…なんだって?


「やきゅう…?」
 ナオトが余りに慣れたその単語を口にした時、「あっ」とマキが短い声を上げる。彼女の視線の先を振り返ったナオトの目に、またも意外な人影が飛び込んできた。
「うお!」
「ナオト!!」
 名を呼ばれた。耳に馴染んだ、聞き慣れた声で。ナオトの体幹にその音は、見る間に吸い込まれて行く。
「ケンタ、じゅんぺー…てし」
 そして彼も慣れた名を呼ぶ。その音階も、もっとずっと速く体内に染みわたる。それは砂場に撒いた水のようで、ナオトは自分が乾いていたことを、知った。
 僅かな間を破ったのは、前キャプテンのどこか冷静な言葉だった。
「うっわー、ナオト…なんか色白になってね?」
 錯覚だろうと、ナオトは答えようとして、止めた。そして相手の顔を正面から見たとき、ああ、成る程と思った。太陽や安息と疎遠になっていたのは、自分だけではないらしい。
「…お前もだろ」
「あはっ、そっか」
 ナオトの突っ込みに、ケンタはからりと笑った。いつもタイム中のマウンドで見せていた笑顔と同じに。その笑みに目を細めてから隣に視線を移すと、四番の締まった顔がある。が、ナオトは少し首をひねった。
「じゅんぺー…ちょっと痩せたか?」
「男前になったろ」
 にやりと笑うところはいつも通りだが、彼らしくない陰りを見た気がして、ナオトは殊更にあっさりと切り捨てる。
「イヤ、それは全然」
「なんだよ、このやろ」
「…ナオトが相変わらずで嬉しいけどな、とりあえず」
 と、ケンタの声が途切れ、タカヒサの背後に視線が向かう。タカヒサはやれやれ、といった風情で、後ろに向けて言葉をかけた。
「いつまで隠れてんだよ、てし」
 タカヒサの後ろに縮こまっていた少年が、おそるおそる、まさに初めて地上に出るモグラのような緊張感で顔を出した。
「…よっ」
 らしくない。ナオトはそう思った。明るいのが一番の取り柄の少年が、おどおどと挙動不審に出る理由はもちろん、一つしかないのだが、今のナオトにとってはそれはどうでも良いことだった。
 本当に、全く気にならなかった。だから、
「てし、背、縮んでないか?」
 ぼそりとこぼれたナオトの言葉に、小柄なのを必要以上に気にしている少年は鼻白み、じゅんぺーは手を打って喜んだ。
「ああー、そうか、そうかもな、なんかヘンだと思ってた」
「なっ、ち、縮んでねえよっ! んなわけあるかよ!」
「お前、しばらく牛乳と運動、サボってただろ。このブランクはでかいな」
「えええっ、マジで?!」
「…残念だったな」
「なんだよ、タカヒサまで!」
 真剣に慌てる少年をからかうチームメイトを見ながら、たぶんこれがいつもの調子だったよな、と。確かめるように ナオトはようやっと切り出した。
「で、今日はなんなわけ?」
「…」
 ケンタ、じゅんぺーとてしが互いに顔を見合わせた。見合わせるが、沈黙が続いて、その解を誰も持っていないことが判明する。
「え、知らねえの?」
「知るかよ。昨日、ケンタから電話あって、とにかく来いって」
「俺も」
 と、戸惑う皆の視線がキャプテンに集中すると、彼はうーん、と唸りながら違うことを答えた。
「三年には声、かけたぜ。トモとかシンスケ、ヨシタカも…予備校だって言ってたけどな」
「ええええ、シンスケはともかくトモが予備校!」
「マジで! ぜんぜん似合わねえ、ありえない!!」
 トモヒデの予想外の近況に驚く皆の一方で、エースは努めて穏便に話を戻す。
「つうか、だからなんで、みんな集めたんだよ」
「や、俺だってタカヒサから、ナオトに逢えるって…」
 その言葉に、今度は正捕手に全員の視線が向かう。
「いや、ちょっと…姉ちゃんから頼まれて…ナオトと勝負するからって」
 何だかいろいろ端折られている気はするが、それはあとで個人的に聞こう、とナオトは心に誓いつつ、その前に聞き捨てならない単語があった。
 それは誰も同じだったようで、ケンタが不思議そうに聞き返す。
「は? しょうぶ?」
「…デートって聞いたぞ」
 訝しげなナオトの言葉に、その他の全員が振り向く。
「でっ、でーと?」
「デート! ナオトが、タカの姉ちゃんと!」
「は、はあ? だって三打席勝負だって、マキねえが… で、デート? 聞いてないし! なんだよそれ」
 誰より一番事態を把握しているはずのタカヒサが、今度は誰より一番慌てている。それを面白そうに眺めているじゅんぺーが、それじゃあ、と。
「デートで三打席勝負なんじゃねえの?」
「…」
 考え込む一同。
「ああっ!」
「ああ、じゃねえ! 意味わかんねえよ」
「斬新なデートだな」
「斬新とかと違うだろ!」
「ってか、デートってなに?! なんで?」
「まーまー。てことは、ひょっとして、俺たち球拾い要員?」
 納得するてしとじゅんぺーに、あくまで抗議を続けるナオトとタカヒサをいなしつつ、ケンタはタカヒサに尋ねた。
「あー、うん、ケンタには球審もやってもらうかな、とか」
「…ってことは、やっぱ俺ら球拾いじゃねえか!」
「グラヴ必携ってそのため?!」
「ふつーにやるんだと思ってたのに…たまひろいかよ…」
「えっと、うん、まあそうなんだけど…」
 頼む! と、タカヒサに拝まれたところで、皆は口をつぐんだ。そして、しばらくこれから自分たちがやることの意味を反芻してから、各々がそっと頭を動かして、その人の方を振り返る。
 そうして。
「そろそろ始めようか」
 と、マキはゆったりと微笑んだ。


