「なんで、勝てへんかったんやろ?」






  埋葬の夏







 あと一球


 おそらくチームの誰もが、同じことを考えた。
 少なくともナオトはそう感じたし、それは間違ってはいなかった。あと一球、あとアウト一つ。それで終わる。そうすれば、手に入る。
 『甲子園』
 あの輝く銀傘、緑の芝生、土煙の舞うマウンド、白いホームベース。浜風の吹く、夏の幻。なんて美しい、それは唯一無二の。
 夢にまで見た。嘘じゃない。ナオトは瞼を開くと、大きく息を吐きだした。
 決勝の日は、今にも泣き出しそうな曇り空。
 1点リードしての9回の裏。ツーアウト、二・三塁。しかし既に打者を追い込んで、あとストライク一つ。万が一のことがあっても、内野さえ抜かれなければ大丈夫だ。
 …ダイジョウブ、ナオトは唱えてみる。
 あと一球。
 そうして、ぎっと真正面を向く。そこにあるあるはずの相棒のサインを確認し、
 さっと、ナオトの顔が曇る。唇を噛んで、ひとつ鋭く首を振る。明瞭で強固な拒否に、正面のミットは戸惑うように揺れた。マスクの向こう、タカヒサの眉間が歪む。


 …空白が


 妙な間に、セカンドのケンタが動きかけたが、次の瞬間、ミットの下にあるべきサインが浮かんだ。ナオトは今度こそ深く頷く。
 そうだろう、そうだとも。
 あと一球、今度こそナオトは口の中で呟く。すっと足を上げ、いつものようにしなやかに腕を振った。


  やば…っ


 軌道が、僅かに高めに浮いた。
 自分の顔から、そしてタカヒサの顔から血の気が引くのが解る、失投だ。必死の相手が見逃してくれるはずもない。振り抜く。
 きんっ、と高い音が厚い雲の空を貫いた。
 県営球場がどよめく。
 悲鳴と歓声が入り交じる。
 だが、まだ球威が少し上回っていた。伸びない。
 白い、


  外野フライッ
   センター!
     抜けるぞ
  てし、取れ!!
    走れ
   ホームッ
     追いつけ
  落ちろっ!
    間に合う…ッ


 ナオトは生まれて初めて、真剣に、心の底から祈った。たぶん神様に。
 どうか、と。


  白球は


 夢が、ナオトの指から滑り落ちた。


 それっきり、
 試合終了のコールを聞いたかどうか、覚えていない。
 覚えているのは、最後に振り返っ




  !


 その朝も、ナオトは汗だくで目覚めた。
「…ちくしょう」 
 舌打ちしてタオルケットを蹴り落とす。ありえない。
 あの日から毎日、本当に毎日繰り返す、悪夢。ナオトは乱暴にTシャツを脱ぎ捨てると、壁に投げつけた。その勢いで拳も。
  ゴツッ
 鈍い音と痛みは、同時にやってきた。ナオトはただ歯を食いしばる。
 耳に残るのは。


「…なんで、勝てへんかったんやろ?」


  狂ったのは、いつからだ?
  間違えたのは。


 過去と今が追いかけてくる。






 行ってらっしゃい、という母の声に背を向けて、ナオトは家を出た。
 これで何日目になるだろう。母ももう、何処へ行くの、と誰何することもなくなった。飽きたのか、諦めたのか。両方か。
 あの日以来、ナオトは停滞している。いや、漂流している。昼近くまで眠り、起きればふらりと家を出て、夜まで街を彷徨っていた。
 あの試合後、逃げるように部活を引退した。もちろん部にも学校にも、二度と行っていない。"前"主将になったケンタあたりは真面目だし、マメだから何くれと後輩達の世話を焼いているかも知れないが、もちろん、ナオトにそんな気はさらさらなかった。
 それに、いずれにしたって、相手と自分のためにはならない。あと一歩で甲子園を逃したエースなんて、厄介者以外の何者でもないのだ。それは試合後すぐに思い知った。
 今の自分は「腫れ物」なのだ。
 そう、腫れ物に触るよう、という慣用句を、ナオトは数日前に初めて学んだ。最大限に腫れているニキビに触るみたいな、というのが彼の理解だ。居たたまれない、というのとは少し、違う。ただ気を遣われるのも、労られるのもごめんだった。だからチームメイトとも、家族とさえ顔を合わせるのも厭だったし、夢を反芻するのにも耐えられず、こうして街を漂うのだ。当て所なく。
 切れ長の瞳を閉じて、強く頭を振る。何も考えてはいけない。
 ナオトはそうして、無為に、無駄に、無意味に。夏を消費していた。




