もう、何回戦まで進んだのだろう?
そんな疑問が浮かんだのは、ナオトが『猫』を読み終える頃だった。
家人の寝静まった真夜中、自室のベッドに転がって、ページを繰るのも堂に入ったものだ。最近は、『坊ちゃん』はもちろん、立ち読みで鍛えたせいか、活字を読むスピードも速くなって、三日もかからなかった(ナオトの経験値からすれば、それは奇跡のような速さだった)。ので、逆算すると、あの店に通い始めたのが確か、
「…え」
その事実に気付いて、ナオトは思わず息を詰める。
ドンドンッ ドンドンッ ドンドンッ
と、何かを激しく叩く音が聞こえて、うるせえな、なんだよ、と腹の中で毒づいてから、それは自分の鼓動なのだと、わかったところでそれは、
「今日って、いつだ?」
ナオトは声に出して問うていた。信じられない。今が、8月何日なのかも、判らないことに愕然とした。
反射的に部屋のカレンダを見上げるが、そのカレンダはまだ7月のままだった。ナオトの時間は止まっているのだ、あの日から。
おれはなにをしていた?
あの日。
あのマウンドで、最後に見たのは。
ライト、タケシからのバックホーム、中継3つ。ユウキが球をカットしてホームを振り返った時には、もうセカンドランナーがホームに滑り込む寸前だった。
白球が、彼の手からこぼれて、
スローモーションのように。走者はベースを踏んで飛び上がり、わっ、とベンチからナインが駆け寄って歓喜の輪が広がっていく。バックネット前にフォローに入っていたナオトは、ホームの前で、その前で呆然と佇む相棒と、視線が合った。
血の気が失せた顔で、彼がナオトを見た。
その、目が。
いつもは柔和なタカヒサの瞳が、今。顰められた眉の下で、悔恨や悲愴の色とはどこか、違う色に見えて。その強さが、胸に刺さる。
いつの間にか、全ての色と音は消えていた。ナオトの白と黒の視界の中で、空も人も風もスコアボードも凹凸を失った。歓声も嘆息もエールも悲鳴も、何も聞こえなかった。審判の声さえも。
無音の、モノクロの世界。
タカヒサの唇が幽かに動いて、なにか呟いた。何だって? と、聞き返すことが出来なかった。
おまえのせいだ、と
言われたと思ったのだ。
言われても仕方がないと思った。
彼は最初、カーブを要求したのだ。しかしナオトは首を振った。投げたのはストレートだ。一番、自信を持って投げ込める、はずだったから。
はずだったのに。
こくりと、ナオトは喉を鳴らす。
ぱさりと軽い音がした。『猫』が床に落ちたのだ。次はどすんという鈍い音が続いて、それはナオトがベッドから転げ落ちたのだ。
ナオトは匍うように、窓際へ近付く。上手く動かない手足を叱咤して、ようよう立ち上がる。眩暈がして、部屋が回転する。鈍重な自分がもどかしく、それ以上に、窒息しそうな、今。
逆流する。
何が、呼気か、血か、胃液か、記憶か、時間か。
震える手はやっと窓を開けるが、それっきり、窓の前に崩れ落ちた。
夏の夜は新月
熱く、粘性の高い空気が肺に侵入し、ナオトは夜に呑まれた。
夏の夜はぬらりと湿って、重い。滴るような。
夜が膨らんでゆく。
ナオトはここで初めて。目の前に空いた、真っ黒で底の知れない穴の前で、為す術もなく蹲る。
眠れないまま、朝を迎えた。
一睡も出来なかった夜は、ナオトにとっては生まれて初めてだ。頭も躯も心も重く、僅かに動くだけでも激しく消耗する。
それでも、閉じ籠もるには、この部屋はあまりに野球の記憶が濃密に過ぎた。
逃げなくては、と。
自分を鼓舞し、家族が起き出す前に、ナオトは静かに部屋を出た。今度こそ、ナオトは真摯に逃亡する。
すべてから
しかし、辿り着いたのは結局、例の古本屋だった。
無論、それは望まぬところだ。ナオトとしても、今日も真夏日を確約された青空の下、しばらく街を彷徨ったのだが。
