どうして。
 今、自分はこんなところにいるのだろうと。ナオトは曇天を仰ぎながら自問していた。
 あれから三日後の午前9時前、ナオトは待ち合わせ場所の空き地に居た。整地の途中で放置されたのか、こんな場所がよく残っているもんだ、と思うくらいに、程よい広さの空き地だった。誰か手入れでもしているのか、遊びに来る子ども達の管轄なのか、雑草はまばらで、ゴミもほとんどない。幹線道路や住宅からも離れているせいか、とにかく静かだった。勿論、ナオトの他には誰もいない。
 今日は久々の曇り空で、少し過ごしやすい気がしたが、それも幻だったらしく、今はじっとりと蒸し暑い。ナオトは座れそうなところを探し、空き地の端にいくらか残る角材を見つけて座ると、額の汗を手の甲でぐいっと拭った。


 三日前、あの後。
「ま、万引きなんてちまい事件、ニュースにはならないだろうけど。噂くらいにはなるんじゃない? ああ、あの負けちゃった南高のエース、万引きで捕まったんだって、とか」
 そう言って、マキさんは写真集を本棚の元の場所に戻しに行く。ナオトはその台詞の内容を想像し、あまりのイタさに頭痛がした。敗退のショックで自暴自棄、だとか、燃え尽き症候群、だとか。無意味で無神経なウワサ話の肴になるのは、骨になってもごめんだった。
「そんなの、イヤでしょう?」
 本棚の影からひょっこり顔を出した彼女は、にっこり笑った。
 それはそうだ、が。
 そもそも、この人は何故、自分のことを知っているのか? 久々の公立校の活躍に、地方新聞などで多少は取り上げられたから、知られていても不思議ではない。しかし、そういう「知られ方」ではない。そんな予感に、ナオトがちらりと視線を向けると、マキさんの顔がふっと引き締まる。
「黙っててあげる」
 …なぜ、と。警戒で心と躯を強張らせるナオトに答えるように、マキさんが続けた言葉は、思いがけないものだった。
「だから、取引しよう」
「…は?」
 とりひき、と言ったか?
 ナオトはその単語を反芻するが、その意味は脳に全く受容されなかった。ただの文字の羅列を脳内でリピートする少年を翻弄するように、マキさんはまた想定外のコトバを使う。
「そう、取引。デートしてよ、ナオト君」
「は、はあ?」
 なんだって? デート?
 …デートって、なんだっけ?
 そこまで戻らねばならないくらい、ナオトは動揺していた。よく考えると、脅迫じゃないのか、コレは、とやっとそこに気付いたナオトだったが、よく考えなくても脅迫だった。脅迫だし、たぶん…「悪いコト」だ。
 が。
 もちろん、この期に及んで補導ぐらいは何でもないという強がりはあったが、興味が勝った。


 この人は、いったい何だ?


 マキさんは押し黙るナオトを促すように、すいと彼に近付いて、右手を差し出した。なに? と眉根を寄せるナオトに、
「ケータイ、貸して。私のアドレスに空メール送るから。あとで細かいこと、メールするね」
 …拒否権はなしかよ?
 とは言えないまま、結局、ナオトは大人しくケータイを差し出した。そしてそこで初めて、あの日以来、ケータイの電源を入れることさえしていなかったことを思い出す。持っていたことでさえ奇跡のようだ。その瞬間、ナオトは、自分が現実を、今を、拒絶していたことを思い知った。
 くっと息を詰めるナオトから、マキさんはケータイを受け取ると、やっぱり笑った。
 今度は、『猫』の時と同じに、嬉しそうに。






 ふっと、ナオトはモノローグを打ち切る。
 呼ばれたような気がしたからだが、耳を澄ませても、あたりはまだ静かだった。そろそろ時間だと思うのだが、と、ナオトがついでに確認しようとケータイを取り出した、その時。
「なーおーとー!」
 気のせいではない。ナオトは立ち上がって声のした方角を見たが、それらしい人影はない。ちょっと先に、自転車に二人乗りの高校生くらいの少年が見えるくらい…
 ふたりのりのこうこうせい?
 ばっと道路の方へ駆け寄ると、ずんずんと近付いてくる自転車を漕ぐ少年の顔が、はっきりと見て取れた。それは、実に意外な。
 自転車はあっという間に空き地に到着し、きゅっとブレーキの音を響かせた。
「…タカヒサ」
「…よう」
 ちょっと困ったように笑った顔は、この二年半の間、一番よく見た相棒のもので、間違いなかった。間違うわけがない。しかし。