 始めよう、か。
 ナオトがふっと振り仰ぐと、空が、更に青みを増していた。




 じゃあやるか、
 と、どこか楽しそうに皆が準備を始める中、タカヒサはナオトを手招きする。
「持って来てないだろ、グラヴとか」
 冷静に問われて、ナオトは思わず少しむっとする。独りだけ蚊帳の外である感覚は、こんな時でもやはり気分の良いものではなかった。ナオトはあからさまにぶっきらぼうに答えた。
「…デートには使わないだろ」
「それ止めろよ。っていうか、デートでも持って来いよ、お前だったら、デートでも投球練習くらいやればいい」
「なんだよそれ」
 むっとしているのは(たぶん理由は全く違うだろうが)相棒も同じらしく、妙に刺々しい。だが、タカヒサの方はすぐに子どもっぽい言い様を反省したのか、仕切り直すように、腰を落としてスポーツバッグを開けた。
「えっと、たしか持ってきたと…あ、あったあった」
 そう言いながらごそごそと取り出したのは、ピッチャー用のグラヴだった。ナオトのものだ。思わず本人が目を見張る。
 もちろん、最後の試合で使ったグラヴは帰宅するなり物置に押しこんで、その後、全くお目にかかっていない。ソレはその前の、確か春の大会前にお払い箱にしたものだ。記憶を辿れば、部室のロッカーに放置していたような気もする。
 嗚呼、そんなことはどうでもいい。
 久々に手に取ったその感触、その匂い、その重さが。自然と受け取ったものの黙りこくるナオトに、「お前、片付けに来ねえんだもん。まったく、立つ鳥跡を濁さずだろー、ユウキ達が困ってたぞ」などと言う。
「ま、役には立ったか。スパイクはねえけど、我慢しろよ…つうか、この足場なら…どうかな、大丈夫かな」
「わざわざつけるのか?」
 ちゃきちゃきと言いつのるタカヒサの一方で、ナオトは別のモノに気を取られていた。それ、と、ナオトはタカヒサのスポーツバッグの中、キャッチャーのプロテクタ一式を顎先で示す。
 すると、そりゃそうだろ、と、当たり前の顔で彼は頷いた。余りに自然で、訊いたナオトの方が面食らうほどに。
「お前の球、受けるんだし」
「…ああ、そう」