  カラン、


 と、ナオトがドアを開けると、涼しげな音が響く。同時に、真夏の炎天下の残滓を纏った体が、すうっと急速に冷えていくのが心地良かった。
 予想通り、古本屋にはまだ、客は誰もいないようだ。まだ、というか、今後、増える見込みは余りない。ここ数日のナオトの観察結果によれば、一日の平均来客数は十人に満たない。商売になっているとはとても思えなかったが、そこまでは彼の守備範囲外だ。
 天井まで届く本棚には、薄汚れた、というか、消耗した本達がぎっしりと詰まっている。くすんだ背表紙は物語を辞めて久しいが、それでも誰かを待ち続け、沈黙を守っている。ほどほどに冷房の効いた店内には、古紙独特の香りが満ちていた。
 ナオトがゆったりと視線を巡らすと、いつものように、奥の方に店の主の(たぶん)老婆が座っているが、起きているのか、寝ているのか、判然としない。従業員はこのばあさんの他に、学生バイトらしき店員がいるだけだ。
 もちろん、というか何というか、ごく一般的な体育会系男子コーコーセーらしく、ナオトが普通の本屋に行くことはめったにない。あったとしても、スポーツ雑誌と漫画コーナ、せいぜい参考書のコーナしか見ないナオトが、街のごくごくありふれた商店街の片隅、ろくに客も居ないような古本屋に通うようになった理由は、たった一つだ。
 ココなら誰にも会わない。
 涼しいし。と、全く不要な言い訳を自分自身に唱えてから、ナオトはすっきりと長い手を伸ばした。そしてその本を取ると、昨日の続きからページを繰った。




「星が好き?」
 近く問われて、ナオトは初めてその気配に気付いた。
 入店してからどれくらい経ったのか。
 慌てて振り向けば、にこりと笑う女性店員が立っていた。いつもの人だ。大学生だろうと見当はつけているが、正直、ナオトには女性の年は解らない。
 相変わらず客が居るんだか居ないんだか、とにかく静かな夕方だった。おおよそ、だいたい、殆ど、全く、何も起こらな毎日で、声をかけられたのは初めてだ。戸惑うナオトを興味深そうに眺めつつ、古式ゆかしいハタキを捧げ持ち、エプロンをした彼女は少し首を傾げる。珍しいくらいに真っ黒なセミロングの髪が、揺れた。
「ずいぶん、その本、気に入ったみたいだから」
 そう続けてもう一度、笑う。
 ナオトが今、手にしているのは、星空の写真集だった。だからこその質問であろう。が。
 気に入った…わけではない。星と夜空しか写っていない画を、ただ見るだけで良かったからだ。
 ナオトはすっと書架に視線を遣る。ブック○フのような新古書店ではない古本屋に、ごく普通の雑誌や最近コミックがあるわけもなく、受験参考書の類もない。もちろん、野球を始めスポーツ関係の本には近寄るのさえ厭だった。そもそも、この店が主に扱っているのは時代がかった学術書や文芸書のようで、そうなると、ごく僅かにあった昔の漫画を読み終わると、写真集と図鑑と地図ぐらいしか「解る」本がない。適当な本を手にとっては止め、という動作を繰り返し、どうしようもなくなって、その写真集を手に取るハメになる…
 というのが正解だったが、もちろん口には出さない。
「…きれいだな、と思って」
 ナオトの囁きは彼女に届いたか、どうか。
「そう」
 彼女がゆったりと頷く前に、「マキちゃーん、ちょっとー」と(滅多にないことに、というかナオトにとっては初めてだったが)客の声が上がる。「はーい、いらっしゃーい」と答えた彼女は、ごゆっくりどうぞ、と微笑んでレジに戻っていった。
 牧? 巻かな? 薪かも、とナオトは先ほどの客の呼びかけを反芻し、彼女の名前を推測する。しかし、問題は名前じゃない。どうやら、こちらも観察されていたらしい。つまり、


 …立ち読みをヤメロってことか? 何か買えってことか?