  あれ以来、だ。


 数週間ぶりなんだな、と、ナオトは改めて思う。そんなに顔を合わせなかったのも、話さなかったのも、出会ってから初めてだ。この場に相応しい言葉が、表情が、見あたらなかった。
 それっきりフリーズする二人を再起動させるべく、自転車の後ろに乗った小柄な少年が、ぽん、と地面に降り立つ。
「ごめん、待った?」
 その声は。ナオトはまたもや目をむく。
「ま、まさか、マキ、さん…?」
「うん、そう」
 少年とも見えたその人は、間違いなく、古本屋の店員・マキさんだった。が、
「か、髪はッ?!」
「切ったの」
 見違えるほどのベリーショート。シンプルなパーカーとジーンズという格好のせいもあって、まるで少年のような… というのもそうなのだが、重要なのはその顔だ。いや、確かに彼女の顔なのだが。ナオトは思わず釘付けになる。
「…どーいうこと?」
 今頃気付く自分にも呆れるが、ナオトは問わずにはいられなかった。
 マキさんとタカヒサは、そっくり、と言えるほどよく似ていた。もちろん男女の違いはあるが、全身の雰囲気が近ため、並んで立てば4:5程度の相似形である。もともと、長身で、整ってはいるがキツイ顔立ちのナオトと正反対に、柔和な顔つきで、捕手にしては華奢な体格なタカヒサだったが、それにしても。
 困惑するナオトの前で、二人はきっちり整列すると、マキさんは、ぺいっとタカヒサの肩に手を置いて、言った。
「えーと、紹介します。こっちは、うちの弟」
「石川貴久です」
 悪びれず、ぺこりと頭を下げたタカヒサに、思わずナオトは怒鳴った。
「ふざけんなッ! てか、なん、お、おとうと? どういうことだよ?! だって、マキって」
「うん、真紀だけど」
「ああ、そーいえば名乗ってなかったねー。石川真紀、21歳でーす」
「…ええええええ?!」
 反則じゃねえか、と怒るナオトを、マキはにやにやと眺めやる。タカヒサは少し決まり悪そうに、がりがりと頭をかいた。
 もちろん、ナオトは本当に彼らに腹を立てているわけではない。びっくりしたのも、どこか「やられた」感があるのも確かだし、これだけ似ているのに気付かなかった、自身の鈍さにうんざりしている。
 でも、それ以上に。こうして騒ぐぐらいしか、ナオトにはやりようが、見つからなかったのだ。
 相棒の顔を、まともに見られなかった。


  あの目 が


 脳裏を過ぎるあの日の記憶に、ぎくしゃくと狼狽えるエースの一方で、女房の方もひどくぎこちない。何も語らないまま、タカヒサは腕時計を確認すると、慌てたように言った。
「あ、俺、そろそろ迎えに行くわ」
「うん、そうね、よろしく」
「了解」
 彼は敬礼の真似をして答えてから、「あ、荷物」と、カゴの中のスポーツバッグ等を適当に放置する。そして、そそくさと自転車にまたがって「じゃ」と手を振った。うん、と軽く受けるマキの一方で、ナオトは当然、置いてけぼりを喰らう。
「え、えっ、なに?」
「いーからいーから、大丈夫、心配しなくても戻ってくるから」
「はっ、べ、別に心配は」
「うちらはアップしておこうねー」
「あ、アップ?」
「そう、準備運動は必須でしょう。怪我するよ」
 言いながら、マキは空き地の開けた部分で足場を確保すると、手慣れた様子でストレッチを始めた。その小さな後ろ姿にナオトは口を開いたが、声が出なかった。
 どういうことだよコレは、と。
 ナオトは訊きたかったのだ。