  君のキャッチャーになるんだって


 ふと、マキの声が蘇る。
 あの話には正直、ナオトは困惑していた。ウザイと切り捨てるのも、そんなことは自分とは無関係だと弁解する気持ちも無くはなかったが、それ以上に。ナオトが感じたのは、どこか気恥ずかしさの混じった誇らしさと、腹の底がじんわりと緩むような…
 ほっとしたのだ。
 その次にぎくりとした。あの、眼差しを思い出して。
 ナオトはそれこそ少年野球の昔から、それなりに注目され、騒がれても来た。だから自分の投球を受けることができる、ということがレギュラの条件になることは解っていた。傲慢だとしても、事実ではあると思っていた。でも、タカヒサが正捕手になったのは、それだけではない、とも思う。
 今まで幾人かのキャッチャーと組んできたが、彼よりキャッチング技術が高い選手や、ずっと打撃センスのある選手もいた。一年の秋からエースだったナオトの目から見れば、去年の正捕手だった先輩の方が選手としての総合力は上だろうし、後輩の控え捕手にも良い選手はいる。
 だが今年の自分は、昨年よりずっと良い投球が出来てきた。
 もちろんナオト自身も地道に体をつくり、真摯に練習を重ねた。しかしあの好調は自分の成長だけが要因ではなかったのだと、知ってはいたが、本当に感じていただろうか、と。思い返してみれば、今までのどの相棒より、
 投げやすかった。
 そして、助けられてきた。タカヒサの守備力のおかげで勝てた試合はいくつもある。リードもそうだが、心遣いや注意力、判断力で、捕手として、扇の要としてしっかりとチームを支えていたのは。
 また、それはタカヒサだけではない。
 主軸のケンタ・じゅんぺー・シンスケの打力はもちろん、1、2番のユウキやトモの機動力があるからの得点で、タカヒサ中心の堅守あってこその快進撃だ。タケシの救援も、ケンタの主将としての統率力も、てしやヨシタカのムードメーカぶりも、必須で不可欠だったのだ。
 気付かなかったわけではない、としても。


 「なんで、勝てへんかったんやろ?」


 トモヒデの問への答が、解ったような気がした。
 野球は、9人でやるから野球だなんて、そんなのは当たり前だと思っていた。
 だが、そんな当たり前のことを、今ようやく、ナオトは痛烈に、まさに痛みを伴って感じながら。
「タカヒサ、」
 だから訊こうと、訊きたいと思って彼の名を呼んだ。
「え? なに?」
 レガースを着けながら振り返った相棒の顔を見詰めてみるが、「あのとき、なんて言ったんだ」と、その台詞が出てこないまま、ナオトは「いや、いい」と視線を外した。そんなエースを不思議そうに見返しつつ、準備を終えたタカヒサは、よっと立ち上がり、パン! とミットを鳴らした。
「さあ来い!」




 スパーン!!


 と、硬球がミットを叩く音が響く。
 その衝撃に、ナオトの胸は震えた。軽くキャッチボールから始めて、タカヒサが座って受けた最初の一球がたてた音は多分、スイッチだったのだ。
 手に握った硬球の感触も、振った腕の風圧も、ナオトの覚醒を強烈に促す。自分の中で何かが蠢動するに、ナオトは黙って従った。それから幾度も、確かめるようになぞる、飽きるほど繰り返した動作。それは様式美のようでいて、何かへの祈りのようで、ナオトはただ無心に投げた。
 十球程度を受けた後、タカヒサがボールを片手に近寄ってくる。少し、眉間のしわが深い。ナオトは先に口を開いた。
「二割、ぐらいか」
「うーん…どうかなぁ、一割五分くらいじゃね?」
 思った以上に、力が乗っていないらしい。ピーク時の2割にも満たない球は、そうだろうと予想はしていても、少し、いや、とても残念だった。ナオトは大きく息を吐く。
 けっこう真剣な表情のタカヒサに続いて、見物していた野手たちが寄ってくる。
「ほんと、ナオトでも練習してねえとあっさり落ちんだな」
「るせー」
「本当に全然、一回も投げてなかったのか?」
「ああ、ぜんぜん」
「一度も?」
「一度も」
 きっぱりと断言したナオトに、四人は黙り込む。おそらく、他の誰も同じようなものだっただろう。あれ以来、ボールを、バットを、グラヴを、遠ざけてきた自分を思い出して。
「大丈夫かな」
 囁くように呟きながら、タカヒサはボールをナオトに手渡す。
「ま、素人相手なら、それでもいくね?」
「うん、そんなもんじゃん」
 (女の子だし…)という単語が、じゅんぺーとてしの言葉の後ろに聞こえたが、それも無理からぬものだった。その一点で、タカヒサ以外のメンバーの認識は共通だ。
 一方、何か言いたそうなタカヒサだったが、逡巡の末、「それもそうか」と頷いた。じゃ、本番な、バックは頼んだ、と言いながら、ケンタと共にバッターボックス(仮)の方へ向かう。
 その後ろ姿を眺めつつ、
「つうかさ、デートでも勝負でもいいけど、なんでこんなことになったよ?」
 じゅんぺーが、靴ひもを結び直すナオトに、もっともな疑問を投げかけた。
「それは…」
 ナオトは古本屋での一件から、それ以前の諸々のやり取り思い起こし、語るべきことの多さと恥ずかしさに、どうあっても秘密にしようと心に決めた。
「また後でな」
「ええっ、何?!」
「怪しい! あやしいぞ!」
 てしとじゅんぺーの抗議の声を無視して、ナオトはピッチャーマウンド(仮)に立ち、無意識のうちに慣らし始めた。


