◇◇◇◇ 毎度お馴染み、実際の人物、団体とはぜったい、まったく、本当に無関係です ◇◇◇◇
いたみ 〜その1:右翼手の場合〜
「眠そやなぁ」
「眠い」
しみじみとマサハルが呟くと、間髪入れずに返答があった。
眠すぎるからか、右腕の眉間に皺が寄っている。その貌は無死二、三塁のときくらいの険しさで、マサハルは苦笑しながら牛乳パックを手に取った。
朝の食堂前で右腕と鉢合わせ、マサハルはごく自然に向かい側に座った。その時から彼は既に眠そう、というか半分寝ぼけていて、むしろ食堂に来られたのが不思議なくらいだった。
まあそれにも理由がある。
このたびのドラフトで我らがダブルエースは無事、就職先が決まった。当たりくじの勘違いやらシステム不具合などで散々待たされたが、なんにせよめでたいことだ。特に端から当確だった左腕は元より、右腕も指名されたわけだし。当然、当日のマスコミ取材はもちろん各方面から反響は大きく、そんなばたばたが暫く続いた。
そしてやっと騒動が落ち着いた頃、内輪での祝勝会があった。まあ体育会系男子の宴会となればこちらも当然、大騒ぎである。(だいたい、確か夏の壮行会の時は右左腕とトオルが近所の寿司屋の壁に穴を開けた、という不始末まであったのだ。今でこそ笑い話だが。)
「酒が入ってないのにこうも騒げるのは才能だよな」とはコーチの談だが、本人も現役の時は同じだったに違いない。
で、そのどんちゃん騒ぎが終わったのはもちろん明け方だ。適当なところで上手く抜け出したマサハルはともかく、最後まで巻き込まれたであろう主賓は何時間寝ただろうか?
見かねてマサハルは彼を諭した。
「寝てれば? 今日は完オフやろ」
さすがに今日は全部員が完全にオフになる日で(自主練除く)まだ寝ていてもいはずなのだが、
「うーん、ちょっと…」
と、また瞼が閉じかけて後半が続かない。
それでも途切れ途切れに聞き出したところによると、なんでも陸上部の長距離陣と走りに行くらしい。マサハルは唖然とした。意味が分からない。
「なんで?! おまえ、野球部やねんで!?」
来年はプロ野球選手である。
「うん、せやかて… 頼まれて…」
まあ恐らく彼のラップ(5km)は陸上部の連中と張る。ウチのエースをペースメーカに使う気か。何してくれんだあいつら、と腹の中で毒づきつつ、それでも彼が他所の連中と走るのを楽しんでいる節もあるので、マサハルとしては呑み込むしかない。
そういえば、ちゃんと向かい合うのも久々である。
眠気のために無闇に真剣な表情になっている彼は、多少は贔屓目ではあるがけっこうな男前だ。改めてじっくり見ると、全体的につくりは地味だが締まっていていい。ちょっと大きめな口も。同学年のドラフト組に派手なのが多いのと、常に左腕とセット扱いだから付帯情報が多すぎて目立たないが、マサハルとしてはかえって好都合だった。(TとかHとかNとか、騒がれ方が気の毒なほどだったし。)
ということで、マサハルは少し幸せを噛みしめつつ、ちゃんと茶碗持って、箸逆に持ってんぞ、と右腕の世話を焼いた。
そうこうするうち、後輩達を中心に三々五々、部員が食堂に集まり始めた。食べることだけで精一杯な右腕を他所に、マサハルがちょこちょことチームメイトと挨拶していると、
「あっつ…!」
短い叫びにも似た声に、はっと視線を戻す。
「どうした?!」
んー、と今度の右腕は眉尻を下げている。
「や、ちょっと昨日、なんだったかな? 熱くて、舌…」
「ああ、ヤケド?」
実はそそっかしいよな、とマサハルが受けると、でも舌の火傷ってなんでこんな痛いかな、とか言いながら、彼は熱いものに懲りて膾を吹く勢いでおそるおそるグレープフルーツジュースに口をつけた。(当たり前だが冷たい。)
「アホやなあ」
「…知ってる」
「どんな感じ?」
なんとか覚醒しつつある彼が、うーん、このへん、と口を開けて、
すこし、大きめの口もとに、小さなホクロがある。
薄い唇が開いて、あかい、朱い舌がちろりと、
あかく
これは、ヤバイ
一、二塁間を抜けたライナーに飛びつく反射で、マサハルは身を乗り出した。
ビシッ
「うおっ、いって!! な、なに?!」
いきなりデコピンを喰らった右腕が額に手を当てて、目を白黒させた。マサハルは出来る限り抑えて言う。
「自己責任やろ。ガキか」
「え、えええええー! そらそうだけど!」
いきなりひどくね?! と抗議する彼に、しれっと答える。
「目ぇ覚めたろ。気張って走れよ、長距離の連中に負けんなや」
「な、なんだかな… 覚めたけど… 痛い…」
更に眉尻を下げて額を撫でる彼から視線を外す。ちょっとした騒ぎに注意を向けてくるチームメイト達に微笑みがら、なんでもないと合図を送りつつ、マサハルはそっと深呼吸する。
朝からアレは心臓に良くない。
でも、本当は、
もう少し、見ていたかった。
2016.4.2収録