 いつから知っていたのか、とか。
 最初からそのつもりだったのか、とか。


 でもどうしても言葉が紡げず、ナオトは立ち尽くす。
 あの古本屋に通うようになったのも、その店員が相棒の姉だったのも、その古本屋で万引き未遂を起こしたのも、偶然だろう。偶然の、はずなのだ。しかし、偶然で片付けるには余りに、あまりに。
 彼が、ぱくぱくと金魚のような顎間接運動を繰り返しているうちに、マキの方が先に口火を切った。腕と肩のストレッチをしながら、何でもないことのように。
「高校入ったら、キャッチャー辞めるって、言ってたんだよね」
「えっ」
 誰が、と訊くほど、ナオトも暗愚ではなかった。
 ただその衝撃に、一瞬、ナオトの視界が白くなった。そう、こんなにもショックを受けるとは、本人にも全く予想外だったが。そんな話を、タカヒサから聞いたことはなかった。この二年半、一度もだ。
「元々、タカは好きで始めたんじゃないんだよね、キャッチャー」
 しずかに。
 静かに、マキは謳うように物語る。
「うちにはもう一人、きょうだいがいてさ。タカのひとつ上、ミカっていうんだけど」
 彼女は大きく伸びをしながら、私にとっては妹だね、と付け加える。
「ミカは運動神経抜群でね、ほんと。町内の少年野球チームのピッチャーで、他に男子も居たのにエースだった。その練習に付き合って、受けるために始めたようなもんだから」
 末っ子長男って、姉貴に頭が上がらないからさー、なんてからりと言う。
「でも、ミカは中学入ったら別のスポーツはじめて、その必要もなくなった。さあどうしようって」
 まぁ中学でも続けてたけど、嫌いじゃなかったらしいし。
 でも、すごく大変だからって。こう言っちゃなんだけど、投手って個性派揃いだもんねぇ。向いてないかもしれないし、高校で硬球になったら、投手はともかく、内野でも外野でもいいよなって。一人みんなと違う方、向いてやってるのも寂しいとかって。それどころか、テニスでもバスケでもいいしとかって、言ってたのに。
「…言ってたのに」
 と、もう一度繰り返して、マキは空を仰いだ。いつの間にか雲が薄くなり、夏の陽が僅かにこぼれて、彼女は眩しそうに目を細めた。
「それがさ、南高入って、部活選ぼうって頃にね。帰って来るなり、タカ、なんて言ったと思う?」


 『俺、甲子園、行くから』


「びっくりしたよ、本当にびっくりした」
 マキは笑わなかった。酷く真摯な顔で前を向き、遠く二年半前を見ていた。
「甲子園、ってさ、野球やってる子なら、一度くらい言うよね、普通。なのにあの子、それまで一度も言ったことなかったから」
 まぁ、ミカが行けないからね、そうなんだけど、と続いた独り言はとても小さくて、すっと夏に溶けた。
「しかも行きたい、じゃなくて、行くから、って。同じ新入生に、すっげーピッチャーがいるんだって。本当にすごい投手だから、本気で甲子園も狙えるって。だから、その球、受けれるようになればレギュラにもなれるし、絶対、キャッチャーやるって」
 きらきらと。
 思春期の少年の常で、少しむつかしくなってきた弟が、実に久々に見せた、真っ直ぐな表情だった。目を輝かせ、息せき切って話す弟の顔を、思い出しながらマキは、淡々と。
 そうして、ナオトの方を振り返る。


