかける。艶然と。
 一方の少年は出ない声で、しかし形の良い唇は確かに『ユ・キ・ム・ラ』とその音を繰り返し、カンザキは目を見張った。
「何百年前だったかな… 西暦の、1600年前後の東第八管区に実在した人物らしい。非常に聡明で、勇猛で、篤実な指揮官として有名だった」
 呆気にとられるカンザキと、瞬きを繰り返す少年に高らかに告げる。
「今、あの時代が流行ってるんだよね、うちで」
 うち、とはどこなのか、と思うのに、これも口には出せなかった。でもそれは、もうどうでも良かった。
「格好いい、ひとだったんだよ」
 そう言って、もう一度ゆったりと笑むと、短くなった黒い髪が、揺れた。




 少し落ち着いたところで、カンザキもようやく本来の目的を果たすことにした。二度とないチャンスなのだから。
 乾いた唇を舐めると、僅かに血の味がした。
「あなたの名前も… 聞き忘れていました」
 カンザキはそれだけを漸く、口にする。声が震えていなかったことは、誇りを持っていいと後で思った。
「…そうだね。ごめん」
 その人は悪びれた風もなく、しかしはにかんだような顔で俯く。
 恐らく、名前が告げられる日は来ないのだろう。
 だからカンザキは、これだけは伝えたいと思った。この答えだけは。
「それから、答えを」
 彼の言葉に、彼女は実に不思議そうな顔をした。
「…何の?」
「この世界で、セミが、生きていけるのか? と、言っていたので」
 あなたが。
 生きるべきなのかと、言うから。
 一瞬、虚を突かれた顔をした彼女は二拍遅れて、そうだね、と頷いた。
「言ったかな」
 だから、答えを。カンザキはふっと池の方を眺め遣る。視界の先に、例のハスが見えた。つぼみが少し膨らんでいるようで、彼の眼差しが少し緩んだ。
 そして先程、少年に新しい名を授けた彼女のように、彼は泰然と告げた。


「別に、何処でも同じでしょう」


 たとえばそれが有史以前に成った種で、生きたいという意欲だけで目を覚ました植物と、恐らく違いがないのだ。我々は。
「6年前でも…15年でも、500年でも、2000年でも、きっと大差ない」
 生き物なら、生きることこそが目的だ。
 根源的で本質的な、たったひとつの願いで祈りなら、きっと、
「いま、目覚めた場所が、唯一だから」


 他に、選べるはずもない。


 生きていけますよ、と、そう呟いてカンザキは微笑んだ。
 慈悲というより、諦念だった。それでも他には選べなかった。どうしようもなく… 死ぬのが怖かった。
 でも…


  それで良いのだと。


 遠くで、鳥だろうか、何かが鳴く声がした。
 ああそうか、此処は本当に生き物の楽園なのだと、ぼんやりとカンザキは思う。
 そして彼の視界の端で、黒い影が少し、揺れたように見えた。




「好い答えだ」




 カンザキは彼女を振り返る。
 彼女は笑った。
 美しく、華やかに笑った。


「やっぱり、君に頼むことにしよう」
 お願いが、あるんだよ、と。
 出し抜けに切り出した彼女は、胸ポケットから小さなチップを取り出し、カンザキに投げて寄越す。慌てて掬い上げると、黒に赤いラインと数字が入っている情報チップだった。
 数字は『6』だろうか。
「第三の資料室か、保管庫か。どこかに… あるはずなんだ。セミの生き残りが、保管されてる」
 チップをしげしげと見下ろすカンザキに、彼女は木を仰ぎながら一方的に告げる。
「その中に全資料のリストと、アクセスコードが入ってるからさ、試してみてよ。彼らが、目を覚ますかどうか」
 試してって、とカンザキはまた絶句する。
 確かに第三であれば管区内の動植物の多くをサンプリング、できうる限り保存しているが、特定の種を復元するなど… いきなり随分な話で、そもそも何の権限があって、と言いかけたが、これまでの経緯と状況を考えると、常識が通用するとも思えなかった。
「必要な資料とかサンプルがあったら、適当に持っていっていいよ。予算もそのなかになんかあるから」
 戸惑う彼に構わず、というより、それを楽しむように彼女は大きく伸びをしながら、言いたいことだけを言う。
「あ、あとココのセキュリティコードも入ってるから、好きに使って」
 一体、このひとは何だ?
 ようやく、カンザキは本来の問いに立ち戻ったが、顔を上げると既に、そこに居るのは黒い女神だった。
「もう、行かなきゃいけないんだ」
 その為に居るからね。
 言って、軽やかに身を翻す。黒い軍服の裾がひらめいて、ぞわり、と。背中の毛が太るとは、こういうことを言うのだと、カンザキは息を呑む。
 軍人が赴くのは戦場だ。そうしてこの人は、そのために… 長い夢から覚めたのだ。おそらく。




  女神の午睡が、終わる。




 そうそう、と足を止めた彼女が振り返る。
「その子… ユキムラをよろしくね」
 カンザキは焦る。これが最期になる。きっと最期になってしまう。だがそれは、それは厭だった。
「セミが、」
 ひりつく喉から無理に出した声は掠れていたが、今、出ない声なら意味はなかった。
「セミが目覚めたら、どうすれば… どこに連絡すればいいですか!」
 叫ぶように。
 引き留めたかった、数秒であっても。
 カンザキの必死の訴えに、「ああ、それもそうだね…」と、細い首を傾けて、彼女は暫し考え込む。
 さらりと動く黒い髪も、陶器のようなうなじも、小さな白い手も。ひとつも漏らさぬよう、カンザキは目に焼き付けねばならなかった。
 彼女はそうして少し悩んだ末、そのまんまでいいか。と、口の中で呟いてから。
「じゃあ、彼らが起きたら、どの端末でも良いからさ、“リクドウノセミ”って入れてよ」
 この街じゃなくても良いし、第八のだったらどこのでも、個人端末でもなんでも、ネットワークに乗りさえすれば拾うから。そう言って女神は鷹揚に笑う。


「そうしたら、逢いに行くよ。そこが何処でも… セミと、君に」


 じゃあ、またね、と。
 もう一度そう言って彼女は、艶やかに去っていった。


 ずっと見送っていたかったけれど、もう、その後ろ姿さえぼやけいく。
 呆然と佇むカンザキの、滲んだ視界の隅に、華奢な少年の姿が映る。
 ああ、そうだ、ユキムラだ。彼の名は。
 そして右手の中にあるチップを見る。幻ではない。泥や木の葉に変わったりもしない。現実だ。カンザキはそれをそっと、ポケットにしまう。
 ぱしん、と頬を両手で叩いて、気合いを入れる。ぼうっとしている場合ではなかった。やることは山のようにある。大きく息を吸ってから、「ユキムラ」と、少年を呼んで手招いた。
 おずおずと近付く少年の端麗な顔は心なしか、不安そうにも見える。そうあればいいと、カンザキが願っただけだったとしても。
「帰ろうか」
 ユキムラを促して、カンザキは漸く微笑んだ。それから、




「りくどう、の、せみ、か」




 そう、小さく繰り返して彼は、女神との約束を思い出すのだ。


  何度でも。


   いつまでも。













































 恐ろしく間が開いてしまいましたが… いちおう連作です。でも時間軸は女王の十数年前?
 向日葵と同じくらいちょいちょい書いてるハス、個人的なイメージでは「貪欲ないきもの」です。好きです。


2014.11.24



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