いたみ  〜その2:左腕の場合〜
















「…痛い」
 相棒の暗い声に、圭一郎は振り返った。
 トレーニングウェアの彼は、ひどく眠そうだった。
 さもありなん。祝勝会に最後まで付き合った彼は、それでも朝から走ってきたという。しかも陸上部の連中とラップを競ったとかで、圭一郎からすれば伊達とか酔狂と云うより、もう狂気の沙汰である。
「はあ? なんだそれ。あいつ、野球部だよな?!」
 と、圭一郎が口にすれば、
「野球部ですねぇ。俺の知ってる限り、国体の胴上げ投手です」
 と、二年の田村が答えたものだ。ちなみにこの新エースはなかなかの食わせ者である。
 まあそれはそうとして、
「眠い、ではなく?」
「あ、うん。眠いのは眠い」
「…寝れば?」
 うん、そうだなあ、と言いながら彼は、額に手を当てる。
 一方の圭一郎はさすがにのんびり起きて、部屋の掃除やら洗濯やらを片付けた。あとはルーティンのトレーニングをどうするか、相棒の予定を聞こうと思って探したらそんな話で、圭一郎が立ち尽くしていたところに本人が帰ってきた。
 本職の連中と真剣に5km×2をこなした右腕に、むしろ呆れていた。が、下級生たちが「すごかったんですよ! 最後、トラック勝負で」と盛り上がっているので、とりあえず「おつかれ」と労ってはみたものの、やっぱり陸上部長距離のエースと野球部のエースが徒競走をする意味が分からない。あいつら、俺の相棒をなんだと思ってんだ、と圭一郎は密かに腹を立てたが、それはまあ後で何とかすることにした。だいたい野球部員とトラック勝負になるあたり、うちの陸上部もまずいんじゃないだろうか。
 さすがに今日はもうなんもしなくていいだろ、と更に勧めた圭一郎に、彼は頷きつつも少し首を傾げて、 
「ココ、赤くない?」
 と額の真ん中を指差した。
「いや、大丈夫だけど」
 よく日に焼けた額に特に異常は見られない。圭一郎の言に、そっか、と彼はひとつ息を吐いた。何だか煮え切らない態度を訝っていると、さすがに彼も察して続ける。
「や、昨日ちょっと、舌、火傷して」
「ああ、そーいや言ってたっけ」
 意外でも何でもなく、野球をやってない時の彼はけっこうなヌケサクだ。それくらいの事はよくある。しかしそれらなら痛いのは舌だろうし、なんでデコ? と思っていると、
「そんで今朝、ハルにデコピンされた」
「…待て、日本語話せ」
 今度は相棒の言葉の意味がわからなくなったので、片手を上げた。
 あの右翼手が相棒に暴力(?)を! はっきり言えばうちで一番、相棒に甘いマサハルが! 何が起きた!? と、これまでの経緯を瞬時忘れて相棒を問い詰めるところだったが、寸前で我に返る。とりあえず調子を変えずに訊いてみた。
「なんで…?」
「いや、朝、食堂で会って。舌、火傷したって言ったら、どんなん?って訊くから」
 だからココだって、と言いさして相棒が唇を開いた。


 薄くておおきな唇の端に、小さなホクロがあった。
 そういえばあったっけ、と思っていると、ちらりと覗く赤い、舌が


   舌が、




  ああ、これは… よくない




 ビシッ


 一塁側のピーゴロを捌く早さで決まったデコピンに、再び彼は額を手で押さえた。
「いッ…!!」
「なるほど、わかった」
「はいっ?! なにが!?」
「これは、だいたいお前が悪い」
 な、なんで!? と抗議する相棒の声を力いっぱい無視して、圭一郎は彼に背を向けた。少し深く呼吸しながら、あとでマサハルを捕まえよう、と思う。二度も理不尽な攻撃に遭った右腕は、わっかんねー、とぼやくが、確かに彼には解らないだろう。
 わかるわけがない。
 そうして、圭一郎は「さっさと寝れば?」と相棒を促す。彼はまだ痛そうに額をさすりながら、恨めしげに言う。
「目ぇ覚めたんだけど…」
 圭一郎はニヤリと笑って答えた。
「そいつは残念」
 それから心の中で呟く。


  なんていったっけな、あの場所のホクロ。




























2016.4.2収録



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