「ぜったいに、君のキャッチャーになるんだって、言ったんだ」




 風のない真夏の朝は、熱を孕んで肥大化していく。
 薄日が差すようになってその流れは加速し、ナオトたちの足下にはゆらり、と陽炎の気配が過ぎる。
 のそり、と、天蓋を移動する大きな雲の淡い影。それはまるで地を匍う巨大な生き物のようだと、ナオトはぼんやりとそんなことを考えた。
 タカはね、と、やっと彼女は笑った。
 穏やかに笑った。
「君の話ばかりするよ」
 タカ、男子にしては、わりとおしゃべりでしょう。上が女ばっかりだからかなぁ。でしょ? と、ナオトに軽く念を押して、マキは柔軟に移った。
 今日は調子が良かったとかイマイチだったとか、スライダーがモノになってきたとか、球威が増したとか、コントロールも良くなったのに、あの審判のストライクゾーンは狭すぎるとかなんとか。
「のろけ話に近いよね、アレは。あー、はいはい、もーいーよ、とかって、家族みんなが飽きるくらいに」
 もちろんクラスの友達や、授業とテストや学校行事の話も出たけれど。マキは目を細める。
「あとは部活の話、チームの話とか大会の話とか。私、たぶん、ここ二年の南高野球部事情、そーとー詳しいよ? 他に話題はないんだね、あれは」
 第一、女の子の話がほっっとんど出ないって、おかしくない? と言いつのるマキの横顔を見ながら、ナオトは、いや、部活の時には女子の話もしてました、とフォローしようと思ったが、意味がないので止めた。しかしついでに、そういえばあいつ、二年の終わりにD組の子からコクられたのに断ったとか、トモとてしがそんな話をしてたな、なんてことも思い出す。
 でも、そんな話をしたのは…
「なのに、春頃からかな? 君の話をしなくなった」
 それどろこか、野球部の話もしない。と、マキの表情がさっと曇った。
 そうだ、春だ。
 ナオトは反芻する。確か、春季大会でベスト4に入った、その頃からだ。現実味を帯びてきた『甲子園』の文字。チームのみんなが、本気で意識し始めた。そして日を追う毎に張りつめていった、部の空気。
 はしゃいで大騒ぎすることもなくなり、冗談を言って笑いあうことも減った。ごくありふれた日常会話でさえ途絶えがちになって。
 本当に必要なことさえ、話さなくなってはいなかったか。
 いつの間にか、軋んでいた関係。狂っていた歯車。
 あの頃、皆はどんな顔をしていただろう?
 覚えていなかった。ナオトの瞼の裏で、曖昧模糊とした皆の影がゆらゆらと揺れる。
「そして、あの日が来た」
 最後の試合
「タカはあれ以来、一度も君やナインのことを話さない。そう、いちども」
 他に話題がないあの子が! と、力強く断言したあとに、マキは柔軟体操を終えて、ゆっくりとナオトに向き直る。ナオトは居たたまれなくなって、俯く。マキには、目の前の少年と弟が二重写しに見える。
「それどころか、野球の『や』の字も出てこない」
 おかげで本当に、何一つ喋らなくなった弟。ただ乾いた虚ろな眼差しで、薄暗い過去を見詰めるだけの少年。夏は盛りを迎えたのに、彼の時間だけが進まない。


  時は止まった


 黙ったままのナオトに、それでもマキはそっと言葉を繋いだ。
「そのまま、夏休みになってね」
 友達にバイトの代打頼まれたの、あのお店。居ても居なくても良いようなもんだから、って。まぁそれは本当だったけど。
 そこで見たのは、弟と同じ瞳の少年。
 おなじように、ただ凍てついた季節に彷徨う幽鬼のような。
 ふっと息を吐いてから、マキは思い出したように、タカヒサが置いていったバットケースに歩み寄る。
「ほんとびっくり、衝撃的。なかなかない偶然でしょう。ていうか、野球少年に古本屋は、似合わないもんね」
 ありえない取り合わせ。でも、だからこそ、と、マキは手慣れた様子でバットを取り出すと、すっくと立った。凛と、力強く。
「これはチャンスだと思った。きっと野球の神様がくれた、チャンス」
 …なるほど、と、口の中で呟いて。ナオトはやっと、その疑問を口にした。
「それで」
 顔を上げ、彼女の瞳を受け止めて。そうしなければ、ならないと思った。そうしなければ。
「それで、俺に声、かけたんですか?」
 あの日。
 彼女と最初に言葉を交わした。あの写真集を、星空を眺めていた、自分。遠い昔のような気さえする。ナオトも深く呼吸する。
 これは自分にとっても、最後のチャンスなのだ。たぶん。
 そうして、彼女は何がしたいのか。その野球の神様がくれたというチャンスを、どうするつもりなのか。ナオトは訊かねばならなかった。膿んだ傷の痛みに、歯を食いしばってでも。
 マキはそんなナオトの視線を受け止めたが、そこで初めて、彼女の瞳が揺らいだ。しかしそれは一ほんの瞬で、マキは剣を構えるようにバットを掲げ、静かに告げた。


「私は」
 その時、やっぱり彼女は少し微笑んだ。どこか…挑戦的に。
「一度、やってみたかったんだよね、野球」























2009.2.15



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