「マキねえ、硬球打ったことあんの?」
 投球練習から、タカヒサとケンタによるバッターボックスの位置確認を、何も言わずに見守っていたマキは、不意に弟に問われた。
 二日前、マキは彼に相棒の捕球を頼んだ。その時は余りに唐突すぎ(というか突飛すぎ)、かつナオトに気を取られていたようで、ほとんど何も訊いて来なかったから、タカヒサは事情も状況も把握できていないはずだ。いや、訊かれたところで、彼女としてもちゃんと説明するつもりはないのだが。
 だから、タカヒサにしてみればとにかく情報がない。大昔、ミカとの練習に付き合わされて打席に立った記憶はお互いにあるが、そんなものは意味がない。
 弟の相当に真剣な眼差しを、マキは涼しい顔で受けた。
「うん、バッティングセンタなら行ったよ、昨日と一昨日」
 そう答えてにやりと嗤う姉に、「あ、そう…」と返しながら、タカヒサは眉根を寄せ、訝しげな顔のままだ。
 彼の疑念は想像がついたが、今、マキが言葉で応える必要があるとは思えなかった。それから、事実をありのままに言う必要も。
「じゃ、まずは練習ね」
 言いながら、のほほんとバッターボックスに入ったマキは。
 その三十秒後、タカヒサの心配が杞憂でないことを証明して見せた。




 高く、速く上がった打球が林の方に消えるのを、全員が呆然と見送った。
「ちょっと、振り遅れたかな…ファール?」
 と、マキに訊かれたケンタは慌てて我に返り、「そ、そうっすね」とかくかくと頷く。
「手加減しなくて良いぞ、ナオト!」
 大声で言いながら別のボールを投げたタカヒサに、「ええっ、手加減してよ」とマキが文句を言うが、彼はもちろんスルーした。特大ファールを打たれた衝撃で凍り付いているエースと野手に、「あと2球!」と声をかける。
 ちえーと不服を漏らすマキは、それでも再び構える。その無駄のないフォームに、タカヒサはそっとため息を吐いた。
 白球は、よく飛んだ。
 二球目はレフト方向へのライナー、三球目はバックネット直撃(予想)のファールだった。慌てて球を探しに行ったケンタ、じゅんぺー、てしの三人を待って、五人はマウンド(仮)に集まる。
「…どーゆーこと?」
 ケンタの最初の一言が、タカヒサ以外のメンツの気持ちを代弁していた。もちろん真剣に野球をやってきたメンバーだ、打席に立っている相手のことは、見れば多少のことは解る。
「まぐれ…にしてはすごくね? タイミング合ってきてるし」
「上手い、よね」
「ナオトも手加減しすぎじゃねえのか?」
「調子が悪いっていってもな」
「いや、それほどじゃ…それにいくらなんでも本気で投げるのも…」
「本気で良いんだって、それでちょうどぐらいだから!」
 ひどく真剣なタカヒサに、じゅんぺーが誰もが感じているその疑問を口にした。
「お前の姉ちゃん、何者?」
 四人の視線がタカヒサに集中する。それを受け止め、間を取るように一つ深呼吸してから、彼は口を開いた。
「剣道、やってんだ、マキねえは」
「…ふうん?」 
「小学校上がる前から…インハイは最高で準優勝、インカレは二年続けてベスト8、去年の全国大会ではベスト16。今年のインカレは優勝候補。下手すると、今の日本で上手い方から数えてあっという間、かも」
「ま、マジで?!」
「すげえな!」
 ほお、と全員が感心するが、「でも、それが…?」と首をひねる。だから! と、皆の鈍い反応に苛立ったように、タカヒサの声がワントーン上がる。
「つまり、臂力と動体視力、反射神経は十分。腹筋、背筋、脚力も鍛えてるから、そんじょそこらの男子より、よっぽど良い打者の条件が揃ってるってコトだよ!」
 …
 一つひとつ、言われてみれば確かにその通り。全員がそっとバッターボックスを振り返れば、竹刀をバットに持ち替えて、彼女はふわっと笑っている。
 度胸も満点、だろう。
 今、自分たちが対峙している打者の実力を、その一瞬に、全員が確認した。
「なるほど」
「全力投球で良いな」
「いいだろう」
「やるか」
 皆の顔が引き締まる。試合と同じように。ナオトは大きく息を吸い、腹の底から声を出す。
「…やろう」
 全員が重く、確かに頷く。それから誰からともなく円陣を組む。大きく息を吸い、タカヒサがいつものように、あの日と同じに、吠える。
「しまっていこう!」
「おおッ!!」