近所の公園も、河川敷も、コンビニも、どこもダメだった。この街のそこかしこに、何処にでも、ナオトの目には過去の自分の姿が見える。堪らない、耐えられない。
そうして行き着いた場所は、過去の自分を知らない其処しかなかった。ナオトはドアを開ける。この扉はこんなに重かったっけ、と思う。すうっと、店内の冷気が体を包むが、それさえもどこか重苦しく、いつものような清涼感はなかった。
ナオトはずるりと体を引きずるようにして、いつもの本棚の前に立った。
天井まで隙間なく、好き勝手に並ぶ古本達が、冷然とナオトを睥睨していた。
やはりおかしい。ナオトは思わず額に手を当てる。今まで感じたことのない威圧感に、頭痛がする。ぎゅっと瞼を閉じ、なんとかやり過ごして視線を戻した、その先に。
あの本があった。
この店に通い始めてから、一番頻繁に見た、ずっと見ていた、あの星空の写真集だ。くすんだ書籍群の中で、そこだけくっきりと明瞭な色彩を持っている。
ああ、待たれている。
まずそう思った。しかしそれから、ナオトはその事実に思い当たる。
その背表紙が鮮やかに見えるのは、気分でも錯覚でもない。その本とその周囲には、事実、埃が積もっていないのだ。ほぼ毎日、ナオトが手に取るから当然だろう。
ずっと、見ていたのだから。
…違う
その逆だ。
ナオトは瞬きもせず、それを凝視する。そう、あの日以降の、自分を見ていたのは。
ずっと、見られていた。
ごくりと、彼は生唾を吞み込む。
恐ろしかった。
心臓が、冷たい手で握り潰されるようで。自分が失ったものを全て吸い込んだような、その背表紙が、怖かった。店内の冷房はいつものように柔らかいのに、自分が震えているのが分かる。
コレは、忌むべきモノだ。
ここにあってはならない。
喉が渇く。頭が痛い。胸が苦しい。息ができない。
おれをみるな
ナオトは手を伸ばす。それを葬り去らねばならないという衝動に、度を失っていた。写真集を掴むと、そのまま身を返して進み、出入り口のドアを開けようと手を伸ばした瞬間、
すっと横から出た手に、きゅっと右腕を掴まれる。あの日までナオトをナオトたらしめていたその腕は、命を失っているから、あっさりと動きを止めた。
そして耳朶に滑り込むささめきに、奪われた。
「万引きは、犯罪だよ」
ナオトが振り向いたその先には、マキさんが居た。
嗚呼 やっぱりこの目は どこかで
その、
黒目がちな瞳を見た瞬間、ナオトは弛緩した。腰が砕け、思わず床に座り込んでしまう。ふつり、と、張りつめていたものが切れる音を、彼は確かに聞いた。ナオトは細く、長く、息を吐く。
ゆっくりと、吐きだす。
ぶううん、と。店の奥から空調のうなりが微かに、響いた。
崩れ落ちたナオトを見下ろして、「本当は、店外に出た時点で成立なんだけどね」と、彼女は少し笑った。
「どっちでもいいよね? そんなことは。この本が欲しかったわけでは、ないだろうし」
その貌は、あくまで柔らかい。ナオトは言葉もなく、ただマキさんを仰ぎ見た。
彼女はそっと、ナオトの手から写真集を取り上げる。小さく首を傾げると、黒髪がさらりとなびいた。その、姿は。背の高いナオトより頭一つ分は小柄で、いつもと同じ地味なエプロン姿なのに、まるで別人のように見える。
気圧されるような。
…いや、彼女はすっきりと立っているだけだ。姿勢が良いんだな、この人は、と。ナオトは、ぼんやりとそんなことを考えた。
マキさんはナオトをしっかりと見据えたまま、低く、しかし明瞭に響く声で続けた。
「まあ、なんにせよ、夏の予選準優勝のエースが、万引きなんかで捕まったら、カッコワルイよね」
…いま、何と言った?
ナオトは目を見開く。ありったけ。それこそ眼球が落ちないのが不思議なくらいに。
瞬時に凍り付くナオトを愉快そうに眺めながら、彼女は彼の名を呼んだ。
「ね、宮崎直人君」
2009.1.19