 ナオトはしばらく考え込んだが、結局、一冊50円の古ぼけた文庫本のコーナから、夏目漱石の『坊ちゃん』(何となく聞いたことがあるタイトルだったので)を選び、レジに持っていった。
 レジのマキさんは驚いたように、『坊ちゃん』とナオトの顔を見比べると、それでも丁寧にカバーを掛けてくれた。
「毎度ありがとうございます」
 そうして、彼女は最初と同じようににこりと、笑った。




 何もないところから、いきなり何かが発現するということは、ない。
 あるのは原因と結果で、起こることには全て、始まりがあるのだ。
 …たぶん。




 だったら、自分たちは何を、何処で間違えたのだろう。
「なあ… 俺たち、なんで勝てへんかったんやろ?」
 トモの独り言が、いつまでも耳に残る。
 試合後、レギュラはもちろん、下級生達も凍り付いたまま動けなかった。涙にむせぶことも、お互いを慰めることもなく、ただ呆然とグラウンドを眺めるしかなかったチームメイト。
 その中で、淡々と片付けをしていたナオトの背中で、トモヒデが呟いたのだ。親の転勤で、高校入学と同時に西から越してきたサードは、向こうの言葉を喋る。その音律で、誰にともなく。ナオトの手が思わず止まった。
  なんで、だと…?
 そんなのは決まってる。俺が打たれたからだ。てしが最後の打球を捕れなかったからだ。じゅんぺーが7回のチャンスに凡退したし、ユウキの走塁ミスも、お前のバント失敗だってあった。
 それだけだった。それしかない。振り返って、怒鳴りつけようと思った。でも、出来なかった。そんなコトは今までの試合でだってあった。それでも勝ってきた。
 今日は、今日に限って。よりによって今日。
 ナオトは、曇天の下の曖昧なマウンドを、ただ見詰めた。


  なんで


 幾度となく反復した、解のない問いは。
 ナオトはぎゅっと眉間に力を入れ、握りしめた拳が白くなる。冷や汗が出る。無意識に歯を食いしばっていたことに気付いて、深呼吸をしようとした瞬間、
「だいじょうぶ?」
 かかった声に、思わず本を取り落としそうになった。聞き覚えのあるアルトの響きに振り返れば、勿論、そこにはエプロン姿の「マキさん」が立っていた。今日はハタキの代わりに、手袋をして、霧吹きを持っている。
 最初に口をきいた日から、四日は経った…五、いや六日? とナオトは惑った。近頃の彼は、時間の感覚が鈍ってきている。ぱくぱくと口を開閉させてから、ナオトはやっとの事で発声に成功した。
「…だ、だいじょうぶ、です」
「そう。じゃあ、タスマニアデビルに、何か恨みでも?」
 真面目な顔で質問され、更に混乱する。
「は、え…えっ、たすま?」
「いや、君、すっごく怖い顔でそれ、睨んでるんだもの」
 マキさんはくすりと笑む。ちなみに今、彼が手にしているのは、オセアニア動物図鑑である。そろそろ星空にも飽きてきたので、宗旨替えをしたのだ。何と応えたものかと押し黙るナオトに、
「面白かった?」
「え?」
「漱石」
 ちらりと流れてきたマキさんの視線を受け止めて、ナオトは微かに怯んだ。彼女の黒目がちな瞳が真摯な色を帯びて、光る。それは…どこかで見たことがあると、頭の隅で記憶が閃いたが、掴み損ねた。代わりに口をついて出たのは、
「腹が立った」
「は?」
 それはナオトの正直な感想だった。
 普段だったら小説など、教科書に載っている文章以外はほとんど読んだことがないが、暇に任せて開いてみた。するとさすがに文豪の代表作、うっかり読みふけってしまったのだ。そして読み終わって残ったのは、義憤だった。
「なんで、坊ちゃんが辞めんだよ、と思って…意味わかんねえ」
 気恥ずかしさに顔を背けたナオトの、怒りを込めた声は何処に届いたのか。少し間があって、ぽつんと雫が落ちるように。
「君は…けっこう、いい子だね」
 こぼれたマキさんの呟きは。
  笑われた…!
 ナオトがむっとして顔を上げると、そこには。からかいも嘲りもなく、晴れた朝の湖面のような彼女の細面があった。


 その、静けさに。


 少年は返す言葉をなくして、立ち尽くす。一方、マキさんはふっと息をつくと、「ごゆっくり」と告げて、離れていってしまった。
 また、夏の日は暮れてゆく。
 ナオトは散々迷った末に、文庫コーナから『吾輩は猫である』を手にした。そのままレジに行くと、彼女は今度はとても、嬉しそうに微笑んだ。
 そうして、『猫』を片手にナオトが出入り口の扉を開けると、


 カラン、


 と、ベルが鳴った。























2009.1.11



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