 そう、強く、全員の声が響いた瞬間。
 応えるように、最後の薄い雲が割れた。
 さっ、と夏の陽が降り注いで、空き地のマウンドは白く輝いた。




「…ありえなくないか」
 じゅんぺーの一言に、ナオトもケンタもてしも、滴る汗を拭いつつ、大きく頷いた。タイム中のマウンドで、まず出たのは溜息だった。
「何点とられたよ…まだノーアウトだろ」
「…カウントいっぱいだけどな」
「ヒット性の当たりは3、4本くらいかな?」
 ケンタの補足は言わずもがなだが、それにしても。ラインもフェンスもないので正確なことは言えないが、相当打ち込まれているのは間違いない。ファールもかなり飛ぶので、球拾いにはナオトやタカヒサも含めて全員フル稼働だった。
 強打者は相変わらず、淡く微笑んでいる。
 さすがにインカレ優勝候補、か。と、ナオトはマキを一瞥してから、深く、ふかく呼吸する。投球数も、二十球を超えてからは数えていない。久々の酷使に、彼の右腕も不平を口にし始めていた。
 マウンドに集まった五人は肩で息をしながら、それでも無駄口を叩く。
「決勝戦、タカの、代わりに、入れとけば勝てたな」
「確かに…同じ顔だからバレねえし」
「だな。そしたら、二点くらいは、入ってたかも」
「そーだな、俺より、よっぽど役に立つな」
「泣くなよ!」
 ぺしっ、とナオトがタカヒサの帽子の庇を弾いたとき、「でも」と。そっと、しかし、しっかりとした口調で、てしが天を仰いで呟いた。
「おれ、今、すっげー楽しい…」
 その、彼の言葉は碧い空に吸い込まれて、消えた。
 じりじりと肌を焼く暑さは、胸を焦がす熱さに勝てない。噴き出す汗も、踏みしめる土の弾力や、握ったボールの質量には適わない。


 ただ一心に、白球を追う悦びには。


 ゆったりと、全員がその余韻を噛みしめてから。ふっと、息を吐いたじゅんぺーが混ぜっ返す。
「ドMだな、てし」
「ええええー」
「あはは、そうかもな。でも俺も、すっげ、」
 朗らかに頷いたケンタの後を受け継いで、楽しいな、と。じゅんぺーも笑った。
「…なんだよ」
「いや…ケンタはともかく、じゅんぺーがそう言うとは思わなかった」
「うん、おどろき」
 目を丸くする一同に片眉を上げ、「ああ? 俺がなんだって?」とてしの首を絞めるじゅんぺーを、やっぱりなだめながらケンタが、「だけど」と、
「俺、ほんと、おまえらと野球が出来て、良かった」
 いつもの顔で笑った。いつもと同じ、マウンドの中心で。
 …
「ほら、やっぱり言った」
「言ったなー」
「言うと思った」
「期待通りで嬉しいよ」
「まったくだ」
 にやにやと笑うチームメイトに、前主将は顔を赤くする。
「な、なんだよ! 悪いかよッ!」
「いーやー、べつにー」
「ま、やっぱりキャプテンはキャプテンだよなー」
「だよなー」
「職業:キャプテンとかでも良くない?」
「なにー!? 馬鹿にしてるだろ、おまえら!」
 じゃれあう野手達を穏やかに見ていたナオトの耳に、隣から幽かな声が届いた。
「おれも、さ」
「は?」
 僅かに視線をずらすと、タカヒサはナオトの方を振り向かず、三人の方を向いたままだったが。どんな厳しい展開の試合でもそうだったように落ち着いた表情で、呟いた。
「俺も、お前のキャッチャー出来て、ほんと良かった」


  おれも、おまえにうけてもらって、よかった。


 と、ナオトは言おうとして、止めた。
 その代わり、やっと問おうと思った。今しかないと思った。「タカヒサ、」と名前を呼ぶと、「うん?」と相棒は顔を向けて、何だか眩しいモノを見るように目を細めた。
「…お前、あのとき、何て言った?」
「あのとき?」
「あ、えっと、最後の…決勝戦の、サヨナラの…なんか、俺に言っただろう?」
 ごにょごにょと続けるナオトの言葉に、ああ、とひとつ頷いてから、「聞こえてたのか」と、ばつの悪そうな顔で舌を出す。
「いや、ちゃんと聞こえなくて…」
「俺のせいだ、って、思ってさ」
「え?」
 おまえのせいだ、じゃなくてか? と、もう少しで口に出すところだった。ナオトは思わず息を止める。
「俺、最初、カーブのサイン、出したろう」
「ああ…」
「解ってたんだ。あの時、お前ならぜったい、ストレート投げたいだろうって、わかってたんだ」
 二年半も付き合えばサルでも解るよな、そんなの。なんて、笑いながら、しかしタカヒサは顔を伏せ、足下の小石を蹴った。
「でも、俺は逃げた。怖かったんだよ」
 お前の疲労もあるし、あの打者、前の打席でもけっこうタイミング、合いはじめてたし…とか、自分に言い訳してさ。と、言葉を紡ぐタカヒサの笑顔が、ナオトには辛かった。
「けっきょく、首振られて…うん、それはいいんだ。あれはあれで…正しかったと思う。でもあの時、俺が最初っからストレート、要求してたらさ」
 そこで一度、間を取ったタカヒサは、ぐいと額の汗を拭った。
 もうすっかり空は快晴で、立っているだけでも汗が滲む。ナオトの顎からも汗が滴ったが、ボールを握った手にじっとり汗をかいているのは、気温と運動のせいだけではない。
「お前は迷わずにすんだのに、と思って。迷わずに、最後に、最高の球、投げられたかも知れないのに」
 と、タカヒサは、俯いたまま呟く。


「お前はあんな顔、しなくて良かったのに、と思って」


 見られていた。
 思いもしなかった相方の答に、ナオトは呆然とする。自分では全く気付かなかった…というか、考えてもみなかった。
 あの瞬間、夢が潰えたその時であっても、タカヒサは自分を案じてくれていたのに。
 どんな顔を…していたのか。
 ナオトは衝撃をようよう飲み込んで、より一層強く、白球を握りしめた。そしてやっと、気がつく。ナオトが慌てて、そうじゃない、お前のせいじゃないと、言おうとしたところで、
「そろそろ、タイム終わりー」
 マキの声が届いて、5人ははたと我に返る。
「うお、やべ!」
「そうだった、タイム中じゃん」
 弛緩していた空気が一気に引き締まる。自然に、円陣を組んだ。
「まずは、アウト一つ」
 いつもと同じ、最初の打者を切ってとる。ケンタの声に全員が頷いた。




 世界は、きらきらと輝いている。


 そして三度、ナオトはタカヒサと向き合う。
 そのミットに照準を合わせ、手の中のボールを確かめる。打者は相変わらず自然体で、凛乎と立っている。いくらセンス抜群でも、素人相手にさすがに変化球は使わない。投げ込めるのは唯一つ、最高のストレートだ。
 視線を合わせると、マスクの向こうで、相棒が目で頷くのが解った。
 ナオトは深く息を吸い、投球モーションに入った。
 ゆっくりと、大きく振りかぶって、いつものようにしなやかに腕を振る。ただ少し、ほんの少しだけ、スニーカの足が滑った。
 が、ナオトはかまわず腕を振り切った。


  まずいか?


 コースは外角低め、ただし真ん中寄り。ナオトは唇を噛んだが、タカヒサの眉間に力が入る。
 金属音が高く、たかく、蒼天を貫いた。




「センター!!」
 あの日と、同じように。


 全員が振り返る
 センター スコアボードの前
 舞い上がる白球を追いかけて 皆が奔る
 目に染みるような青い あおい空を横切るボールの 白さを


 白ユニフォームの背中が見えた気がして
 少年が 飛んだ




「…てしッ!!」
「だいじょうぶか!?」
 じゅんぺーが最初に、すぐにナオトも、ケンタも、タカヒサまでが駆け寄る。倒れ込んだ少年の周りに、舞い上がった砂埃。
 緩く風が薙いだ、あと。
「…あっ」
 誰かが短く叫んだ。よく手入れされた、てしのグラヴの、中に。くすんだ、白に赤い、




「アウトーー!!!」




 ケンタのコールが凛と、空き地に谺する。
 まるで、宇宙への宣誓のように。


 きっと、その結末を望んでいた、全ての「誰か」の耳に、届いた。






 太陽が、眩しかった。
 空の青さも、遠く光る入道雲の白さも、濃密に薫る夏草の翠も。
 夏の光が静寂を彩り、その輝きに皆が馴染んだ頃。
「よかった…」
 あーあ、という嘆息と共にこぼれたてしの言葉に、全員が思う存分、深呼吸した。心の内側から、全身が弛緩していくのが解る。体と心に絡みついていた何かが、解けていくような。
 そして熱い空気を肺に満たしたナオトは、倒れたまま続いたてしの低い声に、はっと気付く。
「これで、やっと…眠れる」
 あの瞬間を、夜毎夢に見るのは…もちろん、自分だけではないのだ。
 自分だけでは。
 ああ、やっぱり自分には、エースの資格などまるで無かったのだと、思い知る。誰かのためにでは駄目だが、自分のことだけでは駄目なのだ。自分のためだけでも良いけれど、誰かのことを忘れては意味がないのだ。
 そうだった。
 しかしそうであっても尚、この夏が色褪せることはない。あとは、それを抱きしめる覚悟があれば。
 ナオトは苦い想いを飲み込んでから、「だな」と頷いてゆっくりと、てしに手を差し伸べる。
 その手を、どうしてか不思議そうに見詰めるセンターに、エースは静かに告げた。
「ありがとう」


  !


 不自然な沈黙に、「てし?」と呼びかけたナオトが、それでも反応がないことに眉を潜め、周囲を見回そうとしたときだった。
「び、びっくりだ…!!」
 ガバリッ、と飛び起きたてしが、マウンドでマグロを見たかのような声音で叫ぶ。
「なおとが、ナオトがありがとうって言った! あのナオトが!」
「マジかよ?! なんだよ、明日は雪かッ?」
 などという一同の困惑、というか動揺ぶりに、ナオト自身がたじろぐ。
「そんなに驚かなくても良くないか…」
「いーやっ、ありえない、全然ない、初めて聞いたッ!」
「俺も初めてかも…!」
「んなことねーだろ?!」
「いや、あるねっ、あるって」
「誰か録音してねえのか? 二度と聞けねえぞ!」
「おねーさん、今日は赤飯です!」
「なんの話だ?!」
 盛り上がる野手達にナオトが抗議していると、ケンタのポケットで携帯電話が鳴った。液晶画面を確認したケンタの「あ、トモだ」という声が続く。
「おおお、予備校野郎!」
「ちゃんと授業行ってンの? ゲーセンじゃなく?」
「寝てんじゃねえ?」
「十中八九、そうだろうな」
 と好き勝手なことを言いながら、ケンタは着信ボタンを押した。
「なに? え、いまから? えっと、まずは○○駅に… あ? なんだって?」
 ケンタの応答と漏れ聞こえる声に、四人は互いに顔を見合わせる。どうやらサードが参加表明してきたらしい。と、ぴょんと跳び上がるように、てしが手を高々と上げた。
「あ、ちょっと代わって! オレ、出たいッ!」
 ともすれば、ケンタのケータイを奪おうとする勢いに、じゅんぺーが割って入った。
「いや、その前におれに回せ! 言いたいことがある」
「はあ? なに? シンスケとヨシタカも… ちょ、ちょっと待て!」
 白いモバイルを奪い合う三人を見ながらナオトは、そういえば、自分がケータイの電源を切っていたあの期間、彼らから相当数のメールや着信があったのを思い出した。
 そして一番多かった着信は、今、隣に立っている相棒からだったことも。


  結局、最初から最後まで、


 彼に伝えるべきは、感謝でも、謝罪でもないような気がした。ナオトは逡巡の末、自分のキャッチャーの名を呼んだ。
「なあ、タカヒサ」
「うん?」
 いつものように、タカヒサは受ける。だから、ナオトもいつもの声で独り言のように。
「おれ…俺は、投げるの好きだ、やっぱ…すっげえ、好きだ」
 野球が。とは、声には出さなかったけれど。
 一瞬、ぽかんとした顔を見せたあと、タカヒサは「あはっ」と柔らかに笑った。姉とよく似た顔で。
「そりゃそうだ、お前からピッチャー取ったら、何が残んだよ」
 自分の何パーセントが、投手で出来ているんだろう?
 一瞬、真剣に考えてしまうナオトである。が、相棒の言葉はもっともだったが、それに首肯するのも癪な気がして、ナオトは抗弁した。
「いや、残る…かも」
「何が」
 そんなものあるわけない、という貌で眉を下げるタカヒサに、彼はちょっと間を置いてから告げてみた。
「漱石とか」
「は? そーせき…漱石って、夏目漱石? 千円札の?」
「そう」
「…はあ? なんで? なんでお前がそーせき?」
「ちょっとな」
 あれは、彼女のおかげだと…
 ナオトははっとして、バッターボックスを振り返る。
 18.44m、その距離を、遠いと感じたことはなかったが、今日はより近く感じた。囁きさえ聞こえそうな、気がして。彼女はただ、静かな顔で佇んでいるだけだったけれど。
「おいっ、タカ、ちょっとココの場所、説明してくれ!」
「あ、はいはい」
 ケンタに呼ばれて、タカヒサが離れたのを契機に、打席の方へ近寄った。
「ナイスピッチング」
 春の風のような声は、揶揄でもなく世辞でもなく。それは、今までのどんな称賛より心に響いて、思わずナオトは少し視線を外してしまう。
「それを言うなら…ナイスバッティング、でしょ」
 ナオトの照れ隠しにマキは、ありがとう、と素直に応えた。
「あの、」
 切り出してから、ナオトは大きく息を吸う。これだけは、伝えておかねばならなかった。本当は、もっともっと、どんなに言葉を尽くしても足りないくらい、感謝していたけれど。謝辞よりも、こちらの方が正しい気がしたから。
 ナオトはしっかりとマキの瞳を見て、告げた。
「あいつは、タカヒサはキャッチャーに向いてると、思う…思います。それから、猫、面白かったです」
 彼女は虚をつかれたのか、黒い目をぱちくりと瞬いてから。
「そう」
 と、ただ嬉しそうに、本当に嬉しそうに、微笑んだ。


 ナオトは丁寧に、深く一礼して、踵を返す。
 彼女に向けた自分の背中が、天に舞い上がったあの白球のようであれば良いと、少しだけ思った。






「夏が終わるんだなぁ…」
「ちょうど、今日、決勝だしな」
「そうなのか?」
「何だよ、ナオト、しらねえの?」
「ああ…ぜんぜんチェックしてなかったし…」
「え、マジで?」
「ふうん」
「ま、才能のあるヤツは打たれ弱いからなあ」
「実はヘタレだよな、ナオト」
「はあ? なんだそれ!」
「まあまあ、ちょうど良いってコトで」


「とりあえず、あとアウトふたつ取らないとな」


「…」
「そうか!」
「っていうか、あと二つもか!」
「マジで…もう保たないかも…」
「ま、駄目だったら、若者に後を託そう」
「へ?」
「あっ、ユウキ!」
「タケシも!!」
「部活おわったんかー?」
「説明は後でするから守備につけ!」




 夏が、本当に終わろうとしていた。






 あの一球が、弔いだったのだ。
 いや、餞だった。


 こんなにも鮮やかな最後の夏と、あんなにも美しい夢への。


 そうして喪失することの、なんと哀しいことか。
 しかし本当に、ほんとうに、何ものにも代え難い切実さで、必要だった。
 自分たちには。


 大切に たいせつに
 華やかに 埋葬するのだ この、夏を






 そしてまた、少年たちは最初の一球を。


 「あとツーアウト、しまっていこう!」
 「おおー!!」







































 予想外に主人公夫婦がらぶらぶになってびっくり… こんな人たちだったっけか?
 とりあえず、話の長さをコントロールできるようになれ、自分!(涙)


2009.4.7



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